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二皿目 勇者、あるいは招待状

 ご婦人が席を用意していた。

 来賓室の窓際。

 コースが一望できる。

 そして何より一線がある。


 テーブルの上には飲み物と、小さな双眼鏡が三つ。


「パドックは席から見た方がいいわ。今日は混んでるから」


 ご婦人はすでに着席している。

 バロックパールが、光の中で静かに揺れた。

 彼女とご婦人は双眼鏡を手に取って、パドックの方向へ向けた。

 少し角度を調整して、黙って見始める。

 彼はそれよりも、競馬場全体、その内側で流れるシステムの方が面白かった。


 彼は視る。

 オッズの動き

 人の流れ

 警備の配置

 導線

 馬券売り場のオペレーション

 パドックの構造

 どこに立つと全体が見えるか。


 彼女は診る。

 馬の歩き方の癖

 首や肩まわりの使い方

 呼吸の入り方

 毛ヅヤ

 目の落ち着き

 脚元の出し方

 集中してるか、イラついてるか

 今日の気温や馬場で無理してないか。


 ご婦人は観る。

 この二人を。


「3番、思ったよりいいと思います」

「あら、やっぱりそう見える?」

「ちょっと気が立ってるけど、あれは悪くないかと」

「血統を見てるのか?」


「7番は綺麗だけど、今日は最後まで持たないかも」

「私も今日の7番は少し甘い気がしたのよ」

「騎手の技量を見てるのか?」


「あと、今日はあの馬、気分がいい」

「でもあの馬をそこまで買う人は少ないわね。面白いじゃない」

「で、どれ買うの?」


 と顎に手を当てた彼女が、彼に聞いた。


「……お前が気になってる馬にしておく」

「あら、ちゃんとエスコートしてるじゃない。女の勘を信じる男は嫌いじゃないわ」


 結果、そこそこ当てた。

 三連単を毎回当てたわけではない。


 だが本命をきちんと拾い、危ない人気馬を外し、穴馬を一頭混ぜる。

 そのため、妙に回収率がいい。


 ご婦人は


「あなた、いいわね」


 とすっかりご機嫌だ。


「馬を見る時、数字じゃなくて生き物を見てる。そういう人、案外少ないのよ」


 彼女は答える。


「料理人ですから」


 ご婦人が静かに聞いた。


「今日の馬だと、どれが一番美味しそうかしら?」

「うーん。さすがに自分の舌の上に乗せてからでないと、なんとも言えないです」


 静かな会話だったが、音量は落ちてない。

 彼は思わず口を挟む。


「やめろ。そういう話をここでするな」


 あら?とご婦人が目を細める。


「内側まで見せてるくせに」




 その後、せっかくなのでディナーでも、という話になった。

 断る理由も、その覚悟もない。


 メインは肉料理だった。

 気のせいのはずだが、土の匂いがした。


 デザートの後のコーヒータイムでご婦人が


「あなた私が怖くないのね?」


 と彼女に聞いた。

 物騒な疑問ではあるが、確かにそれは、彼も気になっていた。


「そうでもないですよ?でも、口があって、舌があって、頬と喉が動いて、それが確認できてからは、そこまで怖くないです」


 そういえば、俺の顔のことも頬のあたりがいい、とか言ってたな。

 ご婦人は続ける。


「あなたなら血の色を決められそうね」


 彼もそれにも少し同意する。

 自分も彼女になら腑分けされてもいい、と思ったことがある。

 彼女以外には考えられないな、とも思う。


「オーダーがあれば、承りますよ。ただし3ヶ月ほどお時間をいただきますし、もれなく小熊ちゃんがくっついてきますが」


 どうやら二人の間では、今ので何かが通じたらしい。

 彼には、血と仕事と料理の話にしか聞こえない。


 ん?

 本当に仕事として受けるつもりか?


