勤務 シガールーム、あるいはコイントス
「ならこの手紙で煙草でも巻くか」
「それでしたら、一発殴っていただきたいですね」
使者は言った。
「成果ゼロなら、ゼロの証拠が欲しいのです」
いつもの社交場、いつものグラス、そして酒。
お嬢さんはいつものように、女性陣の輪の中で笑っている。
よく見ると、さっき飲んでいたグラスと、酒の色が違う。
しかも量が減っている。
メイン会場の角打ちで振る舞われる酒の料金は、年会費に含まれるため無料だ。
さらに、ご婦人のルースである自分とパートナーである彼女は、それすら免除されている。
それにしても飲みすぎだろう、と彼は一杯目の自分のグラスを揺らしながら思う。
彼女のそれは、遠慮のなさではない。
あの飲み方は遠慮というジャンルではない。
そういう生き物だ。
とはいえ普段、自宅ではそこまで飲んでいない。
やはり社交界という空気が、そうさせるのだろうか。
立食というのも、影響しているのかもしれない。
などと考えながら、彼は自分のグラスを空にした。
すぐに銀のトレイを持ったスタッフが、グラスを下げにくる。
トレイにはチーズやオリーブ、カットフルーツなどのつまみものが、ピックに刺さって並べられている。
最近は微発泡の酒が増えたせいか、あまり酒は配っていない。
少し考え、マスカットが刺さったピックを取る。
果実だけ口に放り込み、ピックとグラスを渡すと、スタッフは軽く会釈をして去っていく。
その後ろ姿を見ていると、すれ違いに歩いてきた男に焦点が合う。
男はこちらの手が空いているのを見て、そのスタッフを呼び止めた。
自分のグラスの残り少ない酒を飲み干し、それをスタッフに託し、真っ直ぐにこちらに歩いてくる。
年は同じくらいだろうか。
背は自分よりは少し低いが、どこかに座れば誤差だろう。
名前を呼ばれ、初めまして、と手を出される。
初めまして、なのだからもちろん本名だ。
黙ってその手に視線を落とすと、これは失礼、と手を自分の胸に当てる。
それを追うと、自然と目が合った。
男の口が自身の名の形に動き、そして
「ご実家から預かっている物があります」
と言った。
彼と使者の男がシガールームの扉を開ける。
扉を入ってすぐ右手に受付カウンターがあり、その奥に扉が二つ。
一つは葉巻の保管室。
もう一つは隣のバーラウンジへ続いており、廊下に出ることなく出入りが可能。
酒をそちらで購入し、持ち込むことができるようになっている。
そして左手には他の部屋との決定的な相違点。
透明な壁があった。
その向こうには一人掛けの椅子が、丸いローテーブルを挟んで向かい合うように規則的に並んでいる。
もちろん、その配置を変える事は可能だ。
現に一つのテーブルを三人で囲い、口を忙しくしている卓もある。
逆に一人、沈黙と共に足をやや斜めに伸ばしている一角も。
誰が誰の火をつけるか。
葉巻の切り口をどの形にするのか。
火をつける前に香りを確かめるか。
煙をどこへ吐くか。
そんなものが隔離されている。
そして多くのものが年会費に含まれるこの場で、ここは席料が発生する。
無闇に非喫煙者を立ち入らせないためでもあり、酒よりも持ち込みが多いからだった。
葉巻はもちろん、煙草、特にパイプの愛好者などは、ただそれを咥えるだけに立ち入る時もある。
煙はなくとも、煙たがられる。
そんな嗜好は迷惑料を徴収されるのだ。
流石にシーシャを持ち込んだ強者はまだいない。
もちろん多くはカウンターで、葉巻を席料ごと購入する。
彼と使者もそのパターンだ。
カウンターの前に彼が立ち、スーツのポケットからコインケースを取り出す。
使者がそれを一歩下がった所で見る。
後ろではあるが、カウンターの上を見下ろしているのがわかる。
「心配しなくとも、奢りだ」
と彼が声をかけつつ、ケースからコインを二枚取り出した。
一枚は黄色。
もう一枚は赤というよりも、もう少し口元に近い――紅色といったところだろうか。
カウンターの上にはトレイが置かれていた。
葉巻の銘柄、説明、値段、燃焼時間が書かれたシートが敷かれている。
