第2話 貸し出し竜の初仕事
4月9日、木曜日。
朝の気温は8℃。空は薄く曇っていた。
格納庫の前の掲示板に、今日の予約表が貼り出されている。俺はその前で、首をかしげた。
「……三輪、三輪、三輪」
午前。午後。夕方。3枠全部が同じ名前で埋まっている。しかも名前の横に括弧書きで「罰ゲーム代表」だと。
どういうことだ。俺は人名を3回連続で書かれると呪われるタイプの竜なのか。
「お前、昨日のスレッドの流れ見てなかったのか」
隣で真田が呆れた声を出した。
「見たよ。罰ゲームって書いてあった」
「その罰ゲームの負け班が、今日お前を貸し切りにしてるんだよ。代表で予約取ったのが三輪ってわけ。お前にキモって言った先頭の子な」
俺は心の中で予約表に向かって手を合わせた。今日も3回も乗ってもらえる。ありがたい話である。
◇
格納庫の中はひんやりとしていて、朝の空気がまだ床に溜まっていた。
俺は竜の姿になって地面に伏せている。腹をぺったり地面につけて、首を前に伸ばした例のスタイルだ。我ながら安定感だけはある。
しばらく待っていると、足音が近づいてきた。
ぺたぺたと、やけに歩幅の小さい足音だ。歩きたくないけど歩かなきゃいけない、みたいな意思が音に出ている。
視界の端に短い髪の女子が立った。
三輪あずさ。試し座りのときに先頭で「キモ」と言い放った、あの目のきつい子だ。朝の枠は彼女らしい。罰ゲームで。
「……最悪」
三輪は俺の顔を見るなり、心底げんなりした声を出した。
三輪は大きくため息をつくと、おそるおそるといった感じで俺の首の付け根に手を伸ばした。
指先がちょんと触れる。
触れた瞬間、三輪の手がぴくりと震えた。
「……乗せてください」
声が小さい。ついでに語尾が消えかかっている。お経かな?
「喜んで!」
俺は今日も元気に答えた。だって嬉しいんだから仕方ない。乗ってもらえるだけで尾の先がぴんと立つ。
「声でか」
三輪が眉をひそめて一歩引いた。
「あと尾、なに。今ピンってなったでしょ。やめてくれる? ガチで無理なんだけど」
「これは勝手に動くんです。俺にも止められない」
「意思持って動いてんじゃん。無理。ないわー」
地上係が鞍を置いて腹の下の帯を締める。革がきゅっと鳴る。俺は伏せたまま、声だけで指差呼称を始めた。
「鞍よし」
「竜環よし」
「手綱よし」
そして首を少しだけひねって三輪を見る。
「騎手、よし」
三輪の眉がこれでもかというほど寄った。
「まだ乗ってないんだけど。何その判定。早すぎない?」
三輪が鞍にまたがる。重みが移る。だが、座りが浅い。腰の位置が後ろに逃げていて、鞍の中心に乗っていない。これでは竜の背骨に力が伝わらない。
「出します」
俺は翼を広げてゆっくり地面を蹴った。ふつうの離陸より、半分くらいの力で。ふわっと浮かせて、風に乗せる。
三輪の膝が、がっと胴を抱え込んだ。力が入っている。抱え込むというより、しがみつくに近い。膝の内側が硬い。右の膝が先に締まる。左より半拍早い。
少し上昇したところで鞍の上がぽんと跳ねた。座りが浅いから、翼の一拍ごとに三輪が浮く。浮いて、落ちてまた浮く。
まずい。これは揺れる。
俺は翼の打ち方を変えた。一拍を少し長く、上下の波を浅くする。跳ねる前に、背中をほんの少しだけ沈めて受け止める。三輪が浮きかけたところで、すっと下から支える。跳ねを殺すんじゃない。跳ねる前に、波を消す。
「肘、力入ってます」
思わず声が出た。三輪の肘が伸びきっている。手綱を持つ拳が上下にがくがく動いている。肘が伸びていると、俺の首の動きが全部拳に来る。拳が動けば手綱が引っ張られる。引っ張られれば、俺の首が反応する。反応すれば、また揺れる。
「言われなくても分かってる」
三輪の声が前より少し低い。息を止めている。喋るたびに息を吐いて、また止める。そんな感じだ。
右に少し曲がる。風が弱い。高度をほんの少しだけ上げる。空気が薄くならず、翼が軽く感じるところ。俺の背中で、三輪の拳が上下する幅が小さくなった。まだ動いている。だが、さっきより小さい。
「……あ」