「おい、本気か?しかも巻き込むな」

「ついて来ないの?」

「……行く」

「いかがですか?」

「ふふふ。若い二人の時間を使ってまで、することではなくってよ。お気遣いありがとう」


 でもね、とご婦人は続けた。


「あんまり危ない仕事を、安請け合いしてはダメよ。私が若かったら、あなたを殺していただろうし」


 どうしてそうなる?

 何か無礼をしたか?

 なんの警告だ?

 いつの間に現場になった?


 言われた彼女はなるほど、と少し考える素振りを見せたものの


「心配には及びません。用意はありますので」


 と言った。

 俺は心配だぞ?

 それに用意ってなんだ?

 俺も用意をした方がいいのか?

 何を?




 彼が用意について思いを巡らせていると、それが気に入らなかったのか、ご婦人が少し身を乗り出して言う。


「ねえ、小熊くん、あなた何を怖がっているの?」


 声音が暗い。

 目を合わせられない。

 でも逸らすことも許されない。

 喉元のバロックパールの輝きに集中する。


「失うのが怖いなら、私かお嬢さん、どちらかを食べてしまえばいいのよ」


 ご婦人は止まらない。


 でもあなたは、お嬢さんがいいと決めているのでしょう?

 なら躊躇なんて野暮なことはダメよ。

 でも、困ったわ。

 私はただ食べられるのは性に合わないの。

 それならせめて、お料理にしてほしい。

 ちょうど腕ききのシェフが、目の前にいらっしゃることですし。


 まるで舞台上の演者のように、台詞が続く。


このご時世、必ずしも結婚式をあげる必要はないけれど、パーティーはしなさい。

 小熊くんはお友達が多くはないから、そんなに大きくなくていい。

 彼女のお友達だけ多いというのはダメよ。

 招待状が届かないというのは寂しいけど、それであれば、私の血肉だけでお料理には足りるはず。

 きっと彼女であれば、美味しく調理してくれる。

 お花も飾って、ワインの色もバッチリ。

 ああ、でも音楽の趣味はどうかしら?

 小熊くんはピアノが弾けるでしょう?

 かっこいいところを見せてもらわないと。




 何故この流れになったのかわからない。


 だが、ご婦人が怒っていることはわかる。

 それには心当たりがある。


 彼女と暮らしていたことを黙っていた。

 彼女の席や立場を、曖昧なままにしていた。


 雑に扱ったつもりはない。

 彼女は、そう扱われていい存在でもない。


 ただ、こちらにも事情はあった。


 実家が燃えている。

 比喩ではなく、あちこちから煙が上がっている。

 古い名前、古い仕事、古い顔。

 どこに火種が残っているのか、自分にもまだ見えていない。


 そこに彼女を連れていくわけにはいかなかった。


 彼女を隠したかったわけではない。

 見せたくなかったわけでもない。

 ただ、火の粉の届かないところまで片付けてから、きちんと顔を通すつもりだった。


 そう思っていた。


 でも、見つかってしまった今となっては、それはただの言い訳だ。


 彼女はもう、自分の生活の中にいる。

 店にもいる。

 帰る場所にもいる。

 それなのに、ご婦人の前では席がないままだった。


 それは、ご婦人の美意識が許さない御法度だった。


「俺が弾けるのはコード。できるのは伴奏だけだ」

「あら? ここまできて、まだ主旋律にはならないのね」


 ご婦人が珍しく、長いため息をついた。

 観劇中に着信音が響いた時のような落胆ぶりだ。


「私が死ぬまでに、お決めなさいな。死肉は料理に使えなくってよ」


 次は彼女が答えた。


「わかりました」


 わかるな。




 ご婦人だけでなく、彼女の視線も自分に集まった。


 何かを待っている。


 まさか、これ。

 俺が答えを出さないと、終わらないやつか?


 謝る場ではない。

 それは、わかる。


 謝れば済む話ではないし、謝ったところで、ご婦人はきっと許さない。

 いや、許す許さないの話ですらない。


 これは、席の話だ。

 彼女をどこに置くのか。

 ご婦人をどう招くのか。

 自分がどこに立つのか。


 具体的には、何の話をしていた?


