第4話 羽ばたかない飛び方
4月21日、火曜日。
あの74%の朝から、千景は授業のある日は毎日、俺に乗った。
1限が終わって、2限の実習のために格納庫で竜の姿になる前のことだった。
格納庫の床に座っている俺のところへ、千景がまっすぐ歩いてきた。
背筋を伸ばして前だけを見て。長い黒髪の先が歩くたびに小さく揺れていた。俺の正面で立ち止まると、目を合わせないまま口を開く。
「なぜ揺れない」
低い声だった。命令形でも、詰問でもない。確認だ。事実を確かめに来た声。
「理由を言え」
千景はそれだけ言って、俺の返事を待った。
俺は座ったまま、少しだけ顔を上げた。
格納庫の窓の外はよく晴れていた。
その空の高いところでトビが1羽、輪を描いている。
羽ばたいていない。翼をぴたりと広げたまま、ゆっくり、ゆっくり弧を描いて上がっていく。見えない階段を上るみたいに、同じ輪の上をくるくると。
俺はそのトビを見ていた。
トビが3周した。
「3周して、羽ばたき0回です」
俺の声は格納庫の静かな空気にすっと吸われていった。千景が眉を寄せる。切れ長の目がほんのわずかに細くなった。
「何が言いたい」
「翼の角度で浮くんです」
俺は空のトビから目を離さずに言った。
「羽ばたきは、貯金を崩すことです」
千景は黙った。俺の顔ではなく、俺の見ている空をちらと見た。それから、ゆっくりと飛行日誌を取り出す。表紙を開き、ペンを握る。ペン先が紙の上で、2秒ほど迷った。
千景は何かを書きつけた。
短い一言だけを。
そして日誌を閉じる。
俺はそれ以上なにも言わなかった。
千景もなにも言わなかった。
格納庫の外ではトビがまだ、羽ばたかずに輪を描いている。
◇
2限は実習だった。課目は持続課目。計測鞍を付けて、どれだけ長く空にいられるかを見る。
演習場には、学年の竜がずらりと並んでいた。
風は西から吹いていて、富士山の雪の上を越えてきた空気が頬をなでる。芝の匂いが濃い。午前の遅い時間で、陽射しはもう十分に熱い。
俺は竜の姿で地面に伏せていた。隣では地上係が計測鞍を抱えて待機している。梶原教官は端末を手に、俺の首元をちらりと見たあと無言で少し離れた場所に立った。
やがて、聞き慣れた足音が近づいてくる。まっすぐで、一定の間隔で迷いのない足音。鷲宮千景だ。
彼女は俺の正面で立ち止まった。
呼吸を整えるように一拍置いて、首の付け根へ手を伸ばす。指先が俺の鱗に触れるか触れないかの距離で、また止まりかけた。しかし今日は昨日までより早くその手のひらが置かれた。
「……乗せろ」
声が低い。命令形。俺は黙って待つ。儀礼が完了するのを、ただ待つ。
千景の指先がふっと震えた。
「……いや、乗せてください」
言い直した声はやっぱり少しだけ細い。それでも、はっきりと儀礼の形を取っていた。ひやりとした手のひら。冷たいのに、触れられているところだけじんと熱い。
俺はゆっくり首を上げて、千景の顔を見た。
「喜んで」
千景の眉がほんの少しだけ動いた。でも、もう嫌悪の色はない。ただ何かを測るような目で俺を見ている。
地上係が計測鞍を置き、腹の下の帯を締める。革がきゅっと鳴る。俺は声だけで、短く指差呼称を済ませた。
「鞍よし、竜環よし、手綱よし。騎手、よし」
千景は何も言わない。ただ手綱を握る指に、ぎゅっと力がこもった。指の関節が白い。相変わらずだ。この人は、離陸前から全力で何かを握りしめている。
「出します」
俺は地面を蹴った。翼を二度三度と打って、一気に高度を取る。背中に千景の重みがすっと乗る。重心は今日も少し後ろ寄り。膝が胴を強く挟み、手綱はぴんと張ったままだ。張り詰めた弓みたいな背中。それでも、確かに彼女は俺に乗っている。
