散歩、あるいは拾い物
「夜の散歩には理由がないといけない」
と、彼は思う。
例えば眠れないとか。
夜型だとか。
煙草だとか。
可能であれば、目的地もあった方がいい。
コンビニだとか。
自販機だとか。
ランドリーだとか。
決して、花が見たいだとか、水の音が聞きたいだとか、そういったことは言ってはいけない。
口に出してはいけない。
けれど、行くことはできる。
そして両方を満たす場所が、自宅から数分の位置にあった。
商店街と都会、そして住宅街との接点に、その公園はある。
大きくはない。
けれど新しく、近代的で華やかだ。
施設も充実。
カフェにオイスターバー、そしてギャラリー。
小規模ながら噴水に滝、芝生に温室まである。
地下に下水処理施設があり、下水処理水が持つ熱エネルギーを冷暖房に使用しているのだとか。
それを思うと、この公園は都会に属しているのだろう。
閉園時間があり、門は施錠されてしまっている。
いや、この時間帯を思えば、まだ開園時間になっていない。
つまり中には入れない。
入れないはずだった。
それでも道に面した外壁にはプランターがぶら下がり、耳を澄ますと噴水の音が聞こえる。
聞こえるはずだった。
だから気になった。
気になると余計に聞こえる。
大人の荒げた声と子供の小さな悲鳴が。
恐怖と言うのは見えないか、見えないところからやってくる。
それでも気づくことができるのは、音がするから。
コンコン、という硬い音が、自分の顔と同じ高さで鳴る。
その音に後部座席を振り返っていた運転手は、思わず小さく悲鳴を上げて、そちらを見る。
車のドアガラス越しに、筋張った手が浮いているのが見える。
青白い血管が手の甲を這い、深爪気味の指先へと骨が続く。
男の手だというのは分かった。
もう一度、ノックの音。
少し視線を上げると、顔があった。
表情はない。
ボサボサの髪が、目に掛かり、さらに太いフレームのメガネが顔半分を隠している。
その顔が少し、小首を傾げる。
角度が変わると、メガネのレンズの反射が消え、その目と合う。
そうするとわかる。
男の美貌と、その視線の先が後部座席――チャイルドシートに座った子供につながっていることに。
後ろに座っている仲間が、スライドドアを開ける。
酔っ払いを追い払おうとしている。
そういう意味合いの言葉が聞こえる。
運転手は、違う、と伝えようとした。
男はそういう状態ではない。
静かに獲物を確認、いや、目標を視認した。
そういうセンサーのような目をしていた。
その目が仲間の方を向く。
こちらがそれを言葉にしようとした瞬間、仲間のセリフが泡が割れるように途切れた。
男の体が反転すると同時、窓ガラスに衝撃。
見知った顔が、そこにへばりつく。
それがズルズルと血の軌跡とともに落ちていって、フレームアウト。
それを無意識で目で追ったが、自分のすぐ後ろに誰かが腰を下ろして、停止していた意識と恐怖が戻ってくる。
あの男が子供に何かを渡している。
こちらなど気に留めていない様子で、何か言ってチャイルドシートのベルトを外し始める。
それをルームミラー越しで見て、そしてまた目が合ってしまった。
目が合うと、つい言葉が出てきた。
恐怖心を感じられるということは、まだ悲鳴を上げられるほどの状況ではないということだ。
パニックにも、自暴自棄にもなれない。
だから辛うじて、まだ意味のある言葉を使って、状況をカテゴライズしようとした。
「警察か?」
そうであって欲しい、と思った。
だが――。
「近しいかもな」
男は子供の頬の様子を軽く確認しながら言った。
そして自身の上着を脱ぎ子供に着せ、余った袖口で、口元を軽く押さえてやっている。
「話は通したはずだ!」
「……そうか」
「こっちはちゃんと、手順を踏んでる!」
「子供に手をあげるのも、手順のうちだったか?」
間違えた、と運転手は硬直する。
どう間違えたのかは、わからない。
「まあいい。聞いておいてやる」
男はそう言って、一度身をかがめた後に、子供を抱き抱えて車から出ていった。
手には脱げていたらしい子供靴を、引っ掛けていた。
公園――詳しくは地下の水処理施設から、川沿いにしばらく進んだ場所。
古い橋の袂の、小規模なくつろぎスペース。
と言っても数本だが木々が茂り、石造りのプランターには白い花が揺れている。
彼はそこまで来ると、抱えた子供に自販機のボタンを押すように促す。
ジュースとコーヒーを購入する。
