ガールズトーク、あるいは割材の話
「彼の『花のお母様』は、どんな方だった?」
ご婦人がお嬢さんに聞いた。
お嬢さんはあの時のテーブルの下で飲み込んだ言葉を思い返すものの、皿に乗せるのはやめておいた。
おそらく、ご婦人も望んではいない。
彼を傷つけるかもしれない名付けなんて……。
私の名付けは彼の父親の名も同時に縛る。
縛られるのは彼だけど。
夜、気持ちが悪くなってしまって、背中を丸める様子を思い出す。
背骨の凹凸と、擦り付けられる額と鼻先。
湿った吐息は、言葉にならない時もある。
落ち着いているように見えても、一人で喫茶店へ降りることはなかった。
外へと繋がる扉のドアノブ。
それを、じっと見つめる眼差し。
もうこれ以上は必要ない、と思う。
そして何より『花のお母様』なんて、そんなピッタリの名付けの後に、出していいものではなかった。
そんな美しい名付けをされてしまったら、彼を産んだ、もう一人のお母さんの名前も決まってしまう。
しかも、そちらの名前には、ほんの少しだけ余白が残っている。
候補は二つ。
時が来たら、彼に話してみよう。
だから今は、『花のお母様』の最初の印象だけ。
上澄みだけで十分。
「ソメイヨシノみたいな方でした」
お嬢さんがそう言うと、ご婦人はしばらく黙った。
接ぎ木。
クローン。
突然変異。
自分の根ではない。
増え方を選べず、一斉に老い、人間の都合で植えられた木。
全て同じ遺伝子の花。
ご婦人には、それだけで通じたらしい。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……そう。咲く場所を選べなかったのね」
「あなた、怒ってないのね」
「いいえ。でも桜だったら許せますし」
「というと?」
「一瞬で散るので」
街を歩いていると、切り倒されたソメイヨシノを見かける。
外からの見た目は太くて立派な幹。
けれど大きな空洞が口を開けている。
倒れた木が観光客を押しつぶした事故も、記憶に新しかった。
「私は梅の方が好きです」
実が食べられますし、枝も鋭い。
バラ科なのだから、それくらいでないと。
「あなた、花にも食卓と刃を求めるのね」
「料理人ですし」
いつもの答えに、ご婦人が笑った。
「ご婦人は?」
あの名付けは彼のためのものだ。
上澄みの話は違う。
底の深さは、人によって違う。
「昔は『鏡の額縁』みたいな方だと思っていたわ」
「鏡ではなく?」
「ええ。鏡なら、何かを映せるもの」
ご婦人はそこで、目を伏せた。
「でもこの話は、小熊くんにはしないでちょうだい」
「言いません」
「あの子は鏡を見るでしょう」
「……ええ」
「なら十分よ」
そういえば、とご婦人が何かを思い出す。
話の温度が変わる。
熱い方に。
「密造酒が出来上がったと聞いたのだけど」
「ふふふ。スピリタス梅酒です!」
「それは……危険ね」
アルコール度数九十七パーセント。
消防法上の第四類危険物。
酒という名の燃料。
お嬢さんは、少しだけ口を尖らせる。
「さすがに、度数は落ち着いていますよ。でも小熊ちゃんには、お客に味見をしてもらえ。飲み方もしっかり確認しろって言われてます」
「まあ。でもやっぱり、おすすめの飲み方があるのでしょう?」
「はい! 梅酒のワイン割りです!!」
ご婦人は一瞬、その言葉の意味を考え、そして声を上げて笑った。
「やっぱり危険物じゃない」
「ワインの梅酒割りもできますよ」
「違いはあるのかしら?」
「うーん。グラスが違いますね」
「まあ」
「足があるか、無いか、気分で選んでくださいな」
「カクテルの名前は決めたの?」
「『吸血鬼のサングリア』です」
お嬢さんがニッと歯を見せて笑った。
「血が恋しくなったら、いらしてくださいね」
ご婦人は「もちろん」と楽しそうに頷いた。




