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帰宅後 あるいは怪物にはなれなかった話

 カランコロン

 というには少しザラついた音が鳴りやんで、ようやく外の空気が切れた。

 喫茶店somaが現在の二人の住処。

 カウンターに四人席が二つの小さな古い店。

 店の奥にライトアップピアノと階段。

 上階は住居スペースと仕事場。

 まだ初開店前だが、リビングキッチンとしてはすでに稼働している。


「看板メニューを作ってあげる」


 二階で着替えた後、彼女はすぐに準備にかかる。


 彼は返事をしない。

 しないまま、カウンター席へ座る。

 テーブル席の方が座り心地はいいが、ここであれば彼女の手捌きが見れるし、話せる。


 今日、胸に刺していた花を用意してあった瓶に挿す。

 花瓶ではない。

 日本酒のワンカップの瓶。

 鮎が清流を泳ぐ様が白く印字されていて、涼やかだ。

 花の茎が短いので、このサイズ感がちょうどいい。

 それを整えて、ようやく少しだけ人間に戻る。


「ルースではあるんだろうな」


 と、やがて彼がぼそっと言う。


「自分で言うのね」

「お前が言ったんだろ」

「ご婦人に、ね」

「意味は同じだ」


 彼女はそこで否定しない。

 卵を割って、箸で静かに溶く。


「で、何のルースだと思うの?」


 彼はまた黙る。

 今日は黙ってばかりだ。

 でもその黙り方は、前よりはマシだった。

 逃げているというより、ちゃんと考えている沈黙。


「……加工前の何か」


 彼女は思わず笑う。


「雑ね」

「雑でいい。どうせ俺が名前をつけると、ろくなことにならない」

「それはちょっとそう」


 彼はそこで、わずかに顔を上げる。


「お前は?」

「私は?」

「俺を何だと思ってる」


 彼女はフライパンの火加減を見ながら答えた。


「今はまだ、小熊ちゃん」

「またそれか」

「でも前よりは、少し自分で食べられるようになってる」


 彼は小さく鼻で息を吐いた。


「育成記録みたいに言うな」

「そういう側面もあるでしょう?」

「……否定はしない」


 薄く引かれた油の上を、卵液が揺れ固まっていく。

 卵の焼ける匂いは薄いが、タンパク質の匂いなのはわかる。

 それだけで、彼の頭の中の社交の残響が少し遠のく。


 しばらくして、彼が言った。


「……あの人、俺を作れると思ってたんだろうな」


 彼女は否定しない。


「思ってたでしょうね」

「怪物に」

「ええ」

「なれたと思うか」


 彼女は今度は少しだけ考えてから答えた。


「なれたでしょうね。でも長持ちはしなかったと思う」

「どうして」

「あなた、自分を使うのが下手だから。怪物になるなら、もっと自分を道具として扱えないと」


 彼はそこで言葉に詰まる。

 その評価は、妙に納得できた。


「じゃあ、今は?」

「今はまだ、人間寄りの小熊」

「その言い方、あまり救われないな」

「でも人間でしょう?」


 彼はしばらく天井を見ていた。

 それから静かに言う。


「……まあ」


 彼女はそこで、固まった卵をパンに乗せ、重しを乗せ少しプレス。

 切り分けた後、器をカウンターに置きながら彼女が言う。


「はい。厚焼き卵サンド。一つは和風で、もう一つは洋風。私も食べるから」


 出来立てのサンドイッチからは湯気が出ていた。

 和風の卵は硬めで四当分。

 洋風は柔らかめで、パセリとケチャップの色が見える。

 これの切り分けは二当分。

 彼はそれを見て、ようやく表情をゆるめる。


「助かる」

「そう」


 とりあえず和風から。


「……うまい」


 彼女が隣に座る。

 もう一口食べる。

 和風だから甘さ控えめ。

 出汁の香りが湯気で際立つ。


 その様子を見て、彼女は声をやわらげた。


「ねえ」

「何だ」

「ご婦人のこと、怖かった?」

「怖かった」

「今も?」

「少し」

「でも敵じゃない」

「それはわかってる」

「なら十分よ」


 彼はそこでようやく、隣の彼女を見た。

 彼女の頬に赤いケチャップがついてる。


「お前、最初からそう思ってたのか」

「途中からね」

「いつ」

「『死肉は料理に使えない』ってあたり」


 彼は思わず顔をしかめる。

 あの時のことは、まだ整理できてない。


「そこなのか」

「ええ。あの人、自分で線を持ってるもの。そういう人はまだ扱いやすい」


 彼はまた少しだけ、呆然とする。


「……やっぱりお前の基準、怖いな」


 彼女は肩をすくめる。


「あなたが言う?」


 彼は彼女の頬を拭って答えた。


「この家の中では、俺のほうがたぶん普通だ」


 彼女が声を立てて笑う。


「今日はそうかもね」


 その一言で、今日初めて彼も少しだけ笑う。

 笑ったあと、自分ももう一つの卵サンドに手を伸ばす。

 お腹が落ち着いてくると、頭の中のざわつきも、ようやく静かになっていく。


 彼女はその様子を見ながら、静かに思う。

 ご婦人は敵じゃない。

 むしろ、彼には必要な人だ。

 でも――今、こうして料理を食べさせる役は、自分でよかった。


 彼は何も返さず、ただ食べる。

 嚥下するたびに、空腹の小熊ちゃん、という言葉が少しずつ現実へ沈んでいく。

 不本意だけど、たぶんそれはかなり本質だった。

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