↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/54

名付けのお嬢さん、あるいはご婦人の呼び名

社交界では、誰をどう呼ぶかも大切なこと。


今回は、女性たちのおしゃべりから始まる名付けのお話です。


料理人のお嬢さんは、人を見るときも少しばかり独特なようで。

 グラスの気泡が落ち着いてきた頃、女性たちの輪は少しやわらかくほどけていた。

 話題は服や花から、自然に人の印象へ移っていく。


「あの方は『歩く薔薇園ね』」

「薔薇園というより『剪定鋏を持った花』でしょう」

「なるほど。近づくと少し痛いけど、正解ではあるのよね」


 小さな笑いが起きる。


「では、あちらの若い方は?」

「銀の燕」

「少し褒めすぎではなくて?」

「でも、落ち着きなく飛ぶでしょう」

「それは燕ではなく雀ね」


 お嬢さんは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ彼の言葉を思い出していた。


 ――いい加減なことを言うと、噂になるぞ。

 ――お前の仕事のことだから、そのうち物騒なあだ名になる。


 なるほど、とお嬢さんは思った。


 ここでは、人は本名だけで呼ばれるわけではないらしい。

 服の色、立ち方、笑い方、グラスの持ち方。

 誰の言葉にだけ、ほんの少し目を向けるか。

 そういうものを拾い上げて、別の名前にする。


 悪口というほどではない。

 褒め言葉というほど、綺麗でもない。

 その人をどう見ているかを、短い言葉にして皿の上へ置くような会話だった。


 少し、料理に似ている。


「そういえば、あの方って、内輪では何て呼べばいいのかしらね」

「誰のこと?」

「ほら、ご婦人よ。いつも黒い装いの……バロックパールが美しい……。名前で呼ぶには少し近すぎるし、奥様では何か違うし」

「ああ……たしかに。変に愛称をつけたら失礼になりそうなのよね」

「というか、怖くてつけられないのよ」


 また笑いが起きる。

 けれど今度は怯えが潜んでいる。


「影では血の貴婦人くらいしか思いつかないわ」

「それはちょっと物騒すぎない?」

「でもわかるでしょう?ワインの色も、言葉の選び方も、少し血を連想させるもの」

「しかも、綺麗なのよね。嫌な感じじゃなくて、ちゃんと貴婦人なのが余計に怖いの」


 血。

 たしかに、外から見ればそうかもしれない。


 ご婦人と彼と、馬を見に行ったことがある。

 その後に、お肉も食べた。

 あの時の会話を思い出す。


 ――あなたなら血の色を決められそうね。

 ――死肉は料理に使えなくってよ。


 ご婦人は、血の色を怖がらない。

 肉の話を冗談にもしない。

 森や海の奥からこちらを見ていた捕食者が、もし知性と美しさを持って人の形を選んだなら、きっとああなる。

 と、あの時、腑に落ちた。


 けれど、それだけではない。

 捕食者は、人の手に負えないままだからこそ捕食者でいられる。


 ご婦人のバロックパールが脳裏をよぎる。

 不定形の光の輪郭。

 不安定に重ねた層。

 けれどそこに見立てが入り、唯一の台座を得ることで、美しく仕上がる。


 と同時に、ご婦人には、誰かの台座に乗ることを嫌う節がある。


 けれど、何にも触れずに転がっているだけの人でもない。

 自分のまわりに場を作り、人を集め、美しいものを置く。

 そうすることで、自分自身はまだ、台座に乗る前のままでいられる。


 だから、血では少し赤すぎる。

 それでは、あの人を物騒な色に閉じ込めてしまう。


 あの人の赤は、もっと新鮮で、芳しいものだ。

 もし、その赤が形を選ぶなら。


 お嬢さんは、少しだけ考えてから口を開いた。


「『ルースのご婦人』でもいいかもしれません」


