ホッとコーナー、あるいはルースは休憩室と言った話
ご婦人の社交場は、月に一度の大きな会と、週に一度の気軽な集まりで成り立っています。
今回は、お嬢さんによる社交場のちょっとした探検です。
なお、彼女が探している小熊ちゃんは、どうやら別のお仕事中のようです。
ご婦人の社交場は、毎週開かれる。
もっとも、すべての夜が同じ重さを持つわけではない。
メインとなるのは月に一度の大きな会で、多い夜には五百人から七百人が集まる。
目的は、ビジネス交流と情報交換。
少なくとも、表向きはそういうことになっている。
週に一度の集まりは、もう少し軽い。
趣味人の集まりといった雰囲気の、カジュアルなサロンだ。
社交界らしくダンスを楽しむ者もいれば、チェス盤の前で古い恨みを磨く者もいる。
ポーカーに興じる者、葉巻の煙の奥で商談を済ませる者、ただ噂を聞きに来る者もいた。
総会員数は千を超えるが、席はいつも足りない。
もっとも、足りないのは椅子ではなかった。
その夜、名を持って帰れる者の数だった。
ここにいる全員が、ご婦人に招かれたわけではない。
多くは、誰かに連れられて来た。
そして誰かに連れられて来た者は、誰かの顔を借りている。
席を持つ者が、客を連れてくる。
客は、連れてきた者の名で入る。
だから、客が粗相をすれば、紹介者の顔にも泥がつく。
「どなたのお連れだったの?」
「まあ、あの方の?」
「では、次はお一人でいらっしゃるのかしら」
「いらっしゃれれば、ですけれど」
そんな噂など、日常茶飯事だった。
もちろん強制ではない。
会員であろうと、招かれた客であろうと、来ない自由はある。
ただし、パートナーだけはその限りではなかった。
特に、ルース――ご婦人に名を与えられた、お気に入り達――のパートナーであれば、逃れることはできない。
逃げようものなら、ルースは席を失う。
そういう『美意識の掟』が、この場にはあった。
ルースの名付け親。
そして、そのルースのパートナー。
最近、社交界デビューしたばかりの、情報量の多い料理人。
その三つを満たすシェフのお嬢さんは、女性陣の輪から離れて、ようやく彼がいないことに気がついた。
珍しい、と思った。
彼が場を外したということは、このメイン会場の点検が終わったということなのだろう。
この場での彼の仕事は説明しにくい。
雇われているわけではない。
警備でもない。
給仕でもない。
案内係でもない。
それでも彼は、時々ふっと姿を消す。
そして、戻ってくる頃には、どこかの扉の立てつけが直っていたり、妙に詰まりやすかった廊下から人が流れるようになっていたりする。
ご婦人のお気に入りであるということは、何かしら利用価値があるということだ。
それが何か、明確には提示されているわけでも、仕事を指示されているわけでもないらしい。
ただ、彼にまだ席があるということは、ご婦人の期待には応えられているのだろう。
そのおかげで、彼女にも仕事が回る。
質のいい、大きなお肉を捌く仕事が。
だから彼女は彼を探すことにした。
探す、というより、会場を一巡する口実が欲しかった。
彼がどこを見ているのか、自分の目でも確かめておきたかった。
とはいえ、何となくの予想はついている。
シガールームだ。
時々、彼が煙草の香りを纏っていることを知っている。
喫煙習慣というほどでもないが、彼も多少は嗜んでいる。
誰かが吸っている場所に立ち寄り、何かを聞き、何かを直し、何かを動かして戻ってくる。
そういう時に煙草は、都合がいいのだそうだ。
だから、あえてそこから遠いところから回ることにした。
だって合流してしまったら、冒険できないじゃない。
どこから回ろうかと考えて、お嬢さんは天井を見上げた。
やはり船の舞踏会場とは違い、天井が高い。
