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第3話 七十四パーセント




 4月10日、金曜日。1限。


 快晴だった。格納庫の扉の向こうに、富士山がくっきりと立っている。朝の空気はまだ冷たい。


 俺は1限の開始時刻に合わせて竜の姿になり、地面に伏せて千景を待っていた。隣には計測鞍を抱えた地上係と、端末を手にした梶原教官が立っている。


 1限の開始時刻ちょうどに、鷲宮千景が来た。


 背筋を伸ばしてまっすぐ前だけを見て歩いてくる。長い黒髪が高い位置でひとつに結ばれ、その先が歩くたびに小さく揺れていた。切れ長の目は一度も俺と合わない。合わないまま、俺の正面で立ち止まった。


 千景は俺の首の付け根あたりに視線を落とした。目を合わせないまま、右手が伸びてくる。


 その手が、ぴたりと止まった。


 指先が、俺の鱗の上で迷っている。触れるか触れないか、呼吸ひとつ分の距離で。


「……乗せろ」


 低い声だった。命令形。それきり口を閉ざした。


 場が、しん、と静かになる。地上係がちらりと千景を見て、それから教官を見た。教官は無言で端末を操作している。だが、この沈黙は明らかに「待ち」の沈黙だ。


 千景の指先がふっと震えた。


「……いや、乗せてください」


 言い直した声はさっきより少しだけ細かった。それでも、きちんと儀礼の形になっていた。教本どおりの位置に、ようやく手のひらが置かれる。ひやりとした手だった。


 俺はゆっくり首を上げて、千景の顔を見た。


「喜んで」


 俺はいつもどおりに答えた。心の底から、尾の先まで込み上げるような声で。


 千景の眉がほんの少しだけ動いた。嫌悪とも困惑ともつかない、ほんのわずかな動き。すぐに元の無表情へ戻る。


 地上係が計測鞍を俺の背に置き、腹の下の帯に手を回す。革がきゅっと鳴った。


 千景が身をかがめた。


 自分の手で安全帯を掴み指を入れて締まりを確かめる。1回。2回。3回。三度だ。三度確かめて、それでもまだ足りないのか最後は手のひらで帯の端を押さえるようにして、ようやく手を離した。


 完璧主義というやつだ。俺はというと、背中に乗せてもらう前からもう尾の先がそわそわと落ち着かない。まだ乗ってもいないのに。情けない話である。


 俺は伏せたまま声だけで指差呼称を始めた。竜の前肢じゃ指は差せない。だから声だけだ。前世の整備士の癖で、これだけは変身しても抜けない。


「鞍よし」


「竜環よし」


「手綱よし」


 そして首を少しだけひねって、千景を見る。


「騎手、よし」


 千景の目がすっと細くなった。


「黙ってやれ」


 短かった。刃物みたいに短い。声の温度は、朝の格納庫の床より低い。


「はい」


 俺は素直に答えた。心の中では「でもこれ、整備士の性なんです」と小声で付け足しておいた。


 千景が鞍にまたがる。重みがすっと移ってくる。座りは深く、まっすぐ。教本どおり、いや、教本を写したみたいな乗り方だ。三輪のときのような浅さはない。膝も確実に胴を挟んでいる。


 ただ、手綱を握る拳だけが硬い。指の関節が白く浮いている。


 俺は翼を少し広げた。


「出します」


 千景は何も言わなかった。返事の代わりに、手綱がほんの少しだけ強く張られた。それだけで、俺には分かった。乗る気はある。


 俺は地面を蹴った。


 翼を大きく二度三度と打って高度を取る。背中の千景は微動だにしない。鞍の上に置かれた重みが、重心ごとほんの少し後ろへ逃げている。座りは深いのに、後ろに引かれている。


 騎座は完璧だった。坐骨がまっすぐ鞍に落ちて、かかともきちんと下がっている。教本の見本みたいな座り方だ。ただ、膝が締まりすぎている。胴を抱え込む力が強くて、俺の肋骨のあたりがぎゅうぎゅうと鳴く。これは三輪のときの「しがみつき」とは違う。恐怖じゃない。何かを押さえつけるような力だ。


