一幕 魚料理、あるいは まな板
その洋館は街の中に埋もれるように建っていた。
坂道の多い区で、一番高い位置にある。
ただ敷地をぐるりと囲む、マンション、アパート、団地がまるで城壁のようで、国道からはその姿すら見えない。
建屋の玄関に続く道ですら細く、坂道だ。
さらに立体駐車場を備えた商業施設が両脇に構えている。
そんな騒々しい道を、彼と彼女は進む。
「足元が悪い。気をつけろ」
と彼が彼女の手をとる。
彼のアドバイス通り、ショートブーツにしてきてよかった、と彼女は白い安堵の息を吐く。
この日の空は明るく曇っていた。
昨日の雪は溶けているが、まだ日陰に残っている。
また今夜から明け方にかけて降るのだという。
この街の冬の日中は、いつもこんな感じ。
雨かと思えば雪。
降っては止んで。
積もっては溶けて、固まって。
泥と埃が足元を汚す。
湿った砂地の道を上り切ると、白く彩られた木々の向こうから、その色は飛び込んできた。
灰色がかったクリーム色の壁に、古い煉瓦と石材を組み合わせた洋館
外観の装飾に使われた木々は、枝分かれしていて、このセンスは日本らしいな、と彼女は思った。
ヨーロッパの三角屋根の山荘を、もっと小さく、そしてお人形用にしたような雰囲気。
入り口で黒いスーツの初老の男性が、深く身を折り二人を出迎える。
「ようこそ、いらっしゃいました」
素早く扉を開く。
「朝から暖炉の火も入れています。皆様がおそろいになられるまで、お身体を温めてお待ちください」
その大食堂は思っていたよりも、こじんまりとしていた。
もっと私的な小食堂といった趣の部屋だ。
広さはある。
しかし天井もさほど高くはない。
建屋の外側にも使われていた木材の梁が走っている。
名家所有の洋館という情報だけで想像すれば、拍子抜けするほど質素だ。
つまり迎賓館としては派手さというものがない。
パーティー、ワインセラー、絵画、シャンデリア、ハイバックチェアー……。
何かを演出し、見せるための道具はここにはなかった。
強いてあげるなら、花が生けられた花瓶くらいだろうか。
食卓を囲む。
そのための部屋だと彼女は思った。
部屋の中央に楕円のテーブルが置かれている。
入り口に近い席に二人が並んで座り、対面の奥の席には、父と母がゆったりと構える。
その間を埋めるように、彼の親族がぐるりと席についていた。
今日の主役が二人であること、なにより彼女がこの家の人間をほとんど知らないことを配慮して、彼と隣り合う席にしたのだろう。
正式な場ではなく、あくまで私的でカジュアルな顔合わせの食事会。
純白のテーブルクロスだけが、名残惜しそうに格式を主張していた。
軽い自己紹介を終えると、食事が運ばれてくる。
欠けている席の存在は、もちろんこの時は紹介されない。
外からの光がカーテンのレース越しに、室内を照らす。
対面する父と母の髪が白く見えるのは、そのせいだけではない。
老けたな、と彼は思った。
それもそうだろう。
二人とも、もう七十歳を超えている。
もちろん口には出さない。
特に母は、白髪に近い。
薄荷色の着物も相まって、そのまま透けていきそうだった。
逆に父はブラウンのスーツに銀色のネクタイ。
根を下すように、椅子に深く腰掛けていた。
会うのは祖父の葬式以外だと、病院ですれ違ったことが一度あっただろうか。
暖炉で火が爆ぜる音と、銀食器の音、そしてやはり料理の話題が耳と舌に乗る。
「なんだ。酒は飲まないのか?」
親戚の男性が彼のグラスを見て、聞いた。
グレイの縦のストライプスーツ。
ノーネクタイだが、シャツのボタンはすべて閉めている。
「今日は車で来ているので」
彼が手を止めて答える。
「どこに停めた? 横のレストランか?」
「いえ、雪と凍結が心配だったので、下のスーパーの立体駐車場の屋上に。あまり褒められたことではないですが」
帰る時に買い物をすることにします、と続けると、男はやや不躾な視線で彼と彼女を見比べる。
「その格好で、売り場をうろつくのか?」
視線はともかく、出てきた言葉は意外に真っ当だった。
今日の二人の装いはスマートエレガンス。
彼は黒いスーツに同色のシャツ。
ネクタイはしていないが、その代わりシャツの襟下から銀のネックレスが揺れている。
花は挿していない。
お嬢さんはパンツスタイルだ。
ゆったりとしているが、センタープレスの線があるだけで、ほんの少し緊張感がある。
フリルのついたブラウスが軽やかだ。
仕事着にしては華やかすぎるが、その後にホテルディナーがあると言われれば、許される。
だがスーパーマーケットで買い物かごを持ち、カートを押し、生鮮食品コーナーを物色するには、いささかスマートすぎる。