 仕事と料理と音楽。

 肉と招待状。

 そして、式だ。


 結婚式の話をしていた。


「……いつになるかは、わからないが」


 嘘や誤魔化しが通じない相手なのは、自分がよく知っている。


 だから、

 今、確定していることを。

 今、言葉にできることを。


 彼女以外は、ありえない。


 言葉は、わからない。

 主旋律にも、まだなれない。


 それでも、手続きならば、用意ができる。


「あんたの肉は必要ない。その代わり、招待状は受け取れ」


 少しの沈黙ののち、ご婦人が一人ごちる。


「ちゃんと、育ってるじゃない」


 彼女は何も言わない。

 彼が様子を窺うと、少しだけ視線を外す。

 多分、否定的な反応ではない。


「そこまで言えたなら大変結構!」


 一方で、ご婦人は喜色をおさえず続ける。


「なら少しお酒を控えようかしらね。ねえシェフのお嬢さん、お茶はお好き?

 お菓子は作れるのかしら?」

「お茶は好きですよ。お菓子は、ものによりますね」

「あら、十分。それなら今度はお昼にしましょう。ああ、いえ、あなたたち、お店をするのでしょう?今度うかがうわ。なあに、お客としていくから、いつも通りで大丈夫よ」


 来るな。

 いや、そこまで話していたか?

 まぁ肉の話よりはマシか……。

 いや、俺の努力、話題を変えるくらいの力しかないのか。

 しかも、本当に店に来るのか?

 おい、了承するな。




「なぁ、あれであってたと思うか?」


 珍しく途方に暮れた様子で、場にいた男たちに彼が問う。

 だが誰も答えられない。

 答えられるわけがない。

 内容がよくわからないし、わかったとしても、何と言えばいいかわからない。


 でも一つだけわかることがある。

 最後に自分で決めて、帰ってきた。

 それだけはわかる。


 男の一人が、わりと真面目な声で言った。


「……それで通したなら、お前えらいよ」


 別の男が続く。


「勇者じゃん」


 彼は即座に顔をしかめた。


「語彙が雑だ」

「でも他に言葉がないんだよ」

「もう少しあるだろ」

「ない」


 即答だった。


「謝肉祭を通過した勇者だから、勇者だろ」

「その呼び方はやめろ」

「謝肉祭通過者でもいいぞ」

「もっとひどい」


 男衆は笑う。

 でも笑いの中に、少しだけ本気が混じっている。


「いや、でもほんとにわかんないんだよ」


 一人が正直に言った。


「あのご婦人とお嬢さんの間で、どうやったら答えが出るんだ」

「出せる気がしない」

「俺なら逃げてる」

「俺も逃げてる」

「お前はよくやったよ」

「だから勇者なんだよ」


 語彙は雑だ。

 本当に雑だ。

 でも悪意はない。

 それだけはわかる。

 彼は少しだけ黙ってから、低く言った。


「……勇者はやめろ」

「じゃあ何がいい」

「何もいらない」

「だめだ、それは」

「なんでだ」

「男なんて、こういう時は雑な名前をつけるくらいしか褒め方を知らないんだよ」


 しばらく誰も何も言わなかった。

 それから彼が、本当に疲れた顔で言った。


「……男は雑で、女は怖いな。

 しかも、ちゃんと考えてる女ほど怖い」


 男衆がそこで笑った。


「お前、やっと学んだな」

「今さらかよ」


 彼はため息。


「今まで種類が違った」

「だろうな」


 一人が最後に、軽くグラスを持ち上げた。


「だからこそ勇者でいいんだよ。内容はわからんが、最後に自分で決めたならそれで十分だ」

「しかもお前、それで合ってる相手を引いたんだろ」

「なら頑張れよ」


 彼は少し黙ってから、


「……それはそうだ」


 と言った。

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