第四章 献呈
1.
四月十八日。月曜日。
荘厳でありながら限りなく優しいシューマン=リスト「献呈」の旋律がコンサートホールに満ちる。祈りのように清らかで優しい響きに、舞台袖にいる慧一朗は胸を震わせた。
(リハーサルよりずっと良い)
観客たちも魅入られたように、息を止めて演奏に集中しているのが見える。
今夜は、篠原朝希の初リサイタルだ。
昨年十一月に静岡で開催された山葉国際ピアノコンクールで二位を受賞したばかりとあって、東京オペラシティ千六百席のチケットは即日完売だった。
熱狂的なピアノ・ファン達は皆知っているのだ。山葉国際ピアノコンクールでのタイトルが、ワルシャワ国際ピアノコンクール予備予選免除の対象であることを――すなわち、篠原朝希が既に本選への切符を手にしていることを。
彼らは、朝希がどれだけの実力を持ってコンクールに臨むのかを見極めるべく会場に詰めかけた。そして朝希は見事その期待に応え、観客たちの好奇心を信仰へと変えた。
「いやあ、朝希ちゃんの人気は凄いねえ。これでアンコール何回目よ」
舞台袖で慧一朗と並んでステージを見ていた涼介が、思わずといったように呟いた。
大学を卒業した後、涼介は演奏活動のかたわら制作の仕事をしている。今回ホールを借りられたのも、彼のコネがあってこそだ。
「四回目」
慧一朗は短く答えた。
「はー、さすがだね。それに見てよあの客席。楽友界の記者に、楽器メーカーのお偉いさん。レコード会社の営業やらはいつもの顔ぶれとして、芸能関係も結構来てるぜ。俺さっきの休憩で、女優の水越レイナとすれ違ったもん。男子トイレでは、ダイヤモンドボーイズの相楽壇も見かけたし」
人気アイドルもクラシックのリサイタルなんか見に来るんだな、と涼介は感心したように頷いている。
「事務所の付き合いもあるんだろうけど、ケイの営業力の賜物だね」
「朝希の力だよ。俺の力じゃない」
「いやいや。にしても、朝希ちゃんもタフだよな。コンクール終わってすぐCD出して、リリースイベント、テレビも出てリサイタルもして、休む暇なかっただろ。おまえも、朝希ちゃんも」
慧一朗は頷いてみせたが、視線は舞台上でピアノを弾く朝希だけに注がれている。照明の中で、慧一朗が贈ったダイヤモンドのピアスがきらりと光を放った。
(気持ち良さそうに弾いてる。怖いくらい絶好調だ。でも、この曲で終わらせた方がいいな)
今夜はショパン、ラヴェルとリストから構成されるプログラムだ。合間に二十分の休憩を挟んでいるとは言え、既に二時間のプログラムと四回目のアンコールで、朝希の身体は疲弊しきっている筈だ。
誰かが止めないと、朝希は延々と弾き続けてしまう。この辺りが潮時だろう。
曲が終わった。万雷の拍手を背に、朝希が舞台袖に戻ってくる。
涼介が慣れた様子でドアを開けて、朝希を迎える。大学生になって大人っぽさを増した白い貌には、汗が幾筋も浮かんでいる。
「朝希!」
ステージドアにはけた瞬間、倒れ込むように膝をついた朝希を、慧一朗は慌てて抱きとめた。
「大丈夫か? ほら、水飲んで」
「ありがとう、大丈夫だよ」
そう言いながらも、朝希は苦しそうに薄い胸を上下させている。疲労のためだろう。スタッフが差し出したペットボトルの水を飲むことすらままならず、水滴が桜色の唇を伝い落ち、ポタポタと床に染みを作っている。
(ストローを差しておいて欲しいと伝えたのに)
スタッフ任せにせず、確認しておくべきだった。
自分自身に苛立ちながら、慧一朗は片手で朝希の肩を抱いたままペットボトルに手を添え、水を飲み終えるまで支えてやった。
その間も、朝希を舞台に呼び戻すための拍手はどんどん大きくなっていく。舞台袖だというのに、まるで客席の真ん中にいるようだ。
慧一朗は舌打ちしたいような気持ちになった。
二時間のステージに、四回ものアンコール。もう十分だろうと観客たちに言ってやりたい。
観客の期待に応えずにはいられない朝希は、アンコールのかかる度にステージに出て行って、惜しげもなくレパートリーを披露する。
図に乗った観客たちは手を叩いて喜び、もっと、もっとと演奏を要求する。まるでそれが当然の権利みたいに。
全てを消費するまではステージから降りることを許さない、貪欲で恐ろしい連中。
なかなか戻ってこない朝希に焦れたのだろう。拍手に混じって、「アンコール!」と叫ぶ男性の声が聞こえた。
慧一朗は思わず、朝希を抱く腕に力をこめた。
「朝希、アナウンスかけてもらおう。追加で四曲も弾いたんだ。もう十分だろ」
いま彼を観客から守ってやれるのは、マネージャーである自分しかいない。
振り返って、少し離れた場所で成り行きを見守っていたホール職員に、終演アナウンスをかけるよう合図する。
瞬間、細い指が強く慧一朗の腕に食い込んだ。
「待って、慧」
「朝希?」
「大丈夫、出るよ」
熱を出した子どもの囁きみたいに甘い掠れ声だったが、こちらを見上げる瞳は、強い意思に美しく煌めいていた。
「お客さんが呼んでる。弾かないと」
言葉を失った慧一朗に向かって微笑むと、朝希は静かに立ち上がった。そしてプリマバレリーナみたいに背筋を伸ばすと、まっすぐにステージドアに向かって歩き出した。
「朝希、待て!」
「慧はそこにいて」
歌うように言いながら、朝希は顔だけ振り返って笑ってみせた。慧一朗が二年前の誕生日に贈ったピアスがきらりと光る。
「……そこで聴いててよ。最後の一回は、慧のために弾くから」
「朝希!」
朝希はもう振り返らなかった。
ステージドアが開かれ、薄暗い舞台袖にひととき、柔らかな照明の光が射し込む。
割れんばかりの拍手と喝采が沸き起こり、やがて音楽が始まった。
──グリーグ叙情小曲集、第3集。愛の歌。
春の陽射しのように優しく、透明感に満ちた音のきらめき。
気品とリリシズム溢れる演奏は、まさに篠原朝希そのものだ。
観客がうっとりと聴き惚れているのが空気で伝わってくる。
スタンバイしていたスタッフや、ホール職員たちも一人、また一人と星の光に導かれる旅人のように舞台袖に集まってきた。
(綺麗だ)
練習とリハーサルで何度も聴いているにも関わらず、静かな熱狂が胸の底から湧き上がってくる。
紺碧の深夜、天に輝く星月、燃えるような朝焼けと晴れ渡る青空……朝希の演奏は、この世で最も美しいものを思い出させてくれる。金持ちも貧乏人も、この音の前では等しく、天使に微笑みかけられたような気がするに違いない。
――羨ましい。
突然、思いが心に湧き上がり、慧一朗はひどく動揺した。
「ケイ、大丈夫か」
涼介は眉をひそめ、慧一朗の頬を見ている。そこでようやく、自分がいつの間にか涙を流していたことに気が付いた。
「あ、ああ。ごめん、ちょっと……感動してた」
慌てて涙を拭い、笑ってみせる。
忘れてはいけない。
いま慧一朗は、朝希のマネージャーとしてここにいる。
これは、自分が選んだ道なのだから。
隣から物言いたげな親友の視線を感じたが、気付かないふりをして慧一朗は喝采に微笑んでお辞儀をする朝希を見つめた。
結局、六回ものアンコールの後、朝希の初リサイタルは無事に幕を下ろした。
楽屋見舞いに訪れた鴻三や大学教授、お偉いさんや関係者たちへの挨拶を終え、メディア取材を終える頃には、時計は二十一時をゆうに回っていた。
いつも気丈で弱みを見せようとはしない朝希だが、さすがに疲れたのだろう。辛うじてスーツの上着だけ脱ぐと、ぐったりと楽屋のソファに座り込んでしまった。
「朝希、お疲れさま。大丈夫か?」
「うん……何とか」
