第1話 乗られるのが夢です
男は竜に、女はその背に乗る。
この世界で俺の夢はひとつ。
――いろんな女性の尻に敷かれたい。
そして今。
夕方の空の上で、俺の背中に、女性の教官が乗っている。
首の付け根に、教官の重みがまっすぐ落ちている。
まっすぐ、というのが大事だ。手綱の張りも、膝の当たりも全部まっすぐ。一切ぶれない。
箱根の山が西日に黒い影絵みたいに切れている。冷たい風が翼の間を抜けていく。
ただ尾の先だけが勝手に動く。
ふり、ふり、と。
俺の意思とは関係なく、尾の先は乗せてもらっている喜びを全身で表現している。恥ずかしい。腹の底から恥ずかしい。だが止められない。
背中で教官が小さく息を吸う気配がした。
「天野、尾を止めろ」
短い。事務的。
「止まりません」
俺は正直に答えた。嘘をついても尾は止まらないのだから、正直に言うのが一番正しい。
正直は美徳である。たぶん。
背中からため息が落ちてきた。
どうしてこうなったか。
話は2日前、入学式のあとの自己紹介にさかのぼる。
◇
4月6日。
入学式のあと、俺たち新入生は第一体育館に集められた。竜科と騎科の合同説明会である。
――そう、俺には前世の記憶がある。
航空整備士として、空に上がれないまま死んだ男の記憶だ。15歳で初めて竜に変身したとき、その記憶がまるごと戻ってきた。
空に上がる手段が、今度はこの体に備わっている。それだけで、もう充分だった。
「それでは次、竜科の自己紹介。一人一言で結構です」
「竜科の真田陸です。小型ですが、旋回性と加速には自信があります。よろしくお願いします」
隣の真田が立って、早口でそう言った。
おお、まともだ。さすが俺の同室。出会って2日だが、もう「お前は少し黙れ」と3回は言われている。
そして、俺の番が来た。
立ち上がる。騎科の列が一斉にこちらを見た。
「竜科の天野カケルです。乗られるのが夢です。できれば、いろんな方に」
――瞬間。
ガタッ。
騎科の椅子が一斉に後ろへ引かれた。
100人近い女子が同時に椅子を引くなんて、なかなか見られる光景じゃない。音だけで意思疎通できる騎科、すごい。
隣から真田が小声で言った。
「お前は狂ってる」
「え、何が?」
「全部だよ」
俺は本気で首を傾げた。
乗られてナンボ、騎手あっての竜である。夢を聞かれたから、正直に答えただけなのに。
あ、もしかして「いろんな方に」が軽薄だったか。うん、そこは反省しよう。
前の方から、冷たい声が飛んできた。
「……天野。座りなさい」
騎科の主任教官、梶原美津子。眼鏡の奥の目が検査器具みたいに俺を捉えている。
「はい」
俺は素直に座った。隣で真田が額に手を当てて、天井を仰いでいる。
その夜、竜科寮の2人部屋。
「お前、明日の試し座り、絶対ろくなことにならないぞ」
真田が隣のベッドから早口で言った。
「そうか? 俺は楽しみで仕方ない」
「いいか。明日は騎科の班が10人、お前の背中に順番に座るんだ。10秒ずつ、評価はAからE。評価は向こうが一方的につける。乗られるって、そういう検査なんだぞ」
「ああ。だから楽しみなんだ」
「……狂ってる。本当に狂ってる」
そのとき、廊下を歩く足音が近づいてきた。ゆっくりで、重い。
ノックが2回。ドアが開いた。
竜科寮の寮長だった。4年生の、口数の少ない温厚な巨漢。
寮長は無言で部屋の中を見渡した。窓。机。ベッド。俺。真田。
「消灯です」
それだけ言うと、寮長は静かにドアを閉めた。
……楽しみすぎて、眠れない。
◇
4月7日。
試し座りの朝は、やけに晴れていた。
演習場の真ん中で、俺は竜の姿になって地面に伏せていた。腹は地面にぺったりつけて、首は前にまっすぐ伸ばす。
要するに、でっかいトカゲの完成である。我ながら絵面がひどい。
周囲には騎科の女子が10人、横一列に並んでいる。少し離れたところで、梶原教官が腕を組んでいる。
