五幕 血、あるいはミーム
「お嫌いな宝石でしたか?」
と彼女がネイビースーツの男に問いかける。
問いかけつつ、船で学んだこの宝石の逸話を思い返す。
たしかロシア皇帝アレクサンドル二世は、爆弾テロで命を落としたんだっけな。
ちょっと不吉な石だったかな?
「血が……」
そうそう、足を負傷して、血まみれになって崩御。
「血が、よくない」
皇帝はまごうことなく、ロイヤルだと思っていたけれど……。
男は目を見開き、怯えているようだった。
距離を見誤って、それに気づいた時の目だ。
獣と鉢合わせして、その牙から垂れる唾液を見た時の目。
尋常ではない様子に、周りの視線も集まる。
おい! と声を荒げたのは、あのおしゃべりなグレイスーツの男だ。
だが、それ以上、言葉は出てこない。
人間、うっかりと口を滑らせることはある。
慣れた言葉が、一番よく燃える。
おしゃべりであれば、それは身に染みてわかっているのだろう。
しかし染みを消す技術も、隠す方法も、はたまた衣類を染め直す発想もないようだ。
「ああ、大丈夫ですよ」
と彼女は安心させようとする。
男二人に対してそれを言い、その根拠を探す。
「私も遺伝子検査は受けてます」
今まで受けた検査で、一番、信用のあるデータを開示するのがいいだろう。
「公的な機関のもので、ちゃんとパスしましたのでご安心を。彼からリスクとかも聞いてます。それに元船乗りなので、多少揺れていても包丁は握れます」
ネイビースーツの男は絞り出すように、違う、と言った。
カトラリーを持つ手に力が入っている。
ナイフについた脂に塗れた血が、手元に垂れる。
「血が……汚染されているんだ」
あいつか、と彼は思った。
その言葉は、船でのアクシデントを知ってる人間からしか出てこない。
ただし二つの文脈が混ざっている。
出所は、現場を処理した側の人間ではなさそうだ。
あるいは又聞き。
情報そのものよりも、経路の方が高い。
「血統が。せっかく血が濃いのに。あなたにはわからないだろうが。本来ならもっと相応しい……」
『子取り箱』を組織の上層に献上したのも、この男だろう。
研究所とエリートを接続したのも。
接続を確認できたら、次は切ってみたい、と彼の内側が疼く。
そうすれば、迂回路に情報が走る。
走れば足跡がついて、わかりやすい。
チカチカと、目の奥で何かが明滅するのを感じる。
そんな彼の横で、彼女は別の匂いを嗅ぎ取ったようだった。
肩を指先でつつく。
「ねえ、もしかして婚約者とかいた?」
「そういえば、いたな」
彼は至極あっさりと肯定した。
「正確には、縁談があったらしい、という話だけだが」
「それ、話のジャンルが変わってくるんだけど?」
「爺さんの葬式の時に俺が養子だと発覚して、婚約破棄されてるはずだ。相手とも会ったことはないし、そもそも本人の了承を得ていたのかも怪しい」
彼女の頭の中で、小説のあの名シーンが再現される。
「あなた、悪役令嬢だったのね」
「なんだそれ?」
「こっちで流行ってないなら、べつにいいわ」
おそらく、彼の家柄であれば、珍しい話ではないのだ。
多分。
「一度混ざるとダメなんだ。乗っ取られる……」
もはやネイビースーツの男の声はうわ言に近い。
「それ以上、余計なことは言うな」
強く制したのは父だ。
「お嬢さん、今の話は古い話だ。忘れてくれないか?あなたの家柄とは関係のないことだ」
慎重に言葉を選ぶ。
「反対をしているわけではない。それどころか私個人は、あなたを気に入っている。頼もしい、と。さすが社交界で有名なだけはある。しかし……」
父がネイビースーツの男を見る。
彼も父ではなく、その男を見ながら問う。
「身辺調査と遺伝子検査以上のことが必要か?」
男は唇を震わせるが、何も言わない。
必要だった。
危険だと伝えたかった。
だが一番の危険は、それに名前がついていないことだった。
潮時だな、と彼は思う。
伝えるべきことは、伝えた。
家がこちらをクリーン寄りに見ている、いやそう処理したがっているのも、わかった。
あとは見つけた食べ残しをチェックしながら、父が事務処理を終えるのを待てばいい。
彼女に目配せする。
気にした風でもなく微笑んでいるが、不快でない、ということはないだろう。
血を値踏みされたのだから。
食客たちも、無言で肯定してくれている。
何より、腹が減っていた。
少しは食べたはずなのに。
とその時、その静寂というには濁った空気に、言葉が投げ込まれた。
「ミーム」
その声は母の隣の席から聞こえた。
眼鏡をかけた女性だった。
黒いスーツで飾り気はない。
フォーマルというよりは、実用の二文字が似合っている。
母が少し嗜める声を出したが、女性は穏やかに笑って
「調査とご本人が語るのは違うでしょう?」
と言った。
お嬢さんが少し考えて、
「顔合わせだと『育ち』ということでいいですか?」
と確認する。
それを聞いて女性が嬉しそうに、言葉を弾ませる。
「そうですね。ですが、それはもう拝聴させていただきましたし、皆様も異論はないはずです」
異論があるはずだったネイビースーツの男は黙っている。
自分の発言が、どうしてこの流れになったのか、全くわからない。
模倣子の意味は知っている。
だが日常で紐付けしたことはない。
「私が興味があるのは、もっと水平伝達的な方ですね。例えば船の性別や名前、由来についての知識」
知識から獲得した文化的習慣。
「もしかして、悪役令嬢も?」
「ええ。たぶん、それも」
サブカルチャーから発生した文化的差異。
「じゃあ『子取り箱』はどうだ?」
珍しく、彼が会話に割って入ってくる。
女性は気にした様子はない。
むしろ真剣に考える。
そして短く言った。
「行動変容」
自分の言葉に納得した様子で頷く。
「先ほどからの文脈から考えると、垂直伝達ではない。なるほど……噂の出所はそこですか」
彼も否定はしない。
「悪態のルースと名付けのお嬢さん。社交界の化身が気に入るわけですね」
「小説のネタにしていいぞ」
なんと言っても、流行っているらしいからな、と彼が続ける。
今日、初めて笑っている。
皮肉めいた笑み。
「必要性が感じられません」
「危機感はあったほうが、いいんじゃないか?」
「何故ですか?」
「俺もあんたも、不安定な職種だ」
「心外ですね」
「呪いの仕事が、安定してるとは言い難いと思うが」
「……唄箱は呪いではありません」
「なんだ。ミーム研究者じゃないのか」
「違いますが、無関係ではないのは認めます」
メガネの女性が、少しだけ眉を寄せる。
「では彼女は?」
「料理人だ」
彼は即答する。
「名付けが仕事ではないのですか?」
「違う」
「彼女の言葉で聞きたいですね」
いかがですか? と聞かれて、彼女が食卓を見回す。
「いいですよ。私も棚卸しが必要だと思ってました。ではお料理のコツの話とかどうでしょう?」
問いかけに、皆が力無く頷く。
ようやく消化酵素を持っている皿が回ってきた。
もう空腹は感じない。
だがまだデザートが残っている。
食べ切るまでは終わらない。
この日、席を立つ権利も、棚に皿を戻す資格も、目の前の若いカップルにしかないのだ。
問題があるとすれば、男が呪いで、女が料理人ということだった。