先程までのエネルギーに満ちた姿が嘘みたいだ。冬の雨に打たれ続けた瀕死の小鳥みたいに蹲っている朝希の隣に腰を下ろし、慧一朗はそっと朝希の背中を撫でてやった。
「よく頑張ったな。会場販売用のCDもさっき完売したって、営業の三井さんからメール来てたよ。サイン会でもないのにあの枚数完売するなんて凄いって」
「そう。よかった」
嬉しいというよりは、安堵したように朝希は吐息を漏らした。その表情に、どれだけプレッシャーを感じていたのかと可哀相になる。
「リョウがこの後、お店予約してくれてるって。行けそう?」
朝希は疲れたように首を横に振った。
「悪いけど、帰る。一人で帰れるから、慧だけでも行ってきて。僕につきっきりで、お腹空いたでしょう」
「そうはいかないよ。俺は朝希のマネージャーなのに」
「マネージャー、だからでしょ」
朝希は苦笑しながら、ようやく顔を上げた。
「今回のリサイタル、野島先輩には会場の件ですごくお世話になったじゃない。僕の代わりに、しっかりお礼してきて。先輩も、僕抜きで慧と飲む方が楽しいだろうし」
大人びた微笑に、焦燥感に胸が痛くなる。
傍にいてくれなくても良いのだと、言外に告げられた気がした。
マネージャーになって以来、朝希は巧妙に慧一朗を避けている。それだけではない。以前ほど、弱味や本音を見せなくなった。
慧一朗や周囲に背を向けるようにピアノに没頭して、静かな美しい横顔は日を追うごとに澄んで、孤立していくようだった。いや、孤立ではない。慧一朗のいない所に居場所を作ろうとしている。
朝希の中に、自分の知らない翳りがある――それが慧一朗には恐ろしかった。
「リョウとはいつでも飲めるからいいよ。それより、一人で帰らせる方が心配だ」
「細川さんに頼むから大丈夫。今日も来てたみたいだから、連絡してみるよ」
あの秘書か、と慧一朗は苦い気持ちで眉を顰めた。
朝希の父親の秘書である細川綜馬の名前は、最近何かと朝希について回る。
二年前の硫酸事件で朝希を助けた張本人ということもあり、朝希自身も彼を信頼しているように見えた。だが、慧一朗は細川をあまり好きではなかった。向こうもきっと同じだろう。表向きは礼儀正しく振る舞っているものの、慧一朗を見る細川の目はいつも冷ややかだ。
携帯で細川にメッセージを打っていた朝希は、慧一朗の表情に気付くと手を止め、困ったように微笑んだ。
「僕なら大丈夫だから。慧も、たまには息抜きしてきて? 僕のコンクールにCDのイベント、リサイタルで大忙しだったじゃない。先輩と美味しいもの食べて、僕の愚痴でも言い合って、ストレス解消しておいでよ」
最後の言葉に、頭から冷水をかけられたような気持ちになった。
「おまえに対する愚痴、って」
朝希のいない場所で、朝希の愚痴を言うような男に見えるのか。それが慧一朗にとってストレス解消になると、彼は本気で思っているのだろうか。
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く震えていた。
「……俺はただ……朝希が二度と、俺のいない場所で傷ついて欲しくないだけだ」
「っ、ごめん。慧」
焦ったように手を伸ばそうとした朝希を、慧一朗は冷たく振り払った。瞬間、ショックを受けたような朝希の表情にたちまち後悔する。ただでさえ負うものの多い朝希だ。自分が原因で傷つけるようなことは決してすまいと、マネージャーになった日に誓ったのに。ましてや今日は、朝希にとって晴れの日だったのに。
「ごめん、朝希。俺が神経質すぎた」
「違う、僕こそごめんなさい。慧はいつも僕を心配してくれてるのに、嫌な言い方してごめんね」
必死で謝る朝希に、慧一朗は無理やり笑ってみせた。
「……やっぱり、ちょっと疲れてたのかもしれない。細川さん、来てくれるんだろ? お言葉に甘えて、リョウと少し飲んでくるよ。朝希も、帰ったらちゃんと食べるんだぞ。冷蔵庫にミネストローネ作ってあるから」
「うん……」
泣きそうな顔で頷く朝希の髪に触れようと手を伸ばしかけ、結局触れられず、慧一朗はギュッと拳を握り締めた。
マネージャーになって、共に暮らすようになり、誰よりも近くにいる筈なのに。
どうして前よりもずっと、朝希が遠くなった気がするのだろう。
「そりゃ、マネージャーになったからだろ」
三杯目のワインを飲みながら、涼介がさらりと言った。
細川の車に乗り込む朝希を見送り、慧一朗は涼介とホール近くの料亭で飲んでいた。接待でよく使っている店だとかで、仲居の女性は慣れた様子で二人を個室に案内してくれた。
「将来を期待されていた大好きな先輩が、自分のせいでピアノをやめてマネージャーになった。なのに自分は、ケイの前で弾き続けなきゃいけない。失敗は許されないのに、成功すればする程、おまえのキャリアを越えちまう。しんどいに決まってる」
「朝希のせい? 違うよ。俺が自分で決めたことだ」
「実質そうだろ。少なくとも俺はそう思ってる。ケイの母さんだって、同じことを言うだろうな」
慧一朗は黙って、自分のウィスキーのグラスを傾けた。
プロのキャリアを諦め、レコード会社に就職することを告げたときの貴和子の絶望と怒り、泣き顔は、一年以上経った今も、十字架のように慧一朗の胸に突き刺さっている。
「ピアノをやめた訳じゃない。今も弾いてるよ」
さり気なく話題を変えた慧一朗に、しかし涼介は誤魔化されてはくれなかった。
「プロを目指してた時ほどじゃないだろ。まあ、それは俺もだけどな」
涼介は皮肉っぽく片頬を持ち上げた。
「音大を卒業してプロでやってける奴なんて、ほんの一握りだ。ほとんどの奴はレッスンを細々と続けながら、アルバイト掛け持ちして仲間内で発表会やるか、教師になるか、俺みたいに音楽関係の会社に就職してる。そうしなきゃ食っていけないからだ。でも、ケイは違っただろ。おまえはプロになれた人間だ」
百パーセント確信しているように言いながら、涼介は酔いで赤くなった目で慧一朗を睨んだ。信頼と失望がないまぜになったような親友の目に、慧一朗は一瞬、言葉に詰まった。
「そんなことはないよ。俺はプロ向きじゃなかった。朝希を見てるとつくづくそう思うよ」
「自分にそう言い聞かせてるだけだろ。仕事で色々な奴見てきたけど、ケイは朝希ちゃんよりずっとプロ向きだったぜ。マイペースで、人の忠告なんざ聞きもせず、自分の信念を押し通しちまう性格なんか、特にな」
「マイペースって……ひどいな」
慧一朗は苦笑したが、涼介は呆れたように鼻で笑っただけだった。
「ひどいもんか。今更だけど、よく朝希ちゃんに絶交されなかったよな」
「されたよ。とっくに」
二年前の冬に彼の家でマネージャー宣言をして以来、朝希はありとあらゆる方法で慧一朗に考え直して欲しいと訴えた。涙、懇願、怒り、恐怖、軽蔑――朝希があんなに泣いたり怒ったりするのを見るのは初めてだった。
それでも慧一朗が意志を変えないと分かると、今度は徹底的な無視が始まった。話をする価値もないというように冷然とした目で、朝希は自宅レッスンでもキャンパス内でも、慧一朗を避け続けた。
雪解けが訪れたのは、年が明けた三月の始めの頃だった。
朝希の契約しているレコード会社のマネージャー部門に就職が決まったその足で、慧一朗はキャンパスでレッスンをしている朝希の元へ向かった。既にレコード会社から話は聞いていたのだろう。朝希は泣きそうな顔で、でも泣くまいとするようにいびつな笑顔で、「これから、よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。