三輪が小さく声を漏らした。何かに気づいたらしい。膝を少し緩めた。ほんの少しだけ。それだけで胴にかかる圧が変わる。俺はすかさず、翼の打ち方を合わせた。膝が緩んだ分、揺れが減る。揺れが減れば三輪も力みにくい。
沈黙が来た。
さっきまで「無理」「ないわー」と連打していた三輪が、何も言わない。風の音だけが翼の間を抜けていく。
しばらくして三輪の息が少し長くなった。止めていた息を、ゆっくり吐いている。拳の上下も、さっきより小さい。鞍の上で跳ねる音もしなくなった。でも、さっきより背中に乗っている。俺の背に、三輪の重みがちゃんと落ちてきている。
30分ほど飛んで演習場に降りた。
翼を畳んで腹を地面につける。俺の背中で、三輪がゆっくりと鞍から脚を下ろした。着地の音が丁寧だった。どすん、じゃなくてとん、に近い。
三輪はしばらく黙ったまま、鞍の横に立っていた。
手綱を握ったまま俯いて動かない。
10秒ほど経って三輪が小さく呟いた。
「……揺れない」
消え入りそうな声だった。でも、俺の耳は竜の耳なのでちゃんと聞こえた。
「右の膝が0.5拍早いです。あと、肘、少し曲げたほうが楽です」
俺は前世の整備士時代から、指摘は具体的に数字を入れて、相手が直せる形で伝えると決めている。パイロットに「なんか調子悪いっすね」と言う整備士がいたら、それはもう整備士じゃなくて占い師だ。
三輪が顔を上げた。
真っ赤だった。
耳まで赤い。いや耳の先がもう、ゆでダコみたいな色をしている。目がきつい子が真っ赤になると、迫力がすごい。怒られるのかと身構えた。
「うるさいっ!」
ようやく出た声がそれだった。三輪は手綱を鞍に叩きつけると、くるりと背を向けて走った。走った。全力で走った。
三輪の背中が格納庫の陰に消えていく。途中で1回だけ、走りながら振り返った。目が合った。真っ赤なまま、前を向き直してまた走った。
◇
午後と夕方の枠も、同じ三輪の名前で埋まっていた。予約を取ったのは三輪だが、来たのは当然三輪ではなかった。
午後の枠に来たのは、背の高い女子だった。
儀礼の言葉は平坦だった。指先は俺の鱗に触れた瞬間にちょっとだけ引いた。それでも手のひらは置かれた。儀礼は儀礼だ。嫌でもやる。
「喜んで」
飛び方は朝と同じだった。座りは浅く、肘が伸びて、拳が上下する。俺は波を消して、跳ねる前に受け止めてなるべく静かな空を選んだ。ずっと黙って飛んだ。
降りて、しばらくして。背の高い子が鞍の横で小さく言った。
「思った瞬間に曲がるんだけど」
それだけだった。褒め言葉なのか感想なのか判定に迷うが、たぶん褒めだ。俺は尾を振りそうになって、必死にこらえた。こらえきれなかった。少しだけ振った。
◇
夕方の枠に来たのは、声の小さい女子だった。
儀礼の言葉は消え入りそうだった。指先だけでちょんと触れる。
「喜んで」
夕方の空は薄く晴れて富士山の輪郭が西日に濃く出ていた。俺はまた同じように飛んだ。座りが浅いなら浅さごと乗せる。肘が伸びるなら拳が動かない高さで飛ぶ。
降りて、鞍から脚を下ろした女子が手綱を握ったままぽつりと言った。
「罰ゲームにならないじゃん」
俺は首をかしげた。つまり楽しかった、と受け取っていいのだろうか。たぶん。たぶんそうだ。俺はそういうことにしておく。
◇
格納庫の隅で三輪と、午後の背の高い子と夕方の声の小さい子が、頭を寄せ合って何か話していた。
三輪が一番小さい声で喋って2人がうなずいて、また三輪が喋って2人が顔を見合わせる。途中で三輪がこっちをチラッと見た。目が合った。三輪はすぐに顔を背けて、また2人の輪の中に戻った。
俺は鞍を外してもらいながら、横目でその様子を眺めていた。
ただ、三輪の耳の先が、まだちょっと赤かったことだけは、報告しておこうと思う。たぶん、光のせいではない。
◇
鞍を外し終えたところで、格納庫の入り口に人影が立った。
夕方の光を背負って眼鏡の奥の目がこちらを静かに見ている。梶原教官だ。手には端末。足音は、ほとんどしない。
「天野」
「はい」
「貸し出し竜の初日だ。確認を告げる」
教官は俺の前に立つと、端末を操作しながらぽつりぽつりと区切って言った。
「貸し出し竜は、練習と補欠のための竜だ」
「はい」
「変身したら、使った時間の2倍は休む」
「はい」
「以上だ」
