第5話 怖くなかった
鐙の革には、穴が7つ並んでいる。
4月28日、火曜日。2限は評価飛行だった。
空は晴れていた。ただし風がややある。演習場の芝がざわざわと波打っている。俺は竜の姿で地面に伏せている。今日も背中には、まだ誰もいない。
隣では地上係が計測鞍を抱えて待機していた。梶原教官は端末を手に、風向計をちらりと見上げる。評価飛行である。数字が公式に残る日だ。空気はいつもより少し硬い。いや、硬くしているのは俺の腹の底か。
定刻の少し前、聞き慣れた足音が近づいてくる。まっすぐで、一定の間隔で迷いのない足音。鷲宮千景だ。
彼女は俺の正面に来ると手にした飛行日誌を開いたまま、小さく何かを確認した。日誌を腰のポーチへ戻し、無言のまま鐙の留め金に手を伸ばした。
地上係が「あ、それはこちらで」と半歩踏み出しかけて、止まった。千景の指先はもう動いている。留め金を外し、革を引き抜き迷いなく上から4つ目の穴へ通し直す。日誌に控えてきた数字どおりに。
「……覚えてたんですか、穴の位置」
地上係が感心したような声を漏らした。
「記録してある」
千景は顔も上げずに答えた。声は低く、短い。それが彼女の標準だ。地上係は「へえ」と小さく唸って、計測鞍を抱え直した。
千景は鐙を直し終えると一歩下がって、姿勢を正した。俺の首の付け根へ、右手が伸びてくる。
指先が、鱗に触れるか触れないかで一瞬止まった。だが、それは前までの「迷い」とは違う。間合いを測るような、ごく短い停止だった。
「……乗せろ」
低い声。命令形。
一拍。
「……乗せてください」
言い直すまでの間が、前より少しだけ短い。声の細さも、ほんのわずかだけ和らいでいる。それでも、きちんと儀礼の形だった。ひやりとした手のひらが、首の付け根に触れる。触れているところだけ、じんと熱い。
俺はゆっくり首を上げて、千景の顔を見た。
「喜んで」
地上係が計測鞍を置き帯を締める。革がきゅっと鳴る。俺は声だけで、短く一度指差呼称を済ませた。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
千景は何も言わずに鞍にまたがった。座りは深く、まっすぐ。膝が胴をしっかりと挟み、手綱はぴんと張っている。拳の白さも、今日も健在だった。
「出します」
俺は翼を少し広げて、地面を蹴った。
返事の代わりに、手綱がほんの少しだけ張り直された。それだけで十分だった。
評価飛行の課目は急旋回だった。演習場に立てた2本の旗の間を、左右に切り返しながら回る。
俺は翼を傾けて、1回目の旋回に入る。
背中の千景が、息を止めた。
膝の圧がきゅっと強くなる。重心が後ろに残ったまま、旋回の遠心力に抗うように背筋が固くなる。呼吸の気配が、ぱたりと消えた。
2回目。
今度は逆方向へ切り返す。翼の左右を入れ替えると、背中の重みが一瞬だけ外へ逃げかけて、すぐに膝で押さえ込まれる。千景はやっぱり息をしていない。
3回目。
風が横から押してきて、俺の翼が小さく震えた。千景の膝がぎり、と締まる。苦しいはずだ。それでも止める。
4回目の旋回に入る。
そのとき、背中からすっと息が漏れた。
細く、長い、吐息。旋回の遠心力に押し出されるようにして、千景の体から力が抜ける。抜けた、というより降りてきた。息を吐いた分だけ、彼女の座りが鞍の上に沈む。
俺の羽ばたきと、千景の呼吸がぴたりと重なった。
一拍、二拍。旋回の弧に沿って俺の翼が空を押し、千景の息が吐かれる。そのたびに鞍の上の重みが深くなって、俺の背中にじんと馴染む。
吐く息で、座りが沈んだ。
その感覚が、たまらなく嬉しかった。俺の翼の打ち方と、背中の人の呼吸が初めてひとつの生き物みたいに動いた。尾の先が、ふわ、と持ち上がる。
