十二幕 一文字、あるいは花
ちょうどその時、彼と彼女は窓枠の細かなガラス処理を終え、脱出の手筈を整えたところだった。
ドローンが破壊された時は、チラリとそちらを見ただけだったが、流石にバッテリーの爆発音を聞き、頭は伏せる。
ああやって都合の悪い物を処理してきたんだな、とドローンを暖炉に焚べた男――ネイビースーツの男を見て、彼は思った。
食卓で遺書の存在の話になった時、カトラリーを鳴らした男でもあった。
と同時に少し、ほんの少しだけ安堵した。
もし遺書が存在していて、研究所に渡っていたら、箱の材料になっていたかもしれなかったからだ。
続けて、あの研究所のメガネの女はちゃんと逃げたかな、と心配になる。
壁に移動した時に、女の鞄に盗聴器兼GPSを仕込んでおいた。
見た目はペンダントトップだから、発見されても、すぐには破壊されない。
と思いたい。
その安堵と心配は、崩壊の音でかき消えた。
増設された壁が木目に沿って割れ、テーブルがそこへ食い込んでいる。
柱の一部が傾き、元々あった古い壁も共倒れるように崩れ、出口を塞いだ。
そしてその向こう――蓋のない箱が、その中身を曝け出す。
火が走ったのも同時だったが、彼の目は粉塵の向こうに引き寄せられ、そして硬直した。
崩れた壁に設置されていたのだろう、大きなラッパのような聴診器のような形の設備が見えた。
さらに奥で子供サイズのカプセルが並び、中で橙色の光が灯っている。
空気が引き寄せられる感覚と、熱を解放する時の膨張する歪み。
目には見えない。
けれど何かが震えている。
彼の脳裏に以前アンティーク家電の仕事で開けた、真空管ラジオの中身が浮かぶ。
ならば音の発生源は別にあり、それをわざわざ電波に乗せて、ここでキャッチしているのかもしれない。
直繋ぎではダメ。
受信させた方が『らしい音』がする、とラジオの持ち主は言っていた。
自分には、よくわからなかった。
けれど楽器屋の空気は好きだった。
真空管アンプの熱と香りが、今、別の物に書き換えられていく。
嫌だ、と思った。
見たくない、と思ったのは珍しかった。
目を閉じる。
瞼があるから。
たとえ動けなくても。
けれど耳にはそれはない。
腕が痛い。
塞げない。
あの音がした。
あの、うるさくて、気持ちの悪い音。
楽しい時に、夢中な時に、気持ちのいい時に、邪魔ばかりしてくる音。
けれど改めて耳を澄ますと、不思議と聞きたくない、とは感じない。
何がそこまで嫌だったんだろう、と彼は考えた。
考えて、考えて、考えて、わからなかった。
ただ、そのノイズを聞いていると、周波数を合わせたくなる。
もしくはアンテナの位置を変えるか、改造するか。
そんな方法はないのに。
あるのは音量のツマミだけ。
だから蓋を閉めるか、壊すしかなかった。
ごく稀に、おいで、と聞こえた。
でも、俺は、うるさい、と返した。
なぜかはわからない。
ただ返し続けていたら、いつの間にか聞こえなくなった。
その声に応じていたら、どうなっていたんだろう。
どこへ連れて行かれて、どこに帰れてたんだろうか。
「火事だ!!」
彼の思考は、すぐ隣から聞こえたその声で途切れた。
悲鳴ではない。
身体だけではない、空間そのものに響かせるための発声。
船乗りの声。
足の下に波打つ異界から、船と人間を守るための声だった。
目を開いて、頭を振る。
酸素不足か出血か、はたまた低血糖か。
吐き気がする。
なんとか顔を上げると、非常口の瓦礫の向こう側で、こちらを見る顔と目があった。
彼の視線に気がついて眉を寄せたが、彼女の声を受け、すぐに背を向ける。
見覚えがあった。
そして次の瞬間、けたたましいベルの音が屋敷に響く。
彼女を見る。
手のひらをこちらに向けて口元を覆い、軽く咳をしていた。
指先が血でひどく汚れている。
それでも目があって頷く様子は力強く、怪我はしていないようだ。
ならば、もう逃げるだけだ。
消火の道具が手元にないのに、留まるのは流石に無謀だった。
逃げられる人間から、逃げる。
避難の基本だ。
だが基本というのは、想定外が発生した時に、実行しにくいという難点があった。
そしてそれは条件を揃えていた。
「奥様!」
と瓦礫に足を半分埋めた状態で叫ぶのは、彼と彼女を屋敷の前で出迎えた初老の男だ。
二人は無意識に、その姿を探してしまう。
そして見つけた。
薄荷色の着物の袖が、熱風に揺れている。
片足を少し引きずっている。
足袋が汚れていた。
すっきりと平たく結ばれていた貝の口の帯も、歪んでいる。
そのどれも、その足取りを止める理由にはなっていない。
ゆらゆらと、炎の向こう側へ進む。
進もうとする。
唇の端に髪の毛が張り付いて、それが頬の動きに合わせて揺れる。
何かを呼びながら、呼ばれている。
