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九幕 剣山、あるいは宣言

 食堂の扉が音を立てて開いた瞬間、彼が彼女の背を押した。

 必要はなかったけれど、大きく息を吸い込んで、彼女はテーブルクロスを掻き分け、その下へ潜った。


 クロスの裾が揺れる。

 その向こうで、たくさんの靴が向かってくるのが見えた。


 彼はもう動いている。

 靴のデザインを目に焼き付けてから、彼女は天板に手を当てて体勢を整える。


 そこで気がついた。


 テーブルが真新しい。

 もちろん、きちんと格式あるものだ。

 けれど、軽い。

 根を生やすには、脚が細くて、板が薄い。


 つまり移動を前提に設計された、四つ足のテーブルだった。


 食卓の大きさや、迎え入れる客の数、そして目的に合わせて、入れ替え、組み換え、時に下げる。


 本当にここに、人の流れを作るつもりだったのだ。

 そして胃石を吐き出した魚や肉で、お客をもてなすつもりだったのだ。


 とぐろを巻いた彼女の意識を、テーブルの下に滑ってきたフォークとショルダーバッグが引き戻す。


 自分の頬を素早く両手で叩いた後、フォークをズボンのポケットに忍ばせ、バッグを手繰り寄せる。

 レディースの華やかなパーティーバッグだ。

 ゴールドの刺繍とガマ口の金具がお上品。


 テーブルの外に視線を向ける。


 靴の一つが、彼の背後に回ったのが、つま先と踵の向きでわかった。

 幸運にもテーブルの近くだ。


 彼女はショルダーバッグを靴から生える足に向かって、投げる。

 ちょうどブーメランを投げるような、横の動き。

 足首に絡まったタイミングで、ショルダーベルトを思い切り引っ張る。


 倒れるまではいかなかった。

 けれど前のめりに体勢が崩れたようだ。


 そこへ跳ね上げた彼の踵が入る。


 顔を押さえて崩れ落ちた、靴の主と目が合う。

 こちらに気づいた男が何かを言う前に、ストンプが背中に落ちる。

 沈黙も落ちる。


 彼女は息を吐いて、ショルダーバッグを回収。

 まだベルトは切れていない。

 もう一回くらいは、できるかもしれない。

 と、傷んだ手を振りながら思った。


 次の動きを考えながら、靴の動きを追う。

 その視界の隅に、へたりこんだ薄荷色の着物が入った。


 母だった。

 目が合う。


 母は驚いた様子で、後退りする。

 もちろん座り込んでいるのだから、上体だけだ。


 それを見て、安心だ、とお嬢さんは思った。


 VIPが避難してきたと言うことは、少しは安全ということだろう。

 場所もそうだし、それだけ手が足りない、ということでもある。


 なら、少し余裕があるかしら。


 と、彼女は今日の目的を思い返す。

 そして、それを渡す相手を、もう一度見る。


 その人は、花が咲くのを待って、剪定もできる人だという。


 曲がった茎を活かして挿して、折れたものはそっと弾く。

 傷んだ箇所を隠して、枯れた物から静かに下げる。


 そんなような話を、彼から聞いている。


 美しい物を、美しいまま、続いているように生ける人。


 そんな人だから、散るまで、枯れるまで見ていたい、なんていう子供とは上手くいかない。


 仕方ないと思う。


 彼女だって、最初は驚いた。

 枯れかけた花を見ながら、酒を飲んでたら、そりゃ驚くでしょう。


 今だって病気だったり、虫がついたら容赦なく捨てるよう指示する。

 枯れた花を喫茶店に置くつもりもない。

 住居スペースに、ご退場願う。


 でも、とお嬢さんは少し可笑しくなる。

 一輪くらい好きにさせてあげたらよかったのに、と。

 そうすれば小さかった彼の、あの姿を見られたかもしれない。


 枯らす様子を見るつもりだった花を、うっかりドライフラワーにしてしまい、途方に暮れる彼の姿を。


 結局あの花は、お店の出窓に飾っておいたら、いつの間にか無くなっていた。


 それでいい、と思った。


 ふと、お嬢さんの脳裏に、二つの単語が落ちてくる。

 けれど、舌に乗せるのは止めた。


 まだ、それをするには早い。

 彼ですらまだ呼び方がわからないのに、それをしてはいけなかった。


 その代わりになっているのか分からないが、別の言葉、というより宣言を献上することにする。


「……そうだ。肝心なことを言うのを忘れていました」


 母は、まだ何も言えなかった。


 膝をついたまま、テーブルの下で向かい合う。


 上では誰かが怒鳴っている。

 テーブルクロスの向こうで、銀器が滑る音がした。


「そんな感じで、責任は持ちますので」


 どんな感じだったっけ?