あ、やばい。
と思ったときにはもう遅い。尾が勝手に揺れている。左右に、ぶんぶんと。
地上から、短い声が飛んできた。
「尾」
梶原教官だった。眼鏡の奥の目だけが、俺の尾を追っている。
千景は何も言わない。
手綱は張ったままだった。拳の白さも変わっていない。ただ、俺の背中に乗った重みだけがさっきより少し深い。
課目を終えて、俺は演習場に降りた。
翼を畳むと、風の音がひとつ遅れて耳の奥で消えた。
梶原教官が端末をこちらへ向けて歩いてくる。画面には78%と出ていた。俺は心の中でそっと数えた。
同調率78%。反応の遅れにすれば0.22秒。騎乗時間は78分。変身してから、だいたい30分ほど経っている。だから残りは48分。あと48分ぶんは、この背中に人を乗せて飛べる。
「七十八。……記録する」
背中で、千景が言った。「記録する」の前に、ほんの一瞬だけ息を呑むような間があった。
千景が鞍から降りる。
着地は静かだった。音を立てないように、そっと足を置く。
千景は俺の首の近くで、一瞬だけ立ち止まった。
「ちゃんと飛べた」
俺にしか聞こえない小さな声だった。風がその声をさらっていく。彼女はもう前を向いていて、表情は見えない。
俺は何も言えなかった。
尾の先が、じわりと熱い。地面に伏せたまま、その小さな声を胸の真ん中で抱きしめるみたいに、じっとしていた。
地上係が計測鞍の帯をゆるめはじめたところで、俺は首を少しだけひねった。背中から降りた千景を見上げる。革がす、と抜ける音がした。
「鷲宮さん」
千景は手綱を握ったまま振り向く。いや、振り向きかけて止まった。俺の顔を正面から見るのを避けるように、半歩ぶん角度をずらして立つ。その半歩が、この人らしい。
「今日、息が吐けてました」
千景の肩が、ぴくりと固まった。膝の圧が名残のように俺の胴に残っている。その感触がまだ抜けない。
「4回目の旋回からです。あそこから、呼吸が俺の羽ばたきに重なってました」
千景は動かなかった。
切れ長の目が見開かれていた。ほんの、わずかに。あの目がここまで開くのを、俺は初めて見た。
「……息、が」
声が、途中で切れた。語尾が細く消える。あの人が、言葉を落とす。落として拾えないでいる。
千景は右手をぎゅっと握った。手綱を握っていたのと同じ強さで。それから、ゆっくりと開く。指の関節が白く浮いて、また戻る。右手の指の古い擦れ跡が、日差しの中に浮かんでいた。左手は、隠さなかった。
「……記録する」
それだけだった。低くて短くて、いつもの声。でもいつもの声じゃなかった。
千景は腰のポーチから飛行日誌を出した。表紙を開いて、ペンを握る。指先が少しだけ震えていた。俺は首を動かさなかった。
千景は短く何か書いて、日誌を閉じた。
千景は日誌をポーチに戻す。それから俺の方を、もう一度見た。今度はまっすぐに。目が合った。
何か言おうとして、千景はやめた。口が半分開いて、閉じた。
千景は向き直って、格納庫の方へ迷いのない足音で歩いていく。3歩、4歩、5歩。俺はその後ろ姿を見送った。
6歩目で、千景の足がほんの一瞬だけ止まった。止まって、また動き出す。俺は何も言わなかった。
あの人の日誌の中身は、見ない。見たらたぶん、あの目でじっと俺を見て「……最低だ」と言う。確実に言う。
◇
昼の食堂はいつもどおりうるさかった。俺は人の姿に戻って、休息がてら真田と向かい合わせでカレーをつついていた。
真田がスプーンを口に運ぶ途中で止まった。
「なあカケル」
「なんだ」
「お前、今週ずっと鷲宮さんに乗られてるだろ」
「乗ってもらってる、だな」
「どっちでもいい。騎科の廊下で噂になってたぞ。『あの鷲宮さんがE判定の竜に毎日乗ってる』って。何もやってないよな? 計器、壊してないよな?」