シャンデリアはモダンで、豪華ではあるが絢爛ではない。
しかしその分、広い会場に、その煌めきが静かに降り注ぐ。
まるで、主役は光であると言っているようで、好ましかった。
船の光は、もう少し忙しい。
揺れ、跳ね、窓の外にある黒い海を意識させる。
どれほど着飾った夜でも、船は船だ。
床の下には機関があり、壁の向こうには水がある。
人が踊っていても、通路は通路で、階段は階段で、非常口は非常口だった。
ここは違う。
足元は揺れない。
窓の外に海もない。
その代わり、人の流れがあった。
メイン会場の中央では、音楽に合わせて何組かが踊っていた。
踊らない者達は、壁際のテーブルでグラスを持ち、挨拶を交わし、笑い、時々、笑っていない目で誰かを見ていた。
壁際には、簡易のバーカウンターがいくつか設えられている。
常設のバーではない。
その夜のために運び込まれた、磨かれた板と、氷と、グラスと、酒瓶の列。
いわば、会場の中の小さな角打ちだった。
そこで軽く飲み、すぐに戻る者。
グラスを受け取ったまま、誰かの後ろに立つ者。
飲まないのに、バーテンダーと二言三言だけ交わして去る者。
お嬢さんは、それらを横目に見ながら、会場の端へ向かった。
まずは、ギャラリー。
大広間から一枚扉を隔てただけで、音の輪郭が変わる。
音楽は遠くなり、代わりに靴音が少しだけ響いた。
シガールームから、あえて遠い位置。
匂いのしない部屋だった。
壁には絵が掛けられている。
新しいものもあれば、古いものもある。
飾り棚には、どこの国のものともつかない小さな置物が並んでいた。
奥にはちょっとした小物が並ぶショーケースとスタッフが、同じように佇んでいる。
美術館ではない。
けれど、ただの飾りでもない。
誰かが立ち止まるためのもの。
誰かが話を切り替えるためのもの。
誰かが、会場の熱から少しだけ離れるためのもの。
そういう配置だった。
壁際の椅子に、年配の女性がひとり座っていた。
疲れているのではない。
扇子を閉じた手元も、背筋も、きちんと整っている。
ただ人の輪から一歩離れて、絵を見るふりをしていた。
お嬢さんは目礼だけをして、通り過ぎた。
この部屋は逃げ場だ、と思った。
ただし、逃げ込める者を選ぶ逃げ場だ。
慌てて飛び込む者ではなく、静かに退くことを知っている者のための部屋。
その奥は、遊技場だった。
名前ほど騒がしくはない。
むしろ、大広間よりも静かだった。
チェス盤がいくつか置かれ、ポーカー用のテーブルには緑の布が張られている。
小さな丸テーブルでは、バックギャモンの駒が音を立てていた。
壁際にはビリヤード台もある。
遊びの部屋、というよりは、勝ち負けを美しく置くための部屋だった。
ふと、彼が、ここに立ち寄る時は注意しろ、と言っていたのを思い出す。
他の部屋は、基本的に社交のためのものだ。
でも、この部屋は違う。
ゲームは言語と文化の壁を取り払う。
その反面、文脈を読み間違えると、簡単にトラブルを起こす。
耳を澄ますと、確かに聞き慣れない異国の言葉と、少しざらついた言葉が聞こえてきた。
社交界の文脈ではない。
地下の香りだ。
まあ、料理人も血生臭さでは負けていない。
お嬢さんは、チェス盤の前で足を止めた。
白い駒と黒い駒。
盤面の上では、すべての駒に動ける場所と動けない場所がある。
それが最初から決まっているからこそ、勝負になる。
社交場も似ているのかもしれない。
誰がどこまで進めるか。
誰が誰の前に立てるか。
誰が退くべきか。
それを知らない者は、たぶん、盤から落ちる。
彼ならどう見るだろう、と思った。
駒ではなく、きっと導線を見る。
椅子の脚の向き。
人が立ち止まる位置。
グラスを置く場所。
誰かが怒った時に、どこから逃がせるか。