 と自分で指摘しながらも、できるだけ安心してもらえるように笑う。


「息子さんを、私にくださいな」


 母の唇が結ばれる。


「ちゃんと、ご飯を食べさせますから」


 もちろん、そのために、いらないものは切り分けますね。


「今日は、そのご挨拶に来たんです」


 丁寧に頭を下げた。


「お粗末さまでした」




 そろそろ、お暇しないといけない。

 彼女は満足して、膝を立てる。

 天板に手を添えて、腰を浮かせた。


 その時だった。


 その手が滑った。


 バランスを崩した彼女に走り寄ってきたのは、二本の足だった。


 彼女にはそう見えた。

 正確には誰かがテーブルを押しているのだ。


 どこに?

 明るい窓のある方向から、あの気持ちの悪い音の壁の方向へ。

 そしてその向かう先には彼がいる。


 VIPがいるのになんてことを!

 軽いテーブルはこれだから嫌だ!!


 と職業倫理と偏見が混ざった感想の代わりに、彼の名前を鋭く呼ぶ。


 助けを呼ぶためではない。

 危険を知らせるためのコマンドだ。


 言いながら、迫ってきた足に、その脛に、バッグをスウィングする。

 バッグの本来の使い方ではない。

 体勢も悪い。

 けれど向こうからの力と、バッグのガマ口が噛み合った。


 きっと渾身の力でテーブルを押していたのだろう。

 食いしばっていた歯の隙間から、男の呻き声。


 乱れる足。

 けれど止まらない。

 体重も全て前にかかっていたし、足にダメージが入ったのなら、なおさらブレーキなどかからなかった。


 椅子が倒れる。

 一拍置いて、彼女の頭上の板越しに重量物が着地した。

 陶器とガラス、金属と何かが弾けて転がる音。


 肉と液体が跳ねて転がる様子が浮かぶ。

 口に入れてはいけない匂いを感じたのは、自分が料理人だからだろうか。


 そんな彼女の考えは、天板に横の衝撃が加わって停止した。

 テーブルが壁に激突したのだ。


 ミシリ、と屋敷が鳴いた。


 その振動が収まりきらないうちに、食器が砕けて、破片がすり潰される音が移動する。


 彼女もそれを、テーブルの下から追いかける。

 といっても、出口から向かってきてくれていたのだから、少し頭を出すだけでよかった。


 右には先ほど足にダメージが入った弁慶さんが、脛を抱えて悶えている。


 左からは、こちらに駆け寄って来る男。

 けれど様子がおかしい。

 進行方向に首が向いていない。


 視線はテーブルの上だ。


 そしてその顔に影が落ちる。


 その影はテーブルから飛び降りざまに、ワインのボトルを男の頭に叩き付けた。


 振り下ろされた力と体重と、未開封ワインボトルの重量。

 衝撃とガラスの破片とアルコールを浴びて、男が昏倒する。


 彼だった。

 黒いスーツが、特にズボンの裾が料理のソースで酷く汚れている。

 握ったボトルの首の先が鋭利に光っている。


 テーブルから降り立った彼は、もうその男を見ていない。


 次の優先順位は警棒だ。

 続いて接近してきた男は、さらに右から迂回しつつ、それを振り上げる。


 彼は一歩、相手の懐に踏み込む。

 そして受け止める。


 何を?何で?

 警棒を握った手を、割れたワインボトルで、だ。


 破片が皮膚を切り裂いて、ボトルの内側を伝った液体が、注ぎ口から垂れる。


 絶叫はすぐに、潰される。

 吹き出した血が弧を描いて舞う。


 そのまま身を捻った彼に、投げ飛ばされたのだ。


 一度テーブルに激突し、昏倒した男の上に折り重なる。

 二種類の赤が床で混ざる。


 脛を押さえて倒れていた男が、痛みではない悲鳴で喉を鳴らす。

 彼女は椅子に掴まって立ち上がり、ついでにその椅子を振り上げて下す。


 警棒を持ち出してきているのであれば、遠慮をしている余裕はなかった。

 負傷者搬送に人員を割いてくれたらいいな、と彼女は思った。

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