彼が二枚のコインを、とある銘柄の上に滑らせる。
「一本ずつペイで」
スタッフはそれをただ見て、かしこまりました、と背後にある棚から指名された銘柄を探す。
「決済というよりは、カジノチップのようですね」
使者が素直な感想を述べる。
色とりどりのコイン。
日本では禁じられているが、境界を跨ぐだけで合法になる、金を使った遊び。
豪華客船で、波と国境が重なるその瞬間を、待ちわびる人間も多い。
「小銭やカード、スマホを取り出すのは、エレガンスじゃないらしい」
と彼が答えた。
自分で口にしながらも呆れた調子だ。
「ちゃんと決済の機能はある。クレジットと小切手を合わせたようなシステムだと思っておけばいい」
「……紛失した時など、危険なのでは?」
それが社交界、この場でしか使えないとしてもだ。
例えば隣のバーラウンジには、度胸試しとしか思えない金額の酒がある。
うっかり落としたコイン。
酔っ払った勢いでプレゼントしたコイン。
クレジットカードに紐づいた、コインという形をした、金額欄が空白の小切手。
たとえ社交界の決済システムと、クレジットカードのセキュリティーというフィルターを通してもだ。
リテラシーを疑うのに十分な代物である。
彼も妙に真剣に頷く。
「ここの人間は火遊びのきっかけになるなら、それでいいそうだ」
スタッフが、ご用意ができました、と葉巻をカウンターに置いた。
プレミアム・シガー。
国鳥の名前を冠した葉巻。
燃焼時間は約十五分。
葉巻としては、やや短い銘柄だった。
葉巻二本と、カッター、マッチ、灰皿を携え、ガラスの向こう側に移動する。
一番奥の角には先客がいた。
その卓とは二席ほど空け、まず彼が奥に座る。
異論はない。
使者は手前の椅子に腰を下ろした。
と同時に無言で内ポケットから、一通の手紙を取り出し、テーブルの上に置く。
葉巻の燃焼時間は十五分だが、それは火をつけてからの話だ。
歓迎されてないのはわかっている。
だから先に出しておく。
延長戦はない。
彼も特に驚く風でもなく、無言でその手紙を見下ろす。
白い封筒。
ワックスで封をされた手紙。
人に見せつけるための仕様だ。
それを使者はわざわざ、見せるために、見える位置に、目立つタイミングで置いたのだ。
無礼を承知の上で。
「あなたとパートナー宛てです」
「ここで渡せば、噂話になる、か」
「必ず彼女の耳に入る、です」
「お嬢さんか?ご婦人か?」
「両方です」
吸い口をギロチン式カッターで切る。
長いマッチに火をつけ、葉巻に火をつける。
タバコとは違う。
いきなり咥えて火を吸い込むような真似はしない。
葉巻本体を手に持ち、まずは底面を満遍なく炙る。
それから口に咥え、回しながらゆっくりと火を整える。
「あなた、ご実家からの連絡を、全て無視していらっしゃるでしょう」
「怪しい郵便物には返信しないようにしている」
架空請求が怖いからな、と葉巻を咥えながら言う。
使者も同じように唇で挟み、吸う。
肺には入れない。
口の中で舌を丸め、煙を絡めた後、ゆっくりと吐き出した。
良いものだ。
甘さも刺激も上品で、さきほど飲んでいた酒の余韻とも喧嘩をしない。
まぁ喫煙者の意見ではあるが。
「悲しんでおられる」
「その言い方だと母からだな」
彼は椅子の背もたれに体重をかけ、天井へ煙を逃す。
「あの人はいつもそうだろ。いちいち付き合ってはいられない」
「付き合わざるを得ない人間もいる。私のように」
「そんなに長い付き合いなのか?」
「私よりは、父が、ですが」
「それなら、あんたの父親が来たらよかった」
使者が眉を跳ね上げる。
「私では不足でしたか?」
「いや。手間が省けた、と思っただけだ」
どういうことか、と使者が問おうとしたところで、天井あたりから音楽が流れた。
控えめなオルゴールの音色。
聞こえる人間、心当たりのある人間の耳が動く。
――〇〇のボトルにコイントスされたお客様。開栓に入ります。至急、バーラウンジまでお越しください。開栓に立ち会われない場合は、パスとして処理いたします。なお、コインはゼロ円で決済され、コインは返却されません。あらかじめご了承ください――
