第三章 門下生発表会
1.
バチン、と巨大なホチキスを留めるような音がして、続いてじわじわと耳朶に熱が広がっていく。
慧一朗はほっとしたような顔をしてピアッサーをソファのサイドテーブルに置くと、大きな体躯を屈めるようにして朝希の耳元を覗き込んだ。
「……うん。こっちの耳もちゃんと出来たと思う」
「見せて」
渡された手鏡で確認すると、朝希の両耳には無機質なシルバーのファーストピアスが綺麗に嵌っていた。朝希はぱっと顔を輝かせた。
「わ、すごい。本当にピアスだ――ありがとう、慧!」
嬉しくなって慧一朗を振り仰ぐと、慧一朗は安堵したように深くため息をついて、額を押さえた。
「ああ……緊張した……この前の本選の百倍ぐらい緊張した」
あながち冗談ではないようで、慧一朗の太い首にはうっすらと汗が浮かんでいる。もう九月も半ばで、この部屋もエアコンが効いているというのに。朝希は苦笑した。
「そんなに緊張するようなこと? たかがピアスじゃない。しかも、自分に開けるならまだしも、僕相手なのに」
「朝希が相手だからだろ」
慧一朗は恨めしそうに朝希を横目で睨んだ。
「緊張するに決まってるじゃないか。失敗したら、朝希に怪我させることになるんだぞ」
「ありえないよ。慧は器用だから」
笑いながら慧一朗の部屋のクッションを膝に抱き、上機嫌で鏡を見る。
耳朶できらきらと光るファーストピアスは、小さなパチンコ玉みたいだ。たったそれだけのことなのに、何だかぐっと大人になったような気がする。
「本当にありがとう、慧。嬉しい」
「どういたしまして。……痛いところはない?」
慧一朗が気遣うように、そっと親指で朝希のピアスを撫でた。そのまま優しく耳朶を摘まれて、思わず頬が熱くなる。
「あ、うん。平気」
わずかに身体を引くようにして慧一朗の手から逃れると、慧一朗は「それなら良いけど」と微笑んで、そのままさらりと朝希の髪を撫でた。
慈しむように優しく、それでいて不思議な熱を帯びた視線に、朝希はそっと目をそらした。
ときおり、慧一朗はこういう目で朝希を見る。
暴力的なまでに甘く、熱を孕んで煌めく琥珀色の視線。
この男の瞳に惹かれるようになったのは、いつからだろう。
純日本人でありながら明るいブラウンの目を持つ慧一朗の目は、光の加減によって琥珀色の飴玉みたいに光る。優しくて上品で、それでいて意志の強さを感じさせる慧一朗の瞳は、ときに全てを見透かされそうに怖くて、それ以上に大好きだった。
慧一朗が好きになるのは、どんな人なんだろう。
先輩でもある慧一朗の友人・野島涼介によると、慧一朗は今までも何人かの女性と〝お付き合い〟をしたことがあるらしい。発表会やコンクールの本選の客席にも、慧一朗目当てのファンは多かった。もしかすると、あの中に彼女がいたのかもしれない。
だが、慧一朗は決して朝希にそういった色恋の話を振ろうとはしなかった。気になって何度か聞いてみたことはあるのだが、困ったような、ともすれば無関心にも見えるような笑顔ではぐらかされてしまうのだ。きっと、まだそういう話は早いと思われているのだろう。
(実際、慧から見たら僕なんて子どもみたいなものだろうけど……)
初めて会ったときから、慧一朗は大人びていた。仕立てのいいコートを着て、強い煌めきを放つ目で朝希を見つめ、穏やかな声で話しかけてくれた優しい男の子。子ども向けの聖書の挿絵に描かれた天使みたいな顔だと思ったことを、今もよく覚えている。
朝希は恋をしたことがないけれど、それでも慧一朗が女性に人気がある理由はよく分かる。
そっと顔を上げると、慧一朗はまだ朝希を見つめていて「どうしたんだよ」と、照れたように微笑した。
「ううん。ねえ、このファーストピアスっていつまで着けてないといけないの?」
「俺が皮膚科で開けたときは六週間って言われたよ。リョウの奴は一ヶ月でも平気だなんて言って、早々に外してたけど……朝希はちゃんと六週間着けてろよ」
ピアスホールが安定しないと、早々に穴が塞がったり、化膿してしまう危険性もある。だから我慢して着けていろと、兄のような顔で慧一朗は言った。
「わかった。発表会に間に合えばいいよ」
朝希が素直に頷くと、慧一朗は満足そうに笑った。そして立ち上がってチェストの奥から何かを取り出してくると、後ろ手に隠すように戻ってきて、朝希の隣に腰を下ろした。目元は柔らかく微笑んでいるが、どこか緊張したような表情だ。
「どうしたの。神妙な顔して」
「いや……少し早いんだけど。当日は、俺が学内オケのリハで会えないかもしれないから」
誕生日プレゼント、と言って、慧一朗は朝希に小さな深緑色の紙袋をそっと差し出した。
「あ、ピアス? え、でも……」
安いものでいいと伝えたはずだ。だが、手渡されたそれはしっとりと滑らかな艶のあるペーパーバッグに横文字のブランド名が箔押しされていて、明らかに高級ブランドの製品と分かる。
困惑して視線を戻すと、慧一朗は少し照れたように微笑した。
「俺と同じメーカーのやつなんだ。朝希にあげるならここのが良いって思って」
リクエストされてから、毎晩オンラインサイトと睨めっこしていたのだという。
あんなに忙しい男が、と朝希は思わずプレゼントの袋を握り締めた。
