花束のような二人、あるいは噂の始まり
勇者の仕事は社交界勤務、合法賭博、あるいは子取り箱とエレガンス労災対応
登場人物は、基本的に本名ではなく呼び名で表記されます。
「彼」は、原則として主人公を指します。
「なぁ、本当に社交場で肉の仕事を探す気か?」
「喫茶店でやろうとしたら、床が思ったより大変だったじゃない」
「知ってる。血の匂いがまだ残ってる」
「もう無理ね、あそこでは」
「頼むから、これ以上あの店を事故現場にしないでくれ」
「だから社交場で探すのよ。お金持ちなら、お肉も会場も大きいでしょ」
「その言い方はよせ」
「喫茶・胃袋の宣伝もするわよ」
「それはまだ仮名だろう。いい加減なことを言うと、噂になるぞ」
「その方がいいって、ご婦人も言っていたじゃない。それよりも、お互いの呼び名を決めておかないとね、小熊ちゃん」
「……本当に俺のことをそう呼ぶのか」
「大丈夫、一線は引くわ。で、あなたは?」
「……お嬢さん」
「無難ね」
「お前の仕事のことだから、そのうち物騒なあだ名になる」
「そういうもの?」
「そうだ」
「これまでは、なんて呼ばれていたの?」
「……壁際の花」
「……以前から、花を胸に挿してたのね」
「花が折れないのは、エレガンスらしい」
「どういうこと?」
「ご婦人に聞いてくれ」
女性陣ではすぐに噂になった。
「ねえ、あの二人、見た?」
「どちら?」
「胸元に花を挿した彼と彼女さん」
「まあ」
「花束みたいでしょう」
「でも」
「でも?」
「あの彼、あの家の末っ子じゃないかしら」
「ご婦人のお気に入りの?」
「まあ。でも妙に前へ出ないのね」
男性陣では、少し遅れて話題になった。
「しかしあの若い男、相当いい顔してるな」
「ああいうのって、普通はもう少し得意げにするものだが」
「そこが逆に効いてるんじゃないか。飾りっ気がないのに、目立つ」
「花を付けてても嫌味にならないしな」
「本人が気にしてないからだろ」
「だから余計に目立つんだよな」
「彼女のほうもいいな。隣に立って全然食われてない」
「ちゃんと二人で釣り合ってる」
「でもあの女、なんだろ、ちょっと怖くないか?」
「ああ。それは思った」
〈やがて場が流れ、男女それぞれに分かれた〉
花の彼が男性陣に捕まったのは、給仕がグラスを下げ始めた頃だった。
年上の男が、いかにも何気ない顔で聞く。
「で、あのお嬢さんは? ずいぶんいい連れじゃないか」
彼は少しだけ視線をそらした。
長めの前髪がまつ毛をかすめる。
「料理人です」
「ああ。そうらしいな。で?」
「……話が早い人です」
笑い声が生まれる。
「いや、それは褒めてるのか?」
彼は真顔のまま答える。
「褒めてます。かなり」
別の男が面白そうに口を挟む。
「強そうだよな」
「強いですね」
「怖いか?」
彼は考えながら、グラスを傾ける。
「怖い時は、ちょっと」
「ちょっと、で済むのか?」
「……済まない時もあります」
また笑いが起きる。
でも彼は特に照れた様子もない。
「じゃあ、なんで一緒にいる?」
「落ち着くので」
「へえ」
「変な意味ではなく」
「いや、十分意味はあるだろ」
「そういう意味でも、あるかもしれませんが」
彼は言い淀む。
無表情にようやく意味が芽生える。
それを見て、年上の男がグラスの縁越しに、にやりとした。
「お前、あの人に惚れてるな」
彼は即答しない。
その沈黙が答えになっている。
「……ああいう人は、あまりいないでしょう」
「いないな」
「腹を括ってるんです。そういうところは、すごいと思います」
年長の男が真面目に頷く。
「なら、大事にしろよ」
彼のグラスを持つ指に緊張が生まれる。
「……そうするつもりです」
「つもりじゃなくて、しろ」
「はい」
周りがまた笑う。
彼は不服そうではあるけれど、否定はしない。
その時、さっきまで黙っていた別の男が、ぼそっと言う。
「でもお前、あの人の前だと少し静かになるな」
「元から静かです」
「いや、種類が違う。外向きの静かさじゃなくて、ちゃんと聞いてる時の静かさだ」
「……そう見えるなら、そうなんでしょう」
「自覚なしか」
「だいたいそうです」
「面倒くさいな、お前」
「よく言われます」
一方、花の彼女が女性陣に捕まったのも、ほぼ同じ頃だった。
やわらかく笑う女性が聞く。
「彼、すごく綺麗な人ね」
彼女はワイングラスを回しながら、あっさり頷く。
髪に飾られた生花が、耳の上あたりで揺れる。
「ええ。綺麗ですよ」
「自覚あるのかしら?」
「あるとは思うけど、運用は下手ですね」
女性たちがくすっと笑う。
「運用」
「だって、あの顔で妙に無防備なんですもの。危ないでしょう」
「やっぱり危ないのね」
「ええ。でも本人は、見た目よりずっと素直ですよ」
「へえ。もっとこう、気取った人かと思ってた」
「そう見えるでしょうね。でも実際は、ちょっと空腹の小熊みたいなものです」
一瞬、場が静かになって、それから一斉に笑いが漏れる。
「空腹?」
「小熊?」
彼女は肩をすくめる。
「お腹が減ると少し遅くなるんですよ。でも決める時はちゃんと決めるから、そこは信用してます」
「二十四時間そうなの?」
彼女は形の良い顎に指を当てて考えたあと、答えた。
「満たされたら、すぐ寝ますよ。動物としては健全でしょう?」
「ふふ。仲がいいのね」