彼が一瞬、バーラウンジに続く扉を見る。
その視線を男は思わず追う。
同じように視線を動かす者、葉巻の残りを気にする者、腰を浮かす者、そして右耳と左耳の向きが違う者。
「安いな」
「え?」
「まだ情報が安い」
彼の言葉に、煙以外の動きが止まった。
だが椅子か扉か、視線が揺れているのが分かる。
誰かが咳払いをした。
続いて、どこかでキィンという金属音。
煙を吸い込む音。
ジャケットの襟を整え、椅子に深く沈み込む音。
足を組み直す時の布の音。
使者が意味を考えていると、彼が打ち切る。
「いや、いい。こちらの話だ」
使者は少し気に入らない。
葉巻を吸う。
煙で舌を落ち着かせてから言う。
「また、私に聞こえない話なのですね」
「耳の話か?文脈の話か?」
「どちらも、です。耳がよくなければ、アクセスすらできない」
口と言葉から煙が漏れる。
「もう大人だろ。聞こえても義務や責任、意味が増えるだけだ」
「それでも、見つけられる人間の方がいい。見つけてもらうのをただ待つよりは」
「そうか」
彼からのひどくあっさりとした返事に、使者は息を吐き出し損ねる。
うっかり煙を飲み込んでむせた。
肺はもちろん、鼻の奥が燻される。
目的から離れ過ぎた。
「今、ご実家が揺れています。戻ってきて欲しい、と。彼女を連れて」
彼がゆっくりと、葉巻の煙を吐き出す。
「それは俺の父も、同じ意見か?」
「手紙に書いてあるのでは?」
「知ってるような口ぶりだった」
「伝えてほしい、と言われたことを言っています」
「持ち帰ろ、とも言われているはずだ」
でないと、恥を忍んで直接ここへ人を寄越した意味がない。
と彼が指で挟んだ葉巻をかざし、落ちずに残った灰の長さを見る。
もちろん使者に、見ろ、と言っている。
灰の長さと残り時間を。
だが使者はそれに焦点を合わせず、煙の向こうの彼から目を離さない。
使者が見たいのは、彼が手紙を開けるところ、だ。
可能であれば、その後に万年筆を走らせるところも。
しばらく沈黙が続いた。
葉巻は一分ほどの間を置きながら、ゆっくり吸う。
長く放置すれば火は弱まり、やがて自然に消える。
たとえまだ残っていたとしても。
打つ手がなくても、黙っているという選択肢はない。
「……あなたが戻ることを、私も望んでいます。こう見えて」
「なぜ?」
「外に出るのは怖いからです。同じ条件の仕事を探すのは難しい」
「俺の秘書のポストでも見せられたか?」
「どうせリスクの高い仕事なら、その方がマシでした」
「なぜ過去形だ?」
「今、いささかマシ、になったからです」
葉巻の香りが漂う。
原始的でシンプルな作りに見えて、実は何種類もの葉が巻かれている。
火をつけてから、時間経過とともに味、香りが変化する。
「今日、誰の顔で来ているのかは知らないが」
と彼がテーブルに黄色のコインを置く。
「次はこのコインを使ってみろ」
なんの冗談だ、と使者は思って、彼を見る。
彼の口元には、いつの間にか葉巻が戻っている。
吸っている。
なら答えてはくれない。
自分もまた同じように咥え、ニコチンを摂取する。
そして考えた。
使うも何も、ここには顔の紹介がないと立ち入れない。
会員になるための方法は、今回、顔に渡した報酬の中には入っていない。
流石に極秘なのだという。
金では教えられないと言われた。
それでは割に合わないらしい。
自分に、次はない。
次に繋げる予算も、予算を引き出すための理由も用意できない。
他の顔を見つけるにも、この場でのやり取りは、すぐに噂になるだろう。
それでも顔を買って出る奴がいたら、危ない。
使者は置かれたコインを摘み上げる。
先ほど、葉巻を購入する時にも見た、黄色のコインだ。
金属ではできていない。
プラスチックと樹脂の間。
シーリングワックスのような柔らかさもある。
表面に花。
裏面に綿毛の意匠があった。
表裏を確認して、意味がわかる。
タンポポのコインだ。
「どこで何に使えばよろしいので?」
「まかせる」
「困るのですが」