反射的に決済ICの入ったスマートリングで購入しようとしてミス。
あの車に残してきたのだった。
バッテリーは長くは持たない。
だが運転手あたりが拾って、何か購入すれば通知が来る。
もしくはこちらを探ろうと充電し、その時にどこかのWi-Fiを拾ったら上出来だ。
子供をベンチに座らせ、自分はほんの少し離れたところに立ち、電話をかける。
数度のコールの後、協力者の警察官の声と繋がる。
状況の説明。
説教。
言い訳。
説教。
要求。
とラリーが続いた後
「お前は、そこから絶対に動くな!」
という切実な大声とともに通話は終わった。
「怒られたの?」
保護した少年が不安そうにこちらを見上げる。
手にジュースとプラスチックの布を握りしめている。
3Dプリンタで製作した、コースターだった。
小さなブロックの組み合わせと、裏側のジョイントの妙で滑らかに動く。
とはいえ本当のハンカチの代わりに、ポケットに紛れ込んでいるとは思っていなかった。
協力者が応急処置セットを忘れなければいいが。
そんなことを考えながら、隣のベンチに座る。
「悪いことしたの?」
「どうだろうな。まぁ、あいつは怒るのが仕事みたいなものだ」
「花を盗むなって聞こえた」
それも持ってきちゃうし、と少年が彼のシャツの胸ポケットを見る。
花が一輪、収まっている。
耳のいい子だ。
そしてよく見る子。
聞き分けも。
でもそれは、怖がっているからかもしれない。
「これは落ちてたのを、拾っただけだ」
ふーん、と腑に落ちない様子で、少年が足をブラブラ。
靴は履かせたが、靴下はない。
踵が赤く擦れて腫れていた。
服装は小綺麗だが、どこか足りない。
靴下だとか、子供用の上着だとか。
外出の手順が抜けているのか、あるいは最初から持っていないのか。
「でもリングは車に忘れてきちゃったんでしょ?」
「……うっかりな」
「僕も怒られる?」
「いや、それはない」
今日のことを色々と聞かれるだろうが、それが仕事なだけで、お前を責めたいわけじゃない。
どうしても、言いたくないことは、言わなくてもいいが。
と言うと、少年がジュースを一口飲んでから息を吐いた。
口の中は切ってないようだ。
彼も安心して、缶コーヒーを取り出す。
「僕もお仕事だったんだ」
プルトップを開けようとした手が止まる。
そして次の言葉で、息が止まる。
「箱のお仕事」
箱には外側と内側があり、中身があるはずだ。
本来であれば。
けれど例外を知っている。
それ以外で、子供を使う箱を知らない。
「……初めて聞いた仕事だ」
彼がなんとかそう言うと、少年は少しだけ得意気に笑う。
「音が聞こえるか、調べるんだ」
「どうして?」
「音がすると、その方が価値が高いんだって」
でも聞こえないとダメなの、と続いた言葉で、少年ではなく、大人たちの言葉なのだとわかる。
「……もしかして、今日は聞こえなかったのか?」
だから折檻を受けた。
風が生暖かくて、気持ち悪い。
「うん」
「前は?」
以前にも聞いたことがあるか?
という意味で聞いたつもりだった。
「前の子は聞こえたんだって」
それ以外の返答があるとは思っていなかった。
「……他にも子供がいるのか?」
「うん。でも聞こえる子は、どんどんいなくなる」
「どこに行ったか知ってるか?」
首を横に振る。
「でもね、前の子ね、学校に行ったら聞こえなくなったんだって」
「そうなのか?」
「だから僕は学校に行ってない」
「そうか」
「でも、今日は僕にも聞こえなかった」
何かに思い当たったらしい。
「だから、お兄さんがきたの?」
こちらを見上げる。
瞳に古い街灯の濁った光が映る。
「今日の箱はどこにあった?」
「なんか、暑い部屋?」
あとは変な匂いがして、外が見える。
眠っている間に運ばれて、起こされたら箱が目の前にあったのだという。
ところどころ緑色の、大きな箱。
中に入れそうなくらいの箱。
「じゃあ、聞こえない」
「え?」
「壊れてるんだ」
「そうなの?」
「建て替える前の温室にも置かれてた。花なんかも飾られて……初めから壊れてたから、そんなことしてたんだろう」
希少価値が高いからと言っても、それを維持できるとは限らない。
引き継げるとも限らない。
それなら忘れられたまま、プランターのままでいればよかったのに。
「だから、ちゃんと言えて、偉かったな」
大人でも、ちゃんと報告できる奴は少ない。
頭を撫でてやると、少年は笑って、ついでに欠伸をした。