「先に逃げろ!」
彼は彼女を肩で押しやって、返事も待たずに走る。
ふらつきながら、転びかけながらも、手を伸ばす。
なんとか指先が帯を引っ掛けたが、反射的に利き手を使ってしまっていた。
引き寄せようとすると、傷口が激しく痛んだ。
それでも離すわけにはいかなかった。
炎の上で、着物の袖が炙られ、踊る。
離して、と母が暴れる。
なんとか脇の下に腕を入れるが、振り回された腕が炎を煽る。
暑い。
細かな火粉が跳ねて、手の甲に突き刺さる。
流石に助けを求めて、周囲を見回すが、年配の執事の男はまだ瓦礫に足をとられ、動けずにいる。
そこへ駆け寄る影が見えたが、救出にはもう少し時間がかかるだろう。
ネイビースーツの男は呆然と炎を見ている。
声をかけると、驚いた様子で肩を跳ね上げたが、彼だと気づくと後ずさる。
これ以上刺激するのは良くないかもしれない。
腕に衝撃が走る。
振り回された肘が、傷口を叩く。
思わず、母さん、と叫ぶ。
それ以外に、呼びかける名前を知らない。
もちろん本名は知っている。
でもそれは違う。
すっと母の動きが止まった。
ゆっくりと首を回して、彼の顔を見る。
そして――名前を呼ばれた。
一文字違いの兄の名前を――。
それは警報器の音の中でも、はっきりと聞こえた。
違う、と口に出してしまった。
同時に腑に落ちる。
呼ばれる名前が違うから、気に入らなかったのだ。
家も、家族も、箱も、何もかも。
きっと自分は怖い顔をしていたのだろう。
母の顔に怯えが浮かぶ。
化け物、とその髪の毛を喰んだ唇が、こちらを名付ける。
そりゃそうだ。
心当たりがありすぎる。
仕方ない。
どうしようもない。
だから、そうか、と言った。
力が抜ける。
するり、と腕から着物が逃げていく。
手を伸ばす気力は、もう無かった。
傷が痛かった。
しかし一歩下がった彼の横で、それは構えられた。
安全ピンが床に落下する音は、白い粉末が噴出される音で聞こえなかった。
彼女の消火器捌きは見事だった。
母が驚いた声をあげたが、彼女は冷静だ。
慎重に着物に触れそうな炎を消火剤で抑えていく。
炎を直接叩くだけではない。
その延焼予定地にも先回りして、白い消火剤をコーティングしていく。
特に食卓周りは念入りに。
暖炉の周りも抜かりない。
しかし火種そのものは、まだ暖炉の中で燻っている。
「あれは無理!」
彼女が暖炉の中でスパークするリチウム電池を見て、匙ではなく、空になった消火器を投げ捨てる。
投げ捨てた先には、あのネイビースーツの男がいた。
消火器が膝に当たったようで、足をとられて転んでいる。
消火剤に足を滑らせつつも立ち上がり、それでも非常口へ向かう。
彼女はその姿を一瞥だけして、膝をついた彼の肩を掴む。
もちろん怪我をしていない方。
「立って!私じゃ、あなたを運べない!!」
警報器の音に負けないように、耳元で叫ぶ。
帰ろう、と少し頬を叩くと、ぼんやりとしていた彼の目が、少し輪郭を取り戻した。
「帰る」
唇がその形に動いて、咳き込みながら立ち上がる。
「消防がもうすぐきます!早く避難してください!!」
そう声を張り上げながら駆けつけたのは、顔合わせの招待状を社交場に持ってきた使者の男だ。
こちらを見ているようで、見ていない。
あくまで避難誘導をしているスタッフの立場を、貫き通すつもりだ。
真っ先に白い床に座り込んだ、雇い主の傍に膝をつく。
「消火器ありがとう」
瓦礫越しに廊下にあった備品を、彼女に渡したのは使者だった。
警報器を作動させたのも。
「消火ご協力、ありがとうございます」
目も合わせず、棒読で言うセリフが逆にユーモラスで、彼が少し笑う。
笑ったら、口が軽くなる。
だから、聞いた。
「人工地震の噂話を知っているか?」
使者の動きがピタリ、と止まった。
明治時代に建てられた屋敷。
そこへ組み込まれた、モスキート音発生装置。
そしてどこかへ続いている地下トンネル。
修羅場の末に崩れた壁と、火種を撒き散らし続ける暖炉。
二人と使者の間に、花瓶が転がってきた。
使者は思う――なんで今頃、転がってきたんだ?さっきまで部屋の隅にあっただろう……。
彼女は思う――ファミレスでよく見る強化プラスチックグラスと同じ素材ね。観光客が割らないように……。
彼は思う――花が綺麗だな。種類はよくわからないが……。
彼が無意識に、そこにまだ残った一本を引き抜いて、胸元に挿す。
血まみれ、ソースまみれで、煙の匂いも十分にまとった。
焦げて穴も空いたし、しかも消火剤のおまけつき。
それなのに、花だけは折れていなかった。
その姿に彼女が笑って、彼の手を引く。
「そういうのは、先に言っていただきたかったですね!!」
その悲鳴を背中に受けながら、二人は窓へと走った。