 場がほんの一瞬だけ静かになる。


「ルース?台座に乗る前の宝石よね」

「ええ。完成品には、あまり興味がなさそうなんですよね」

「どういう意味?」


 彼女は言葉を選びながら続けた。


「仕上がり切ったものより、まだ余白のあるもののほうがお好きそうです。人でも、物でも。完成されて動かないものより、これからどう仕立てるか考えられるもののほうが」

「まあ……」

「それ、少しわかる気がするわ」

「原石、ではないのね?」

「原石だとまだ荒すぎるでしょう。ご婦人が見ているのは、もう価値はあるけど、まだ台座に乗っていないもののほうです。だからルース」


 別の女性が感心したように息をつく。


「なるほどね。血の貴婦人は、外から見た印象。ルースのご婦人は、少し近くで見た印象って感じね」

「ご自身もたぶん、完成品みたいに扱われるのは、あまりお好きじゃないと思います」

「どうして?」

「固定されるのを嫌いそうだからです。あの方、ご自分の置き場所を人に決めさせないでしょう?」


 その一言に、何人かが同時に頷いた。


「それはそう」

「たしかに、いつも少しだけ枠の外にいる感じがする」

「あなた、あの方のことをちゃんと見てるのね」


 彼女は軽く肩をすくめた。


「お食事の好みでも、わりと出ますから」

「そこへ戻るのね」

「だってわかりやすいでしょう。完成されすぎた味より、少し癖のあるものをお好きですよ。綺麗なだけじゃなくて、後から少し残るもの」

「人の好みも同じだと?」

「だと思います」


 また小さく笑いが広がる。

 その輪の中で、ふと別の女性が思いついたように言う。


「じゃあ、あの若い二人は?」

「花束みたいな二人」

「それは見たまますぎるわ」

「でも綺麗よ。花の彼とお嬢さんでしょう?」

「小熊くんとお嬢さん、でも通じるわね」


 彼女はその呼び方に、ふわりと口元をゆるめた。


「小熊ちゃん、は私だけですけど」

「まあ、そこは分かれてるのね」

「ええ。ちゃん付けは、少し私的すぎるので」

「いいわね、そういう線引き」

「では、あなた自身は?あなたもだいぶ面白いもの。候補くらい出るでしょう?」


 女性たちがわくわくした顔になる。


「白磁のお嬢さん」

「銀匙のシェフ」

「舌先のレディ」

「火入れの料理人」


 彼女は少し困ったように笑った。


「最後の二つは、少し厨房に近すぎますね」

「あなた、厨房のにおいが抜けないもの」

「それはそうですね」

「じゃあ自分では?」

「私ですか?」

「ええ。自分につけるなら、何がいい?」


 彼女は目だけ上を向いて考えた。


「……まだ、料理人でいいです」

「まあ」

「欲がないのね」

「欲がないわけではないですよ。ただ、今はそれで十分なので」


 その言葉に、また静けさが落ちる。


 そして今度は、誰かが少し声をひそめて言った。


「じゃあ、あの方に『ルースのご婦人』って、いつか本人に伝えるの?」


 お嬢さんはグラスを置きながら答える。


「たぶん、もう耳には入ってると思います」


 一拍遅れて、全員が笑った。


「それもそうね」

「地獄耳ですもの」

「怖いわ」


 お嬢さんはその笑いの中で、わりと本気で頷く。


「ええ。でも、嫌いではないですよ」

「ロールモデル?」

「そこまで綺麗なものでもないですけど」

「でも、参考にはなる」

「はい。かなり」




 そこへ、人の流れが変わった。

 ご婦人が輪の外から、こちらへ戻ってくるのが見える。


 全員がほんの少しだけ姿勢を正す。

 ご婦人は何事もなかったように微笑んで、輪の中へ入ってきた。


「楽しそうね。何のお話?」


 一瞬の沈黙。

 その沈黙を見て、ご婦人が唇だけで笑う。


「あら。人に聞かせられないようなお話?」


