馴れ初め、あるいは喫茶店をする気はなかった
喫茶店をする気はなかった。
身元や生活を少しぼかせる。
工具や部品を置ける。
夜でも作業ができる。
屋上、裏口、出入り口を複数作れる。
仕事場と洗い場を作れる。
事故物件でボロ物件。
多少変な改装をしても目立たない場所だった。
それだけで良かった。
「あの人、古い喫茶店を直してるらしい」
「DIYでリフォームしてるんだって」
「工具とか入れてるみたい」
「まあ、ボロ物件だしね」
噂話も想定通りで問題なかった。
屋上には鳥小屋か何かの跡が残っていた。
木材、金網、餌箱、巣箱、止まり木。
伝書鳩でも飼っていたのかもしれない。
これからは、自分がそこを使うことになる。
もともと、増築と改造を重ねて使われてきた物件らしい。
前時代の名残りのある箱だった。
二層式洗濯機はまだ動いた。
途中で見られる。
止められる。
分けられる。
脱水だけ使える。
直せる。
喫茶スペースはどうでも良かった。
ただ、ピアノが残されていた。
だからそのために、大きく崩す気はなかった。
花を飾れたら良かった。
湯が沸かせて、酒の用意ができたら良かった。
あとは和音が鳴らせれば、数日は自分を保たせられる。
ただあの日、料理人が厨房に立った。
お礼だと言っていた。
勝手に冷蔵庫を開けて、パンを焼いて、サーバーを使わず、ハンドドリップでコーヒーを淹れていた。
皿もカップもミルもドリッパーも、店に残されていたものを使えるようにしていた。
「ペーパーは古いけど、未開封だったからギリギリ使える」
と物騒なことを言っていたのが気になったが、確かに彼女は仕事をしていた。
包丁は研ぎ直して、肉を切れるようにしていた。
錆びついた調理台を拭いて、シンクの中で欠けた食器を洗っていた。
まな板の表面は傷んでいた。
刃が引っかかる板で仕事をするのは危ない。
表面を薄く削って整えてやったら、彼女は喜んだ。
床が傷んでいる。
棚の高さが悪い。
鍋の置き場が足りない。
シンクの角が鋭利だ。
水場から火元までの動線が悪い。
包丁を置く場所が危ない。
屈む動作はさせたくない。
気になるところを直しているうちに、
カウンターの内側はほとんど別物になった。
そして料理人が仕事をするなら、
客を招かないといけない。
だから椅子もソファもテーブルも直した。
窓のガラスを入れ直して、カーテンレールの歪みを正した。
本を選定して、本棚を整えた。
絵本は残した。
ピアノには、調律師を呼んだ。
船の仕事に戻る気はないと言っていた。
「根無草だ」とも。
一度だけ彼女の部屋を見た。
部屋というより、荷物置き場。
布団。
箱。
服。
包丁。
少しの道具。
船で使っていたもの。
生活の気配が薄い部屋。
なによりキッチンに、なんの匂いもなかった。
ここに料理人を立たせるのは、違うと思った。
だから、連れて帰ってきた。
「雇用契約を作る」
「はい?」
「働くならいるだろ」
「私たち、そういう関係だっけ?」
「そういう話もいるだろ」
「住み込みで働くって?」
「必要なら」
「入れるの?」
「入れる」
「真面目なのか、臆病なのか、よくわからない人ね」
と、彼女は笑った。




