喫茶Soma、あるいは胃袋
お昼を少し過ぎたころ、喫茶 Soma は静かにパカパカと開いていた。
扉が、ではない。
レトロな立て看板の上に設置されたパトライト。
内蔵された反射板がクルクルと回って、黄色の光をパカパカと明滅させているのだ。
おかげで大通りから裏路地を覗くだけで、営業中かわかる。
逆に木枠のドアの主張は少ない。
古いガラス越しに、コーヒーと少しだけバターの匂いが路地まで滲み出ているだけだ。
店内はそんなに広くない。
カウンター席が五つ。
四人掛けのテーブルが二つ。
壁際にアップライトピアノが一台。
よく言えばレトロ。
悪く言えばおんぼろ喫茶。
恵まれているといえば、その二つは喧嘩をしないと言うことだった。
今日は店内が少しだけ賑やかだった。
カウンター席に一人。
その背後の四人掛けのテーブルに女性が3人。
もう一つの四人掛けには、どう見ても最初は通りがかりだったのに、そのまま残っているらしい若い男女。
店としては満席ではない。
でも、いつもの「三人くらい」が崩れて、少しだけ人の気配が厚い。
特にカウンターに座る黒い装いの女性が、喫茶店の空気を深いワイン色にしている。
バロックパールで誰かわかる。
ルースのご婦人だ。
連れの女性たちは、後ろのテーブル席に通しているのに、自分だけはカウンターだった。
ご婦人の美意識曰く――
社交界の席は深く腰掛けてはいけない。
常に立食の場であることを意識しなさい。
とのこと。
ここは喫茶店だが、それだけは譲れないようだった。
厨房は小さいが、この中だけは真新しさがあった。
この日、お嬢さんは一人でその厨房に立っていた。
社交界での姿と違い、化粧気もなくアクセサリーもない。
白いシャツにエプロン。
髪をバンダナで覆っている。
「こちらのおすすめは?」
連れの一人がメニューを眺め、カウンターへ呼びかける。
お嬢さんはコーヒーをドリップしながら答える。
「厚焼き卵サンドです。洋風と和風があって、和風の方が人気ですよ」
「卵焼きのサンドイッチなのね」
「ええ。洋風はオムレツっぽいです。和風は堅焼きですね」
「……喫茶店なのね」
「喫茶店ですよ」
その返しがあまりにも平然としているので、テーブルの三人がわずかに笑う。
社交の場でつくる笑いではなくて、少しだけほどけた顔だった。
「じゃあ、洋風を一つと和風を二つですね。和風はカラシは?」
「一皿は抜きでお願いします」
「ご婦人はどうされますか?」
「私も和風を頂こうかしら。あとコーヒーのおかわりも」
ご婦人がカップを上げたところで、店の上から、ほんの少しだけ物音がした。
きしむほどではない。
でも耳のいい客なら気づくくらいの、静かな生活の音。
ご婦人が、カップをソーサーに戻して笑う。
「あら、上にいるのね」
彼女はフライパンから目を離さずに答える。
「いますよ。たぶん仕事中です」
「なのに降りてきそうね」
「そのくらいには、今日は下が賑やかしいので」
その返答の数秒後、本当に階段の足音がした。
最初に見えたのは、洗いざらしのシャツの袖。
次に、少し無造作な髪。
最後に本人。
いつもの夜会の格好とは違う。
ベストもジャケットもない。
花ももちろん挿していない。
ズボンも動きやすいもの。
足音も生活のもの。
たぶん上階では何か作業していたのだろう。
手には大きめのタンブラー。
様子を見るついでに、二杯目を取りにきた。
そんな感じだ。
一階へ降りた瞬間、店内の空気がほんの少し止まる。
彼は、その止まり方に気づいている。
でも、気づいていないふりをして、最初に彼女を見る。
「……増えてるな」
彼女は卵を返しながら答える。
「見ればわかるでしょう」
「何があった」
ご婦人が、いかにも楽しそうに言う。
「何も? ただ少し、あなたたちのお店が見たくなっただけよ」
彼は明らかに嫌そうな顔をする。
「少しの人数じゃないだろ」
「三人でしょう? 大したことないわ」
「この店では大したことある」
ご婦人の連れの女性たちが、そこで少しだけ笑う。
たぶんこのラフな格好の彼を見るのは初めてだ。
夜会の時より若く見える。
妙に生活感があって、目が離せない。
彼女が、ようやくフライパンを置いて彼のほうを見る。
「コーヒーを二つ追加。あと卵サンド、洋風一皿、和風が三皿」
彼は軽く頷いて、それからエプロンを手早く身につけた。