「……なぜ嬉しそうなんだ」
「嬉しいからです」
「そうか」
梶原教官はそれ以上何も言わなかった。
ただ、眼鏡の奥の視線が、一度だけ俺の尾の先を捉えた。
ふりふりと、今日1日ずっと揺れっぱなしの尾の先だ。
教官は、何かを言いかけてやめた。
それから静かに踵を返すと来たときと同じ足音のない歩き方で、格納庫を出ていった。
◇
俺は竜の姿のまま格納庫の外で伏せていた。休む前に、もう少しだけ空を見ていたかった。
演習場では、騎科の実技がまだ続いていた。
計測鞍を付けた中型の竜が着地の練習をしている。その背に乗っているのは、騎科首席の鷲宮千景だ。
座りは教本どおり深く正しい。背筋が伸び、膝は竜の胴を確実に挟みかかとは下がっている。完璧な姿勢だ。
だが、手綱は張りっぱなしだった。拳が固い。指の関節が白く浮いている。俺の背に乗ったときの三輪の拳とは別種の硬さだ。三輪は怖さで力んでいた。千景の拳は、そうじゃない。
着地のたび、見学の生徒たちのささやきが風に乗って流れてくる。
「やっぱり合ってないよね」
「あの竜とでもダメか」
「何頭目だっけ」
31%。次の竜で、29%。3割前後。
「名門の欠陥品」
すぐ近くで声がした。振り向くと三輪が立っていた。連れの2人は無言で、三輪の背中越しに俺と千景を交互に見ている。
三輪は腕を組んで、演習場の千景を睨んでいた。
「いくら家柄が良くても、竜に乗れなきゃ意味ないっしょ」
俺は何も言わなかった。
千景は、表情を変えなかった。
それでも千景は背筋を伸ばしたまま、手綱を握る指だけを白くしていた。指先が、わずかに震えている。右手の古い擦れ跡のある指だ。左手で隠すこともせず、ただ手綱を握りしめている。
そのとき。
俺の尾の先が、ぴたりと止まった。
今日1日、朝から晩までふりふりと動きっぱなしだった尾だ。昨日、梶原教官に止めろと言われても止まらなかった尾だ。変態と笑われても、罰ゲーム扱いされてもずっと勝手に揺れ続けていた尾だ。
それが、止まっていた。
俺の意思とは関係なく。あるいは、俺の意思よりも先に。
千景はこちらを見ていなかった。
見られていないのに、尾は止まったままだった。
◇
その夜、寮の部屋でスマホが震えた。画面には「母さん」。
俺はベッドに寝転んだまま通話ボタンを押した。隣のベッドでは真田が参考書を開いている。ちらっとこっちを見たが、何も言わずに視線を戻した。
「あんた、何言ってんの」
第一声がそれだった。埼玉の団地の母ちゃんの声だ。
「何が」
「何が、じゃないでしょ。あんたの学年の掲示板、ひばりが見つけてきたの。変態竜に乗ってみたって、あれ何」
「ああ、あれ」
「あああれ、じゃないでしょ。入学して3日で全校に変態って名前がつくとか、あんた何してんの」
「別に。自己紹介で正直に言っただけだよ」
「何を正直に言ったの」
「乗られるのが夢です、いろんな方にって」
スマホの向こうで、深いため息が聞こえた。
「あんたねぇ……」
「でも母さん」
俺は体を起こして、スマホを両手で握り直した。
「毎日、ちがう人に乗ってもらえるんだよ」
「……は?」
「……あんた、それ本気で言ってんの」
「本気だよ」
「はぁ……」
母はそれきり黙った。団地の夜の気配が、スマホ越しに流れてくる。
やがて、母が言った。
「……体だけは大事にしなさいよ」
「うん」
「切るよ」
「うん。おやすみ」
通話が切れた。
俺はスマホを枕元に置いて、天井を見た。
◇
消灯の少し前、俺は教官室に呼ばれた。
教官室のドアをノックすると、中から「入れ」と短い声が返ってきた。
部屋には梶原教官がひとりでいた。机の上に端末が開かれていて、画面の明かりだけが眼鏡の奥の目を白く照らしている。
「天野」
「はい」
教官は端末を指でなぞりながら、ぽつりと区切って言った。
「明日の1限。鷲宮千景に、君を割り当てる」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
鷲宮千景。騎科首席。あの「最低だ」と言って俺に触れなかった人。
「ほかに彼女を乗せる竜がいない」
「はい」
竜の姿だったら、尾がちぎれるほど振っていたと思う。