「騎科一班、順に天野の背に座りなさい。1人10秒。乗る前に必ず儀礼を行いなさい。評価はAからE、騎手側の判断でつけなさい。始め」
列の先頭の女子が歩いてきた。短い髪の、目のきつい子だ。
いかにも嫌そうな顔で、ほんとうに指先だけで、俺の首の付け根に触れる。指が震えている。
「……乗せてください」
「喜んで」
列の後ろで、ひそひそ声が起きた。
「今なんて」
「喜んでって」
「え、なにそれ」
「気持ち悪」
ひどい言われようである。だが俺は気にしない。
女子が背にまたがる。重みが首の付け根から背骨に沿って伝わってくる。膝が胴を挟む。
ふむ、悪くない。基本ができている。
10秒はあっという間だった。
降りぎわに、ぼそっと聞こえた。
「……キモ」
評価表にペンが走る。俺には見えない。見えなくていい。評価は騎手側だけで決まる。
2人目。3人目。4人目。
俺が「喜んで」と答えるたびに、列の後ろでざわめきが起きる。
「また言った」
「本気で言ってるの、あれ」
俺はめげない。だって本気で喜んでいるんだから。尾の先がふりふりと揺れる。もう半分開き直っている。見たい奴は見ろ。
列の最後尾が近づくにつれて、ひそひそ声が減っていった。
最後に残っていた女子の姿が目に入る。
長い黒髪を高い位置でひとつに結んでいる。切れ長の目。制服に一分の隙もない。彼女の周りだけ、気圧が高い。
騎科首席。鷲宮千景。
彼女は俺の首の横で立ち止まると、じっと見下ろした。
動かない。
首の付け根に手を当てるでもなく、評価表を左手に持ったまま、俺を眺めている。
5秒。6秒。
やがて、右手でペンを持ち直した。
「……最低だ」
平板な声だった。
罵倒じゃない。評価だ。彼女の中で、俺は「最低」に分類された。それだけの話だ。
書き終えると、彼女は左手で右手の指を覆った。指に、古い擦れ跡のようなものが見えた気がした。
一瞬だった。彼女はすぐに身を翻した。俺の背に、触れることすらせずに。
と思っていたら、班の列の中から視線を感じた。
さっき背に座っていった、金髪の留学生だ。口元にうっすらと笑みを浮かべている。笑っているのに、目が笑っていない。
彼女は俺と目が合うと、ふふ、と小さく息を漏らして、評価表に何か書いた。わざわざ、こちらに向けて見せてくる。
一番下の欄に、大きく「E」。
笑いながら最低点を書くタイプもいるのか。世の中にはいろんな騎手がいるもんだ。
さらに、隣の班の列から。黒い外套を羽織った女子が、一歩前に出た。
「竜としての誇りはないのか」
真顔だった。声は落ち着いているのに、空気がびりびりと震える。
俺は琥珀色の目をまっすぐ彼女に向けた。
「そう見えますよね」
彼女は一瞬だけ目を細め、ふいと視線を外した。
それでも。
尾の先が、ふりふりと揺れていた。
◇
4月8日、朝。
「相性検査は騎手側の評価だけで決まる。君はE判定。貸し出し竜とする」
教官室で、梶原教官は顔も上げずに言った。
「予約表に従って、毎日ちがう騎手に貸し出される。以上だ」
頭の中で教官の言葉がゆっくりと噛み砕かれていく。
――毎日ちがう人に乗られる仕事。
毎日。ちがう人。乗られる。仕事。
なんという制度だ。なんという素晴らしい制度だ。
気づいたときには、視界が少し滲んでいた。
隣で真田がギョッとした顔をこちらに向けた。
「え、ちょっと、お前――泣くとこそこ!?」
「泣いてない。目にゴミが入っただけだ」
「貸し出し竜って言われて泣くやつがどこにいるんだよ!?」
「ここに」
「即答かよ!?」
「静かにしなさい」
梶原教官は、書類を1枚引き抜いた。
「今日の夕方、登録前に確認飛行をする。教官が一度乗って安全を確かめる。規定だ。私が乗る」
◇
そして、夕方。
「乗せてください」
梶原教官の手のひらが、俺の首の付け根に置かれた。震えもない。手のひら全体を確かめるようにまっすぐ置いている。