許された、と思った。
「……さすがの朝希ちゃんも、ケイの強情さには敵わなかったってことね」
涼介は息だけで笑うと、ビールのようにがぶがぶワインを飲んだ。
「俺はさ、東雲教授がおまえの就職を許したことも意外だった。個人の自由を大切にしているように見えるけど、東雲教授はケイを凄く大事に育ててたように見えたから。さすがにプロにならないなんて許さないと思ったけどな」
「息子は、俺一人じゃないから」
弟の美景は、昨年の初夏にエリザベート王妃国際音楽コンクールで四位のタイトルと聴衆賞を獲得した。ワルシャワ国際ピアノコンクールの予備予選免除の対象にはならなかったものの、十七歳という年齢を考慮すれば十分に快挙と言っていい成績だろう。
最近の母は慧一朗で失敗した分を取り戻そうとするように、美景の教育に熱を注いでいるようだ。美景には申し訳ないが、彼のおかげで風当たりが弱くなった部分があるのは認めざるを得ない。
「父さんには、プロになるばかりが人生じゃない、って言われた。ただ……練習はやめるなって」
桐原音楽大学のピアノ科教授として、長年多くの生徒を見てきた経験もあるからだろう。鴻三は、貴和子よりか大分あっさりと慧一朗の就職を許してくれた。
ただし就職の条件として、ピアノの練習は怠らないようにと釘を刺された。
――プロになることをやめたとしても、おまえの音楽が終わる訳ではない。名誉のためでも、食べていくための手段としてでもない。おまえが育ててきた音楽は、必ずこれから生きていくための心の助けになる。だから、音楽を捨ててくれるなよ、慧一朗――。
いつもの磊落な調子ではなく、優しく真剣な眼差しで父に言われたとき、慧一朗は少しだけ泣きそうになった。これまで自分の教育にかかった時間とお金を考えたら、どれだけ親不孝なことをしているか自覚はあった。
慧一朗は条件を飲み、今でも週に二度は時間を見つけて実家に帰り、ピアノを弾いている。
一日に五時間、六時間と練習していた頃に比べれば大分少ないが、それでもワルシャワ国際ピアノコンクールに照準を合わせて練習していたショパンの楽曲を弾くと、改めて音楽のもたらす歓びや美しさに心が癒され、満たされている自分がいた。
「今考えると、父さんなりの優しさだったんだと思ってる。あのまま就職にかまけて、指が鈍って弾けなくなったら、多分辛かっただろうから。人前で弾くことはなくなったけど、やっぱりピアノに向かう時間は好きだから」
胡散臭そうにワイングラスを弄んでいた涼介が、驚いたように慧一朗を見た。
「……そこまで自覚してんのに、どうして……」
「え?」
呻くようにぼそぼそと呟く親友に聞き返しても、涼介は何も言おうとはせず、それ以上、話をしようとはしなかった。
「じゃあな、ケイ。気を付けて帰れよ。朝希ちゃんによろしく」
「ああ。今日は本当にありがとう、また近いうちに」
料亭を出ると、制作会社からだという手土産を持たされ、慧一朗はタクシーに乗り込んだ。
ふと渡された紙袋が学芸大学の有名な洋菓子屋のものだと気付き、一瞬、朝希と住むマンションではなく松濤の実家へ行き先を変更しようか迷った。ここのバウムクーヘンは、貴和子の大のお気に入りだ。だが、やはりそのまま帰ることにする。今日が朝希のリサイタルだということを、母が知らないはずがない。
慧一朗がマネージャーになって以来、母は一度も朝希が出演する演奏会に顔を見せなくなった。門下発表会には仕方なさそうに顔を出しているが、そのくらいだ。
あからさまな嫌悪と敵意に、朝希も実家のレッスンには来なくなった。
慧一朗と同居を始めて自宅にピアノを置くようになり、練習のため東雲家に通う必要もなくなったのだ。今は主に大学のキャンパスで、鴻三のレッスンを受けている。
(これは今度の週末に持って帰ろう)
紙袋を脇に置くと、慧一朗はスマートフォンを取り出した。
今日のリサイタルの件で、レコード会社の同僚たちや雑誌社のライターから数件メールが入っている。中には早々にニュース記事の初稿を送ってくれた記者もいた。写真と記事に問題がないかざっと目を通し、広報部に修正依頼の連絡をする。
一通り連絡事項やお礼のメールを返信してから、ようやく人心地ついて後部座席に寄り掛かった。
外は、雨が降ってきたようだ。
タクシーはちょうど皇居の近くを走っていて、雨に濡れた街灯の光が美しかった。
慧一朗は、しばらくぼんやりと窓の外の景色に見入った。
ここ最近で一番の山場でもあった初リサイタルが終わり、心地のよい疲労が全身を満たしていた。プレイヤー側として生きていた頃とはまた違う、裏方としての充実感だった。
就職は、驚くほど慧一朗の人生を変えた。
それなりに謙虚に生きてきたつもりだったが、普通の四年制大学から入社してきた同僚に比べると、自分がいかに世間知らずで恵まれていたのかを痛感した。ほとんどコネクションで勝ち取ったような内定だったということもあり、入社してからは、マネージャー業以外の仕事にも必死に取り組んだ。
運がいいことに、慧一朗は同僚に恵まれていた。中には演奏家としての慧一朗を知っている者もいて、勿体ないと残念そうに言いながらも、こだわりなく一緒に働き、飲んで、仲間として受け入れてくれた。ありがたかった。
(俺はこの生活が気に入っているし、性に合っている)
朝希と暮らすマンションが見えてきて、慧一朗はスマートフォンを鞄にしまった。
家に着いたというメッセージが数時間前に一度入ったきり、朝希からは連絡がない。もう眠っているのかもしれない。
車寄せで運転手にタクシーチケットを渡して、エントランスへ入っていく。
朝希の父親が用意してくれたマンションはコンシェルジュ付きで、入居審査も一般の賃貸よりもかなり厳しいらしい。実際、すれ違う住民は芸能人や若手の実業家も多く、新卒の慧一朗と大学生の朝希が住むには明らかに分不相応だった。だが、篠原朝希というスターを守るには、十分なほど堅牢な城でもあった。
「ただいま」
そっとドアを開けると、予想に反して部屋は明るかった。
「朝希?」
煌々と明かりのついたリビングでは、黒い革張りのソファの上で朝希が丸くなって寝ていた。
相当疲れていたのだろう。辛うじてスーツから部屋着に着替えてはいたものの、荷物は床に放り出され、髪もステージ用のセットのまま、行き倒れの旅人みたいな顔で眠っている。
朝希は眠りが浅い方だ。仕事の合間に仮眠を取っていても、人の気配やどんな小さな物音でも目を覚ましてしまう。それが今は、慧一朗が膝をついて顔を覗き込んでも、起きる気配がなかった。
「……疲れたよな」
そっと腕を回して彼を抱き上げ、寝室へ連れていく。
四月の夜だが、雨のせいか室内は少しだけひんやりと冷たい。起こさないよう注意しながらベッドに朝希を横たえ、自室から大きなブランケットを持ってきて上にかけてやる。グレーと白のダマスク模様のブランケットは慧一朗のものだったが、朝希のお気に入りでもあった。眠ったまま、気持ち良さそうに身じろぎする姿に、慧一朗は思わず微笑んだ。
手を伸ばし、そっとセットされたままの髪に触れる。先ほどは触れることのできなかった毛先は、整髪料と汗で少しだけべたついていた。
(起きたら、まずお風呂に入りたがるだろうな)
差し入れで貰ったバスソルトを探しておこう。
慧一朗はそっと手を引っ込めると、立ち上がって寝室を出た。
