八幕 いせき
彼は宝貝の使い方の説明はしなかった。
ただ客たちの動き方を見ていた。
立ち上がるタイミング。
駆け寄る動作。
扱う時の手付き。
確認の手順。
目の色。
血の流れ。
筋肉の弛緩。
やはり研究者というのは早いな、と彼は思った。
と同時に、父の影響力と、警察の内部で共有されている情報の粒度、自分が作ったそれの再現性の程度、の輪郭を測る。
狼狽えた様子は伝播する。
メガネの女性、ネイビースーツの男、父、母、が唇を震わせる。
しかしそこを過ぎたあたりで、ただの純粋な好奇心が席を立つ理由になる。
声に弾みが出始める。
「ちょっと見てくる」
彼女が彼の背を軽く叩いたのはその時だ。
静かな声。
何かを抑えている時の声音だと、最近ようやく聴き分けられるようになった。
お前は、あの宝貝の調整に散々付き合っただろう。
と彼も彼女を追う。
何せ彼女は対照群として、身体データまで渡してくれたのだから。
もちろん、それをここで口にするのは危ない。
トップシークレットだ。
その心配は杞憂に終わった。
彼女が向かったのはテーブルではなく、壁だったからだ。
彼女なりに気を使ったのか、壁の端に位置取る。
壁は新しいが木製だ。
ちょうど木の模様が丸く浮き出ているところがある。
そこに指先が触れる。
鍵穴に鍵を差し込むように……。
「わっ」
彼女が弾かれたように、腕を引く。
「大丈夫か?」
一歩引いた彼女の肩を、彼が後ろから受け止める。
「何これ? あなた、こんなものが聞こえてるの?」
声が揺れている。
彼も壁に触れる。
指で、手のひらで、彼女が触れた模様のところも。
わからない。
けれど彼女の皮膚が泡立っていることは、服の布越しでもわかった。
彼女はテーブルの客たちを見る。
色めきたつ客たち。
青ざめる客。
無表情にこちらを見ているのは、その現象と意味を理解した者たち。
理解したら戻って来られない。
呪いであろうと、祝福であろうと、不可逆には絶望の匂いがする。
「あの船の中も、こんな感じだった」
立食なのにフルコース。
ワインの色と合わないグラス。
鱗処理のあまい白身と、生焼けの挽肉。
「私とみんなが見ているものが違っていって、食べちゃいけないものを、出してはいけない料理にして、それを口にしていた」
指摘した時に、こちらを制する、あの均一化された眼差し。
お料理は全くそうじゃないのに。
「どっちが正しいのか、わからなくなっていって。でもこの違和感だけは、どうしても消えなくて」
だから私はあれを捌いたの、と彼女は声を絞り出す。
どうしても中を見ないといけなかった。
客が何を食べたのか、乗組員が何を食べさせてしまったのか、確認しないといけなかった。
どうせ、おかしくなるんだったら、この目で見てやろうって。
あんなものが出てくるなんて、思ってもみなかった。
「何が出てきた?」
彼はその場には立ち会ってなかった。
そこには間に合わなかった。
厨房に入った時には、終わらせた女がいた。
その女が、腕の中で首を横に振る。
「何だ? 言ってみろ」
「あなた、きっとまた気持ち悪くなるわ」
親戚の一人が貝を壁に向け、その共鳴を受け、綺麗、と言っている。
「いい。名付けてみろ」
彼が耳元で囁く。
「唄箱か? 子取り箱か? 俺の苦しみに名前を付けてくれ」
請われる声に、彼女は目を閉じる。
と同時に少しだけ、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべる。
なぜなら後ろの彼が自分で言った言葉に、驚いている気配があったから。
ようやく認めたか、と思った。
あの時の彼は迷ってはなかった。
今は戸惑っている。
あの時と、今は違う。
心の中で語りかける。
知ってる?