確かにこのコインには決済の機能がある。
だがそれは社交界の大きな決済システムと、個人データの上に載っているからだ。
外ではただのオモチャのコインだ。
違法カジノでもゲームセンターでも使えない。
しかも、と先ほどのアナウンスを思い返す。
このコインはゼロ円決済でも回収される。
ゼロ円では何も買えない。
何も得られないまま、失う。
バグではなく、仕様として、処理される。
「手紙は確かに受け取った」
彼女と一緒に封を開ける。
との返事に、使者は眉を寄せる。
「それも困ります」
それでも声は荒げない。
「ならこの手紙で煙草でも巻くか」
「それでしたら、一発殴っていただきたいですね」
使者は言った。
「成果ゼロなら、ゼロの証拠が欲しいのです」
「コイン以外にか?」
「……コインはゼロでも決済される」
用途はどうであれ、決済額がゼロであれ、このコインは使ったら消える。
証明に使っては、きっと戻ってこない。
使用後に手元に残ったとしたら、それはどこかにツケが回った可能性を考えないといけない。
「気づいたか」
「このコインは使える場があって、初めて真価を発揮する。あなたのご実家ではないことは確かだ」
言いながら自分が、このコインを使うところを想像してみる。
例えば海外に行った時、その国の経済活動に参加するためにはどうすればいいか?
消費だ。
そしてその参加条件の一つが、そこで流通している通貨を持っていることだ。
通貨は、言葉と似ている。
外国人に道を尋ねられたとして、それが日本語であれば、答えられることは増える。
流暢である必要はない。
少なくとも、言葉が通じないという理由だけで、遠回りをさせることはない。
通貨も同じだ。
先ほどはオモチャと表現したが、社交界という貴族の遊び場であれば、流通している。
そして場に流通しているなら、それを管理することを仕事にしている人間がいる。
権限ではない。
仕事として、だ。
仕事であるなら、客としてサービスの説明を求めることはできる。
今日は、まだ自分は客だ。
そして、コインを持っている。
彼がおもむろに胸ポケットに手をかけるのが目に入った。
花が挿してある。
「母は、まだ自分で花を活けているのか?」
「ええ、ですが、それも駄目です」
「注文が多いな」
「返答を持ち帰ることは、無理そうですので」
それであれば自分でも意味がわかるものは、控えてくれないと困る。
そう言うと、彼が笑った。
「意味がわかるのか?」
「親指ではない、ということくらいは」
依頼主である彼の母親は、タバコの匂いを嫌っている。
もちろん息子である彼も、それを知っているはずだ。
花の香りを確認するであろうことも。
「今日のそれは中指でしょう」
自分もまだ小指が惜しい。
彼が息を吐く。
煙の中に笑いを逃した……そんな感じだ。
「……これも通貨らしいぞ」
と彼は言い、白い楕円の塊を置く。
五センチほどだろうか。
コインと似たような素材で出来ているのはわかる。
中央を縦に、端から端までスリットが走っている。
宝貝に似ていた。
アフリカでは確かに通貨ですが、と男がなんとか低く言う。
「流石に訳のわからないものばかりだ」
彼がそこで、まぁ、それはそうだな、と頷く。
「訳が知りたいなら、一度それも使ってみるといい」
「どこで?」
「賽銭箱の前で」
使者は白い塊と、もう片方の手にある黄色いコインを見比べる。
この二つの通貨としての価値はまだわからないが、使い道はあるようだ。
もう一度アナウンスを思い返してみる。
コイン。
ペイ。
トス。
パス。
ゼロ円決済。
ボッシュートされるコイン。
パスの前に物理的に試せそうなのはトスだろうか。
「もし賽銭箱にトスしたらどうです?」
「勇者になれる」
初対面でも違和感を感じるほどの、即答だった。
どこかのテーブルで、誰かがむせる。
笑いを含んでいた。
それには反応せず、彼は続ける。
「お前を讃えて、ボトルにコイントスすることになるな」
勇者は応援者が多いから、リーズナブルでいい。
と煙と共に続けて、バーラウンジへの扉を顎で指し示してみせた。