朝食は、朝希の大好きな梅干しのおにぎりと卵焼きを作ってやろう。それからたっぷり昼寝をさせて、近所のカフェに散歩に出かけたり、映画に行ってもいい。とにかく好きなことをさせてやりたい。何せ、明日は久しぶりのオフなのだ。慧一朗も代休を取得するように室長から言われている。
取りとめのないことを考えながらリビングに戻って朝希の荷物を片付けていると、不意に鞄からコピー譜が数枚滑り出て床に散らばった。
「っと、」
慌てて拾い上げたのは、朝希が先程アンコールで弾いていたシューマン=リストの「献呈」だった。朝希の十八番――細い綺麗な字で沢山の書き込みがされたコピー譜を、慧一朗はしばらくじっと眺めた。
シューマンが最愛の恋人・クララに捧げた歌曲を、リストがピアノ独奏用に編曲した作品。大学時代に弾いたことはあるが、今日あらためて美しい曲だと思った。
「……君はわが魂、わが心。僕の無上の喜び、痛み――君は僕の世界、僕の生きる場所……」
譜面を目で追いながら、かつて声楽のレッスンで習った献呈の詩が口からこぼれ出る。
朝希の弾く献呈は、ひたむきな煌めきと意志の強さ、そして寄り添うような優しさに満ちていた。愛を囁くような音色を思い出し、胸の底が熱く波立つ。
気が付くと慧一朗は、譜面を強く握り締めていた。
(ピアノが弾きたい)
無性に、そう思った。
先程、舞台袖で見たアンコールが、朝希の笑顔が、忘れられない映画のラストシーンみたいに心に蘇ってくる。あの美しい瞬間の記憶に浸り、胸に満ちる思いを鍵盤に託して、自分と一体化させたい。それは久しぶりに感じる衝動であり、欲望だった。
慧一朗は立ち上がると、そっと防音設備の施された練習室のドアに手をかけた。
月明かりに照らされた部屋には、フルコンサートピアノが艶々と黒い光を放っている。朝希が昨年コンクールで二位のタイトルを獲った際に、メーカーから贈られたピアノだ。
いつでも弾いて欲しいと朝希には言われていたが、慧一朗はいつも「実家で弾いてるし、せっかく引退したんだから、もう良いよ」と笑いながら辞退していた。夢の中でもピアノ漬けになっているような朝希に、余計なことで気を遣わせたくなかった。慧一朗は、もうそちら側を「降りた」人間だと分かっていたから。
だが今の朝希は初リサイタルに疲れて、昏々と眠っている。慧一朗が練習室で弾いたとしても、目を覚ますことは無いだろう。
慧一朗は震える手で譜面台に献呈の譜面を置くと、静かに腰かけて鍵盤に指を滑らせた。
最初の一音を奏でた瞬間、ぞくりと背筋が快感で震えた。
真夜中の音楽が始まる。
自分のなかを血潮が駆け巡り、幸福と情熱で指先まで満たされていく。
(ああ……)
ピアノを弾くのは久しぶりだったが、どんどん自分と音楽が一体化していくのが分かる。
なんて気持ちいいんだろう、美しい旋律だろう。
熱い涙が頬から首筋を伝い、視界が歪む。だが、この手は音楽を覚えている。
ただ愛おしく、幸せで、失われた半身を取り戻すように、慧一朗は夢中になって弾き続けた。
慧一朗は知らなかった。
防音扉の外に、目を覚まして、彼を探しに来た朝希がいたことを。
扉に縋りつき、漏れ出るピアノの音に打ちのめされて、声を殺して泣いていることを。
(慧の献呈だ。これは、慧だけの……)
曲の中に引用されたシューベルトのアヴェ・マリアの旋律が、まるで人間の歌声のように聴こえてくる。気品に溢れながらも力強く、ひたむきな愛の誓いのように。東雲慧一朗そのもののように、力強い輝きに満ちた演奏だった。
彼の罪を赦した結果がこれだ。いや、違う。罪を犯したのは自分も同じだ。
慧一朗を思いとどまらせることができず、結局彼に甘えて、彼の音楽を奪った。どうしてもっと強く拒絶できなかったのだろう。マネージャーとしての彼を受け入れたから、慧一朗は光さすステージを降りてしまった。
彼はこんなにも音楽を愛し、音楽に愛されているのに。
「……ごめんなさい、慧」
消え入るような呟きは、慧一朗には届かない。
献呈を弾いて、気分が乗ったのだろう。それから慧一朗は、バラードの一番、三つのマズルカを続けて弾いた。女神の下す天罰のように、圧倒的なまでに美しく、力強い音。
暗闇のなか、朝希は罪人のように冷たい床に額づいて、慧一朗の音楽を聴いていた。
2.
MV出演の仕事が来たのは、七月の初めの頃だった。
大学の帰りに慧一朗とレコード会社に向かうと、佐々木さんという女性社員が朝希たちを迎えてくれた。
佐々木さんはアーティストの広報責任者をしている。二人の子どもを持つ四十代のワーキングマザーで、常にやる気が全身から漲っているような明るい大阪出身のお姉さんだ。いつも朝希たちに会うと元気よく挨拶をしてくれるのだが、今日はどこか緊張している様子で、応接室まで向かう間も言葉少なだった。
アルバイトの人がお茶を置いて出て行くと、佐々木さんはおもむろに分厚い資料を二人に差し出した。そして、
「篠原さん、相楽檀のミュージックビデオに出てもらえませんか」
と、勢いよく頭を下げた。
「ミュージックビデオですか?」
朝希は困惑した。
相楽檀。二年前に日韓合同オーディション番組を通じてデビューしたボーイズグループのメンバーの一人だ。部門は違うが同じレコード会社所属なので、普段テレビを見ない朝希でも、名前だけは知っていた。確か、結構人気のメンバーだった気がする。だが、相楽檀はアイドルだ。クラシック演奏者ではない。
「でも、僕ダンスも歌もできないですよ」
オファーの理由が分からず朝希が首を傾げると、佐々木さんは慌てたように顔の前で手を振った。
「あ、いや、そうじゃなくて! 篠原さんには、ピアノを弾いて欲しいんです。相楽さんが作ってる曲の中に、ショパンの革命と英雄のモチーフが出てくるみたいで」
「ああ、なるほど」
それなら納得だ。同じ会社から出演させる方が安上がりだし、スケジュールの調整もしやすい。朝希の売り出しにも効果があるだろう。佐々木さんらしいなと朝希は思った。佐々木さんは縋るような目をしながら身を乗り出した。
「一人の青年の失恋から再生までを描いたロックアルバムなんです。グルックの〝エウリディーチェを失って〟を下敷きに、恋人への後悔と愛を歌った一曲目。そこから何者にもとらわれない自由への〝革命〟と、愛されるためではなく、自分が愛することのできる人生を選び取る〝英雄〟になるまでのストーリーを歌い上げたメインの二曲目。篠原さんには、この二曲目に参加していただきたいんです」
「へえ、クラシックの旋律をロックに入れるんですね。面白そう」
朝希は感心した。ピアノを弾くとき、主役は楽器であり曲そのものだ。だが歌は当然、人の声が主役になる。普段弾いている曲がどんな風にアレンジされるのか、興味があった。
目の前に置かれた資料を取り上げ、相楽檀の宣材写真を眺める。綺麗な男だ。どこかで会ったような気もするけれど、芸能人というのは得てしてそういうものだろう。大衆が認める美は、普遍的だからこそ既視感がある。
「かっこいい人ですね。作曲もするなんて、凄いな」
朝希の反応に勇気を得たように、佐々木さんは丸い頬をピンクに上気させながら、身を乗り出した。
「はいっ、相楽さんは凄い人なんですよ。絶対、売れると思ってますし、成功させたいんです! 相楽さんも是非、篠原さんにお願いしたいって言ってて。撮影は八月の夏休み期間なので、大学を休まれる必要もないと思います」
やってみたいな、と思った。
歌ったり踊ったりする訳でなく、ピアノを弾くだけなら別段ハードルの高い仕事でもない。モチーフということは、フルで弾く訳でもないだろう。ストーリーに曲を乗せるというのも楽しそうだ。あとはスケジュール次第だ。
