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十幕 枠、あるいは幸運

 彼に名前を呼ばれ、彼女はそちらへ駆け寄る。

 もちろん、椅子を持って。


 二人で窓に張り付く。


 荒く吐いた息がガラスを曇らせる。


 結露した窓ガラスの向こうで、雪が少し舞い始めていた。

 木枠が濡れて、埃と混ざって黒い水滴になって落ちる。


 彼が窓のロックと木枠、レールを指でなぞって舌打ちをした。


「固定されてる」


 振り返って、非常口の緑色のライトを探す。

 今は敵戦力の入り口と化しているのが見えた。


「観光客が危険行動しないようにね」


 言いながら彼女が窓から距離を取り、椅子を構える。


「いいガラスだ」


 彼が制止した。


 木製の椅子では負ける。

 人間相手の方が有効活用できるだろう。


 次に彼は回収していた警棒のグリップを見る。

 正確にはグリップエンドを。


 そこが平らなゴム製なのを確認して、もう一度、舌打ち。

 なぜ中途半端に法律を守るのか。


「これは?」


 彼女がポケットからフォークを取り出し、彼に渡す。

 フォークを武器として使うなら、彼の方がいい。


「悪くない」


 言いながらガラスを支える木枠の隙間に、それを差し込んだ。


 ある程度、入ったところで、手前に引けば割れるはずだ。

 少なくとも、ガラスに亀裂くらいは入る。

 テコの原理を使った破壊方法だった。


 この技はガラスの種類によっては使えない。

 しかし古い木枠が、そのガラスに対応しているとは限らない。


 通常の強化ガラスであれば可能性はあった。


 ただフォークの柄は、そういった用途に設計されてはいない。

 力を入れるために添えた指が滑る。


 それでも押し込む。


 軋む音がした。

 もう少し。


 そう息を吐いたところで、力を受けていた抵抗が消えた。


 勢い余って、額を打つ。

 足元に落ちた木片を見て、痛みよりも驚きが優った。


 木枠がフォークに負けた瞬間だった。


 彼はもう一度だけ、窓の外に目をやる。

 視線を横、そして縦に巡らせる。


 窓の外の庭は狭い。

 そして空は高い。

 いや、そう感じるだけだ。


 木々の枝の向こうにコンクリートの壁が見えた。

 屋敷をマンションが囲っている。

 ナチュラルに化粧をされているが、それでもそれは石の壁だ。


 こんなに近かっただろうか。


 背後で彼女が息をのむ気配。

 解っている。

 次が、来た。


「そっちに入ってろ!」


 彼が窓のもう一方で束ねられたカーテンを指差す。

 防寒のためか、はたまた部屋の天井を高く見せるためか、床すれすれまで垂れたそれが、重く揺れている。


 彼女は一瞬だけ迷う。


「いけ!」


 彼はもうそちらを見ずに言い、すぐ隣のガラスの木枠に、先ほどと同じようにフォークを突き刺す。


 ただし今度は明確に、木枠を外すために。

 コツはもう掴んでいた。

 木片が床に転がる。


 視界の端で、彼女が身を屈めて、カーテンに包まるのを確認して、彼は次の処理に移る。

 もう一つは外しておく必要がある。


 ガラスを支える木枠は古い。

 いくらガラスが新しく強くとも、支えるそれが脆ければ、一部が破損していれば、崩壊の引き金にはなる。


 しかし次の瞬間、ガラスの反射越しに、振りかざされた警棒が見え、彼は手を止める。


 振り向く余裕はない。

 頭を下げ、膝を折ってやや斜めにかわす。


 その一撃は空を切り、窓ガラスにあたり、跳ね返される。


 彼は木枠にかけた指で、窓そのものがたわむのを感じたが、それだけだ。

 やはり割れはしない。


 背中に重み。

 首に腕が巻き付く。


 締め上げられ、のけ反り、もがく。


 逆手に持っていたフォークが相手の体に食い込む。

 その手応えはあったが、抜く時のものはなかった。


 汗とそれ以外で滑った指で、首にかかる腕に爪を立てる。


 耳元で歯を食いしばる音が聞こえた。

 こちらは口を大きく開けて喘ぐが、空気は入ってこない。


 視界の周辺が、暗く落ち始める。

 音が後ろに引き伸ばされ、遠のく。


 しかし遠くなれば、近づくものもある。


 しかも急速に。


 その空気を切り裂く音は、意識よりも早く、彼に危機対応を要求し、実行させた。


 彼が足を跳ね上げる。

 首がさらに締まるが、苦痛は後回しになった。


 そして窓枠を蹴るのと同時、ガラスと木枠が外側から押され、室内側に膨らんだ。




 屋敷内で乱闘が発生したころ。


 大型ショッピングセンターの立体駐車場のその屋上。

 一台のワゴン車の天井ルーフボックス内で、その3機は指令を受け取った。


 離陸して、待機しろ。


 もちろんその指令の中には、

 ルーフボックスの蓋を開けろ

 プロペラを回せ

 カメラ、センサーは問題ないか

 周囲の状況を確認しろ

 障害物からは距離を取れ

 一機ずつ発進しろ

 だとか細々としたタスクはあったが、三機はそつなくこなした。


 最初の二機は四枚のプロペラを搭載している。