 手綱は張りっぱなしだった。緩む瞬間がない。拳が上下に動くわけでも、がくがく揺れるわけでもない。ただ、固定されている。動かないんじゃない。固まっている。首の付け根に、細い緊張がずっと走っている。これが千景の手綱だ。


 呼吸が止まっている。一定の間隔で、そっと吐く。また止める。水の底に沈んで、息を殺しているみたいだ。


 完璧なはずの騎乗なのに、背中で泣いている。そう思った。


 翼の打ち方を整える。上下の波を浅く、滑らかに。揺らさない。揺らさないことだけを考える。彼女の重心が後ろなら、後ろのまま安定する空を探す。膝が強く締まるなら、胴をほんの少しだけ弛めて圧を逃がす。手綱が張りっぱなしなら、首を動かさない。動かさなければ、手綱は張っていても負荷にならない。


 基本課目の最初の旋回点が近づいてきた。


 そのとき。


《右から、上へ》


 声がしたわけじゃない。耳でもない。頭の真ん中に、すとんと落ちてくる。しかも単語じゃない。文だ。命令が、意味のまとまりごと俺の脳みそに流し込まれる。


 右へ。回りながら、上がる。翼の右半分を深く打って、左を浅く。風を右肩から受けて、旋回の弧を描く。


 背中の千景が、一瞬だけ固まった。


 膝の圧がぴたっと止まる。手綱の張りも、一拍だけ消えた。緩んだんじゃない。止まったんだ。息を呑むときの、あの止まり方だ。


 次の拍で、手綱が戻ってくる。膝も戻る。何事もなかったみたいに、完璧な騎座に戻る。


 でも、一拍は確かにあった。


「……文で届いた」


 千景が漏らした。声というより、息に言葉が混ざっただけみたいな、そんな小ささだった。


 俺は座学で知っている。竜騎の念話は、ふつう単語ひとつがやっとだ。「右」「上」「止まれ」。それ以上を送ろうとすると、言葉がばらけて意味が崩れる。


 千景は、どの竜とも単語しか通じなかったと聞いた。昨日見た数字は、31%と29%。名門の欠陥品。


 でも、今。


 文が、届いた。


 この人は今、俺の背中でたぶん誰にも言えない驚きを飲み込んでいる。手綱の張りが、それを教えてくれる。


「文で届いた」の一言に、触れない。触れたらこの人はまた固くなる。


 だから、俺は静かに飛ぶだけにした。


 15分で基本課目を終えて、演習場に降りた。


 着地と同時に梶原教官が端末をこちらへ向けて歩いてくる。


「74」


 数字を読み上げる声は、いつもと変わらず短くて事務的だった。が、眉だけがほんの少し寄っている。


「故障だ」


 短く言い切った。次いで、傍らに控えていた地上係へ目を向ける。


「同調計を替えろ」


 地上係が小走りに格納庫の隅へ向かう。すぐに予備の同調計を抱えて戻ってきた。手際よく鞍の小窓の横の留め金を外し、計器を付け替えていく。


 千景は鞍の上で微動だにしていなかった。降りない。当然だ。計測はまだ終わっていない。


 地上係が新しい同調計を留め終える。


「天野」


「はい」


「もう10分だ」


「はい」


 千景は何も言わない。ただ、手綱がほんのわずかに張り直される。行け、と。そう言われた気がした。


 二度目の離陸。背中の重みは変わらない。完璧な騎座と、硬い拳と、張りっぱなしの手綱。それらがまとめて戻ってくる。重心は後ろ寄りのままだ。膝はきつく胴を挟んでいる。呼吸は、やっぱり止まっている。


