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ランチビール、あるいは帰る場所の形について

 喫茶店Somaの客層は三種類。

 社交界、一見さん、常連。


 特に『ランチビールの奥さん』と呼ばれている女性は、常連中の常連だ。

 初老も超えて久しく、少しふくよかで、逆にそれが健康的だった。


 この喫茶店がオープンする前からの客。

 つまり前の店主を知っている人間だった。

 でも、当時の店のことはあまり話す気はないらしい。


 事故物件?

 そうねえ。人が長く使った場所には、いろいろあるわよ。

 でも、喫茶店だったの。

 ちゃんと人が来て、コーヒーを飲んで、子どもが絵本を読んでいた場所よ。


 そんな喫茶店に新しく若い二人が店を開いた。

 彼女は大いに喜び、歓迎し、毎日のように通い、ランチビールを生活習慣に組み込んだのである。


 ただしこの日の昼は、立て看板のパトライトは沈黙していた。

 諦めきれず確認したドアには、臨時休業の札。

 この場合、ほとんどはお嬢さんがいない日だ。


 あら残念。

 今日はお嬢さんの肉オムレツで、ビールが飲みたい気分だったのに。


 仕方ない、カラオケ喫茶にでも行ってストレス解消よ、と思ってはいたものの、彼女の足はパチンコ店へと吸い込まれた。


 お金と時間は、あっという間に溶けた。


 だから帰り道、喫茶店Somaからピアノを弾く音が聞こえた時、ちょっと意地悪な気分になった。


 その音色は曲というほどではない。

 旋律でもない。

 和音だけ。


 この弾き方は若い二人の男性の方、小熊の彼だ。

 店の照明の明るさと、換気扇の匂いからして、まだ厨房に人の気配はない。

 きっとお嬢さんの帰りを一人で待っていて、それで寂しくて弾いているのだ。


 なんだいるんじゃない。

 料理ができないといっても、ビール瓶の栓くらい開けられるでしょ。

 ギャンブルという誘蛾灯に対抗するには、美味しい食事かビールしかないのよ。

 事情を知ってるくせに。


 という半分八つ当たりの心境でドアを強くノックした。


 ピアノの音色が止まる。

 ドア横の窓、カーテンの隙間から店内を覗くと、こちらを振り返る顔が見えた。

 相変わらず顔はいい。


 ノックしたのがお嬢さんでないと気づいたのだろう、みるみる眉間に皺がよる。

 それだけで彼女の心は少し落ち着いたが、少しだけだ。


 ランチビールの奥さんの名にかけて、ビールだけは飲まないとね。

 と彼女はさらにドアを叩いた。


 ちょっとした押し問答の後、無事にカウンター席をゲットした彼女は、ビールと枝豆でご満悦だった。


 この時間だから席料をとるぞ、と言われてはいるが、パチンコですでにお金を溶かしているのだ。

 数百円の席料など誤差。

 散財って楽しい。


 もちろん、若い子との会話も楽しい。

 なによりいくら無愛想とはいっても、若い子というのは可愛いものだ。

 しかも目の前にいる彼は、ちょっと面白い場に出入りしている。


「ねえ」

「何だ」

「社交界って、どんなところ?」


 彼は洗ったグラスを布巾で拭いていた。

 少し考えてから、答える。


「基本はビジネスの交流の場だ。自分が何者で、何ができて、何に価値があるかを示す。それができないと、名前すら呼ばれない」

「名前も?」

「ああ。あの場では、名前は親しさじゃない。席と役割のことだ」

「世知辛いわねえ」

「世知辛い。それから常に品を求められる」

「品?」

「酔っ払いの喧嘩なんて御法度だ。それを止める側にも、品が求められる」

「止める方もなの?」

「正しいかどうかより、場を壊した方が下品とされる。少なくとも、そう噂される」

「面倒ねえ」

「面倒だ」


 奥さんは泡の残ったグラスを軽く揺らした。


「海外の芸能界で、コメディアンに奥さんをジョークのネタにされて、相手を殴った人がいたでしょう」

「……あったな」

「ああいうのも駄目なの?」

「非難されていただろう。あの場であれをやると、侮辱した相手だけじゃなくて、その場にいた客全員に無礼になる。言い返すにしても、やり方がある」

「エレガンスでないと?」

「ああ」


 奥さんはそこで目を細めた。


「あなたは? もし、お嬢さんが侮辱されたらどうするの?」


 彼の手が止まった。

 グラスを拭いていた布巾が、その場に留まる。


「……」

「ヘイヘイ。物理なんて捨てて、かかってこいYO」

「急に何だ」

「若い子が言っていたのよ。煽る時はこう言うんでしょう?」