ちらりと隣に座っている慧一朗を窺うと、慧一朗は厳しい表情で企画書を捲っていた。あまり乗り気ではなさそうだ。
朝希の仕事は、主に広報部とマネージャーの慧一朗が選んでいる。朝希としては、依頼された案件はなるべく受けたいと思っていたが、慧一朗に言わせれば「わざわざ朝希がする必要のない低俗な仕事」の依頼もそこそこ来るらしい。朝希のところに話が上がってくるのは、既に会社内で選別が終わったあとだ。
佐々木さんが慧一朗に話を通す前に朝希を同席させるのは、これが初めてだった。
だが今回の案件は、慧一朗が言うところの「低俗な仕事」ではないだろう。
「スケジュールさえ合うなら、僕は」
構いませんよ、と言いかけた朝希を、しかし慧一朗は厳しい声で遮った。
「お断りします。佐々木さん、朝希を相楽さんのMVに出す訳にはいかない」
「え?」
「行くぞ。朝希」
「ちょ、ちょっと! 待って、慧」
朝希は驚いて、立ち上がりかけた慧一朗の手を掴んだ。いくら同僚とはいえ、佐々木さんは慧一朗の先輩だ。こんな風に去るのは、流石に失礼ではないだろうか。
「理由は? 理由を言わないと、佐々木さんも困るでしょう」
だが、佐々木さんは慧一朗が断ることは予想がついていたらしい。あちゃーという顔で頭を抱えていたものの、そこまで驚いた様子はなかった。慧一朗は苦虫を嚙み潰したような表情で佐々木さんを睨み、それでも仕方なさそうに再び腰を下ろした。
「……朝希のイメージに傷がつく」
「イメージ? 確かにクラシック畑の人間がアイドルと共演したら、向こうのファンの人はよく思わないかもしれないけど」
同じ音楽なのに不思議なもので、クラシックとポップスは別世界だと思っている聴衆は多い。ユーチューバーが街角ピアノを弾けばエンタメだと馬鹿にされ、逆にクラシック畑の人間が流行歌を歌えば、雰囲気がクラシックっぽいと笑われる。プレイヤー側がジャンルの垣根を越えようとしても、餅は餅屋だと受け入れない聴衆は未だに多いのだ。きっと慧一朗も、そこを心配しているのだろう。
朝希はとりなすように慧一朗に笑いかけた。
「でも、オルフェオに革命、英ポロが入った曲なんて面白そうじゃない? 普段クラシックを聞かない人も興味を持ってくれるかもしれない」
諦めきれず言い募る朝希に、慧一朗は「そういう問題じゃないんだ」と呟いた。そしてちらりと佐々木さんを見ると、感情を押し殺したように言葉を続けた。
「問題は、曲じゃない。相楽さんだ──佐々木さん。貴方、どういうつもりで朝希にこの仕事をオファーしたんですか」
佐々木さんは申し訳なさそうに俯いた。
慧一朗はちらと朝希を見ると、「朝希は知らなかったと思うけど」と前置きして、驚くようなことを言った。
「相楽さんは、今年の五月に女性スキャンダルでダイヤモンドボーイズを脱退、活動休止している」
「女性スキャンダル……」
絶句する朝希に、慧一朗は冷たい目をして頷いた。
「つまり、これは復帰のためのソロデビューアルバムですよね。失敗できないし、話題性が必要だった。そこで、最近名前が売れてきてクリーンなイメージの朝希に白羽の矢が立った……そういうことですよね? 佐々木さん」
佐々木さんはギュッと目を瞑ると、どもりながら弁解した。
「そ、それは……でも、篠原さんと相楽さんどちらにもメリットがあると思ったからオファーしたんです。別に、篠原さんを蔑ろにしている訳ではなくてですね」
「メリット?」
慧一朗は片頬を上げて皮肉っぽく笑った。佐々木さんは可哀相なほど恐縮しながらコクコク頷いた。
「篠原さんは、来年のワルシャワ国際ピアノコンクールに出るんですよね。そのためには、知名度も上がった方がいいじゃないですか」
最後の言葉を聞いた瞬間、慧一朗の琥珀色の瞳が静かに怒りの色を宿した。
「ワルコンに、知名度は関係ない。とにかく、今回の仕事はスケジュール都合で断ってください。申し訳ありません」
行くぞ、と低い声で吐き捨てると、慧一朗は朝希の肩を抱くようにして応接室を出た。
エレベーターを降りるあいだも、帰りの車に乗っているあいだも、慧一朗は黙り込んだままだった。
仕事は断ったのに、それでもまだ怒りを消化しきれないような苛立ちが、痛みが、美しい横顔に現れていた。慧一朗は滅多に人に腹を立てることはないし、怒りを表に出すことはない。いつも上品で優しい彼が、こんな風に感情を持て余しているところを見るのは初めてだった。
「慧」
マンションに帰ると、朝希はおそるおそる慧一朗に声をかけた。
自室のドアに手をかけようとしていた慧一朗は、思い詰めた表情で朝希を振り返った。
「ごめん」
朝希が口を開くよりも先に、慧一朗が謝った。
「あの仕事、やりたかったんだろ。分かってる。おまえが興味を持っていたのは。……相楽さんのスキャンダルとおまえは無関係だ。MVに出たくらいで、朝希の価値は下がったりしない」
分かってるんだ、と低い声に苦悩を滲ませながら、慧一朗は続けた。
「でも、炎上したアイドルと共演する篠原朝希を聴衆はどう思う? ファンを裏切って、革命と英ポロでカムバックを果たす奴の手助けを、何で朝希がしなきゃいけないんだ」
慧一朗は震える手で朝希の肩を掴んだ。力の強さに、朝希は目を瞠った。ピアノを弾く朝希に気を遣ってか、慧一朗はいつも神経質なくらい優しく朝希に触れてくる。
薄暗い部屋に夕陽がさして、慧一朗の顔の半分を鈍く照らす。ヘーゼルの瞳はいっそう鋭く、クラクフの琥珀のように煌めいて朝希を見据えた。
「まるで共犯者じゃないか。相楽さんを肯定させるためにおまえの音楽を利用されるのも、おまえの経歴やイメージに少しでも傷がつくのも、俺は嫌だ」
「慧、分かってる。僕は大丈夫だから」
思わず後ずさりそうになるのを何とか踏みとどまって、朝希は慧一朗を抱き締めた。
慧一朗は、朝希の目を見れば何を考えているのか見抜いてしまう――気付かれたくなかった。自分が、彼に抱いている畏れに。はたして自分は、この男の信仰に、神聖に、値するピアニストになれているのだろうか。
慧一朗は一瞬ビクッと身体を震わせたが、やがてそっと朝希の背を抱き返してくれた。朝希は慧一朗の肩に顔を埋めたまま、ちいさな声でつぶやいた。
「僕のために怒ってくれて、ありがとう。慧が僕のために断ってくれたのは分かってるよ。慧がマネージャーになってくれて、本当によかった」
心にもない言葉を吐きながら、罪悪感に胸が引き裂かれる。この言葉が嘘だと、慧一朗にはきっと気付かれている。それでも関係性を壊さないために、手を離さないために、自分たちは互いを欺きながら生きていくしかない。
朝希は深く息を吐くと、笑顔を作って慧一朗から身体を離した。慧一朗は聖像に跪く信者のような目で朝希を見つめている。
「そんな顔しないで。夏休みはサマースクールもあるし、仕事を受けなくて良かったよ。留学の件もそろそろ考えろって東雲先生にも言われてるし」
苦し紛れの言い訳は、半分本当だ。シード権を得て以来、鴻三は朝希に留学を考えるよう再三促してくれていた。もしワルシャワに留学するなら、当然慧一朗もついてきてくれるだろう。ピアノを捨てた彼の前で、自分は本選の舞台に上らなければいけない。かつて出会い、救われたワルシャワの地で――恐怖で息が詰まりそうになるのをグッと堪え、朝希はそっと慧一朗の袖を引いた。
「ね、慧。宿題、手伝ってね」
「……ああ」
