さえずりの食卓、あるいはチュートリアル終了
その夜は、最初から少し人数が多かった。
いつものように、誰かの噂が出て、誰かの呼び名が増え、笑いが落ち、それで終わるはずだった。
けれど最近は、その『はず』が少しずつずれてきている。
人が増えた。
新しい顔も混ざるようになった。
古い顔は、前より少しだけ楽しそうにしている。
そして何より、そこで生まれた名が、あとになって別の場でも使われるようになった。
あだ名はもちろんのこと、店の名前に、仕事の名前に、商品の名前に。
時には本のタイトルや、歌詞の一部にもなった。
さすがに子供の名前にまではなっていない。
だが育児日記やアルバムの表紙を飾ったものなら、すでにいくつかある。
ただの立ち話では、もう済まない。
歩き始めた名に首輪をつけるには、鎖を繋ぐ杭が必要だ。
そして、その杭にも名前が必要だった。
最初にそれを口にしたのは、古参の女性のひとりだった。
「こう人が増えると、さすがに名前が要るんじゃない?」
誰かが笑う。
「会に、ってこと?」
「ええ。いつまでも『あの立ち話』では格好がつかないでしょう」
別の女性が、グラスを傾けながら頷いた。
「たしかに。最近は新しい方も見に来るものね」
それに、と続けてお嬢さんを見た。
「名付け上手なお嬢さんも、戻っていらっしゃったわけだし」
お嬢さんは、少しばつが悪そうに指先で頬を掻いた。
「私はご婦人と、まぁ小熊ちゃんくらいしか……」
「それが強すぎるのよ」
「あなたが『ルースのご婦人』を名付けてから、みんな新しい人を紹介しやすくなったのよ」
一人が声を潜める。
「ご婦人のお気に入り候補にいかが?とか私的すぎるでしょう」
「実は私たちも困っていたのよね」
「原石かルースか、一度、見ていただけますか? って聞けるもの」
男衆のひとりが、少し面白がるように言う。
「ダメだったとしても、ちょっと研磨が足りなかったなって、言ってやれるしな」
「そうそう。宝石の見立ても流行ったのよ。例えば、小熊の彼のこと――」
と、少し話題が逸れかけたところを、最初の古参の女性が咳払いで引き戻した。
「では、今夜のテーマは『会の名前』で決定ですわね。みなさま、まずはお気軽にどうぞ」
そこで誰かが、わざと軽く言う。
「呼び名の会、でいいんじゃない?」
「だめね」
「説明でしかないわ」
「もう少し夢が欲しい」
「夢なのかしらこれ」
小さな笑いが起こる。
もうこの時点で、かなり悪趣味だ。
別の女性が試しに言う。
「囁きの席」
「綺麗だけど、少し軽いわね」
「もっと血の気が欲しい」
「あなた、言い方が物騒よ」
男衆の端から威勢の良い声が上がった。
「謝肉祭会議!」
間髪入れず、三人くらいが同時に言った。
「帰りなさい」
「ださい」
「高校じゃないのよ」
男は肩をすくめる。
「意味は合ってるだろう」
「合ってるのが、いちばんたちが悪いのよ」
今度は別の古参が、少し考えるように言った。
「噂の晩餐、は?」
「重いわね」
「悪くはないけど、あまりにそのまま」
「晩餐っていうほど格式ばってもいないでしょう。もっとこう、声だけ先に落ちてくる感じがいいわ」
「鳥の声みたいな?」
「そう。上で何か話してるみたいな」
そこで少しだけ、空気が静かになる。
『鳥』という言葉が、その場の誰かに気に入られたのがわかる。
誰かが続ける。
「カナリアの宴?」
「惜しいわね」
「綺麗だけど、まだ上澄みだわ」
「宴っていうほど派手じゃない」
「鳥笛の舞台」
「啄みの会」
「名選びの巣」
最後のは鳥に囚われすぎだ、と笑いが起こる。
けれど、今度はさっきより少し深い。
場の輪郭に、うっすら触れてしまった感じだ。
少し離れたところで、小熊の彼はその様子を見ていた。
お嬢さんも、その横で静かに立っている。
ご婦人は、今夜は珍しく輪のすぐ外にいた。
