噂話 不慮、あるいは夜逃げの話
「小熊くん、最近見ないわね」
誰かがそう言った。
名を出したというより、皿の上に小さな銀匙を置いたような声だった。
「ご実家のことでしょう」
別の女が答えた。
「内部告発でしたか」
「ええ。ずいぶん細かいものだったそうよ」
「外の人間には書けない?」
「少なくとも、外からは見えないものが混じっていたとか」
「まあ」
その「まあ」は、驚きではなかった。
無邪気と言い切れるような女は、この席にはもう残っていない。
「では、小熊くんが?」
「誰も、そうは言っていないわ」
「誰も?」
「ええ。誰も」
そこで、男のひとりが杯を置いた。
「言わない方がいいこともある」
「では、知っているの?」
「知らん」
「知らない顔ではないわ」
「知らない顔をしているんだ」
女たちは小さく笑った。
「その後、不慮の事故でしょう?」
「事故、ね」
「そう発表されたのだから、事故でしょう」
「発表されたものを、そのまま信じるのは礼儀かしら」
「礼儀ではあるわね。真実かは別として」
少し離れた席にいた古参の男が、低く言った。
「家というのは、外から崩れるとは限らない」
その一言で、場の温度が少し変わった。
「内側から?」
誰かが聞いた。
「柱が腐っていれば、風が吹いただけで落ちる」
「その風を吹かせたのが誰か、という話でしょう?」
「風は誰のものでもない」
「まあ、便利な言い方」
女のひとりが扇を閉じた。
「小熊くんは、逃げたのかしら」
「夜逃げ?」
「そういう噂もあるわ」
「逃げるような子でした?」
「逃げない子ほど、ある日いなくなるものよ」
「それは経験談?」
「社交界の一般論」
男性陣のひとりが、少しだけ眉を寄せた。
「小熊が本当に逃げるなら、もっと早く逃げてる」
「では?」
「逃げ道を塞がれたんだろ」
「誰に?」
「家に」
その言葉は、思ったより重かった。
誰もすぐには笑わなかった。
「表向きは、顔合わせだったのでしょう?」
女の声が、また柔らかくなる。
「でしょうね。それならお嬢さんも呼べる」
「まあ。料理人の?」
「そう。小熊くんが連れている」
「連れている、という言い方はどうなの」
「では、守っている?」
「どちらが?」
その問いに、何人かが目を伏せた。
「顔合わせ、ね」
「小熊くんと。お嬢さんと。内部告発の出所と」
「全部同じ席に乗せたのね」
「ずいぶん悪趣味だわ」
「でも、よくあることよ」
「だから悪趣味なの」
古参の女が、静かに茶を飲んだ。
「話を聞くなら、男を責めるより、女を案じた方が角が立たないものね」
「心配しているふりで?」
「ふりとは言っていないわ」
「でも、心配だけでもない」
「ええ」
その場にいた何人かは、その意味をすぐに理解した。
女は皿に乗せられやすい。
被害者として。
証人として。
恋人として。
婚約者として。
家に迎えられる者として。
家から奪った者として。
どの名で呼んでも、皿は皿だった。
「お嬢さんは、何を見たのかしら」
誰かが言った。
「もし帰ってきたら、聞くつもり?」
「聞かないわ」
「でも、知りたい」
「それが一番悪いのよ」
女たちはまた小さく笑った。
その笑いは、さえずりに似ていた。
小鳥が餌をついばむように、誰かの家の崩れた音を、少しずつ口に運んでいた。
その時、まだ誰もその食卓に名前をつけてはいなかった。




