二皿目 台座、あるいはフルコースの話
ご無沙汰しております。
と声をかけると、一瞬だけ場が静まった。
人の輪が綻び、そこへお嬢さんが入っていく。
そして、すぐにそれが、じわりと閉じられる。
「あら、お元気そうね」
最初に言葉をかけたのは古参の女性。
喫茶Somaでも何度か見かけた顔だ。
「おかげさまで」
「どうしてらしたの?」
聞き方もごく自然。
おそらく本当に心配してくれている。
だがやはりここでは社交界のマダムだ。
お逃げなさい、とは言ってくれない。
だからこそ、お嬢さんも無邪気に応じた。
「実は密造酒がバレて……逃げてました!」
「まぁ、あの黒板の? 吸血鬼まで首ったけの」
「どうも、誰かがリークしたみたいで……」
輪の誰かが息を呑む。
お嬢さんは少し小声で続けた。
「ご婦人がバラしたんじゃないか、って彼と話してるんですよ」
控えた笑い声と、ヒソヒソとした囁き声。
ご婦人の名前を、こんなふうに出すなんて。
あの女性、一体どこの人なのかしら。
「ここまできたら、もう逃げながら飲み切ろうって話になって、おかげですっかり中毒です」
「ふふふ、じゃあ、そのお酒がなくなって、社交界に立ち飲みに来たというわけね」
「はい!」
お嬢さんの威勢の良い返事に、今度こそ場が笑いに包まれる。
もちろん眉を顰める人も。
どうして笑えるのかわからない、という感じ。
彼女を知っているか、いないか。
それだけで、振る舞いが変わる。
「というのは冗談なんですが」
お嬢さんは、何事もなかったように続けた。
「そろそろ寝かせてた梅酒がいい頃合いなので、宣伝しようかと馳せ参じました。スピリタスで漬けた、とっておきです」
古参のマダムが、嬉しそうに笑う。
「お店も再開するのね。しかも、ちゃんと物騒で素敵じゃありませんか」
「ありがとうございます。食事のメニューも増やす予定なので、ぜひいらして下さいな」
「ええ。そちらも期待していますわ」
その笑いが、まだ残っているうちに、ひとりが、少しだけ声の温度を変えた。
「ようやく彼のお家に、ご挨拶に行ったのよね? どうだった?」
それを聞いたのは、先ほどのマダムではなかった。
新参でもない。
顔見知りではあるが、親しくはない。
言葉の隙間に舌が見える。
たぶん、先が割れている。
お嬢さんは、やわらかく笑った。
「素敵なお家でしたよ。指輪のお話もしてくださって、でも台座が合わなくて」
輪の中のひとりが、そこでカップを持つ手をほんの少しだけ止める。
でも口元は崩さない。
台座? とどこかで疑念の声が生まれる。
彼女、料理人なのよ。
と嗜める声。
なるほど、名家だそこまで気にかけてくれるのね。
少し羨望の混じった視線を受けつつ、お嬢さんは続ける。
「お料理もフルコースで、とても上品でした。きれいで、丁寧で。でも彼には、少し足りなかったみたい」
その声は輪の外にも広がる。
どこかの誰かが、視線だけを少し伏せる。
どうして届いたのか。
どのように受け取ったのか。
古傷というのは、理由もなく痛むものだ。
だが、傷は自然にはできない。
「……そう」
ほかの女性たちは、そこまで深くは取らない。
ただ、よく食べる男の話だと思って笑う。
「見た目のわりに、けっこう食べるんです。困った小熊ちゃんなんですよ」
「あなたもご飯の準備が大変ね?」
お嬢さんは胸に手を当てた。
「はい。でも、用意がありますから」
その一言で、さっきのひとりが、ほんの少しだけ目を上げる。
目が合う。
お嬢さんは逃げない。
ただ微笑むだけだった。
その人は数秒置いてから、社交の声で言う。
「……それなら、安心ですわね」
それだけで会話は終わる。
終わる、はずだった。
お嬢さんが、ふと思い出したように手を打つ。
「あ、そうだ。お肉の仕事も再開しますので」
輪の中の何人かが、息を飲む。
心臓がそれをさせた。
「バーベキューや、お店のイベントなどありましたら、ぜひお声かけください。捌くところから、お手伝いできます!」
あら、物騒。
そう思った人間は、同時に少し不満げでもあった。