 お嬢さんはそこで、いちばん自然な顔をして答えた。


「ええ。ご婦人の渾名を考えていたんです」


 周りが、緊張ごと息をのむ。

 ご婦人だけが嬉しそうに眉を上げた。


「まあ。それは光栄ね。で、何になったのかしら?」


 彼女は、少しもためらわずに言う。


「『ルースのご婦人』です」


 ご婦人は一度だけ目を伏せる。

 しばしの沈黙。


 次に顔を上げた時には、もう笑っていた。


「あら、悪くないわ」


 バロックパールが跳ねる。


「完成品より、そちらのほうが夢があるでしょう?」


 その一言で、さっきまでの緊張がほどける。


 でもその場にいた全員が、同時に思う。

 やっぱりこの人は怖い。

 けれどとても嬉しそうだった、とも。




 少し経ってから、彼が壁際でその話を耳に入れた。

 

 年上の男が軽く肩を寄せてきて言う。


「おい」

「何です?」

「ご婦人に新しい名前がついたぞ」


 彼は嫌な予感しかしない顔で、ゆっくりそちらを見る。


「……何と」

「ルースのご婦人、だと」


 一拍、止まる。


「ルース?」

「宝石の、台座に乗る前のやつだ」

「知ってる」


 そこで会話は終わってもよさそうなのに、終わらない。

 頭の中でだけ、静かに回り始める。


 台座に乗る前。

 完成品ではない。

 でも価値はある。

 まだ形を決めきらない。

 誰のものにもなっていない。


 その一つ一つが、ご婦人の黒い輪郭にぴたりとはまる。


 少しだけ眉を寄せた。


「……誰が言った」

「お前のところのお嬢さん」

「俺のところじゃない」

「そこは今どうでもいい。で、言われたご本人、ずいぶん機嫌がよかったぞ」


 彼は何も返さない。

 その沈黙を面白がるように、男は続ける。


「当たってるんだろうな」


 彼はようやく低い声で言った。


「……当たりすぎてる」

「へえ」

「完成品には興味がない。でも価値のあるものは見抜く。固定されるのは嫌う。ただし、自分で場は選ぶ」


 言葉にしながら、自分で少し嫌になる。

 考えすぎているのはわかっている。

 でもたぶん、ずれていない。


「お前、そういうとこだけ急に饒舌だな」


 彼は答えない。


 その時ちょうど、ご婦人のほうから笑い声が上がる。

 大きくはない。

 でも、かなり機嫌のいい音だとわかる。


 そちらを見る。

 ご婦人はかを言いながら、彼女のグラスに軽く触れている。

 彼女も穏やかに笑っている。

 その光景が、彼には妙に完成されて見えた。


「……あいつ、そんな名前つけるのか」


 男が首を傾げる。


「悪い意味じゃないんだろ?」

「むしろかなり正確だ」

「褒めてるのか」


 彼は少し黙ってから答える。


「たぶん」

「たぶん?」

「たぶん、かなり」


 男は吹き出した。


「じゃあ、いいじゃないか」

「よくない」

「なんでだ?」


 彼はまた少し黙る。

 それから、あまり気乗りのしない声で言う。


「……俺がその意味をわかるからだ」

「意味がわかるとまずいのか?」

「まずい」

「なんでだよ」


 一瞬、目が泳ぐ。


「言葉にされると、逃げ場がなくなる」


 男はしばらく黙っていたが、やがて妙に納得したように頷いた。


「なるほどな。お前のとこのお嬢さん、やっぱり容赦ないな」

「だから俺のところじゃない」

「いや、そこはもう遅いだろ」


 彼はそれにも反論しない。

 そのかわり、輪の向こうにいる彼女を見たまま、呟くように言う。


「……あいつ、どこまで見えてるんだ」


 男はグラスを揺らしながら答える。


「少なくとも、お前よりは先だろうな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。