密造酒、あるいは素敵な怪異さんの話
私が黒板に気がついたのは、席についてしばらくしてからだった。
メニューの黒板。
ドアの横の壁に貼り付けてあって、カウンターからは身を捻らないと見えない。
なので今まで気づかなかった。
グランドメニュー以外の、おすすめ料理とドリンクが書かれている。
だけどアルコールの項目を読んで、私は少し目を止めた。
「密造酒」
見間違いかと思って、もう一度読む。
やはり密造酒。
しかも続きがあった。
*ありません
一拍おいて、また続く。
*作ったことはあります
私は声を立てずに笑った。
作ったことはあるのね。
正直なお店。
でも読み進めると、だんだん様子が変わってくる。
*過去の話です
*発酵しただけだそうです
*自然現象でした
*↑を利用しました
*ほんとうにありません
*今日は、ありません
*明日も、ありません
私はカップを置いて、カウンターの中にいるお嬢さんを見た。
彼女はこちらをちらとも見ない。
でも気づいているのはわかる。
「これ」と私は言った。
「最初に書いたのはどちら?」
お嬢さんが一瞬だけ手を止める。
それから、忌々しげに答えた。
「この人です」
指を刺した方向から低い声がかぶさる。
「冗談で書いた」
小熊くんだった。
ラフなシャツにエプロン。
彼もまた、こちらを見ていない。
「冗談で書いて、冗談で済まなかったのね」
「注釈が増えただけだ」
「あなたが増やしたんでしょう」
「訂正のつもりだった」
お嬢さんが静かに言う。
「訂正になっていないのが問題なの」
私は黒板へ視線を戻した。
もう一度、ゆっくり読む。
なるほど
小熊くんの密造酒から始まり
お嬢さん
小熊くん
お嬢さん
と注釈のリレーになっているのだ。
微笑ましいタイプのケンカね。
けれど……。
「発酵しただけだそうです」
この一行だけ伝聞調。
他の注釈は言い訳か、打ち消しかのどちらかだけれど、これだけは違う。
これは小熊くんのターンね。
彼が誰かから聞いたのだ。
誰に?
まぁ、そんなの決まってるわよね。
「本当に発酵はしたのね」
小熊くんが少しだけ動きを止める。
お嬢さんは止まらない。
コーヒーを注ぐ手はそのままだ。
小熊くんが口を開きかけた時
「黙秘します」
と、お嬢さんが先に言った。
私はそちらを見る。
少し楽しくなってきた。
「あら、つれない」
お嬢さんは答えない。
小熊くんも黙っている。
その沈黙が面白くて、私はもう少し待つことにした。
やがて小熊くんが、ぼそっと言った。
「……彼女の農業学校時代の話だそうだ」
お嬢さんが、低い声で言う。
「言わなくていい」
小熊くんはそれ以上は答えなかった。
ただ、わずかに口元は動いていた。
何かをこらえているのかもしれない。
「農業学校」と私は繰り返した。
「そこで密造酒を……」
「ただ発酵しただけです」
お嬢さんが、被せてきた。
でもこれは言い訳ではない。
事実は事実だけど、過去の話です。
と念を押しているのだ。
しばらく黙って、黒板を見る。
なるほど、と思う。
小熊くんは彼女から聞いた言葉を、そのまま黒板に書いた。
お嬢さんはそれを注釈で対処しようとした。
そしてお互いに後に引けなくなって、増えた。
これは面白い。
かなり面白い。
私は席を立って、黒板の前へ行った。
「少しだけ、足してあげるわ」
小熊くんが止める。
「やめろ」
「もう書いているわよ」
チョークは黒板に備え付けてあった。
私はゆっくり書いた。
*吸血鬼も首っ丈です
小熊くんの「最悪だ」という声が聞こえた。
お嬢さんは無言で厨房から出てきて、私からチョークを取り返す。
そしてすぐ下に書き足した。
*人間にも出しません
私はそれを見て、本当に声を立てて笑った。
「あら、その返しが好きよ」