「……今、開けちゃダメ?」
朝希が尋ねると、慧一朗は嬉しそうに破顔した。
「いいよ、もちろん。どうぞ」
紙袋には、黒いサテンの巾着袋が入っていた。巾着袋の紐を解くと、紙袋と同じ深緑色をした八角形のジュエリーケースが出てくる。
まるで映画のプロポーズの場面でヒーローがヒロインに渡す小道具みたいだ、と朝希は思った。中身は指輪じゃなくてピアスの筈だけど、何だかドキドキする。
開けるのを躊躇っていると、慧一朗が「早く」と優しい声で促してくれる。
そっとケースを開いてみて、朝希は小さく息を呑んだ。
中には小さなシルバーのスタッズピアスが一対、中央には美しくカッティングされた透明の宝石が、繊細な爪に護られるように輝いて並んでいた。
「綺麗……」
思わずこぼれた呟きに、慧一朗が照れくさそうに笑った。
「どの石にするか、ずいぶん迷ったんだよ。でも朝希には、やっぱりダイヤかなって。透明感があって、誇り高くて、綺麗だから」
朝希が何も言えないでいると、慧一朗はそっとピアスを台座から外して、耳元に宛がってくれた。
「……ああ、綺麗だ。朝希」
朝希を見つめながら、慧一朗が呟いた。琥珀色の視線は甘く、それでいて強い熱を帯びていて、まっすぐに朝希を灼く。紅潮する頬を誤魔化すように、朝希は慌てて手鏡を覗き込むとはしゃいだ声をあげた。
「本当に綺麗なピアスだね。ありがとう、慧。嬉しい」
「これなら小さいから、演奏会でもつけられるだろ?」
唇に微笑みを残しながら、慧一朗がようやく離れる。几帳面な手つきでピアスを箱にセットして、朝希に返してくれた。
「ファーストピアスが外れたら、特別なときにつけるね」
十一月の発表会には間に合いそうだ、と頭の中で計算して朝希は微笑んだ。
「すごく楽しみ。こういうの、憧れてたから」
「こういうの?」
「慧もだけど、お守りみたいにいつも同じアクセサリーを着けて弾くピアニストって、かっこいいじゃない?」
映像でしか見たことはないが、母の雪乃はいつも同じ銀色の鎖を手首に巻いて弾いていた。そのブレスレットは遺品として、数少ない母の写真と共に大切に仕舞ってある。
「本当に、嬉しいよ。ありがとう、慧。ずっと大事にするね」
「ううん、俺の方こそ。朝希に気に入ってもらえて良かった」
不意に表情を引き締めると、慧一朗は飼い主の様子を窺う大型犬のように朝希を覗き込んだ。
「……少しは、元気出たか?」
「え?」
「この前、落ち込んでたみたいだったから。ほら、お父さんと約束があったって日」
家まで送ってくれるという慧一朗の申し出を断り、逃げるように帰った夜のことだ。
「ああ、あの日」
慧一朗と自分の環境を比較して、子どもっぽい衝動で逃げ出したことを思い出し、朝希は歯切れ悪く答えた。
「心配かけてごめん。でも、もう大丈夫だから」
「本当に?」
「うん、本当に」
ずっと気を遣ってくれていたのかと思うと、改めて自分の幼さに情けなくなる。
「実はね、あの夜、ちょっとだけお義母さんと揉めたんだ」
いきなり平手打ちでもされたみたいに顔を歪める慧一朗に「大丈夫」と笑いかけ、朝希は続けた。
「レッスンのせいとかじゃないから。これは僕が、僕の人生のために解決しなきゃいけない問題。慧や他の人も当然持っていて、誰にも言わずに、一人で解決しなきゃいけないような問題なんだ」
慧一朗はいつも強くて、優しくて、朝希のことは何をおいても助けようとしてくれる。そのくせ自分の鬱屈は、決して見せようとしない。それを寂しいと思ったこともあったけれど、だからこそ慧一朗は大人なのだと最近では思う。
「だから、色々頑張らなきゃって思ってる」
「色々?」
「うん。ちゃんと自立しようと思って」
朝希の実績があれば、附属大学には引き続き特待生として確実に内部進学できるだろうと鴻三には言われているし、そのための研鑽は惜しまないつもりだ。
「高校を卒業したら、三島の家を出るよ」
慧一朗の濃い眉がぴくりと動いた。
「慧みたいにアルバイトをして、自立する。音大生専用のマンションを借りて、留学準備もして、ワルコンに備えるんだ」
これまでに何度もレコード会社やピアノメーカーからグランドピアノ提供の申し出はあったが、今まで義母の反応が怖くて断っていた。だが専用の部屋を借りたら、もう慧一朗の家に遅くまで残ってピアノを借りたり、家で電子ピアノを叩く必要はなくなる。誰に憚ることなく、ピアノが弾けるのだ。
「マンションを探すときは、慧も付き合ってね」
にこっと笑いながら慧一朗のダンガリーシャツの袖を引くと、慧一朗は複雑そうに朝希を見下ろした。
まるで飼っていた小鳥が空に羽ばたくのを追うような、眩しそうで、少し寂しそうな目だった。
ややあってから、低い声で慧一朗は言った。
「……それなら、俺と暮らそう」
「え? でも、」
地方出身の大学生と違って、慧一朗には立派な実家がある。スタインウェイのフルコンと防音室が自宅にあって、大学にも近い。朝希に付き合って家を出るメリットはどこにもないだろう。しかし慧一朗は断固とした口調で譲らなかった。
「留学の件は、俺も考えてたんだ。大学を出たら家を出て自立しなきゃって思ってたし、時期が一年早まるだけだよ」