没落した家へ入るのか。
まだあの家に価値があると思っているのか。
自分の立場が危うくなるとは思わないのか。
見誤っていないのか。
そういう問いは、きれいに畳まれた言葉の下にあった。
ただ、家の値踏みだけをしている者には、何も伝わらなかった。
お嬢さんはその問いを受け取った。
受け取ったうえで、食べさせる用意があると答えた。
ついでのように、お肉の仕事も再開すると告げた。
その答えを、事情を知る者は聞き取った。
関係者や、少し暗い場所に足を置いたことのある者は、それ以上踏み込まなかった。
踏み込めなかった。
料理人に用意があるなら、食べる方にもある。
新参者には、ただ若い女の惚気に聞こえた。
自分たちがいつの間にか皿に乗っていたことに、気づいているか否か。
炙り出しの舞台は、演者だけでなく、客の顔をも照らし出す。
そして舞台には、必ず装置が存在する。
装置があるなら、それを守る者もいる。
あるいは、壊すべき箇所を見分ける者も。
皿ではなく、皿を囲む顔を見る。
その役に、まだこの時は名前がなかった。
皿に何が乗り、誰が手を伸ばすのか。
食べ残しはなかったか。
それを見ている気配は、確かに存在した。
女性たちの輪が、ちょうどほどけかけた頃だった。
お嬢さんはもう十分に答えた。
嫌味も探りも、きれいな笑顔のまま受けて返して、場の温度も落ち着いている。
そこに、ご婦人が遅れて現れる。
遅れて、というより、今ならちょうどいい、を見計らっていたみたいに。
ただ、それをどこで見定めていたのかは、誰も知らない。
「顔合わせ、したのね」
その一言で、残っていた女性たちが姿勢を正す。
お嬢さんは落ち着いたまま会釈する。
「ええ」
ご婦人は、いかにも楽しそうに目を細めた。
「それで? 小熊くん、格好よかったでしょう?」
輪の中に、静かな笑いが落ちる。
お嬢さんはまったく崩れない。
「はい、もちろん。決める時は決めるので」
その返しに、ご婦人が満足そうに言う。
「男はそうでなくちゃね」
しかしすぐに、ほんの少しだけ首を傾げて続ける。
「でも、指輪は少し残念だったわね」
お嬢さんはそこで初めて、困ったように笑う。
「うーん、そうなんですけど」
「ええ」
「私、やっぱり料理人なんで、指が重いのって、ちょっとかったるいんですよね」
その率直さに、周りの女性たちが一瞬だけ静かになる。
でも、お嬢さんは気にしない。
「包丁が欠けても困るし、作業の邪魔になるのはあまり好きじゃないんです。それよりはやっぱり、ネックレスとかのほうがいいかも」
ご婦人の目が、そこでほんのりと、やわらかくなる。
「まあ」
お嬢さんが、自身のあごと首の境目あたりを撫でる。
「実は首元が空いてると、落ち着かないんですよね」
空気が少し変わった。
大げさではない。
でも深くなる。
急所というものは、美しさをまとっている。
ご婦人がそれを見逃すはずがない。
「そう」
「何もないと、少し心許ないというか」
「なるほどね」
「だから、ぶら下がるもののほうが、たぶん私には合ってるんだと思います」
ご婦人はそこで、ゆっくりと頷く。
彼女の喉のラインをたどるように。
微笑みながら。
「ええ。あなた、手元より喉元のほうが似合うもの」
どこか弾むような声音に、女性たちの何人かが、そこでようやく息を笑みに逃す。
話は指輪からネックレスへ、きれいに流れた。
でもご婦人とお嬢さんのあいだでは、それだけではない意味も一瞬だけ通っている。
それに気づく者は、気づいた。
お嬢さんが頷いた。
「そうかもしれませんね」
ご婦人の唇が、意地の悪い形になる。
「じゃあ小熊くんには、ちゃんとそちらを選ばせないとね」
お嬢さんの口元がゆるむ。
もちろんご婦人の唇の形と少し似ている。
「たぶん、言えばちゃんと考えると思います」
「たぶん?」
「少し遅いですけど」
その返しに、ご婦人がとうとう声を立てて笑う。
「それは知ってるわ」
輪の女性たちもつられて笑う。
空気がまた軽くなる。
袖口を確認した、一部の人間を除いては。




