その2
心臓が高鳴る。口が渇く。視野が極端に狭くなる。手足が震える。
正直に言って、今アサヒは恐怖を覚えていた。目の前の女性は両手に刀を持ってただ構えているだけだ。殺気すら放っていない。
でも恐怖でおかしくなりそうだ。
当然だ。アサヒは平和な日本で漫画家をしていた男性だ。刀なんてゲームの中で振ったことがあるだけで、創作物の中の存在だ。
あの雪の洞窟の中でエクリプスの稽古につきあったことならある。しかしそれはただつきあったことがあるというだけで、最初の一回をのぞいてただ突っ立っているだけのものだった。
最初の一回でエクリプスの剣を受けられたというのも、今ではまぐれだったとわかる。
あれはエクリプスが初めて刀を持った自分にいい気持ちになってもらいたいためにそう仕向けたに違いない。
体が勝手に動いたように感じたのが何よりの証拠だ。全て彼女の手のひらの上の出来事だったのだ。
だが今は違う。
立っているだけというわけにもいかない。エクリプスが持っているのは木の枝ではない。彼女が自分に花を持たせてくれるはずもない。むしろ積極的に彼女は自分を倒しに来る。
ちらりと背後を見た。
そこには先ほど横たえてから寸分違わぬ姿で今もリアが横たわっていた。
自分を信じてくれたリアだが、まさかここでエクリプスが出て来ることまでは想定していなかっただろう。自分がやられれば次は彼女の番だ。
今、暴力の支配する場所に立っていることよりも、その方が怖かった。
刀を強く握りしめたが、震えは止まらない。
木でできた手。それを包む白いコスチューム。
世界樹の勇者と入れ替わりに〈ジルシー教会〉に転移してリアと出会ってから一ヶ月の間、ずっと着ていた自作の勇者アレスのコスチューム。
『俺振り』でもこんな展開があったことを思いだした。
敵の奸計にはまり、主人公のマリアと仲間たちが毒に侵されて動けないでいる中、ただ一人敵に立ち向かう勇者アレス。
アレスとマリアの関係性を一気に進展させるために用意したエピソードだった。それまでその俺様ぶりからあまり人気のなかったアレスの人気に一気に火がついたエピソードだ。
しかし今の自分はどうだ?
手も足も震え、唇は緊張でパサパサだ。対する相手は余裕の表情である。
全く対照的だ。あの勇者を産み出したのは本当に自分なのかと笑えてくる。
それでも。
それでも、あの勇者アレスを生み出したのは自分だ。今そのコスチュームを身にまとっているのも自分だ。
彼の名誉をここで汚すことはできない。たとえ今、ファンの一人も見ていないとしても。
いや、他でもない自分が見ている。他でもない、勇者アレスを生み出した自分が!
そう思った瞬間、身体の震えが止まった。唇に潤いが戻った。
視野が広くなり、エクリプスの姿が見えるようになった。
「ほう……少しは様になってきたのではないか? あれから鍛錬を欠かしてないようだな」
エクリプスの声が聞こえた。