二人で家賃を折半すれば節約にもなるだろう、と慧一朗は明るく言った。
「レコード会社の人に物件の相談をしてみるよ。グランドピアノが入る防音室のある部屋を借りて、二人で暮らそう。朝希が嫌じゃなければ」
「僕は、嫌じゃないけど……」
慧一朗が一緒なら嬉しいし、心強い。でも自立しようと思って家を出るのに、誰よりも自分に甘い男と暮らすのは本末転倒ではないだろうか。一緒にいれば、これまで以上に慧一朗の時間を奪うことにならないか――黙り込んだ朝希を見て、慧一朗は悲しそうに眉を下げた。
「やっぱり、嫌か?」
「違うよ。そうじゃなくて」
上手く言葉が見つからない。飴玉を溶かしたみたいな琥珀色の瞳は、朝希の言葉をじっと待って不安そうに揺れている。言葉に詰まって、朝希はふと慧一朗の親友である先輩の顔を思い出した。
「……僕がいると、慧は恋人ができても一緒に暮らしたりできないでしょう。そういうのは大丈夫なの?」
野島涼介は、彼女と半同棲状態だと聞いたことがある。今がフリーなのかどうかも知らないが、もし慧一朗に彼女ができれば、朝希は間違いなくお邪魔虫だろう。
朝希なりに心配して尋ねたつもりだったが、慧一朗はそんなことかと言うように片方の頬だけで笑った。慧一朗らしくない、少し冷たい笑い方だった。
「何で笑うの」
「ああ、ごめん。でも、朝希が変なこと聞くから」
唇に笑いを残しながら、次の瞬間、慧一朗は底冷えのするような声で呟いた。
「恋人なんて、俺は必要ないよ」
思わず言葉を失った朝希に、慧一朗はいつもの柔らかい微笑を向けた。
「俺は、夢をかなえたいだけだ。おまえと一緒に、ワルコンに行く夢。それまでは、恋なんて考えられない」
「慧……」
「だから、俺たち一緒に暮らそう」
慧一朗の大きな手が、そっと朝希の手を取る。親指が指の付け根から爪までを撫で上げたかと思うと、突然、ギュッと強く握られる。彼らしくない、少し乱暴な仕草に驚いて顔を上げるが、慧一朗は朝希の手を離さない。まるで繋いだ手のなかに運命があるような、そんな握り方だった。
琥珀色の瞳を鋭く煌めかせながら、慧一朗は低く言い放った。
「俺は、朝希がいればいい」
心臓を、獣の爪で抉られたような気がした。
慧一朗の表情にも、声にも、握られた手にも、迷いの色は一片もない。
(嬉しいと思うのは、僕の甘えなんだろうか)
慧一朗のまっすぐな優しさに応えられるだけの器が、果たして自分にあるのか。
喜びと怖れが入り混じったような気持ちで、朝希はおそるおそる慧一朗の手を握り返した。
十一月の最終土曜日。
秋の終わりと冬のはじまりが交差するような、澄み渡る青空の美しい日だった。
東雲ピアノ教室の発表会は、音大の門下生だけではなく、鴻三の姉たちが世田谷の教室で教えている子どもたちも出演する。去年は国際コンクールのため発表会には出られなかった慧一朗も出演するとあって、世田谷市民文化会館中ホールはピアノ教室の発表会と思えないほど混雑していた。
「ミーハーな客ばっか。やりづらいったらないんだけど」
出番を終えて舞台袖に戻って来た慧一朗の弟・美景は、うんざりしたようにスーツの上着を脱いだ。客席からは、未だに美景の演奏に対する賞賛のざわめきと拍手が鳴りやまない。袖で演奏を聴いていた朝希は苦笑した。
「美景のイスラメイ、素敵だったよ。お客さんもあんなに喜んでるんじゃない」
「はっ、あんなの全部、兄貴目当てのミーハー集団だろ。くっだらない」
先程ロビーを通った際、慧一朗のファンだという女子大生の一団に話しかけられたのだという。
「クラシックのことなんかろくに知らない、あんな奴らに騒がれたって、オレは全然嬉しくない。難しそうな曲が弾けてすごーい、くらいの感想しかないぜ。あいつら」
朝希が差し出したタオルをひったくるように受け取ると、美景は乱暴に額に浮かんだ汗を拭いた。白いシャツも、汗でうっすらと透けている。朝希はそれをどこか愛おしいような気持ちで眺めた。
美景は舞台度胸があって、プレッシャーにも強い。そして並外れた努力家で、繊細な感性の持ち主だ。ピアノを愛する美景にしてみれば、ピアニストをアイドル視して劇場に足を運ぶタイプの聴衆は最も軽蔑するタイプなのだろう。
「……クラシックをろくに知らない人の心を奪う方が、ずっと凄いことだよ。興味がないものを好きになるのって難しいじゃない」
朝希の義理の弟妹は、家で流行のポップスばかり聴いている。彼らの前でピアノを弾いたとして、感動を生むことができるかと問われたら、自信はなかった。
「確かに、慧目当てのファンの人や、クラシックをあまり知らない人も客席にはいると思う。でも、美景はたった十分足らずの演奏で、そこにいる三百五十人のお客さん全員の心を掴んだんだ。美景じゃないとできないよ」
美景は山猫みたいに鋭い目を煌めかせながら、黙って朝希の話を聞いている。
朝希は舞台に視線を移した。五十音順で美景の後に出て行った少女が弾くモーツァルトのソナタは確かに正確で綺麗だったけれど、美景のように聴衆を巻き込むようなうねりや華はない。客席のテンションもどこか散漫だ。先程のように客席全体が静かに熱狂しながら演奏に没入しているような空気は、跡形もなく消えている。