手の消毒も忘れない。
「皿は出す」
「お願い」
それだけで、会話は終わる。
終わるのに、何人かの客はそれを、少し羨ましそうに見ている。
特にご婦人の連れたちは、今の短さで全部通るのね、という顔だ。
彼は棚から皿を出しながら、ぼそっと言う。
「……俺の昼も和風がいい」
「ええ。からしを少し強めにする?」
「ああ、いいな」
その返事があまりに普通なので、若い女の客が小さく呟く。
「ほんとに住んでるんですね……」
彼は手を止めないまま答える。
「住んでます」
「すみません、なんか……もっと秘密っぽいのかと」
「秘密ではないです」
ご婦人がそこで楽しそうに口を挟む。
「でもちょっと秘密めいてるでしょう?」
彼はご婦人のほうを見ずに返す。
「あなたがいるせいだ」
店内に、やわらかい笑いが起きる。
ご婦人はむしろ満足そうだ。
「まあ。でもそういう返しができるなら、少しは育ってるじゃない」
彼は皿を置きながら小さく息をつく。
「ここ喫茶店なんだが」
「ええ、知ってるわ。だから楽しいのよ」
お嬢さんが卵サンドの皿を三つ出す。
厚みのある出し巻き卵。
パンの白。
からしの細い線。
皿に載ると、妙にきれいだ。
「おいしい」
連れの一人が、一口食べてそう言う。
感嘆というより確認に近い声だった。
「思ったよりからしが効いてるのね」
「甘くしすぎると、デザートになっちゃうので」
「洋風もパセリが爽やかでいいわ」
「チーズ風味も研究中です」
「もしかして毎日少し変えるの?」
「グランドメニューはそのままですが、日替りメニューは試行錯誤してます」
「まぁ、それは通わないといけないわね」
そういえば、とご婦人がカップを持ち上げながら、楽しそうに口を挟む。
「喫茶店の名前 Somaというのね。変わった名前」
「ええ」
「由来は?」
「身体みたいな意味があるんです」
「まあ」
「らしいわね」
「でも少し怖いわ」
連れの女性たちがそう言いながら顔を見合わせる。
ご婦人はカップを回しながら続ける。
「どうして身体なの?」
お嬢さんは少し間を置いてから、どこか諦めたような顔で答えた。
「候補が『胃袋』しか出なかったんです」
テーブルが静かになる。
「胃袋、というのは」
「そのまま『喫茶・胃袋』です。喫茶店の名前にするには、さすがに字面が悪いので……近い意味で他言語を調べて、響きがよくて覚えやすいものを選びました」
「……それで Soma」
「はい」
連れの女性がくすっと笑う。
「まあ、素敵な経緯ね」
「全然素敵じゃないんですが」
また笑いが広がる。
今度は少し声がある。
「小熊くんに、ルースのご婦人……あんなに名付け上手なのにね」
「まぁ、それは二人のことを知ってるからですね」
「知らないと無理なの?」
「それはそうですよ。全く解らないことに名前なんて、どうやってつけるんです?」
その会話を聞いて、ご婦人が目を細める。
「知らないこと、わからないことは名付けられない……お嬢さん、もしかして一人だと食べたい物が解らないタイプかしら?」
ピタリ、と動きが止まる。
お嬢さんの眉以外は。
その困った形に、ご婦人が笑い声を漏らす。
「ふふふ。料理人には案外多いのよ」
自分のためだけだと、何から始めればいいかわからなくなる。
誰かに食べさせる料理の名前は決められても、自分のお店の名前はつけられない。
あなたも黙ることがあるのね。
それを見て、カウンターから彼が「ご婦人」と低い声をかける。
「もう一度言うが、ここは喫茶店だ。そういうのは社交場でやってくれ」
「あら、ごめんなさい。野暮だったわね」
厨房へ戻ろうとするお嬢さんに、ご婦人が声をかける。
「でも本当に、喫茶店で驚いたわ」
彼女は頷く。
「ええ、喫茶店ですよ」
「カフェではなく?」
彼が、皿を拭きながら小さく言う。
「喫茶店のほうが腹に入る」
その一言に、ご婦人が吹き出した。
「あら、いいわねそれ」
彼女も少し笑う。
「そんな感じなので、リクエスト受付中です」
テーブルには厚焼き卵サンドが三皿。コーヒーが三つ。
ご婦人の連れたちはいつの間にか、背もたれに少し体を預けていた。
社交の場では見ない座り方だった。
窓の外には、裏路地の午後の光がある。
本当に喫茶店やってるのね、とまた誰かが笑う。
社交界の華やかさとは全然違う。
でも、立ち上る湯気も、匂いも、悪くなかった。