「お返しです」
「誰への?」
お嬢さんは少しだけ間を置いてから、答えた。
「両方への」
小熊くんが黒板を見たまま、低く言う。
「『にも』って何だ」
「吸血鬼にも人間にも出さない、ということでしょう」
と私は代わりに答えた。
「なんで補足してるんだ」
「楽しいから」
店の中にいた客たちが、もう笑いをこらえきれない様子だった。
私は席へ戻る前に、もう一度だけ黒板を見た。
密造酒
*ありません
*作ったことはあります
*過去の話です
*発酵しただけだそうです
*自然現象でした
*↑を利用しました
*ほんとうにありません
*今日は、ありません
*明日も、ありません
*吸血鬼も首っ丈です
*人間にも出しません
悪くないわ。
むしろいい。
「でも、消さないってことは、お嬢さんも気に入ってはいるのでしょう?」
この長さのレスバトルは、きっと1日だけのものではない。
小熊くんがお嬢さんを見る。
お嬢さんは目を天井に泳がす。
小熊くんは小さく息をついて、それから言った。
「……消しても、復活する」
店内の空気が、ほんの少しだけ変わる。
カウンターの男性客が本を閉じた。
若い男女が、互いに顔を見合わせた。
お嬢さんが、少しだけ声を潜めて小熊くんに言う。
「あなたが事故物件なんて買うから」
「怪異が出るとは聞いてない」
少し話の毛色が変わったわね。
小熊くんの口から怪異なんて……。
これは真面目に聞いたほうが、いいかもしれない。
「どういうこと?」
「そのままの意味だ。全部消しても数日以内には、注釈ごと復活する」
「……どちらかが書いてるのでは?」
「検証はした」
深いため息。
「社交界に出かける前に消して、帰ってきた時には元に戻っていた」
「黒板のやつだけなら、燃やしてみてもいいんですけど」
ん? ちょっと待って。
「……他にもあるの?」
「ええ、トイレに」
「あれは焼却したが、無理だった」
「今もまだ?」
二人が黙る。
それが答え。
私は席を立った。
喫茶店の奥。
2階へ上がる階段の手前のドアを開ける。
中に入るまでもなかった。
扉の内側にメモが貼られている。
これはプリンターで印刷されたように見える。
書かれている内容を読み上げる。
立てばイケメン
座れば意味深
歩く姿は都市伝説
「よくわかってるじゃない」
もう笑いを堪えることはできなかった。
花の小熊を、花の諺で例えるなんて、なかなかセンスがある。
これは大丈夫なやつだわ。
多分ね。
何故って?
面白いからに決まってるじゃない!
カウンターに戻る。
二人は心なしか、ぐったりしているように見えた。
何より小熊くんが、笑ってる私を咎めない。
お嬢さんが諦めたように言う。
「まぁ、厨房や他の階層には現れない現象なので、放置してます」
「あら、一線のある怪異さんなのね」
そうね、諦めも肝心よ。
でもせっかくだから……。
「消せないなら、作ってしまえばいいのよ」
「何をですか?」
「密造酒」
「……なんとなく、そうおっしゃるとは思ってました」
「ふふふ、話が早くていいわ」
「カクテルなら試作してます」
「今飲めたりする?」
「まだもう少し熟成させたいですね」
あらあら、素敵じゃない!
小熊くんが珍しく
「……夜、パトライトが蛍みたいに明滅してたら、入ってきていい」
と私を誘う。
「その時間は、お嬢さんの実験タイムだ」
「私がお邪魔しても、いいのかしら?」
「……俺だけだと胃がもたない」
「人助けもできるのね」
「俺の許可制だ。あと不定期だから、閉まってても文句を言うな」
「じゃあ、お酒が熟成した頃合いにのぞくわね」
喫茶Somaの夜の密造酒。
これはきっと危険な飲み物ね。
楽しみだこと。
私は黒板に向かってコーヒーカップを持ち上げる。
素敵な怪異さんに感謝を込めて。