苦しい。一緒に暮らして、共に過ごす時間が長くなる程、慧一朗の悲しそうな顔を見てばかりいる気がする。
オンライン会議があるという慧一朗と別れて自室に戻ると、朝希はパソコンの電源を入れた。
相楽檀の名前を検索バーに打ち込むと、たちまち検索結果のトップに彼のスキャンダル記事や、ダイヤモンドボーイズのゴシップサイトや写真が表示される。それらをスクロールして飛ばし、動画サイトの一番上に表示されていたリンクを開く。
日付は昨年の春。アイドル時代のデビュー曲のようだった。特定のメンバーにフォーカスした、相楽檀のファンカム動画だ。ポップで明るいメロディの中、ファンの掛け声にあわせて完璧なヘアメイクを施された綺麗な男達が歌い踊る。
「……へえ」
朝希は思わず感嘆の声を漏らし、ヘッドフォンを着け直した。
普段は忙しくてなかなか触れる機会がないが、アイドルの曲はクラシックとは全然違って面白い。
男子高校生の制服みたいな衣装を着て踊る少年達はフレッシュでキラキラしていたが、中でも相楽檀の放つオーラと煌めきは、群を抜いていた。切れ長の三白眼に、少しだけ先端が反ったような形の高い鼻は男らしいのに、果実のように膨らんだ唇が女性的で、不思議な色気がある顔立ちだ。
画面の中の檀は、白に近い薄紫色に髪を脱色して、薄いブルーのカラーコンタクトレンズを着け、射抜くような眼で画面を見据えながら、空気を切り裂くような鋭いダンスを披露して歓声をさらっている。求心力とでもいうのだろうか。ほかのメンバーも厳しいオーディションを勝ち抜いてきたとあって、いずれも見目のよい者ばかりだったが、相楽檀の放つエネルギーには遠く及ばない。
動画の真下のコメント欄は、彼のスキャンダルを誹る者と、擁護しようとするファンの舌戦が繰り広げられていて、朝希は慌ててコメント欄が見えないようマウスをスクロールさせた。何だか、見てはいけないようなものを見たような気分だった。クラシック演奏者のファンにも熱意の高い人はいたけれど、相楽檀のファンの熱意はそれを軽く上回る。狂信と言っても過言ではない。動画越しでも、彼を呼ぶ観客たちの声援、拍手の大きさからそれが伝わってくる。
どんな気持ちだろう。こんな風に大勢の人に期待される中で歌い踊るというのは。こんなに多くのファンを裏切り、脱退して、再び返り咲くということは――。
それにしても、と朝希は心の中でつぶやく。
(やっぱりこの人、どこかで会ったことある気がする)
自分でも気付かないうちに、事務所ですれ違っていたのかもしれない。
動画の中の相楽檀はパフォーマンスを終え、キラキラと額に汗を光らせながら、悪戯っぽい笑顔で歓声を一身に浴びている。
朝希は動画サイトを閉じると、事務所のホームページを開いて、彼のプロフィールを見た。
「相楽檀、東京都中央区出身……僕より二つ上なんだ」
だが、書かれているのは出身地、誕生日と年齢だけだ。オーディション番組を経て、ダイヤモンドボーイズに加入した経歴も、脱退の件も触れられていない。アイドル時代は完全になかったことにされているのだろう。これからカムバックをするのに、黒い過去は邪魔だというわけだ。
(でも、アイドル時代だって彼の一部だったはずなのに)
動画を見ただけでも、彼が本気で音楽を愛し、パフォーマンスと真剣に向き合っていたことがよく分かる。とてもスキャンダルを起こすような男には見えなかった。
彼の作る曲を聞いてみたい。
心に浮かんだ思いをあわてて打ち消し、朝希はパソコンの電源を落とした。
相楽檀が訪ねてきたのは、その翌週のことだった。
七月にしては珍しく気温の低い、霧雨の降る午後だった。代官山キャンパスで二時限続きの和声を終えた朝希は、練習室棟へ急いでいた。学生アプリで予約を確認しながら、ふと視線を感じて顔を上げると、練習室棟の入口でサングラスをかけた長身の青年がこちらを見つめていることに気付いた。
恐ろしくオーラのある男だ。ガラス扉に寄り掛かり、長い足をクロスさせて腕組みをしている姿は、普通の者がやったらナルシストだと失笑されてしまいそうだが、彼は文句のつけようがないほど様になっている。大きなサングラスをかけているので顔は分からないが、濡れたような黒髪の頭は小さく、スタイルのよさが際立っていた。
きっと、俳優かモデルだろうと朝希は思った。有名建築家が手がけた代官山キャンパスは、しばしドラマや雑誌のロケに使用されている。特に気にせず会釈して横を通り過ぎようとした瞬間、
「おい、篠原朝希」ハスキーな声で名前を呼ばれ、朝希はぎょっとして立ち止まった。
「はい?」
思わず眉根を寄せた朝希に、青年は少しサングラスを上げるようにして朝希を冷たく見下ろした。きらきらと鋭く光る双眸に、朝希は「あっ」と小さく声をあげた。
「相楽、檀さん……」
「知ってんなら、話が早ぇな。来いよ。もう十五分もこんなところで待ったんだ」
まるでヤンキーの呼び出しのように顎をしゃくる檀に、朝希は面食らった。MVの仕事は断ったはずだが、状況が変わったのだろうか。でもそれなら慧一朗から連絡が来るはずだ。そもそも、相楽檀本人がこんなところまで迎えに来る理由がない。
朝希は慎重に口を開いた。
「待ってください。あの、お仕事はお断りしたと思うんですが」
「知ってる」
短く言い返し、檀はさっさと踵を返して歩き出してしまう。朝希は焦って後を追いかけた。傘を差すほどではない、柔らかな雨がさらさらと頬を撫でてゆく。
「相楽さん! 待ってください、あの、僕に何の用ですか? いくら説得されても、僕は」
「説得?」
檀は立ち止まって朝希を振り返ると、少しだけ口角を上げた。たったそれだけで、見当違いだと嘲笑する意図が伝わってくる表現力は、さすがアイドルと言うべきか。朝希はむっとした。
「違うの? じゃあ、文句でも言いにきた?」
「それも違うね」
静かに答えると、檀はサングラスを外して不敵に微笑んだ。
「俺は、あんたを口説きにきたんだよ」
曇り空も霧雨もものともせず笑う檀の顔を見て、やはりこの男はアイドルだったのだなと朝希は場違いなことを思った。
十分後、二人は桐原音大のカフェテリアのカウンター席に並んで座っていた。
たとえスキャンダルを起こしたとしても、檀は有名人だ。場所を変えようと申し出た朝希に、檀は「なら、学食に行ってみたい」と言い出したのだ。大学の外の方が良いんじゃないかと聞くと、外の方が危ないのだという。
「木を隠すなら森の中って言うだろ。同じ年頃の奴がうじゃうじゃいる大学の方がいいんだよ。今の俺は誰もが憧れるイケメン音大生。おまえの同級生。つまり、敬語も禁止。いいな?」
「はあ」
見た目通り、ディーバのような男だ。朝希のことなど気にも留めない様子で、食券の販売機を物珍しそうに眺めている。
「ラーメンが三百円? 大学ってすげーな。この前ロケで食わされたラーメンなんか、四千円だったぞ」
「四千円……それ、美味しかったですか?」
「おい、敬語禁止っつっただろ。まずかったよ。トリュフだか何だか訳わかんねえもん沢山乗ってたし。――よし、味噌ラーメンにすっか。この券どうすんの?」
「……そこのカウンターで出すんだよ」
ゴーイングマイウェイすぎる檀に気を使うのも馬鹿らしくなり、朝希はぞんざいにカウンターを指さした。
嬉しそうにトレーを持って、麺コーナーのおばちゃんに三百円の味噌ラーメンを乗せてもらう檀は、しかしながら非常に目立っていた。唯一の救いは、昼時を外して人がまばらだということか。それでも安全とは言い切れない。朝希はハラハラしながら、何とか窓際のカウンター席に檀を押し込んだ。