俺は高度を上げながら、空を探っていた。
風の向き、陽射しの角度、地面の色。芝の匂いの強さ。それから、肌をなでる空気の温度のムラ。翼の先が、かすかな上昇気流を拾ってふわ、と浮く。
——あった。
演習場の北東、舗装された駐車場の上だ。朝から照らされたアスファルトが、空気をむらなく温めている。あの上に、見えない柱が立っている。
俺は翼を傾けて、その柱の上へ滑り込んだ。
空気が、下から背中を押し上げてくる。
俺は翼を広げたまま、羽ばたきをやめた。
一拍。二拍。三拍。
羽ばたかない。翼はぴたりと広げたまま、風を受けて微動だにしない。俺はゆっくりと輪を描く。トビが描くような、静かな弧。翼の角度だけで上がっていく。下からの風が、俺の腹と翼の下面をむらなく支える。
背中の千景の重みが、ずっと同じ所にある。
羽ばたきの反動がない。上下の揺れがない。波が消えると、鞍の上に重みが落ち着いて、重心がぴたりと止まる。千景の膝が、ほんの少しだけゆるんだ。
手綱は張ったままだ。それは変わらない。でも、膝の締めつけだけが息を吐くみたいに、ほんのわずかに緩む。
「……揺れない」
千景が、ぽつりと漏らした。
戸惑った声だった。信じられないものを見たときの、あの声。
俺は何も言わなかった。
俺は翼の角度をほんの少しだけ変えて、柱の中心をなぞるように輪を描く。ぐるり、ぐるり。羽ばたかないまま上がっていく。背中には、千景の重みがずっと同じ場所にあった。
それが、たまらなく幸せだった。
柱の中で何度目かの輪を描いたとき、俺は翼の角度を保ったまま背中の千景に声をかけた。
「帰りの高さを先に決めます」
千景の膝が、ほんのわずかに動いた。返事の代わりみたいな動きだった。
「この柱は、このままじゃいつか尽きます。尽きる前に、降りる高さに居ないといけないんです」
俺は輪を描きながら頭の隅で残り時間を数えていた。持続課目の制限はまだ先だ。だけど空に居られる時間と、降りるのに要る時間は別物だ。高いところから一気に落ちるように降りたら、背中の人が堪らない。だから降下は緩く、長く取る。そのぶん早めに高度を捨て始めないといけない。
数式は言わない。言えばこの人は全部日誌に書く。今は飛ぶほうが先だ。
千景はしばらく黙っていた。
「……そうしろ」
短かった。けれど、あの日の「黙ってやれ」より、ずっと角が丸かった。
40分を過ぎたころから、演習場のようすが変わってきた。
翼をすぼめて降りていく竜が1頭、また1頭と増えていく。着地のたびに芝が跳ね、地上係が駆け寄って計測鞍を外す。降りた騎手たちはみな一様に肩で息をしていた。翼を休めることもなく飛び続けるのがどれだけ体力を削るかは、飛んでいる俺にもよく分かる。
俺は高度を保ったまま熱の柱をゆっくり渡った。駐車場の上の柱が尽きる前に、西の草地の上へ滑る。空気の温度を翼の先で探りながら、沈む手前で次の柱に乗る。羽ばたかない。翼を広げたまま、ぐるりぐるりと弧を描く。
背中の千景は何も言わない。手綱は張ったままだ。でも、さっきまでより息が静かだった。深く、ゆっくり。規則正しい呼吸が背中越しに伝わってくる。
「天野」
ふいに、千景が言った。
「はい」
「この飛び方は教わったのか」
「いえ。自分で見つけました」
千景はそれきり黙った。手綱が、ほんの少しだけ張り直される。行けという意味じゃない。ただ、聞いたという合図みたいだった。
残っているのは、もう俺と紺の大型竜だけになった。竜科の首席だ。あの「竜の恥だ」の。
