名付けのお嬢さん、あるいはご婦人の呼び名
社交界では、誰をどう呼ぶかも大切なこと。
今回は、女性たちのおしゃべりから始まる名付けのお話です。
料理人のお嬢さんは、人を見るときも少しばかり独特なようで。
グラスの気泡が落ち着いてきた頃、女性たちの輪は少しやわらかくほどけていた。
話題は服や花から、自然に人の印象へ移っていく。
「あの方は『歩く薔薇園ね』」
「薔薇園というより『剪定鋏を持った花』でしょう」
「なるほど。近づくと少し痛いけど、正解ではあるのよね」
小さな笑いが起きる。
「では、あちらの若い方は?」
「銀の燕」
「少し褒めすぎではなくて?」
「でも、落ち着きなく飛ぶでしょう」
「それは燕ではなく雀ね」
お嬢さんは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ彼の言葉を思い出していた。
――いい加減なことを言うと、噂になるぞ。
――お前の仕事のことだから、そのうち物騒なあだ名になる。
なるほど、とお嬢さんは思った。
ここでは、人は本名だけで呼ばれるわけではないらしい。
服の色、立ち方、笑い方、グラスの持ち方。
誰の言葉にだけ、ほんの少し目を向けるか。
そういうものを拾い上げて、別の名前にする。
悪口というほどではない。
褒め言葉というほど、綺麗でもない。
その人をどう見ているかを、短い言葉にして皿の上へ置くような会話だった。
少し、料理に似ている。
「そういえば、あの方って、内輪では何て呼べばいいのかしらね」
「誰のこと?」
「ほら、ご婦人よ。いつも黒い装いの……バロックパールが美しい……。名前で呼ぶには少し近すぎるし、奥様では何か違うし」
「ああ……たしかに。変に愛称をつけたら失礼になりそうなのよね」
「というか、怖くてつけられないのよ」
また笑いが起きる。
けれど今度は怯えが潜んでいる。
「影では血の貴婦人くらいしか思いつかないわ」
「それはちょっと物騒すぎない?」
「でもわかるでしょう?ワインの色も、言葉の選び方も、少し血を連想させるもの」
「しかも、綺麗なのよね。嫌な感じじゃなくて、ちゃんと貴婦人なのが余計に怖いの」
血。
たしかに、外から見ればそうかもしれない。
ご婦人と彼と、馬を見に行ったことがある。
その後に、お肉も食べた。
あの時の会話を思い出す。
――あなたなら血の色を決められそうね。
――死肉は料理に使えなくってよ。
ご婦人は、血の色を怖がらない。
肉の話を冗談にもしない。
森や海の奥からこちらを見ていた捕食者が、もし知性と美しさを持って人の形を選んだなら、きっとああなる。
と、あの時、腑に落ちた。
けれど、それだけではない。
捕食者は、人の手に負えないままだからこそ捕食者でいられる。
ご婦人のバロックパールが脳裏をよぎる。
不定形の光の輪郭。
不安定に重ねた層。
けれどそこに見立てが入り、唯一の台座を得ることで、美しく仕上がる。
と同時に、ご婦人には、誰かの台座に乗ることを嫌う節がある。
けれど、何にも触れずに転がっているだけの人でもない。
自分のまわりに場を作り、人を集め、美しいものを置く。
そうすることで、自分自身はまだ、台座に乗る前のままでいられる。
だから、血では少し赤すぎる。
それでは、あの人を物騒な色に閉じ込めてしまう。
あの人の赤は、もっと新鮮で、芳しいものだ。
もし、その赤が形を選ぶなら。
お嬢さんは、少しだけ考えてから口を開いた。
「『ルースのご婦人』でもいいかもしれません」
場がほんの一瞬だけ静かになる。
「ルース?台座に乗る前の宝石よね」
「ええ。完成品には、あまり興味がなさそうなんですよね」
「どういう意味?」
彼女は言葉を選びながら続けた。
「仕上がり切ったものより、まだ余白のあるもののほうがお好きそうです。人でも、物でも。完成されて動かないものより、これからどう仕立てるか考えられるもののほうが」
「まあ……」
「それ、少しわかる気がするわ」
「原石、ではないのね?」
「原石だとまだ荒すぎるでしょう。ご婦人が見ているのは、もう価値はあるけど、まだ台座に乗っていないもののほうです。だからルース」
別の女性が感心したように息をつく。
「なるほどね。血の貴婦人は、外から見た印象。ルースのご婦人は、少し近くで見た印象って感じね」
「ご自身もたぶん、完成品みたいに扱われるのは、あまりお好きじゃないと思います」
「どうして?」
「固定されるのを嫌いそうだからです。あの方、ご自分の置き場所を人に決めさせないでしょう?」
その一言に、何人かが同時に頷いた。
「それはそう」
「たしかに、いつも少しだけ枠の外にいる感じがする」
「あなた、あの方のことをちゃんと見てるのね」
彼女は軽く肩をすくめた。
「お食事の好みでも、わりと出ますから」
「そこへ戻るのね」
「だってわかりやすいでしょう。完成されすぎた味より、少し癖のあるものをお好きですよ。綺麗なだけじゃなくて、後から少し残るもの」
「人の好みも同じだと?」
「だと思います」
また小さく笑いが広がる。
その輪の中で、ふと別の女性が思いついたように言う。
「じゃあ、あの若い二人は?」
「花束みたいな二人」
「それは見たまますぎるわ」
「でも綺麗よ。花の彼とお嬢さんでしょう?」
「小熊くんとお嬢さん、でも通じるわね」
