後日談 諦めの悪い男、あるいは悪態のルース
その夜の社交場は、わりと人が残っていた。
彼はカウンターの端で、やや不服そうな顔をしていた。
理由はひとつ。
勇者、という呼び名がまだ気に食わない。
男の一人が、軽い調子で言う。
「まだ気にしてるのか」
「気にする」
「なんで」
「退治したわけじゃない」
「……そこなのか」
「そこだろ普通」
男はしばらく黙った。
それからもう一人が口を開く。
「じゃあ『悪態のルース』はどうなんだ」
彼が少し止まる。
「初耳だ……どうしてそうなる?」
「どうしてって」
「俺が悪態をついてるみたいだろ」
男たちが口々に言う。
「ついてるだろ」
「しかもご婦人に対して!」
「だからそう呼ばれてるんだよ」
彼は額を押さえた。
「ご婦人に口が悪いのは、俺じゃなくてあの人の言い方が悪いんだ」
男衆が笑う。
「それを当人に言えるか?」
「……聞かれたら」
「だから悪態なんだよ」
「最悪だ」
「でも的確だろ」
彼は何も返せなかった。
場の空気が少し変わった。
噂のご婦人が入ってきたのだ。
お嬢さんがその少し後に続く。
男衆が少し背筋を正す。
ご婦人は涼しい顔で席に着きながら、あたりを見回した。
「あら、なんの話?」
「いや、あだ名の話を」
「まあ、誰の?」
男の一人が、少し言葉を選ぶような間を置いてから言った。
「……小熊くんの」
ご婦人の目が、少し輝いた。
「あら、どんなあだ名が出てたの?」
彼が低く言う。
「やめてくれ」
「いいじゃない。教えてちょうだい」
男が観念したように言う。
「勇者と、悪態のルース、です」
ご婦人はしばらく黙った。
一拍。
「勇者」
また一拍。
肩が、少し揺れた。
男はそれを見ながら、たどたどしく続ける。
「謝肉祭を通過したから、勇者……です」
お嬢さんが横で少し遅れて、じわじわと唇を笑いの形にする。
「謝肉祭って……」
「ふふ」
「何それ」
「だめ、たしかにそうね」
しばらく二人が笑いをこらえている。
それだけならば社交界ではよく見かける絵だが、この二人だと完全に魔女のおしゃべりだ。
謝肉祭の話を聞いたあとだと特に……。
彼は本気で嫌そうな顔になっている。
正確には、逃げたそうな顔。
「笑うな」
「ごめんなさい」
「悪いと思ってないだろ」
「思ってないわね」
ご婦人がようやく落ち着いて、コーヒーを一口飲んだ。
「でも悪態のルースは、なかなかいいじゃない」
彼が即座に言う。
「よくない」
「どうして?的確でしょう」
「だからよくない」
「ふふ。的確なのに嫌なの?」
「そうだ」
お嬢さんが横から笑いを残したまま言う。
「しょうがないわよね。お行儀の悪い小熊ちゃんだもの」
彼がそちらを向く。
「お前まで乗るな」
「乗ってるんじゃないの。説明してるの」
「説明しなくていい」
男衆がそこに乗る。
乗る時は乗れ。
特に女性が味方についてる時は……。
「いや、的確だと思うぞ」
「男のわりにはなかなか頑張った名付けだ」
もちろん、彼も反撃する。
「その頑張りは他に使え」
ご婦人が、いかにも楽しそうに言う。
「あら。今のも、なかなか悪態のルースらしくていいじゃない」
男衆が吹き出す。
内心は汗も吹き出している。
よしよし、ご婦人も味方だ……。
彼は本気で額を押さえた。
「だからそれを定着させるな」
しばらく場が笑いで満ちていた。
彼だけが、本気で不服そうな顔をしている。
やがて彼が、まだ文句を言う。
「だいたい『勇者』も『悪態のルース』も、どっちも嫌だ。センスがない」
男の一人が、わりと正直に言う。
「センスないのはわかってる。でも他に言葉がないんだよ」
「もう少しあるだろ」
ご婦人がそこで、ほんの少しだけ意地悪な顔になった。
「そうねえ」
少しだけ考えるそぶりを見せたあと、静かに、でも完全に場を制圧する声で言う。
「お手付きのルース、よりはずっと品があるわよ」
場が、一瞬で静まった。
男衆が、目に見えて固まった。
彼も止まった。
お嬢さんだけが、少し遅れて、声を立てて笑った。
腹を抱えている。
肩を震わせながら、しばらく止まらなかった。
彼がそちらを睨む。
「……お前、何がそんなに可笑しい」
お嬢さんはまだ笑いながら言う。
「ごめんなさい。でも、ご婦人の牽制としては完璧だなと思って」
「牽制?」
「男の方々へのね。これ以上変なあだ名をつけるな、という」
男衆がそこで、青ざめた顔で頷く。
「……そういう意味でしたか」
「当然でしょう」
ご婦人は、満足そうに微笑んだ。
「私の美意識が、その言葉を許すと思って?」
彼は低く言う。
「でも、なんでお前がそんなに笑う」
「だって」
少し間があった。
「あなたをお手付きにしたのは、私でしょう」
また笑いが出た。
彼は数秒黙った。
それから、絞り出すような声で言った。
「……それを笑うな」
「ごめんなさい」
「全然ごめんと思ってないだろ」
「さっきよりは思ってるわよ」
ご婦人がその様子を見ながら、満足した顔を作る。
「ほら。悪態のルースで十分じゃない」
彼は天井を見た。
男の一人が、静かに言う。
「……お前、やっぱり勇者でいいよ」
「なんでだ」
「あの二人の間でちゃんと生きてるから」
彼はもう何も返さなかった。
返しても増えるだけだと、だいぶ学習していた。
その夜、男性陣だけが残った時に、話になった。
「なあ、さっきのお手付きの話」
「ああ」
「あれ、外に出したらまずいよな」
「まずいな」
しばらく間があった。
「でも俺たち、聞いてしまったよな」
「聞いてしまったな」
「ということは」
「ということは?」
「誰かが使いそうになったら、止める義務があるな」
一人が何かを思いつく。
「……ガーディアンじゃないか、俺たち」
場が少し止まった。
ヒンヤリとした空気感。
「ガーディアン」
「守護者、という意味で」
また止まった。
「……ダサくないか?」
「ダサいな」
「社交界でガーディアンはないよな」
「ないな」
「でも義務は発生してるよな」
「発生してるな」
「なんて呼べばいいんだ」
「さあ」
一人が諦めたように言った。
「……とりあえず、外には出さないでおこう」
「それだけでいいか」
「それだけでいい。名前はいらない」
「名前をつけようとした俺たちが、言えた義理じゃないな」
「そうだな」
また沈黙が落ちた。
「でも一個だけ確認していいか」
「何だ」
「この場合、俺たちは誰を守ってるんだ?」
「小熊か?」
「お嬢さんか?」
「ご婦人の美意識か?」
「……社交界の品位?」
「急にでかくするな」
今度は全員で考え込む。
「いや、これ以上はやめよう」
「ああ」
「考え始めると、たぶん俺たちの手に負えない」
「同意する」
「俺たちはただ、その名前が外で使われる、いや、名付けに使われるのを止めればいい」
「そうだな」
「どこかで使われたら、連帯責任な」
「なんでだよ」
「聞いてしまったからだ」
「最悪だ」
「名付けに立ち会うって、そういうことなんだろ」
笑い話だったはずなのに、妙に重い義務だけが残っていた。