紺の竜は、はるか高いところでゆっくりと輪を描いている。俺の柱より、ずっと上だ。翼を大きく広げ羽ばたきを交えながら、それでも悠然と空に留まっている。背に乗る騎手ごと、空の高い場所を自分の庭みたいに回っている。
あの高さは無理だ。俺には届かない。
俺は首を上げて、その紺の背中を見た。
課目の50分が来て、俺は演習場に降りた。
着地の衝撃を膝で吸収する。芝がふわっと足の裏で跳ねて、翼を畳む。
地上係が駆け寄ってくる。
梶原教官は端末を俺の前に向けた。
そして、数字を読み上げなかった。
代わりに、画面の数字を指で一度だけすっ、となぞる。それきり黙って、眼鏡の奥の目を端末に落としたままだ。
読み上げない。あの短く事務的な人が、数字を声にしない。それが何より雄弁で、ちょっと困る。
俺は心のなかでそっと数えた。
変身してから、だいたい55分。だから残りは21分ぶん。まだ飛べる。飛べるけれど、規則では使った時間の2倍休むことになっている。55の2倍で110分。午後の枠には、休み明けが間に合わない。
つまり今日の午後は、もう乗せてもらえない。
千景は鞍から降りた。
地面に足の裏が触れた瞬間、彼女は手綱を握ったまま動かなかった。
ゆるめない。もう飛んでいないのに、手綱は張ったままだ。拳の白さも、そのままだ。
「鷲宮さん」
俺は声をかけた。千景は振り向かない。手綱だけが、ほんのわずかに震えた。
「手綱、もう離していいですよ。降りてますから」
一拍、間があった。
「……分かっている」
低い声だった。分かっているのに、離さない。そういう人なのだ、この人は。頭で分かっていることと、手が離せることは別なのだ。
俺はそれ以上言わなかった。言ったら、この人の手はもっと固くなる。そういう予感があった。
そのとき、柵の向こうがざわついた。
見学の列が崩れて何人かが走り出す。その向かう先は、格納庫の前の掲示板だ。予約表が貼ってある。
「ちょっと、走らないで」
「急がないと埋まるって」
「あの飛び方、見た? 羽ばたいてなかったよね」
「ないない。ずっと滑ってた」
「滑って上がるって何。意味わかんないんだけど」
意味わかんないはこっちのセリフである。俺も前世の記憶がなければ、絶対に意味が分からなかった。翼の角度で浮くなんて、教本のどこにも書いていない。この世界の竜騎は、みんな力で空を掴んで上がる。俺だけが、空に掴まれている。
予約表の前で、誰かがスマホを構えている。誰かが指をさして、空きを探している。
千景はまだ、手綱を握ったまま立っていた。
◇
夕方、人の姿に戻って休息を終えた俺は、格納庫の前の掲示板を見に行った。
掲示板の前には誰もいなかった。
予約表を覗き込む。今週の残りの枠だ。
名前の横にあった「罰ゲーム」の文字が、消えはじめている。ぽつぽつと、あちこちの枠から消えてただの名前だけになっていた。それでも、三輪の枠にだけは小さく「罰ゲームの続き」と書き足してある。
俺はそれを見て少し笑った。
なんだろうなこれは。憎まれているのか、それとも律儀に借りを返そうとしているのか。どちらにせよ、あのゆでダコみたいな耳の先を思い出すと、笑うしかない。
その隣に、来週分の予約表が貼ってあった。
俺は何の気なしにそれを見た。
来週の月曜から金曜。
午前・午後・夕方。
15枠。
全部、同じきれいな字で埋まっていた。
「鷲宮千景」
三輪たちの名前は、二重線で消されてもいない。最初から、一つも入る隙がなかったのだ。来週分は、午後になってから貼り出されたらしい。貼り出されたその場で、多分あの人が全部書いたのだろう。迷いのない字だった。手綱を握る拳とは違って、すごくきれいな字だった。
俺はしばらく、その15個の名前を順番に眺めていた。
「……全部?」