考えて、お嬢さんは少しだけ笑った。
探しているはずなのに、だんだん彼の見方を探している。
遊技場を抜けると、照明が少し落ちた。
バーラウンジ。
メイン会場の壁際にあった角打ちとは違う。
ここは、腰を下ろすための場所だった。
低いテーブル。
深い椅子。
氷の音。
革と木と、薄い香水の匂い。
話し声はあるが、誰も大きな声を出さない。
笑い声も、ここでは少し低くなる。
若い男性が、年上の女性に何かを説明されていた。
取引の話ではなさそうだった。
姿勢、目線、名刺の出し方。
そういう種類の注意を受けている顔だった。
別のソファでは、二人の紳士が並んで座っている。
仲が良いのか悪いのか、一見しただけではわからない。
ただ二人の間に置かれた灰皿は空で、グラスだけが半分ほど減っていた。
お嬢さんは、入口近くで立ち止まった。
この部屋は、飲むためだけの場所ではない。
誰かを待たせる場所。
紹介者が連れてきた客に、最後の注意をする場所。
表へ出す前に、言葉の襟を直す場所。
そして、表から下げた熱を、少しだけ冷ます場所。
そう思ったところで、お嬢さんは首を傾げた。
冷ます場所なら、彼がいてもおかしくない。
けれど、ここにも彼はいなかった。
バーラウンジを出たところで、お嬢さんは足を止めた。
人の流れが、少しだけ詰まっている。
大きな混乱ではない。
誰かが声を荒らげているわけでもない。
ただ、客用エレベーターの前で、流れが細くなっていた。
見ると、車椅子の女性がいた。
電動ではない。
手で車輪を押す、軽い車椅子だ。
年は、自分より少し上だろうか。
背筋がきれいで、肩の位置も整っている。
着ているドレスも、車椅子に座ることを前提に選ばれていた。
慣れている人だ、と思った。
ただ、その右手に白いサポーターが巻かれていた。
手首から親指の付け根にかけて、しっかり固定されている。
女性はエレベーターに乗り込もうとしていた。
けれど、扉の溝と車輪の角度がわずかに合わない。
普段なら何でもない動きなのだろう。
けれど、その夜は手が少しだけ足りていなかった。
お嬢さんは、すぐに歩み寄った。
「お手伝いしてもよろしいですか」
女性が顔を上げる。
困っている、というよりは、計算を中断された顔だった。
「お願いしても?」
「もちろんです。扉、押さえますね」
押すのではなく、支える。
動かすのではなく、道を空ける。
それだけで、女性は小さく頷いた。
その時だった。
「先に行かせてもらうよ」
後ろから、男の声がした。
振り返ると、グラスを片手に持った男性が立っていた。
頬に少し赤みがある。
酔っているのかもしれない。
あるいは、酔っていることにしておきたいだけかもしれない。
「こちらのお客様が先です」
「急いでるんだ。次でいいだろ」
お嬢さんは淡々と言った。
「次の便をご利用ください」
「そんなに時間かかるなら、先に乗せろよ」
「このエレベーターは、車椅子のお客様が優先です」
「そんなに言うなら、あんたが案内してくれ」
男は笑った。
「俺にもエレベーターガールやってくれよ」
その瞬間、空気が少しだけ薄くなった。
車椅子の女性の指が、車輪のリムから離れる。
周囲にいた数人が、こちらを見た。
お嬢さんは、男を見た。
それから、少し考えた。
「いいですよ」
男の笑みが、わずかに広がる。
「ただし、業務用エレベーターでよろしければ」
「業務用?」
「はい。あちらでしたら、厨房にも現場にも直通ですので」
男は、一瞬だけ意味を取りそこねた顔をした。
その隙に、お嬢さんはエレベーターの扉を押さえ、車椅子の女性に目で合図した。
「どうぞ」
女性は滑るように車椅子を進めた。
お嬢さんもすぐに乗り込む。
扉が閉まり始める。
男が、何か言おうと口を開いた。
その背後に、人影が立っていた。