「……こんなこと言ったら、美景は嫌がるかもしれないけど。プロだけに賞賛される演奏なんて、きっと本物じゃないって僕は思う」
振り返ると、美景はまだ憮然と腕組みしていたが、それでも壁に寄り掛かって朝希の言葉を待っている。朝希は思わず微笑んだ。腹を立てて楽屋に戻ってもおかしくないのに、こういうところが本当に可愛い。
「誰が聴いても、美景のイスラメイは素敵だった。留学して、いっぱい頑張ったんだね」
美景は驚いたように大きな目を瞠り、それから拗ねたようにボソッと呟いた。
「……おまえは?」
「え?」
「篠原の感想。篠原から見て、オレはどうだったかって聞いてんの」
「だから、素敵だったって言ってるじゃない。華やかで、フレージングがキラキラして自由で、魔法みたいだった。僕じゃあんな風には弾けないよ」
タイプは違うが、慧一朗のピアノにも似たところがある。広大なスケール感と、音の自由な煌めき。自分はどちらかと言うと堅実なタイプだと思っているので、少し憧れる。
朝希の感想に、美景は「ふーん」とつまらなさそうな声で、しかし満更でもなさそうに唇の端を吊り上げた。
「おまえの言う大衆が、おまえのロンドを聴いてどういう反応するか楽しみだな。オレも客席から見物しててやるよ」
「あのねえ。そのおまえ、とか篠原、とか呼び捨てにするのやめな。生意気。美景の方が一つ年下なんだよ」
海外ではいいかもしれないが、国内ではもう少し殊勝にした方がいい。反感を買ったらどうするのだろうと朝希はヒヤヒヤする。だが、注意されても美景はどこ吹く風で笑っている。
「ふん。兄貴みたいに朝希、朝希ってデレデレすれば満足かよ?」
「誰がデレデレしてるって?」
ぽんと大きな手で美景の頭を叩きながら、慧一朗が舞台袖に入ってきた。
「兄貴! もう、頭触るなよっ。セットが崩れるじゃん」
怒りながらも、美景は嬉しそうに慧一朗を見上げる。
「はは、悪い悪い。美景。イスラメイ、楽屋で聴いてたけどすごく良かったぞ。上手くなったな」
弟が可愛くて仕方ないというように、慧一朗は構わず美景の頭を撫でた。
「本当はちゃんと客席で聴きたかったんだけど……ごめんな」
東雲家の長男として、発表会のインスペクター役も務めている慧一朗の本番は多忙だ。生徒達や保護者の間を駆けまわり、自分の演奏も披露しなければならない。申し訳なさそうに眉を寄せる兄を、美景は鼻で笑った。
「別に。どこで聴いたって、オレが上手いことには変わりないし。それに兄貴が客席にいたら、ミーハー客がもっとうるさかった」
「おまえなあ」
微笑ましい兄弟のやり取りを、どこか羨ましいような気持ちで朝希は眺める。実の兄弟だから当然なのだが、慧一朗の美景に対する気安さのようなものを、朝希は向けられたことがない。素を見せてもらえる美景が羨ましかった。
「じゃあオレは着替えて、客席行くから。トチんなよ、篠原」
「はいはい、ありがとう」
美景が出て行くと、慧一朗は気遣うように朝希の肩に手を置いた。
「朝希、そろそろ出番だろ。大丈夫か?」
「あ……うん、ありがとう。美景も頑張ってたし、僕も負けられないよ」
「そうだな」
慧一朗は優しく微笑むと、指先で軽く朝希の耳に触れた。そこには誕生日に慧一朗がくれたピアスが嵌っていた。
「……とうとう下ろしたんだな、ピアス。似合ってる。綺麗だ」
低い囁き声の奥底にひそむ、甘い熱に思わず身体が震えそうになる。こんなことで動揺するなんて、自分はおかしいのだろうか。必死に平静を装いながら、朝希は頷いた。
「ありがとう、着けるなら今日だと思ってたんだ」
そのとき客席から拍手の音が聞こえてきて、二人は同時に舞台を見た。前に弾いていた少女が弾き終えたのだ。係員が朝希の名前をアナウンスする。慧一朗は朝希の耳から手を離すと、笑って囁いた。
「朝希の演奏を聴きたくて、インペクの仕事急いで終わらせてきたんだ。ここで聴いてるから、頑張ってこい」
「うん。行ってくる」
本番だ。気持ちを切り替えないと――いつものルーティン通り、常温の水を一口飲んで、防寒用の手袋を外す。短く息を吐き、背筋を伸ばす。慧一朗がじっとこちらを見守っているのが視界の端で見えたけれど、慧一朗ももう声をかけてくるようなことはしない。
よし、と心の中で呟いて、朝希は舞台中央へと歩き出した。
朝希がステージに姿を現した瞬間、息を呑むように控えめな歓声と、大きな拍手が沸き起こった。
慧一朗ほどではないが、CDも出している朝希はそれなりに顔を知られている。見たことはないが、ネットでは実の母親のことも書かれているらしい。父親の三島議員が圧力をかけているようで、取材では表立って聞かれたことはないが、朝希が篠原雪乃の息子というのはクラシック界では周知の事実だった。
ここにいる客の中には、自分をそういった目で見る人も少なからずいるだろう。
母の名を汚さないように、そして教えてくれた鴻三に恥ずかしくない演奏をしなくては。
舞台中央でお辞儀をすると、拍手は一層大きくなった。深々と頭を下げ、顔を上げると最前列にレコード会社の営業とマネージャーが陣取っているのが見えた。
(……あれ?)