ただし何も言わない。
いつもなら、誰かと話しているか、ゆっくり会場を歩いている。
だが今夜は誰がどう置くかだけを、見ているようだ。
まるで、影のように。
男性陣のひとりが、小声で彼に言う。
「お前、何か出さないのか」
「出さない」
「こういう時に妙にいいのを出すだろ」
「嫌な予感しかしない」
「いつもだろ」
「今日は特にだ」
お嬢さんが、そのやり取りを聞いているのかいないのか、ふと口を開いた。
「鳥って、人間と目のつくりが少し違うでしょう」
場が、自然にそちらへ向く。
強く遮るような声ではない。
でも、ちゃんと通る。
「だから、私たちには見えない距離まで、見えていることがあるんです」
誰かが首を傾げる。
「鳥のお話?」
お嬢さんは少しだけ笑う。
「ええ。姿は見えなくても、声だけは聞こえる。ああいうのって、見えているもの同士の会話なんだろうなって、たまに思うんです」
古参の何人かが、そこで静かになる。
新参は、ただ綺麗な話として聞いている。
男衆は、深くは考えない。
けれど耳は離さない。
お嬢さんは、その静けさを崩さずに、続きを置く。
「私たちを見下ろして、美しい鳴き声で、いったい何を話しているんでしょうね。あの可憐な肉食の生き物たちは……」
ほんの少しだけ、間があった。
「だから――『さえずりの食卓』というのは、いかがですか?」
落ちてきた。
その場が、一瞬だけほんとうに黙る。
誰かが先に、その名前の中身を測る。
別の誰かが、声に出した時の滑りを確かめる。
男衆の何人かは、悔しそうに口元を歪めた。
けれど、誰も茶化さなかった。
彼は、その響きに少しだけ息を止める。
ご婦人だけが、静かに目を細めていた。
お嬢さんは、その沈黙をやわらげるみたいに肩をすくめる。
「あはは、ちょっと物騒でしたね。宮沢賢治を久しぶりに読んで、影響されちゃったみたいです」
その言い訳に、何人かが小さく笑う。
新参はそこで安心する。
古参は、安心したふりをする。
ご婦人はもちろん、両方わかっている顔だ。
「可愛らしいのに、少し怖いわね」
別の誰かが頷く。
「ええ。『さえずり』だけなら軽すぎるし、『食卓』だけだと露骨すぎる。そのあいだなのがいいのね」
男衆のひとりが、半分悔しそうに言う。
「くそ、ちゃんと残るやつだな」
「でしょう?」
「そうなると、この場で名前を置く人のことも欲しくなるわね」
「欲しくなる?」
「ええ。今夜のあのお嬢さんみたいに、ぽんと名前を落とす人」
男性陣が軽い調子で言う。
「命名者?」
一拍で却下される。
「固い」
「役所みたい」
「ロマンが足りない」
「じゃあ何だよ」
さっきから鳥の話を面白がっていた女性が、指先でグラスの縁をなぞりながら言った。
「名付け鳥、とか」
「あら」
「まあ」
今度の沈黙は短い。
すぐに何人かが、口の中でその音を試す。
「名付け鳥。悪くないわね」
「ええ。さえずる側の役目が見える」
「それ、誰がさえずったの?って聞けるものね」
「まあ、今夜はお嬢さんが名付け鳥なのね」
くすくすと笑いが広がる。
お嬢さんは少しだけ困ったように笑う。
「鳥ですか」
ご婦人が、そこへ静かに加わった。
「いいじゃない。少なくとも、鈍い嘴では務まらないでしょうしね」
そして、また別の古参が言う。
「でしたら、広める人も別にいるわね」
「広める人?」
「ええ。名前そのものを置く人と、それを別の場へ運ぶ人は少し違うでしょう?」
「ああ、たしかに」
「それは何かしら」
男衆がふざけて言う。
「伝書鳩」
「ちょっと安いわね」
「でも機能は合ってる」
「もう少し上品にできないの?」
誰かが、ふと思い出したように言った。
「地鳴き、というのがあるでしょう」
「地鳴き?」
「ええ。さえずりみたいに華やかではないけれど、鳥が普段、仲間同士で交わす声」
「さえずりが歌なら、地鳴きは鳥の噂話なのね」