「どこで覚えた」

「パチンコの台かしら」

「混ざってるな」


 彼はゆっくり息を吐いた。


「……アンガーマネジメントの訓練中なので」


 奥さんは声を立てて笑った。

 店の奥の古いピアノが、少しだけ震えた気がした。


「あんた、意味がわかってないのに笑いすぎだ」

「知ってるわよ。ビジネス用語でしょ?」

「心理学用語だ」

「似たようなものでしょう? 今は殴らない、でも後で裏にこいってことなんだから」

「違う。それを避ける訓練だ……可能な限り」

「あら。難しいことしてるのね」


 最近の子は難しい。

 そんな専門用語を使ってまで、何を頑張る必要があるの?


 と奥さんは思う。

 それともやっぱり私が古いのかしらね。


「そもそも、なんでそんな面倒なところにいるの?」

「お嬢さんの肉の仕事のため」

「肉?」

「本物の肉だ。普通の肉だけじゃなく、ジビエも捌く。あとは出張料理人として解体ショーやプライベートイベント、そういう仕事が回る」

「物騒ねえ。でも料理人なら仕事ね」

「そうだ」

「じゃあ、あなた自身は?」


 彼は言葉を選んでいるようだ。


「知りたいことがある」

「何を?」

「実家の裏周りを少し」

「まあ」


 何か気に入らないことがあるのね。

 いいじゃない。

 男の子はそれくらい気骨がある方が、しっかりするわ。

 カチコミの時は教えてね。


「それと」

「それと?」

「……中毒だから」


 奥さんは、そこで笑わなかった。


「それは、笑うところじゃないわね」

「笑ってもいい」

「笑わないわよ。そういうのは、自分で言えるうちはまだいいの」

「そうなのか」

「たぶんね。私も、明るいところには寄りたくなるから」


 沈黙のなかビールの泡が、静かに消えていく。


「社交界って、怖いところね」

「怖い」

「でも、あなたには必要なのね」

「今はな」

「じゃあ、帰り道も用意しておきなさい」

「帰り道?」

「中毒っていうのは、行く理由より、帰る理由の方が大事なのよ」

「……覚えておく」

「ええ。覚えておきなさい。ビールは昼だけ。社交界は夜だけ。帰る場所は、ちゃんと別にしておくのよ」


 その時、入口のベルが鳴るとともに、勢いよくドアが開いた。


「ただいま戻りましたよっと!」


 お嬢さんだった。

 大きな発泡スチロールのボックスを肩からかけている。

 蓋を無理やり閉めた様子で、その隙間から赤い何かが見えた。


 冷えた肉の匂いと、かすかな血の匂い。


 逆の手のアタッシュケースには、おそらく使った包丁が入っている。

 お嬢さん自身からは、焦げた灰と消毒アルコールの刺激が香った。


「いいお肉をもらってきちゃった」


 声が弾んでいる。


 彼は一瞬だけ、彼女の顔を見た。

 それだけで、何かを確認した顔になる。


「ご婦人の仕事と言っていたな」

「ええ。処理がきれいで、美味しそう」

「その感想は店内で言うな」

「でも、本当にきれいだったの」


 お嬢さんはそこでカウンターの奥さんに気づいたようだ。


「あら、奥さん。今日はお昼閉めててごめんなさい。明日でしたらランチできますので、いらしてくださいね」

「ありがとう、考えておくわね」

「あ、でもこのお肉の煮込みが食べたいなら、お昼はちょっと早いです。今くらいの時間でしたら、黒ビールと一緒にお出しできますよ」


 肉を受け取った彼が、お嬢さんの背中をそっと階段の方へ押しやる。


「シャワーを浴びてこい。服も替えろ」

「はいな」


 お嬢さんは妙に機嫌よく、二階へ上がっていった。


 奥さんは、しばらく階段の方を見ていた。


「ねえ」

「何だ」

「あなた、あの子といて本当に落ち着くの?」


 彼は肉を冷蔵庫へ運びながら頷く。


「落ち着く」

「あれで?」

「あれで」

「血の匂いをさせて、お肉を抱えて、あんなに嬉しそうに帰ってくる子よ?」

「仕事帰りだろ」

「そういうところよ」

「肉がある」

「え?」

「肉のない仕事よりいい」

「……あなたたち、社交界で何をしているの」

「だから、肉の仕事だ」

「言葉通りなのが怖いわ」


 奥さんは空になったグラスを指で軽く叩いた。


「まあ、いいわ。あの子、ちゃんと帰ってきたものね」

「ああ」

「それで、あなたは少し顔がましになった」

「そうか」

「そうよ」


「帰る場所って、変な形をしているのね」

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