営業とマネージャーの間に座っている青年に、朝希は目をとめた。初めて見る顔だ。社員ではなさそうだし、新進のアーティストだろうか。毛先を鮮やかなブルーに脱色した薄金色の髪は、ピアノ科の学生ではなかなか見かけないデザインだ。年は朝希とそう変わらないだろう。細身の黒いスーツを着て、長い足を組み、少しだけ身を乗り出している。肘掛けを使わずに腕組みしている姿は偉そうだが、不遜な印象はなく、どこか優雅ですらある。
青年は、燃えるように力強い目で朝希を見つめていた。睨んでいる訳ではない。ただ、彼の持つエネルギーが強すぎて、そのまま外見にも溢れ出してしまったというような感じだった。誰もが思わず目をとめてしまうようなオーラが、彼にはあった。
目があったのはほんの一瞬で、朝希はすぐに視線を外すとピアノに向き直って椅子を調整した。だが、背中には痛いほどの視線を感じていた。
(集中しないと)
誰がどんな態度で聴いていても気にすることはない。ただ練習してきたことを披露するだけだ。
朝希は椅子に腰掛けると、頭の中でリズムをカウントして、静かに鍵盤に指を滑らせた。
ロンド・ア・ラ・マズールの世界が始まる。
──ピアニシモのようなピアノ……小川の水の煌めきのようなスタッカート……──。
鴻三の注意を思い出しながら、細心の注意を払って、指先からロンドとマズルカの情景を描き出すことに集中する。
ピアノは技術だ。自分の脳内を観客に見てもらうことはできない。おまけに観客の感性によって、抱く印象はまるで違ったものになる。だからこそ、表現したい世界を最大限に、最上の形で観客と共有するために技術が必要なのだ。
マズルカ風ロンドに関して、鴻三は曲の洒落た雰囲気と朝希の瑞々しいタッチを生かしたいと話していた。
歌い上げるようなくどい弾き方はせず、装飾を装飾と気付かれないようにサラリとした表現を──ピアニスト本人の個性や、解釈が前面に出しゃばってこない、それでいて個性のある演奏をするというのは本当に難しい。
マズルカのリズムとロンドの表現を意識しながら、朝希は曲の世界に没入していく。
(トリルは粒立って聞こえるように。三拍目のリズムは強調しすぎず、でもマズルカ独特のリズムをしっかりと刻む……)
転調を繰り返し、再現部、そして主題の再現と曲は展開してゆく。
派手な大曲ではないが、それでも観客がロンド・ア・ラ・マズールに魅了され、集中してくれているのが肌で分かる。自分と楽曲、演奏と観客、観客と自分が三位一体のように混ざりあって、一つの空間を作り上げてゆく――毎回ゾクゾクする瞬間だ。
慧一朗は弾いている最中は客席を意識しないらしいが、朝希は逆だった。演奏を聴いてもらえることが嬉しくて、自分の演奏でお客さんを喜ばせたかった。客席との一体感は、いつだって心地よく朝希を弾かせてくれる。
さあ、いよいよコーダだ。
落ち着け――朝希は興奮している自分に気付いて、ぐっと丹田に力をこめた。
理性的にならなくては。ともすれば曲に耽溺して走りそうになる自分を必死で抑制しながら、楽曲の魅力を表現することに専念する。
篠原朝希らしい、上品で正統派な演奏を、観客たちは皆うっとりとした表情で見守っていた。
やがて、九分近くに及ぶマズルカ風ロンドが終わった。
最後の一音が空気に溶けた瞬間、割れんばかりの拍手が湧き起こり、朝希はホッとして立ち上がった。発表会なのでアンコールはない。立ち上がると、舞台中央に出て礼をする。
頬を紅潮させ、目を輝かせている観客を見て、朝希はようやく笑うことができた。
自分の演奏が誰かの心に届いて、楽しんでもらえたのだと信じられるこの瞬間が大好きだ。自分にも価値があって、鴻三に少しでも恩返しができているなら、こんなにも幸福なことはない。
確かな手ごたえを感じながら、客席を見回し──ふと何の気なしに先程の青年を見ると、相変わらず足を組んだまま、面白くなさそうな――というよりは、怪訝そうな顔で手を叩いていた。
一瞬、自分は何かミスをしただろうかとヒヤリとするが、青年の両隣に座っているレコード会社の二人はニコニコと熱い拍手をしているので、特段問題はなかったのだろう。
(色々な人がいる。僕の演奏では、物足りない人もいるだろう)
これが今の実力だ。もっと努力して、次に聞いてもらえる機会があるなら、彼の心にも届くピアノが弾けたらいいと思う。
去り際ににっこりと笑いかけると、青年は動揺したように目を瞬かせた。
「ブラボー朝希! 素晴らしかったよ!」
舞台袖に引っ込むなり、鴻三が朝希を抱き締めた。その隣で慧一朗が苦笑している。