「喜んで」
教官の手がほんのわずかに止まった。
一拍。
教官は何も言わずに手を離し、地上係に告げた。
「鞍を」
背中に鞍が置かれる。腹の下をくぐった帯が、ぐっと締まる。
竜の姿だと、この締め付けが妙に落ち着くんだよな。誰かに「乗られる準備ができた」と認められたみたいで。
変態か。変態だな。
教官が帯と鞍の間に指を2本入れる。すっと入って、止まる。
「天野。指差呼称を」
来た。
整備士時代、俺は毎日これをやっていた。機体の前に立って、指を差して、声を出して、確認する。地味だが、命を守る作業だ。
竜の前肢では、指は差せない。だから声だけでやる。
「鞍よし」
「竜環よし」
「手綱よし」
最後は、騎手。これが一番大事だ。
首をひねって教官を見る。教官も俺を見ていた。朝の騎科の女子たちとは違う、静かな目だ。
「騎手、よし」
教官の口元がほんのわずかに動いた。
「……よろしい」
教官が鞍に足をかける。背に重みが移る。
ふらつきがない。重心が、まっすぐ背骨の真上に落ちてくる。
教官はもう一度、帯に指を入れた。2本。今度は少しだけ長く留まった。
「よし」
翼を、打つ。
ドン、と一拍。
地面を蹴って、空気を掴む。背中の重みごと俺の体が空へ上がっていく。
――そして、話は冒頭の空に戻る。
背中の教官は、あれきり何も言わなかった。
そして、その黙り方がすごい。
重心が、背骨の真上からぶれない。俺が翼を打つたびに背中には上下の波が来るのに、ふらつかない。
脚が、静かだ。膝の内側が、胴に添えられているだけ。締め付けることもなければ、浮くこともない。
手綱が、低い。引っ張らない。緩めない。俺が首を上げれば追ってきて、下げれば同じだけ下がる。
手綱が、会話しているみたいだ。
前世、俺は整備士だった。
パイロットが機体に乗り込むのを、いつも地上から見ていた。機体が滑走路を走り出す。俺は見送るだけだった。
飛びたかった。
飛べなかった。
今、俺は飛んでいる。自分の翼で。
そして背中に、人が乗っている。
あれ、おかしいな。目が熱い。夕方の風は冷たいのに、目の奥だけじんわりと熱い。
風のせいだ。きっと風のせいだ。俺は泣いていない。断じて泣いていない。
15分ほど飛んで、演習場に降りた。
背中から教官が降りる。土を踏む音。一歩、二歩。
端末は、見なかった。
代わりに教官は小さく、本当に小さく呟いた。
「……妙に、乗りやすい」
俺の耳が竜の耳でなかったら、聞き逃していた。
尾の先が、また、ふりふりと揺れていた。
◇
その夜、寮の部屋に戻ると真田がスマホを睨んでいた。
「お前、これ見たか。学年の掲示板」
画面にスレッドタイトルが表示されていた。
『変態竜に乗ってみた(罰ゲーム)』
「罰ゲームて」
俺は思わず声に出した。いや、罰ゲームて。俺は罰ゲームなのか。学院公認の罰ゲーム竜なのか。
真田がスクロールする。
『「喜んで」って言われた瞬間、鳥肌立ったわ』
『尾振ってたよ。あれ本気でキモい』
『予約表埋まってるのウケるww みんな罰ゲーム感覚じゃんww』
スレッドの下にリンクが貼られていた。
『貸し出し竜・天野カケル 予約表』
1週間ぶん。月曜から金曜まで、朝、昼、夕方。びっしりと名前が並んでいる。
「…………埋まってる」
声が、震えた。
「おい、天野」
「毎日、ちがう人が、俺に乗るんだ」
視界が、また滲んだ。
「毎日だぞ。朝昼夕で3人だ。1週間で15人だ。1年なら、のべ700人以上だ」
「計算すんなよ!? お前のそういうとこマジで怖いんだよ!?」
「あと、そこで泣くな」
予約表の下。
そこに別のリンクがあった。
『騎乗実技・基礎科目 組分け表』
俺はその文字をタップした。
騎科の名前と、組む竜の名前が並んでいる。
その、いちばん上。
鷲宮千景――竜:割り当てなし