胃の検査のバリウムがまずい理由。
美味しい物を入れると、空っぽの胃が食べ物だと思って胃酸を出すの。
そうするとバリウムが胃の壁にうまく付かなくなって、正確に見えなくなる。
だから、美味しくする必要性がない。
味わうために飲むものじゃないから。
調べるために、飲み込むもの。
食べ物ではないけれど、飲まないといけないもの。
夜のお医者さんごっこの結果発表。
おなかが空いてるのはわかる。
食べなきゃいけないのもわかる。
でも味がしない。
だから、食べるのがただの作業になる。
噛む。
飲み込む。
体に入れる。
それだけになる。
眠い。
でも眠りに落ちる瞬間が怖い。
意識が落ちる時、自分がどこに戻るかわからない感じがする。
現場なのか。
実家なのか。
船なのか。
ご婦人の場なのか。
疲れている。
でも止まると、逆に変なものが追いついてくる気がする。
耳に蓋はない。
聞こえている気がする。
情報なのか。
音楽なのか。
ノイズなのか。
そもそも本当に聞こえていたのか。
薄くなる。
百聞は一見に如かず、という言葉がある。
たしかにその通りだ。
けれど目の前にそれが現れ、理解した瞬間にはもう遅い。
危険な獣が目の前に現れた時には、もう手遅れ。
聴覚はそれを回避するために発達した器官だ。
だから先に、確かめたくなる。
追われるよりは、追う方が楽。
少なくとも速い。
遅い情報は役に立たない。
だから見に行く。
現場は求められるものがシンプルで、わかりやすくていいらしい。
けれど嫌なものもよく見る。
おぞましいものも。
現場とはそういうものだ。
でも、やめられない。
そして、それを言わない。
言ったら意味が増える。
尾びれに背びれ、ついでにお頭までついてくる。
ありがたられるのも、意味を探られるのも、鬱陶しい。
そんなことを言うくせに、実は彼はおしゃべりだ。
特に寝入りのポヤポヤタイムが酷い。
本人は覚えてないことすらある。
消化しきれないのに、困った人だと思う。
でも私も、あの船を降りてから、中身を確認したくなる。
何を食べていた生き物なのか。
どんな場所で、どういうふうに育ったのか。
血肉の元はなんなのか。
血統管理されているお肉は、安全でいい。
ジビエや魚は、もう少し内側を見たい。
胃はもちろん、声帯の形とかも気にはなる。
そんな話も聞いてくれる。
お肉の仕事も探してくれる。
美味しそうに食べてくれる。
でもそれで、安心する、なんて言うのは、後にも先にも彼だけだろう。
わかると安心すると言うのなら。
名付けていいのだと言うのなら。
逃げ場がなくなるのは、怖いくせに。
やっぱりしょうがない人だな、と思った。
「いせきの台座」
ポロリ、とその名付けは吐き出された。
「いせき?」
「そう。胃のなかで消化されなかったものが、塊になるの」
「ああ。柿でなるやつか」
炭酸で溶かすやつ、と彼が続ける。
素人判断でそれをやると、腸閉塞を起こす可能性がある。
心当たりがあるなら病院へ。
「あとは、髪の毛」
そしてこれは炭酸でも溶けない。
「魚って、雑食で色々と、本当にいろんなものを食べるのよ」
それが胃から出てくる。
プラスチックとか、ビニールとか、ルアーとか。
でも時々、人形の頭だとか、骨だとか、皮だとか、指だとか、指輪だとかが出てくる。
実際にそれで殺人事件が発覚したことがあるとか。
彼が低くうめく。
「確かに、気持ち悪いな」
想像したのだろう、自分の腑にそれがあるところを。
「魚が悪いわけじゃない」
彼女は即座に言った。
海も、船も、人間も。
それを食べることだって、咎められることじゃない。
あの難破船の人たちも、ただ生きたかっただけ。
ひもじくて、他に食べる物がなかっただけなのよ。
でもね、そんなものを食べた魚を、それを知って子供に与える?
お客の料理に使う?
大事なパーティーの料理に使う?
自分たちが食べたり、それしか食料がなかったら仕方ない。
でも、違うでしょう?
そうやって出てきたものや、天然のお魚をありがたがって、お寿司にして、お祝いの時に子供に食べさせるのは、違う。
それを聞いて彼はこれまで箱のあった場所を、状況を思い出す。
保育園、学校、式場、ホール、ホテル、病院。
縁起物として、願掛けとして、象徴として置かれていた。
駄目だろう、と彼は思う。
人生の始まりや終わりを接続する場所で、危険を伴う分岐器を設置するなんて。
けれど今回は
「間に合った」
「ええ」
彼女が頷いてくれたから、彼は安心した。
ならもう帰るべきタイミングだった。
そうして出口と自分たちの荷物を確認して、その途中で目があった。
いや、逃げるべき時だな、と彼は修正する。
炙り出しのためとはいえ、こちらも餌をチラつかせすぎた。
目を離してはいけないし、返事をしないのもいけない。
返答を間違えてもいけない。
それが人間という捕食者の厄介なところだった。
「やはりお前が作ったんだな」
と父が聞く。
「……厳密には違う。俺はデータを集めて、それをAIに喰わせただけだ」
嘘を言ったのか? と続けられ
「ランキング上位は本当だぞ」
喜べ。
「何を食べさせたの?」
と母が聞く。
「俺と、多分、兄さん」
多分? と困惑され
「ずっと呼び方がわからないと、話していただろう」
彼は俺を『弟』と名付けたが。
「二人だけじゃないはずだわ」
とメガネの女性が呟く。
「研究の基本を踏襲すれば、わかるだろ」
どんなに集めても足りなかった、と頭を振るのを見て
「十分だった。見えてなかっただけだ」
箱の知見をAIのブラックボックス問題に変更しろ。
「警察になぜ持ち込んだ?」
とネイビースーツの男が問う。
「悪用されたら困るからな」
信じているのか? と聞かれ
「挿げ替えがきくのが、公務員のいいところだ」
今なら二階級昇進以外にも道はある。
「俺からも質問がある」
彼が言った。
「どうして玄関のドアに鍵をかけたんだ?」
父が肩を強張らせる。
「鍵?」
「さっき閉めただろ」
「外が寒いからだ」
鍵までかける必要がない。
何よりも……。
「じゃあ、なんで開けたんだ?」
「今度はなんの話だ?」
「地下トンネルの扉」
何が入って、何を出そうとしてるんだ?