古参の女性が、ゆっくり頷く。
「なら、地鳴き鳥ね。名付けられたものを、日々の会話へ運ぶ人」
「あら。それは私たちの大半じゃない?」
「そうよ。だから怖いのよ」
そこへ別の古参が真面目に口を挟む。
「そうすると、この場にいる人そのものにも名前が要るわね」
「まだ増えるの?」
「だって、ここでは客が客を連れてくるでしょう。誰かの顔で席につき、いずれ自分も誰かの顔になる……けれど皿と無縁ではいられない」
「それは役というより、身分ね」
男のひとりが笑う。
「食う側か」
「言い方」
「でも間違ってはいないわね」
少し考えてから、最初の女性が言う。
「食客、かしら」
「ずいぶん古風ね」
「でも客は客でしょう。食卓に席を持つ客」
「名付けをしなくても?」
「もちろん。仕事の話だけして帰る人のほうが多いもの」
「でも義務は残る」
「怪物でも貴族の振る舞いを……」
名前が名前を呼んで、自然に増えていく。
そして規律も、その人に出される一品も。
ご婦人は、その流れを静かに眺めていた。
何も急かせない。
男性陣のひとりが、ふと彼を振り返る。
「お前は何だ?」
お嬢さんの隣に立つお前は――。
「何がだ」
「この食卓で」
ご婦人の炙り出し舞台で――。
「俺まで役を振るな」
「でも、時々いるだろ。黙って盤面だけ見てるやつ」
今までもそうだった――。
「たまに最後だけ返すやつ」
名前が必要だ――多分。
「しかも自分が皿に乗ると少し弱い」
「やめろ」
笑いが起きる。
でも、その笑いのあとで、お嬢さんがさらっと言った。
「見張り熊、とかどうですか?」
男衆が吹き出した。
「なかなかひどいな」
「でも合ってる」
「熊からは卒業できないらしいぞ」
「勇者よりはいいんじゃないか?」
彼はすぐに嫌そうな顔をした。
「却下だ」
「どうしてよ」
「雑だ」
「あなたに言われたくないのだけど」
ご婦人が、いかにも楽しそうに微笑む。
「見張り熊。悪くはないけれど、少しそのままね」
「そのままなわけあるか」
「そうね……」
彼の抗議の声など当然のように無視して、顎に人差し指を添え、ご婦人は考えるそぶり。
何度かそこをノックした後、わざと軽く言う。
「森番、くらいが品があるかしら」
視線が彼に集まる。
「あら」
「まあ」
「たしかに」
彼はそれにも不服そうだ。
「勝手に森へ入れるな」
お嬢さんが横で言う。
「でも、もともと熊でしょう?」
「熊なのはもういい。森まで増やすな」
「森は最初からあるでしょう。鳥がいるんだから」
やりとりで、場にまた小さく笑いが落ちる。
連想が、もう文化になり始めている。
最初に名前を出した古参が、感心したように言う。
「いい名前って、本当に次の言葉を連れてくるのね」
「ええ」
「さえずりの食卓、から、名付け鳥、地鳴き鳥、食客、森番……」
「枝が自然に伸びるわ」
「伸びた枝には、また鳥が来るわね」
「だから残るのよ」
ご婦人が最後に、ゆっくりと言った。
「ええ。無理なく増えていく名前は、場を持つもの。そういう言葉だけが、あとで本当に流通するの」
その言葉に、何人かが静かに頷く。
もうこの遊びは、ただの思いつきではなくなっていた。
お嬢さんはその流れを見て、軽く肩をすくめる。
「じゃあ今夜は、ちゃんと育ったってことですね」
ご婦人は、満足そうに微笑む。
「ええ。いい食卓になったわ」
彼だけが、ほんとうに小さくため息をついた。
「……最悪だ」
男衆がすぐに拾う。
「森番が何か言ってるぞ」
「だからそれを流通させるな」
「もう遅いだろ」
「遅くない」
「いや、たぶん遅い」
お嬢さんは、そのやり取りを聞きながら、楽しそうに言う。
「大丈夫よ。今日はまだ、名付け鳥のほうが強いから」
場に置かれた名前は、もう一人で歩き始めている。
そして今夜は、自分の歩き方まで決まってしまったらしい。