「壊してない」
この男、寮では毎晩「お前は狂ってる」と言い続けているが、その実いちばん世話を焼いてくる。
そこへ、トレイも持たずに1人の女子が近づいてきた。
短い髪。きつい目つき。歩き方がやけに一直線だ。
三輪あずさである。
三輪は俺たちのテーブルの前に立つと、無言でスマホをこちらへ突き出した。
画面には学年のグループチャットが開いている。
「これ見て」
「はい」
俺はカレーの皿を脇へ寄せた。
『E判定の竜が78ってマジ?』
『計器の故障でしょ』
『74のときも予備で同じだったらしいよ』
『ガチで?』
三輪はスマホを引っ込めないまま、俺の顔をじっと見た。
「E判定の竜が78だって。ないわー。……ないよね?」
きつい目が、ほんの少しだけ揺れている。挑むような、すがるような、その間くらいの目だった。
俺は何と答えるのが正解なのか、一瞬迷った。
「ええと」
「ええと、じゃなくて」
「……ない、とは言い切れないです」
三輪の眉が、ぎゅっと寄った。
その横から、真田が身を乗り出した。早口が止まらない。
「ないわーで済ませるなよ! 俺が2限のあとから聞き集めた話をまとめるとだな、騎科首席の鷲宮さんが貸し出し竜で78%を出した、計器の故障説は、74のときに予備の計器でも同じ数字が出て消えかけてる、で、今週の予約表は全部鷲宮さんの名前で埋まってる! どういうことだカケル!」
「よくまとめたな」
「褒めるな。説明しろ」
「いや」
俺はカレーの皿を見た。何から話せばいいのか。前世の知識だとか、熱の柱だとか、羽ばたきは貯金を崩すことだとか。説明しようにも、説明できる材料がたぶんこの世界の言葉にまだない。
だから俺は、いちばん言えることだけを言うことにした。
「騎手がいいんです」
真田のスプーンが、ぽとりと皿に落ちた。
三輪のスマホが、ぴくりと揺れた。
「……は?」
真田が口を開けたまま固まっている。三輪も、その隣で固まっている。
俺はカレーの皿を見たまま、もう一度言った。
「74も78も、俺が作った数字じゃないです。鷲宮さんが、作った数字です。俺は乗せてるだけです」
沈黙。
真田が、ゆっくりとスプーンを拾い上げた。
「……お前、それ、本気で言ってるのか」
「本気だ」
三輪が、スマホを俺の前に突き出したまま、ぽつりと言った。
「……天野」
「はい」
「あんた、そういうこと言うんだ」
それきり、三輪は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。食堂の喧騒だけが、やけに遠く聞こえていた。
◇
その夜、鷲宮千景はひとりで格納庫へ向かった。
消灯前の静かな建物の中、鞍架の並ぶ場所に、先客が1人いた。竜科の男子だ。作業用の手袋をはめて、貸し出し竜の鞍架の前に立っている。千景が近づくと、男は肩を揺らして振り返った。
「……首席の鞍を取りに来ただけだ」
言い訳めいた早口だった。首席の鞍架は、向こうの列だ。千景は答えない。ただ、その場に立ったまま、男が足早に去っていくのを視界の端で追った。気にならない。今は、やるべきことがある。
彼女は貸し出し竜の鞍架の前で足を止めた。鐙の革に触れ、穴の位置を指先で確かめる。上から4つ目。明日の自分の足が、そこに収まる。
腰のポーチから飛行日誌を出し、表紙を開く。ペンを握り、今日の記録を書き足した。
天候 晴。竜 天野(貸し出し)。同調率78。
そこで一度、手が止まる。書くべきことはまだある。
格納庫に竜科の学生一名(首席の取り巻き)。
ペン先が、紙の上で迷う。行末の一点でかすかに震えていた。
彼女は目を伏せ、それから、最後の一行を書いた。
怖くなかった。