彼女はその呼び方に、ふわりと口元をゆるめた。
「小熊ちゃん、は私だけですけど」
「まあ、そこは分かれてるのね」
「ええ。ちゃん付けは、少し私的すぎるので」
「いいわね、そういう線引き」
「では、あなた自身は?あなたもだいぶ面白いもの。候補くらい出るでしょう?」
女性たちがわくわくした顔になる。
「白磁のお嬢さん」
「銀匙のシェフ」
「舌先のレディ」
「火入れの料理人」
彼女は少し困ったように笑った。
「最後の二つは、少し厨房に近すぎますね」
「あなた、厨房のにおいが抜けないもの」
「それはそうですね」
「じゃあ自分では?」
「私ですか?」
「ええ。自分につけるなら、何がいい?」
彼女は目だけ上を向いて考えた。
「……まだ、料理人でいいです」
「まあ」
「欲がないのね」
「欲がないわけではないですよ。ただ、今はそれで十分なので」
その言葉に、また静けさが落ちる。
そして今度は、誰かが少し声をひそめて言った。
「じゃあ、あの方に『ルースのご婦人』って、いつか本人に伝えるの?」
お嬢さんはグラスを置きながら答える。
「たぶん、もう耳には入ってると思います」
一拍遅れて、全員が笑った。
「それもそうね」
「地獄耳ですもの」
「怖いわ」
お嬢さんはその笑いの中で、わりと本気で頷く。
「ええ。でも、嫌いではないですよ」
「ロールモデル?」
「そこまで綺麗なものでもないですけど」
「でも、参考にはなる」
「はい。かなり」
そこへ、人の流れが変わった。
ご婦人が輪の外から、こちらへ戻ってくるのが見える。
全員がほんの少しだけ姿勢を正す。
ご婦人は何事もなかったように微笑んで、輪の中へ入ってきた。
「楽しそうね。何のお話?」
一瞬の沈黙。
その沈黙を見て、ご婦人が唇だけで笑う。
「あら。人に聞かせられないようなお話?」
お嬢さんはそこで、いちばん自然な顔をして答えた。
「ええ。ご婦人の渾名を考えていたんです」
周りが、緊張ごと息をのむ。
ご婦人だけが嬉しそうに眉を上げた。
「まあ。それは光栄ね。で、何になったのかしら?」
彼女は、少しもためらわずに言う。
「『ルースのご婦人』です」
ご婦人は一度だけ目を伏せる。
しばしの沈黙。
次に顔を上げた時には、もう笑っていた。
「あら、悪くないわ」
バロックパールが跳ねる。
「完成品より、そちらのほうが夢があるでしょう?」
その一言で、さっきまでの緊張がほどける。
でもその場にいた全員が、同時に思う。
やっぱりこの人は怖い。
けれどとても嬉しそうだった、とも。
少し経ってから、彼が壁際でその話を耳に入れた。
年上の男が軽く肩を寄せてきて言う。
「おい」
「何です?」
「ご婦人に新しい名前がついたぞ」
彼は嫌な予感しかしない顔で、ゆっくりそちらを見る。
「……何と」
「ルースのご婦人、だと」
一拍、止まる。
「ルース?」
「宝石の、台座に乗る前のやつだ」
「知ってる」
そこで会話は終わってもよさそうなのに、終わらない。
頭の中でだけ、静かに回り始める。
台座に乗る前。
完成品ではない。
でも価値はある。
まだ形を決めきらない。
誰のものにもなっていない。
その一つ一つが、ご婦人の黒い輪郭にぴたりとはまる。
少しだけ眉を寄せた。
「……誰が言った」
「お前のところのお嬢さん」
「俺のところじゃない」
「そこは今どうでもいい。で、言われたご本人、ずいぶん機嫌がよかったぞ」
彼は何も返さない。
その沈黙を面白がるように、男は続ける。
「当たってるんだろうな」
彼はようやく低い声で言った。
「……当たりすぎてる」
「へえ」
「完成品には興味がない。でも価値のあるものは見抜く。固定されるのは嫌う。ただし、自分で場は選ぶ」
言葉にしながら、自分で少し嫌になる。
考えすぎているのはわかっている。
でもたぶん、ずれていない。
「お前、そういうとこだけ急に饒舌だな」
彼は答えない。
その時ちょうど、ご婦人のほうから笑い声が上がる。
大きくはない。
でも、かなり機嫌のいい音だとわかる。
そちらを見る。
ご婦人はかを言いながら、彼女のグラスに軽く触れている。
彼女も穏やかに笑っている。
その光景が、彼には妙に完成されて見えた。
「……あいつ、そんな名前つけるのか」
男が首を傾げる。
「悪い意味じゃないんだろ?」
「むしろかなり正確だ」
「褒めてるのか」
彼は少し黙ってから答える。
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶん、かなり」
男は吹き出した。
「じゃあ、いいじゃないか」
「よくない」
「なんでだ?」
彼はまた少し黙る。
それから、あまり気乗りのしない声で言う。
「……俺がその意味をわかるからだ」
「意味がわかるとまずいのか?」
「まずい」
「なんでだよ」
一瞬、目が泳ぐ。
「言葉にされると、逃げ場がなくなる」
男はしばらく黙っていたが、やがて妙に納得したように頷いた。
「なるほどな。お前のとこのお嬢さん、やっぱり容赦ないな」
「だから俺のところじゃない」
「いや、そこはもう遅いだろ」
彼はそれにも反論しない。
そのかわり、輪の向こうにいる彼女を見たまま、呟くように言う。
「……あいつ、どこまで見えてるんだ」
男はグラスを揺らしながら答える。
「少なくとも、お前よりは先だろうな」