 10分が、やけに長かった。


 10分飛んで、もう一度演習場に降りた。


 梶原教官は新しい同調計の小窓を、端末と見比べるようにして覗き込んだ。


 しばらく、動かなかった。


 端末の数字は、また74%だった。


 それから、教官はゆっくりと眼鏡を外した。


 ただ手に持って、顔を上げる。そのまま空を見ていた。富士山の稜線が、朝の光の中で白く浮かんでいる。


 梶原教官が眼鏡を外すところなんて、入学してから初めて見た。


 教官は静かに眼鏡をかけ直した。ツルが耳に当たる、かちゃ、という小さな音。


「壊れているのは、計器ではないようだ」


 端末も小窓も見ないまま、そう言った。


 俺は何も言えなかった。


 背中の千景も、何も言わなかった。


 演習場の縁が、ざわつき始めた。


 柵の向こうに騎科の学生たちが集まっている。見学の列だ。


「今の、74って」


「もう1回出たの? 計器替えたのに」


「あの鷲宮さんで、74?」


 その中に、聞き慣れた早口が混ざった。


「七十四!? お前、壊したのか計器を!」


 真田だ。騎科の計測を見に来ていたらしい。人混みの前列で、首を伸ばしてこちらを見ている。目がまん丸だ。


「壊してない。2回目は予備の計器だ」


 俺は伏せたまま答えた。真田は「だから壊したって言ってんだよ、2回も!」と叫び返してくる。いや、2回目は別の計器なんだから、壊したのが俺なら予備も壊れたことになる。それはもう俺が計器破壊生物みたいじゃないか。


 真田のツッコミは今日もキレがいい。ありがたいのだが、今はちょっと黙っていてほしい。背中の千景が、着地してから一言も喋らないからだ。


 俺は前を向いたまま、心の中でそっと数えた。


 同調率74%。反応の遅れにすれば0.26秒。


 74。俺の騎乗時間がそのまま数字になる、というのは前に聞いた話だ。つまり74分。変身してから、だいたい30分ほど経っている。ということは、残りは44分。


 俺はまだこの人を背中に乗せて、あと44分ぶん飛べるということだ。


 俺は尾の先がむずむずするのを、腹の底にぐっと力を入れて押さえ込んだ。今ここで振ったら、また何か言われる。真田に。確実に。


 千景は鞍から降りた。


 着地は静かだった。どすん、でも、とん、でもなく、音を立てないように足を置く。


 千景は地面に立つと、手綱を握っていた自分の右手をじっと見た。開いて、閉じてまた開く。指の関節が白く浮いていたのが、ゆっくりと元の色に戻っていく。右手の指には古い擦れ跡。左手で隠すこともせず、ただ見つめている。


 やがて、千景は小さく言った。


「……この竜には、私を憎む気配がない」


 俺は首を動かさなかった。動かさなかったけれど、背中に残っている重みの跡がじんと熱を持ったみたいに感じた。


 千景は腰のポーチから飛行日誌を出した。表紙を開いて、ペンを握る。3秒ほどそこで止まって、それから日誌を閉じた。閉じる音が、やけに丁寧だった。


 俺は何か言おうとして、やめた。


 言わない。今は、言わない。


 俺は今まで、乗られるのが嬉しいだけだった。尾の先が勝手に揺れるのも、乗ってもらえるのが単純に嬉しいからだと、そう思っていた。罰ゲームでも、変態と呼ばれても乗ってもらえるならそれでいいと本気で思っていた。


 でも、違うのかもしれない。


 俺が嬉しいから飛び方が柔らかくなって、柔らかい飛び方が背中の人を少しだけ楽にしていた。そういうことが、あるのかもしれない。


◇


 格納庫に戻って鞍を外してもらい、外へ出たときだった。


 演習場の端に、紺の鱗の大型竜がいる。背には騎手を乗せたまま、首だけをゆっくりこちらへ向ける。俺よりずっと大きい。竜科の首席だ。目が合う。低い声が腹に響いた。


「竜の恥だ」


 それだけ言って向こうは前を向いた。背の騎手は黙ったままだ。俺は聞こえないふりをした。反論できる材料が、俺の頭の中には1個もない。


 そうかもしれない、と思う。


 罰ゲームで乗られて、尾を振って、計器を壊した疑いまでかけられて。竜としての品位で言えば、たぶんだいぶ、かなり終わっている。


 でも。


 千景が降りたあとの背中は、まだ少しだけ温かかった。あの「文で届いた」の一言も、耳の奥に残っている。だから今の俺は、恥ずかしいとかそういう判定を、ちょっと保留にしたい。


 風が富士山の方から吹いてきて、俺の鱗を撫でた。


 それでも俺の尾の先は、まだ揺れている。

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