 垂直に離陸。


 最後の一機は、離陸こそ垂直だったが、すぐに身を翻して滑るように加速。

 他の二機をあっという間に追い越した。


「すごい!」

「かっこいい!」

「ラジコン?」

「ドローンっていうんだよ」

「飛行機みたいなのいる!」

「お母さん、見て!!」


 子供達の声援を受けて、三機はそうやって、たしかに飛び立った。


 呼ばれた母親はスマホでそれを録画し始めた。


 流石に車に駆け寄ろうとする子供は止めたものの、少し離れた金網越しにそれを追う。


「確かにF-22ラプターみたいなの、いるわね」


 お母さんも、だいぶん好きだった。


 小さな屋敷がある。

 木々に囲まれていて、あまり存在を意識したことはなかったが、冬のこの日は葉が落ちていて、よく見えた。


 可愛い山荘。

 小さなお庭。

 そこへ影を落とす、無骨なボディーと羽音。

 ホバリングする二機の間を縫うように、鳥のようなその機体が舞う。


 スマホの画面を拡大して、その姿を確認する。


 羽の中にプロペラが内蔵されているから、やはり知っている戦闘機とは違う。

 そして何よりキャタピラがついていた。


 驚く。

 そして、ときめく。

 アンバランスで不器用そう。

 だが、そこがいい、と頷いた。


 子供達とドローンを見下ろす。


「ねぇ、どうして一つだけ形が違うの?」

「かっこいいからでしょう」

「どうして変なタイヤがついてるの?」

「床下とかに入りたいんじゃないかな」

「どうして飛行機だけ、ぐるぐる回ってるの?」

「きっと他のヘリコプターよりプロペラが少ないから、空中で止まるの、苦手なのよ」


 そして得意げに言った。


「あの飛び方を、エンドレスエイトっていうのよ」


 子供達が尊敬の眼差しで、お母さんを見上げる。


「強そう!」

「僕もやりたい!」

「いいわよ」


 お母さんは、夢とロマンと機能と装備に理解があった。


「でもまずは自転車で練習ね」


 お母さんは大人だった。


 しかも過積載というものが、悲惨な運命を辿ることも理解している大人だった。

 大国しかり、首都構想しかり、研究しかり、人生しかり、恋愛しかり。


 もちろん自転車操業にならざるを得ない時があるのも知っている。

 この子達の人生にもあるかもしれない。


 だからこそ8の字走行の練習はしておくべきだった。

 操縦の基本だ。


 それを身体で覚えさせる。

 お母さんの教育方針だった。


 雪がちらつき始めた。


 子供達の背を押して、お母さんが車に戻る。


 あまり雪に慣れてないから、安全運転しないとね、などと考えながら、運転席のドアを開ける。


 その手が、ふと、止まる。

 なぜだかわからない。

 けれどロマンに理由などいらない。


「グッドラック、メビウス」


 見事な敬礼だった。




 そんな人気ナンバーワンのエース機が特別指令を受けとったのは、この直後だった。


 日本語に訳するとたった二文字。


「こい」


 圧縮言語を解凍する。


 どこへ?

 俺のところ。


 いつ?

 今すぐ。


 どうやって?

 飛んで。


 誰と?

 他の二機と。


 順番は?

 お前が先頭。


 速度は?

 最速。


 進路は?

 最短。


 はーい!


 上体を倒し、急降下した。


 降下して、降下して、降下して、ガラスの壁を認識した時には、その挙動は落下に変わっていた。


 その尖った嘴が、木枠を押し込む。

 枠から外れたガラスが、機体にぶつかる。

 プロペラに破片が巻き込まれ、羽の一部が損壊する。


 しかし、速度も力も落ちない。

 激しい揺れとノイズの後、衝撃と共に着陸した。


 キャタピラが柔らかい何かを踏んでいたが、それを感じる感覚器官はなかった。

 何やら液体を浴びていることも。




 ドローンが自分の右手に向かって、いや突っ込んでくるのはわかっていた。

 指令を出したスマートリングが、人差し指にあるからだ。


 窓枠を蹴った足で、そのまま自分と後ろの男を押しやりつつ、思い切り身体を捻る。

 右手を伸ばし、可能な限り顔から遠ざける。


 この時にはドローンは減速不能に陥っていたし、その通知が届いてもいたが、彼にはそれを正常に運用するための余裕が、足りていなかった。


 全く、足りていなかった。


 具体的には酸素と時間だ。


 その二つが足りていたら、指令はもっと丁寧にできたし、リングを窓枠に設置することもできた。


 そうして自分は距離をとる。

 そういったことも可能だった。


 だが、足りなかった。

 それどころか何もかもが、急速に失われつつあった。


 ドローンが窓枠を射抜きつつ、ガラス板と木片をまとって飛び込んでくる。


 そして激突した。


 彼の腕をキャタピラで押しつぶし、破損した翼でスーツの肩口を切り裂き、剥き出しになったプロペラで皮膚と肉を巻き込む。


 強く吸い込まれる感覚と、引きちぎられる衝撃。

 啄まれる痛みは、こういうものかもしれなかった。

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