「特に問題はないでしょう」
と彼は首を傾げる。
彼女は少し笑いそうになるのを、白身魚のクリームソテーを口に運んで堪える。
社交界の帰り道、スーツはもちろんドレスで夜食を調達する時もあるという話をしたら、評価はどちらに揺れるだろうか。
その彼女の笑みと思惑は誤魔化せたらしい。
男は今度はその食べ方と、彼の皿を見る。
「あまり食も進んでない」
「緊張すると味が遠くなるので、申し訳ないですが」
「それは勿体無い」
男が白ワインを口に含む。
「今日の料理はさっき言いかけたレストランから運んできてるんだ。高級というほどではないが人気がある。おかげで予約が埋まりがちで、なかなか味わえない」
「すごく美味しいです。人気なのもわかります」
と彼女が料理の感想を引き継ぐ。
「このクリームソース、お味噌を使ってるんですね。普通の麹味噌じゃなさそう。癖が強くて香りが濃厚なのに、すごくまろやかで上品」
男がそれは気づかなかった、と魚にソースを絡めて口に入れる。
「よくわかってらっしゃるわね」
その様子を目を細めて見守っていた母が、ゆっくりと彼女を見る。
「フォークもナイフも扱いがお上手」
「ありがとうございます」
彼女の返答は早い。
特に褒められた時は。
その真意が分からなくとも、即答が基本だ。
「でも、ちょっと白米が恋しくなってます」
もちろん追加のセリフは無くていい。
だがもし言うのであれば正直に、飾らずに。
一瞬の静寂の後、すぐに笑いが皿の上に落ちる。
皆、口の中の余韻を確かめて、軽く頷く。
バゲットにも合う、味噌の懐の深さがいけないのか。
乳製品も受け入れる、白米が罪深いのか。
「お酒を飲んでないと、やっぱり身体が糖質を求めるみたいですね」
自分自身でも呆れ気味に言う彼女に、彼が助け舟らしきものを出す。
「遠慮せずに、飲んでいいぞ」
「一口でも飲んだら止まらないの、知ってるでしょ」
それに、と彼女は続けて、グレイスーツの男を見る。
「あなたの子供の頃のヤンチャを、しっかり聞かないといけないから」
期待に輝く彼女の視線を受けて、男が料理を飲み込む。
「お嬢さんからのリクエストなら答えないといけないな。と言っても、年が離れてるから、学校も一緒になったことがないんだ。期待に添えられるかどうか」
「お兄さんが三人と、お姉さんが一人いらっしゃるんですよね」
「あー、そう。だけど実質、男二人しか残ってないし、今日は二人とも用事があって……」
男が眉間に皺を寄せる。
「今日は、あなたの話が聞きたい」
硬いが落ち着いた声音が、男の言葉の先を吸い取る。
声の主は父だった。
「女性の話の方が華やかでいい。普段はどんな生活をしているか、あいつの話だけだと要領を得ない」
「ああ。まぁ、彼、そういうところありますよね」
「例えば?」
「急に、まな板を削ったり」
少し、間があった。
父の目がわずかに見開かれている。
「まな板?」
親戚達の視線が、二人の間を線で結ぶ。
「ええ。出会ってすぐの時に」
言った後に、マッシュポテトを口に含む。
里芋だ。
ねっとりとした食感が、味噌のソースによく合う。
「なぜ?」
父の問いかけは、彼に対してだ。
「危なかったからに、決まってるだろう」
ため息を付きながら彼が答える。
里芋のマッシュポテトは、今日の彼には少し重かったようだ。
「口説いてたんじゃなくて?」
彼女のあまりにサラリとした言いように、食卓が笑いに包まれる。
特に女性陣の声が色めく。
「だって料理人にまな板は口説いてるでしょう」
彼女は少し不満気だ。
女性の一人が目尻の笑い涙を拭う。
ワインレッドのシンプルなワンピース。
カーディガンは袖を通さず、肩に羽織っている。
「あなたにはそうかもしれないけど。流石にプロポーズではないでしょ」
「でもそこから安全な厨房を用意してくれたんですよ」
「まあ。喫茶店だったかしら」
「元々レトロでいい感じのお店だったんですけど、やっぱり古いと角が鋭利だったり、高さが合わなかったり。危ないって、全部、直してくれたんです」
「確かにそこまでやっておいて、気がないっていうのは無理があるわね」
女性はまだ笑いを含んだ声で言いながら、なんとか頷く。
「ですよね」
「でもまな板は、やっぱりちょっと変わってるわ」
「駄目ですか?」
「いや、これを逃したら次はないわね」
「私がですか? 彼がですか?」
「両方」
また笑いが満ちる。
魚料理の次は肉料理だ。
地産和牛のロースト。
赤い断面を見るに、とても柔らかそうだ。
山葵もしくは塩胡椒でいただく。
カトラリーが一つ内側へ進み、皿に近づいた。




