噂話 図らずしも名付け、あるいは熱を持った噂
「ところで、あのエレベーターの方」
誰かが、グラスの縁に指を添えた。
「ホットコーナーへお連れされたって、どういう意味ですの?」
「三塁だよ」
「……三塁?」
「強い打球が飛んでくる場所だ。あの人、スリーアウトの後でまだ打席に立って、よりによって三塁に打ち込んだんだ」
「まあ。試合は終わっていましたのに?」
「終わってた。しかも三塁手がルースだった」
「それは、捕られますわね」
小さな笑いが起きた。
「でも、先に受けたのはお嬢さんでしょう?」
「受けた、というより、流したんじゃないかしら」
「車椅子の方を?」
「ええ。押したのではなくて、扉を押さえたそうよ」
「まあ」
「お上手ね」
「手を出しすぎないのは、難しいものね」
別の女性が、扇子を閉じた。
「それで、あの方が割り込んだの?」
「割り込んだ上に、エレベーターガールをやるなら、などと」
「まあ」
「言葉を知らない方ね」
「いいえ。言葉を知らないのではなくて、相手を見ていなかったのよ」
「それで、お嬢さんは?」
「少し考えて、いいですよ、と」
「あら」
「ただし、業務用エレベーターでよろしければ。厨房にも現場にも直通ですので、ですって」
今度の沈黙は、笑いより少し長かった。
「……それは、案内ではなく分類ですわね」
「ええ。客用ではない、と」
「でも、お嬢さんは最後まで丁寧でしたのね」
「丁寧に、客席から下げたのよ」
「そこが怖いわ」
「そこがよろしいのではなくて?」
男性のひとりが、咳払いをした。
「いやそれだったら、ホットコーナーはパソコン画面の隅ですよ。触ると裏の機能が開くやつです」
「まあ。ではあの方、触れてはいけない角に触れましたの?」
「そういうことです。しかもログが残る」
「ログ」
「誰が、いつ、どこで、何をしたか」
「まあ。社交界と同じですのね」
また、笑いが起きた。
皆、身に覚えがある。
「キッチンのガスまわりのことも、そう言いますのよ」
今度は、女性陣から手が上がった。
「正確には、その周辺のデッドスペースですけれど」
「あら。やっぱり、とても熱そうね?」
「調理家電コーナーのことも、同じように呼びますわ」
「この場合、お料理は何になるのかしら」
「……炙りものでしょうね」
「ふふふ。ご婦人の舞台ですものね」
「それで結局、ホットコーナーとは何ですの?」
「三塁だろう。強い打球が飛ぶ場所だ」
「違う違う。画面の隅だよ。触ると裏機能が開く」
「キッチンの火のまわり、という説もありますわ」
「まあ。どれも不穏ですこと」
「いや、当のルースが言ってたぞ」
「なんと?」
「ホッとコーナーは休憩室だって。工場現場とかで言うらしい。ホッとするコーナーで、ホッとコーナー」
「……まあ」
「……休憩室」
「ああ。ただの休憩室」
「では、あの方は休憩なさっただけ?」
「そういうことになるな」
「では、なぜ次のお席がなかったのかしら」
そこで、誰もすぐには答えなかった。
「つまり、庶務課案件ですわね」
「庶務課?」
「表の部署では処理できないけれど、警備沙汰にするほどでもない時に、お水と椅子を出すところです」
「まあ、親切」
「ええ。椅子は出たそうですわ」
「では、お席は?」
「そちらは出ませんでしたの」
グラスの音が、ひとつだけ鳴った。
「……というか」
若い男が、ふと眉を寄せる。
「なんで名家のボンボンが、工場現場の休憩所の呼び名なんか知ってるんだ?」
今度は、誰も笑わなかった。
それから、誰かが小さく息を漏らした。
「まあ」
その声は、楽しそうだった。
「そこが一番、ホットですわね」