「たくさん席空いてるのにカウンター? しかもこんな隅っこ。根暗だな、朝希」
いきなり下の名前を呼び捨てされた上にからかわれて、朝希は冷ややかに檀を睨みつけた。
「相楽さんのためだよ。貴方みたいな人が堂々と学食にいたら目立つでしょ」
「そう? 俺は目立つの好きだけど」
しれっとそんなことを言いながら、檀は美味しそうにラーメンを食べ始める。
「朝希は食わないの?」
「今はいらない。ピアノの練習が終わったら食べようと思ってたから」
練習の予定を取りやめて付き合っているのだと言外に伝えたつもりだったが、檀は「あっそう」と特に興味を示した様子もなく、ずるずるとラーメンを啜っている。そして、ものの五分もしないうちにラーメンを食べ終えると、パンッと手を合わせて「ごちそうさま」と言った。思わず見惚れるほど、綺麗な所作だった。人に見られることに慣れ、職業としてきた男の所作だ。
「……勿体なかったね」
思わず呟いた朝希に、檀が静かにこちらを見た。唐突な言葉だった筈なのに、真夜中の海みたいな色をした彼の瞳は、朝希の意図を正確に理解しているようだった。
「あ、ごめんなさい。つまり、」
「そうだろ?」
慌てて言い訳しようとするのを、落ち着いた声が引き受けた。
「勿体ない、運が悪い、因果応報、可哀相……もう耳にたこができるくらい言われたな」
淡々とした様子で、檀は言った。自嘲ではない、ただ事実を述べているというような話し方だった。
「……そんなことは、」
何と言葉をかけたらよいか分からず、朝希は口ごもった。檀は悪い男ではないと思う。だが、彼のこともスキャンダルの内容もきちんと知らないのに、口先だけで否定するのはいかにも不誠実な気がした。自慢ではないが、朝希は友人の多いほうではない。クラスメイトとは当たり障りのない会話しかしないし、慧一朗は優しいから、朝希に対して弱音を吐いたりしない。こんなとき、何と言えば良いのか分からなかった。
だが檀は、返事を期待した様子もなく、ふ、と小さく吐息を零した。自分の中で燃え盛っている炎の欠片を吐き出すような、そんな苦しげな吐息だった。
「いや、事実だ。このまま戦わなければ、俺はずっと〝勿体ない〟まま、落ちぶれて、笑われたままだよ。くだらない奴らにハメられた、惨めな負け犬だ」
「ハメられた?」
「俺のスキャンダル記事、読んでないのか」
「女の人とのスキャンダルっていうのは聞いたけど。……嘘なの?」
ハメられた、ということは事実ではないのだろうか。朝希の表情を見て、檀は少し自嘲ぎみに笑った。
「いや、自分を庇うような言い方しちまったな。事実だよ。デビュー前に、高校時代のカノジョと文化祭で撮ったキス写真が流出した」
檀はスマートフォンを操作すると、SNSアプリのスクリーンショットを見せてくれた。朝希は言葉を失った。そこには少しぼけたチェキ写真と共に、見たこともないような下劣な言葉で、檀を一方的に断定して、批判する文章が綴られている。アンチが投稿したらしきその写真には、十万近くの「いいね」がついていた。
「これ、デビュー前の写真なんでしょう? それなのに、こんな……この女の人がやったの?」
顔を歪めた朝希に、檀は小さく首を横に振ると、スマートフォンをテーブルに伏せた。
「いや。こいつじゃない。彼女からは、すぐに謝罪の連絡がきた。俺が悪かったんだ。デビューが決まって、すぐ一方的に別れを切り出したから。そういう俺のやり方をよく思わない奴は、少なからずいたと思う。ネット上じゃ、俺は未だに女遊びが激しいファン喰いのアイドルだ」
「昔のことだって言えば良かったじゃない。本当のことを知りたかった相楽さんのファンの人は、大勢いたはずだよ」
朝希はむきになって言った。アイドル業界のことはよく知らないが、犯罪を犯した訳でもないのに、デビュー前の人間関係を引っ張り出してきて、人格否定して、脱退まで追い込むというのは明らかに異常だ。その恋愛も含めて、彼は形作られたのではないのか。おまけに彼は、デビューにあたって関係を清算したとまで言っているのに。
「誰も信じてくれなかったの?」
「メンバーと会社は信じてくれた。謝罪文出して、頑張ろうって言ってくれたよ。でも、ファンは許してくれなかった」
激しいまでの愛と妄信は、たちまち憎悪へと形を変えた。毎日のように抗議の電話が会社にかかってきて、ライブではアンチがプラカードを掲げ、写真を載せたビラを配る。檀を守ろうと声をあげたファンは、他メンバーのファンが掲げる正義に叩き潰される。メンバーがSNSに投稿しようものなら、即座に檀への批判コメントが何千と綴られた。
当時のことを思い出したのか、檀は疲れたような顔で窓の外に視線をやった。雨はなかなか止まず、窓の向こうにある中庭の緑を曇らせている。
「俺の名前が入った葬式花が、ライブ会場に届くんだよ。あれは流石にキツかった」
「酷い……そんなの、いじめじゃない」
生きている彼に対して、死者を悼むための悪意の花が届けられる。そんなものは抗議の範疇を越えた、ただひたすらに卑劣な行為だ。
怒りのあまり、目眩がする。震えそうになる手をギュッと握りしめた朝希に、檀は「ありがとな」と、少しだけ優しく口許を緩めた。
「くだらねえだろ? 俺だって、そんな奴らに負けてたまるもんかって思ったよ。……でも、実家にまで葬式花を届けられたら、さすがに無視できなかった」
「実家? 相楽さんの?」
ときどき過激なファンによるアイドルの住居侵入ニュースなんかは見るけれど、実家の住所まで割り出されているのだろうか。朝希の疑問を読み取ったように、檀は苦笑した。
「俺の家、月島でもんじゃ屋やってんだ。母ちゃん、俺がアイドルになったの喜んで、店にも写真とかCD飾ってさ。俺の実家だってんで、ファンの子も来たりして、すげえ嬉しそうだったのに……」
そこで言葉を切ると、檀は悔しそうに唇を噛んだ。
「いいよ、もう。言わないで」
朝希は急いで言った。話を聞くだけでも辛い内容だ。実際、渦中にいた檀は、どれだけ苦しかっただろう。しかし、檀は聞いてほしいというように、首を横に振った。
「同情して欲しくて話した訳じゃない。実際、母ちゃんは気にすんなって言ってくれてるんだ。ミーハーなファンの子はいなくなったけど、代わりに昔の常連客が戻って来たから大丈夫だって。でも、俺は嫌なんだ。俺のことで母ちゃんが傷ついたままなのも、復帰を願ってくれたファンを悲しませちまったままなのも」
「だから、カムバックするの?」
「ああ」
寸分の迷いなく、檀は頷いた。黒い宝石みたいな双眸が、ひたりと真っ直ぐに朝希をとらえる。朝希は気圧され、俯いた。底知れない苦悩と傷を抱えながら、こんなに鋭く美しい眼をして、隣に座っている男の覚悟とエネルギーが怖かった。どうして檀は、もう一度立ち上がろうとするのだろう。
「また、傷つくかもしれないよ。貴方も、ファンも、お母さんも」
「上等だ。俺はもう傷ついたりしない。俺を好きでいてくれる人たちを、二度と傷つけたりしない。」
静かな声で、檀は答えた。
「もう一度、笑ってもらいたいんだよ。相楽檀を応援してて良かった、って。そのために、朝希の力が必要なんだ。必ず成功させるし、悪いようにはしない。だから、力を貸して欲しい」
そう言って、檀は朝希に頭を下げた。その姿に、焦燥や恨みの色は一片もない。