「せ、先生……痛いです……」
「ああ、すまない。でも感動してしまって」
一階席で聴いていたのだが、どうしても一言ねぎらいの言葉をかけたくて、演奏が終わるやいなや舞台裏に駆け込んできたのだという。
朝希の肩を掴んで目をきらきらさせている鴻三は少年のようで、とても五十代の大学教授には見えない。だが、朝希にとっては大事な恩師で、数少ない大好きな大人の一人だ。
「君にあの曲を弾かせてよかった。気品に満ちていながら軽快で、装飾の鮮やかさ、三連符のリズムも完璧だったよ。音量もよかった。民族音楽的な温かさもあって、別世界にトリップしたようだった。ああ、あれを君がワルシャワフィルで弾いたら、ポーランド人のお客さんはどれだけ喜ぶだろうね……」
「父さん、まだ弾いてる子いるから」
エキサイトする鴻三を見かねて、慧一朗が小声で注意してくれる。
舞台では、鴻三の実姉の生徒がラフマニノフを弾いている。高校三年生らしい、そつのない演奏だ。
鴻三はいたずらが見つかった男の子みたいに笑うと、もう一度「とにかく、よくやった!」と朝希の肩を叩いた。
「さて、そろそろ休憩時間だな。美景と貴和子と、隣の山川亭に昼食に行く約束をしているんだ。おまえたちも来るか?」
「いえ、大丈夫です。奥様が皆にお弁当を配ってくださったので」
「俺も。まだインペクの仕事があるし、発表会が終わったら食べるよ」
二人が断ると、鴻三はそうか、とあっさり頷いた。
「慧、おまえも頑張れよ。美景も兄さんのピアノは久々だって楽しみにしていたぞ」
「ああ。美景と朝希に負けられないからな。俺も全力で弾くよ」
「よし、それじゃあまた後でな。朝希、本当によかったよ!」
あわただしく鴻三が出て行くと、二人は思わず顔を見合わせて苦笑した。
「父さんに先を越されちゃったけど」
そう言って、慧一朗は優しく朝希を見つめた。
「本当に素晴らしかったよ。ピアニシモでも全部の音が粒だってクリアにしっかり聞こえてきて、ペダルのタイミングもすごく効果的だった。マズルカらしさもありながら、どこかヴェールをかけたみたいに幻想的で……こんなにスケール感のある曲なんだって、改めて思ったよ」
「ありがとう。ピアニシモのところは先生にも言われてたから嬉しい」
最大級の賛辞に、朝希はにっこりした。
本人には言わないが、やはり慧一朗に褒めてもらえるのが一番安心する。人生で初めて、母親以外に朝希のピアノを好きになってくれた人だから。
(これからもずっと、慧の心を惹きつけられるようなピアノを弾きたい)
愚かだと分かっていても、願わずにいられない。
慧一朗と朝希を結びつけるものは、ピアノしかないのだから。
舞台から拍手が起こり、ラフマニノフを弾いていた少女が戻ってくる。先ほどよりはあからさまに熱量の少ない拍手だ。二十分休憩のアナウンスと共に、客たちが座席を立ち上がる音とざわめきが聞こえてくる。
慧一朗は、名残惜しそうに肩を竦めた。
「俺もそろそろ行かないと。朝希、また後で。ちゃんとお弁当食べるんだぞ」
「うん。慧も頑張って。滝と英ポロ、楽しみにしてる」
休憩が終われば、いよいよ大学生の部が始まる。大学生の部は、主に鴻三の門下生が弾く。大半の客の目当てはこちらだろう。
「客席ロビー通るとき、ファンの子たちに捕まらないようにね」
朝希がニヤッと笑いながら言うと、慧一朗は苦笑しながら「からかうなよ」と朝希をぶつふりをした。
「朝希こそ気をつけて。今のマズルカ風ロンドで、またファンが増えただろうから」
「慧ほどじゃないよ。じゃ、また後でね」
中高生用の男子楽屋は静かだった。
友人と面会するためにロビーへ出た生徒が多いのだろう。朝希以外は、顔の知らない生徒が数人お弁当を広げているだけだ。去年の門下発表会で慧一朗目当ての女子が押しかけてきたこともあり、今年の発表会は基本的に出演者と父兄以外は楽屋立ち入り禁止だった。
レコード会社の人たちも、朝希の演奏を聴いたらすぐに引き上げたらしい。携帯を見ると、演奏への絶賛と、ロビーにスタンド花を贈ったという簡潔なメッセージが来ていた。
添付されていたスタンド花の写真があまりにも豪華で、朝希は一瞬絶句する。薄紫の胡蝶蘭に、でかでかと朝希の名前とレコード会社の社長の名前が木札に書かれている。こういった目立ち方はあまり好きじゃない。花屋が回収に来てくれるとはいえ、たった一日のことなのに――だが、契約をするというのはこういう事なのだ。