お嬢さんはその姿をエレベーター内の鏡で見た。
そこに映ったのは、男の後ろに立つ彼の姿だった。
いつからそこにいたのかは、わからない。
彼は怒っていなかった。
睨んでもいなかった。
ただ、そこにいた。
まるで、最初からその場所に配置されていた備品のように。
扉が閉まる直前、彼の口元がわずかに動いた。
声は聞こえなかった。
けれど、お嬢さんには何となくわかった。
たぶん、こう言ったのだ。
――現場はこちらです。
エレベーターが静かに下がり始めた。
少しの沈黙のあと、車椅子の女性が息を吐いた。
「慣れていらっしゃるのね」
「そう見えましたか」
「ええ。押し方ではなく、押さないところが」
お嬢さんは少し笑った。
「船に乗っていましたので」
「船?」
「客船です。扉の前と階段の下は、塞がないように教えられました。揺れますから」
「ここは揺れないでしょう」
「人は揺れます」
女性は少しだけ目を細めた。
それから、低く笑った。
「それは、たしかに」
エレベーターは一階に着いた。
扉が開くと、ロビーの明るさが入ってきた。
受付のスタッフがいる。
タクシー乗り場への案内表示もある。
ここまで来れば、人の目も手も多い。
「ありがとうございました」
「タクシー乗り場まで、ご一緒しましょうか」
「大丈夫。ここからは慣れています」
女性はそう言って、車輪に手をかけた。
ただ、その手を止めて、お嬢さんを見上げる。
「でも、あなたは?」
「私ですか」
「すぐ戻るなら、さっきの方が、待っているかもしれないでしょう」
心配してくれているのだとわかって、お嬢さんは少しだけ苦笑した。
「ああ、たぶんもう現場に行っていると思います」
「現場」
「はい。厨房かもしれません」
女性は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「では、私は聞かなかったことにします」
「ありがとうございます」
お嬢さんは軽く会釈をして、エレベーターに戻った。
上の階へ戻る間、鏡に映る自分を見た。
少しだけ頬が赤い。
怒ったからではない。
たぶん、笑いを堪えたからだ。
扉が開く。
さっきの男はいなかった。
代わりに、彼が壁際に立っていた。
グラスも持たず、ただいつものように、何かの点検を終えた顔をしている。
少しだけタバコの香りがした。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「下まで送ったのか」
「ロビーまでね。あの方は大丈夫そうよ」
「ならいい」
お嬢さんは、周囲を一度だけ見た。
「先ほどの方は?」
「ホッとコーナーに連れて行った」
「ホットコーナー?」
聞いたことのある言葉だが、彼の口から出ると違和感があった。
おそらく文脈が違う。
「温かい部屋なの?」
「休憩室だ」
「ホットな休憩室……」
「熱を冷ます部屋だ」
お嬢さんは少し考えた。
「では、あの方は熱源だったのね」
「客だった」
「過去形ね」
「もう違う」
彼は何でもないことのように言った。
お嬢さんは、もう一度だけエレベーターの鏡を思い出した。
男の背後に、静かに立っていた彼の姿。
あれは警備ではない。
給仕でもない。
まして、エレベーターボーイでもない。
たぶん、導線の保守だ。
人が人として通れる場所を守る仕事。
そして、通れなくなったものを、現場へ回す仕事。
「それで、ホッとしてた?」
「誰が」
「その方が」
「水は飲んでた」
「親切ね」
「椅子もあった」
「お席は?」
彼は少しだけ黙った。
「それは俺の管轄じゃない」
お嬢さんは、なるほど、と思った。
椅子は出せる。
水も出せる。
休ませることもできる。
けれど、席を戻すかどうかは、ご婦人の仕事なのだ。