彼の全身から滲み出ているのは、信念だった。国家に反逆を企てる革命家のように、あるいは王位継承権を持つ国を不当に追われた王子のように。檀の声には一切の迷いがなかった。
朝希の背負ってきたものや思いなど、きっと彼はどうでもいい。ただ、必要としている。そのために、一度断られたにも関わらず、会いに来てくれたのだ。
(僕に、弾いてもらうためだけに)
檀の思いの強さを感じ取った瞬間、朝希は自分でも驚くほど動揺した。人生を変えようと、並大抵ではない覚悟を背負って来た男に答える言葉など、持っているはずがない。
「……どうして、僕だったの」
結果、朝希は答えをはぐらかした。
「僕より上手いピアニストは沢山いる。それこそ、アイドルみたいに売れている男性ピアニストも、沢山いるじゃない」
努力して、結果を出している自負はある。だが、朝希はまだ新人だ。彼がここまで足を運ぶほどの価値が自分にあるとはとても思えない。慧一朗の弁ではないが、タレント性の高いユーチューバーでも、ショパンを弾ける者はいる。相楽檀のMVは話題性もあるし、全員が全員断ったとは思えなかった。
檀は、綺麗なかたちの眉を皮肉っぽく吊り上げた。
「聞いてどうする? 理由次第では乗ってやろう、ってか? 王子様」
「それは、」
彼の言う通りだ。理由を聞いたところで、彼と仕事をすることはできない。スキャンダルの詳細を聞いた今、慧一朗の懸念していたことがよく分かった。檀が抱えているのはファンだけではない。葬式花を贈るほど彼を憎んだアンチのエネルギーが、そのまま朝希に向けられる可能性もある。朝希が抱えるファンも、傷つくかもしれない。
だが、本人に会って心が動いたのもまた事実だ。自分以外にも弾ける人が大勢いる中で、全てを賭けた彼に求められたことが、嬉しかった。だから、理由を知りたかった。でも、それは真剣に共演者を探している檀に対して、軽率だったかもしれない。
唇を噛んで俯いた朝希に、檀は深くため息をついた。
「悪い。喧嘩売るような言い方しちまったな。俺の欠点だ」
「ううん。僕も、変なこと聞いてごめんなさい。ただ、英ポロと革命を弾ける人なら、他にもいるんじゃないかって思ったから」
「まあ、弾けるやつは大勢いるだろうけど。おまえは、俺のなりたい英雄を弾いてたから」
「え?」
どういう意味か分からずに朝希が眉を寄せると、逆に檀のほうが不思議そうな表情になった。
「いや、朝希ほど詳しい訳じゃないけどさ。あの曲って色んな弾き方あるだろ? 馬の蹄の音が聞こえてきそうな、尊大な貴族の英雄とか、庶民から英雄になった奴が、照れくさそうに笑いながら凱旋してきたみたいなヤツとか」
「貴族に、庶民?」
「ああ。あとは、ジジイとか二十代の若者。男に女。まあ、メロディの羅列にしか聞こえないのも、たまにあったけどな」
虚を突かれたような気持ちだった。
英雄の人物像なんて、考えたこともなかったからだ。弾くときはいつだって、教わった解釈を正確に再現することだけを考えていた。そもそも檀のように、この曲を通して物語を見出したことなど一度もなかった。
(きっと、何十人もの英ポロを聴いたんだろう)
弾き手によって違う英雄を見出すくらい、彼は英雄ポロネーズを聴き込んでいる。ふと気になって、朝希は尋ねた。
「僕の英雄は、どっちに見えた? 貴族? それとも、成り上がりの庶民?」
檀のなりたい英雄ならば、後者だろうか。しかし檀は、あっさりと首を横に振る。
「いや、朝希のはどっちでもない。朝希のは、ギリシャ神話の神様みたいだった」
「ギリシャ神話?」
「俺にはそう見えた。雲が割れて、雷の光と一緒に神様降臨、みたいな」
檀はちょうどいい言葉を探すように視線をさまよわせると、ふと窓の外の景色に目をとめて、これだと得心するように頷いた。いつの間にかガラス窓の向こうで雨はあがり、雲の切れ間から細い光が差している。
「人間の醜い感情なんか全部超越しちまうような――透明で強くて、高みにいる神様だ。俺は、そういう英雄になりたい。春に客席で聴いたとき、そう思った」
「春って……オペラシティのリサイタル? 生で聴いたの?」
「バーカ、聴いたからここまで来てんだろ」
檀は呆れたように眉を上げた。
「言っとくけど俺、昨日今日で朝希を知ったわけじゃないからな。おまえが硫酸かけられた発表会から聴いてるから」
マズルカ風ロンドを弾いた発表会だ。
朝希は「あっ」と小さく声を上げた。レコード会社の営業さんに挟まれて座っていた、金とブルーの髪をした偉そうな青年。あれは、今思えば。
「……どこかで見たことがあると思ってたんだ」
「はっ、思い出していただけたようで。どうも」
「仕方ないだろ。あの日の相楽さん、髪の毛すごい色だったし。動画サイトで見たときは紫色で、今日は黒。動画ではお化粧もしてたし、一致しなかったんだよ」
言い訳しながら、朝希はふと当時のことを思い出した。
「ねえ、待って。でも相楽さん、僕のロンド聴いてすごく微妙な顔してたよね。それは覚えてるよ」
忘れもしない。自分では完璧だと思える演奏でお客さんも喜んでいたのに、檀だけが微妙な顔で手を叩いていた。
「よく見てんな」
「貴方、目立つから」
檀は気まずそうにカウンターに肘をつき、両の指を擦り合わせた。桜色に磨き込まれた爪が綺麗な、長い指だ。
「……微妙っつうか。びびったんだよ。プリンスだの何だの騒がれてたし、若さとビジュアル売りで誤魔化してるガキかと思ってたんだ。なのに、弾き始めたらフワーッと異次元に連れてかれる感じがして……妖怪に騙されたみてえだった」
「妖怪? 初めて言われたかも」
「妖怪だよ。おまえ、覚えてるか? 演奏終わったあと、お辞儀するとき俺のこと見てニコッて笑ったんだぞ! あれ、正直すげえ怖かったからな!」
「僕、そんなことしてた?」
してたよ、と檀は大袈裟に二の腕を擦ってみせた。
「きっとあの日、俺はお前のピアノに魅入られたんだ。静岡でやってたコンクールのライブ中継も見たし、CDも買ったし。この前のリサイタルも、広報の佐々木さんに無理言ってチケット融通してもらったんだぜ。関係者席以外で見たのなんか、初めてだったよ」
「まるでファンだね」
「ファンだよ。だから、ここまで来たんだろ?」
何の衒いもなく、堂々と檀は言った。
「だから俺は、朝希のピアノで人生を取り戻したい。誰にでも愛されるアイドルにはなれなかったけど、俺にしかできない絶対を好きでいてくれる人に、革命を起こす英雄になりたいんだ。こんな理由じゃ、足りないか?」
「自分にしかできない、絶対……」
その強い言葉は、まっすぐ朝希の心に響いた。いつだって、上手く弾くことだけを考えて弾いてきた。それで問題はなかった。けれど、自分はまだ檀の言う〝自分にしかできない絶対〟を手に入れていない気がする。リサイタルの夜に慧一朗がこっそり弾いていた献呈は、確かに彼の唯一無二だった。
(この人と仕事をすれば、僕はそれを手に入れることができるだろうか)
誰から見ても絶対的な強さを手に入れて、一人で立てるようになれば。
慧一朗を自由にしてやれるのだろうか。
朝希の迷いを見透かしたように、檀は静かに身を乗り出した。そして、縋るように朝希の膝に手を乗せた。膝の上で握り締めた拳の、限りなく近くに。
「お前以外にも、上手くやれる奴はいると思う。でも俺は、篠原朝希に弾いてほしい。頼む。俺のMVに出てくれないか」
いつの間にか、外は完全に雨が上がっていた。
蒼天にきらめく夏の陽光が、スポットライトのように檀の顔の半分を照らし出す。
気付けば朝希は、魅入られたように頷いていた。