朝希はため息をつくと、素早くお礼のメッセージを送る。ついでに今日一緒に最前列で見ていた青年のことを聞こうと思い、少し迷ってから止めた。機会があれば、また出会うこともあるだろう。
(正直な感想を聞きたかった気もするけど)
スーツを脱いでグレーのニットとジーンズの私服に着替えると、ようやく人心地つくことができた。
皺にならないように注意しながら、スーツをハンガーにかけて専用のケースにしまう。
黒い本番用のスーツは、今回のために父が新調してくれたものだ。普段そういうことに気のつく人ではないのにと内心驚いたが、どうやら細川が進言してくれたらしかった。
家を出ることを勧められた夜から、どうも細川は朝希を気にかけてくれているらしかった。議員秘書なんてとんでもなく忙しいだろうに、レッスンで遅くなるときは、朝希が連絡をせずとも車を回してくれるし、ときどき夜食も差し入れてくれる。相変わらず謎の多い男だと思うが、以前ほどの嫌悪感はない。
衣装ケースをハンガーラックに吊るした瞬間、まるでどこかで見ていたかのように楽屋のドアがノックされて、細川綜馬が入って来た。
「細川さん!」
驚いて声を上げる朝希に、細川は顔色ひとつ変えずにお辞儀した。
「どうしてここに?」
父兄と出演者以外は楽屋に入れない筈だ。朝希の疑問を読み取ったように、細川は「三島先生に頼まれたので」と短く言った。
「父に?」
発表会に訪れたことなんか一度もないのに。今日ここで朝希が弾いていることすら知らないだろう。
朝希の表情を見て、細川は仕方なさそうに言葉を続けた。
「先生の事務所に、脅迫メールが来たんです」
「脅迫?」
「ええ。この前の選挙結果を受けての嫌がらせでしょう」
父の克顕は先月の第五十回衆議院選挙でも票を積み上げ、今回も無事に当選を果たしていた。
だが、光が強いほど影も濃いものだ。政治家の家系に生まれながらイベント会社の社長をしていたという異色の経歴、雪乃と離婚して一年も経たないうちに廣岡興産の娘と再婚した変わり身の早さ、さらには後妻の舞衣のタレント活動。一見リベラルで現代的に見える人生は、保守派から見れば胡散臭いことこの上ない。
最近では義母の舞衣にも嫌がらせのメッセージが来るようで、よく愚痴をこぼしている。
細川は微かに顔を歪めた。
「脅迫メールには、奥様やお子様へ加害を匂わせる一文もありました。すでに然るべき機関に報告して対処は進めていますが、朝希さんも気を付けていただかないと。今日も何人か警護用に人員を配備していますが、万が一ということもあるので」
それでわざわざこんなところまで迎えにきたのか。朝希は失笑した。
「大げさだな、たかがメールでしょう? それに僕は、お父さんの子どもでは一番マイナーだ」
篠原雪乃の息子として取り上げられることは増えたが、父親に触れられることは少ない。苗字も篠原のままだ。父は再婚しているし、何かあれば狙われるのは義母か義弟妹だろう。
細川は苦虫を嚙み潰したような顔で溜め息をついた。
「……とにかく、出番は終わりましたよね。準備ができたら、すぐに車を回してきます」
「悪いけど、大学生の部を聴きたいんです。それに門下生は片付けをする決まりになっているから。帰りはちゃんとタクシーを呼ぶので、先に帰ってもらえますか」
「では待っています。近くのカフェにいますから、帰るときに連絡をください」
有無を言わせない調子で言い放つと、細川は朝希のスーツが入った衣装ケースを回収して、さっさと楽屋を出ていった。
朝希は呆気にとられて、細川を見送った。相変わらず強引な男だ。
(にしても、すごいタイミング)
まさか、朝希のロンドも聴いていたのだろうか――頭に浮かんだ考えを、朝希は即座に打ち消した。あの鉄面皮が大人しく客席でピアノを聴いている姿なんて、想像もつかない。
ステージでは大学生の部が始まったようだ。
楽屋のモニターでは、大学生の先輩がモーツァルトを弾いている。
先輩たちの演奏を聴きながら、貴和子夫人の配ってくれた高級料亭の割烹弁当――なにやら立派な木のお弁当箱に、お赤飯と色とりどりのおかずが入っている――をゆっくり平らげると、朝希は楽屋を出た。
慧一朗の出番は、一番最後だ。
そろそろインペクの役目を他の大学生にバトンタッチして、準備に入っている頃だろう。
(楽しみだな、慧のエチュードと英ポロ)
慧一朗を見ていると、朝希はいつも自分とのスケールの違いを実感させられる。