「まあ、そうですね」
「彼のこと、好き?」
一拍だけ間があった。
「……まあ、そうですね」
「同じ返事ね」
「同じことですから」
女性陣がまた笑った。
「ところで、どこで出会ったの?」
「現場で」
「現場?」
「はい」
「どんな現場?」
彼女はワインを一口飲んでから、穏やかに言った。
「厨房です。私、料理人なんで。あと、お肉を捌く仕事があれば賜ります」
場が少し流れた頃、花の彼と彼女が戻ってきた。
二人は人を避けるように壁際へ寄った。
視界の端で、客が声を潜めるでもなく話している。
「やっぱり、あの二人きれいよね」
「でも少し怖いのよ。彼女のほう、料理の話をしてるのに生き物の話みたいなんだもの」
「彼のほうも不思議よ。あんなに綺麗なのに、主張しないでしょ?」
「そこがいいのよ。あとで効く感じがするわ」
彼は、すっと目を伏せた。
彼女は横目でそれを見た。
まだ会話は続いている。
「でも、ご婦人があそこまで気に入るの、珍しいわよね」
「『小熊くん』って呼んでたわ」
「まあ。あれ本名じゃないわよね?」
「通称じゃない? すごく似合ってたけど」
そこで彼の肩が、心なしか下がる。
逆に彼女の肩は、楽しげに上がる。
さらに追い打ちをするように、別の声が混ざる。
「でもあの彼女、すごいわよ。ご婦人を怖がりきらないもの」
「彼は彼で、あの子のことちゃんと見てるのよね」
「見てるけど、遅いのよ。あれは小熊だわ」
彼女の口元がわずかに震えた。
笑うのをこらえている。
彼は低い声で言った。
「……帰りたい」
「まだもう少し」
「十分だろう。他人の口から『あとで効く』って何だ」
「褒められてるんじゃない?」
その時、背後から声が差し込まれた。
「結構なことね。噂の一つも立たないようじゃ、社交の場に出る意味がないのよ」
彼が振り返る。
いつものように、滑らかに黒い装い。
胸元のバロックパールが、静かに揺れている。
ご婦人が笑みを浮かべていた。
「……いたのか」
「ええ。せっかくですもの、自分たちがどう見えているかくらい、聞いておいたほうが勉強になるわ」
彼女は平然としている。
「参考にはなりますね」
彼はそちらを見る。
「お前は平気なのか」
「平気というか、だいたい知ってたし」
ご婦人が嬉しそうに笑った。
「ほら。お嬢さんのほうが、よほど社交に向いてる」
「やめてくれ」
「どうして? 悪く言われていたのかしら?」
「よくも言われてない」
「いいえ、かなり上等よ。『綺麗』『怖い』『あとで効く』十分じゃない」
彼は額を押さえる。
「その評価で喜べる感覚がわからない」
ご婦人は少し首を傾げた。
「だって、忘れられないということでしょう?」
彼はしばらく黙っていたが、やがて疲労の滲んだ声で言った。
「忘れられないのは、だいたい面倒なものだ」
「ええ。でも面倒でないものは、たいてい薄いわよ」
彼女がそこで、彼の袖を軽く引く。
「小熊ちゃん」
「何だ」
「顔に出てる」
「何が」
「全部」
彼はますます嫌そうな顔をした。
ご婦人はそれを見て、また笑う。
「本当に可愛いわね。でも安心なさい。今夜ここで『血の匂いがする』程度なら、むしろ上出来よ」
「安心材料がおかしい」
「そうかしら。少なくとも『退屈』とは言われていないもの」
彼はそこで何か言い返そうとして、やめた。
彼女が静かに助け舟を出す。
「これ以上聞いても、今日は消化しきれないです」
ご婦人が目を細めた。
「そうね。あとは帰って、温かいものでも食べなさい」
彼がぼそっと言う。
「今夜は何を食べても、噂の味がしそうだ」
彼女はすぐに返した。
「じゃあ、少し濃いめに作る」
「そういう問題か」
「あなたにとっては、たぶんそういう問題よ」
ご婦人は満足そうに頷く。
「ええ、そういうところ。やっぱり悪くないわね、あなたたち」
彼は半歩だけ彼女のほうへ寄った。
それを見て、ご婦人は一瞬だけやわらかく笑う。
「ほら。そういうのよ。だから噂になるの」
彼は、もう反論しなかった。
反論しても増えるだけだと知っている。
その代わり、彼女にだけ聞こえるように言う。
「……帰ったら、卵スープより重いものにしてくれ」
彼女は頷きながら笑って、
「冷凍庫にカレーがあるから、おうどんにしてあげる。空腹の小熊ちゃん」
と答える。
ご婦人がそこで、珍しく肩を震わせた。
「だめよ、お嬢さん。それ、まだ私のツボに入ってるんだから」
彼は本気で天井を仰いだ。
「なんでそんなに効くんだ……」
「本質だから」
「本質なんですもの」
ご婦人と彼女が、ほとんど同時にそう言った。
彼は目を閉じて、それから小さく言う。
「……やっぱり帰りたい」
その夜の噂は、翌日には広まっていた。
「花束みたいなカップルが来てたのよ」
「でも会話が少し変だったって」
「怖いのに、なぜか目が離せないのよね」
「ご婦人が楽しそうだったのが、一番の証拠じゃない?」
「ええ。退屈な二人には、あんな顔をしないもの」
誰かが窓の外を見ながら言った。
「あとで効く、って言ったでしょう」
「ええ」
「たぶん本当にそうなるわよ」
「どうして?」
「だって、もう覚えてるでしょう。会話の内容は忘れても、あの二人の空気だけは」
しばらく誰も何も言わなかった。
それから一人が静かに頷いた。
「……確かに」