門下生のリーダーとして演奏会の準備や進行管理をそつなくこなしながら、ピアノの練習も怠らない。国際コンクールで上位入賞する実力を持ちながら驕ったところがなく、面倒見もいい。だが優等生然としているのではなく、パッションがある。人を愛し、生を愛し、音楽を愛する心の豊かさが指先からきらきらと溢れ落ちていくような、そんな情熱の美が慧一朗のピアノにはあった。今日もきっと、素晴らしい演奏を聴かせてくれることだろう。
舞台袖に行こうか迷って、結局、朝希は客席から聴くことにした。
私服に着替えたから、うろうろしていても目立たないだろう。念のため、マスクをしてからロビーに出る。
ロビーはひっそりとして、誰もいなかった。お客さんは皆、慧一朗の演奏を聴くために客席に入っているのだろう。
吹き抜けの階段を上り、朝希は二階席に向かった。
熱気溢れる一階席に比べて、二階席は人が少ない。だが音の響き方がよく分かるし、ゆっくり演奏を聴くには絶好の場所だった。
無人のロビーにぽつんと置かれたモニターでは、大学三年生の先輩がリストのラ・カンパネラを弾いている。彼女もまた、東雲門下からワルシャワ国際ピアノコンクールに出場すると目されている一人だった。彼女の次は、いよいよ慧一朗の出番だ。
「あのう、すみません」
分厚い客席扉に手をかけた瞬間、不意に背後から声をかけられた。
振り返ると、四十代くらいの小柄な男がこちらを窺っていた。知らない男だ。
「はい?」
朝希が首を傾げると、男は眼鏡をぐいと押し上げ、薄汚れたグリーンのネルシャツにたすき掛けのようにかけたバッグを握りしめるようにして近寄って来た。
「篠原朝希さんですよね。篠原雪乃さんの、息子さんの」
「……そうですが」
「やっぱり、ご本人でしたか!」
男は素っ頓狂な声をあげると、歯並びのよくない口元を見せながら笑った。どこか陰惨な雰囲気のする笑い方だ。
「先程のピアノ、素晴らしかったです。篠原さんこの前CD出されていたでしょう? あれですっかりファンになってしまって。ネットで調べたら発表会があるっていうから、来てみたんです。まさかご本人とお話できるとは思いませんでしたよ」
朝希は無意識のうちに後ずさった。
男が唾を飛ばさん勢いで喋るたびに、ツンと饐えた匂いが漂ってくる。無精髭すら整えず、どことなく薄汚れた顔の、目だけがギラギラと玩具の宝石を嵌め込んだみたいに輝いていた。
「聴いて下さって、ありがとうございます」
緊張を押し隠しながら、お礼を言う。ファンと話すのは苦手だ。特に、こういう熱量の箍が外れたタイプは少し怖い。対応を間違えると、一気に距離を詰めてくる。
「いやー本物はやっぱり華があるなあ。CDの写真なんかより、余っ程オーラがありますね。お母さんにそっくりだ」
ずいっと顔を近付けられ、朝希は自然と背後の客席扉と男に挟まれる形になる。男はニコニコと朝希を見ながら、何かを探すように肩にかけた布鞄を探っている。
「篠原さん、よかったら写真を撮ってもいいですか? 今、携帯を出しますから」
「……ごめんなさい。写真は苦手で」
二階席に出入りする客は少ない。周囲に人の姿が見えないことが怖くて、朝希はギュッと拳を握り締めた。扉の向こうからは、コーダに向けて加速する旋律の鋭い響きが微かに聞こえてくる。
男は口元は笑ったまま、ギョロギョロと眼鏡の奥の目を動かした。
「えー。じゃあサインは? サインならいいでしょう?」
「わかりました、サインなら」
背後の扉を通して拍手の音が聞こえてくる。
彼女が袖に引っ込めば、すぐに慧一朗が出てきてしまう。
少しも早く解放されたくて頷くと、男はニヤッと笑って鞄から何かを取り出した――それは、蓋の開いた茶色の小さなガラス瓶だった。刺激臭にハッと顔をしかめた瞬間、男の顔から一切の表情が消え失せた。
男は、間髪入れずに朝希めがけて小瓶を振りかぶった。小瓶から透明の液体がキラキラと雨のように飛び散る。
「ッ、」
朝希は咄嗟によけたが、液体はかすかにセーターを着た肩を掠めた。たちまち熱と共に激痛が広がり、朝希は床に尻もちをつきながら絶叫した。
「誰か、助けて……!」
朝希の叫び声に、男が瓶を床に投げ捨てて逃げていく。ガチャンと割れた瓶から刺激臭のする液体がフロアに広がり、床材が呼吸でもしているかのように泡立ち始める。間違いなく、何かの劇薬だ。流れてくる液体に触れないように、朝希は必死で床を這う。
早く起き上がって、助けを求めなくては――頭ではわかっているのに、恐怖で身体が動かないのだ。
人のいない二階席に来たことが仇となった。ここでは、誰かが通りがかって気付いてくれる可能性は限りなく低いだろう。
(このまま腕がダメになって、ピアノが弾けなくなったらどうしよう――)
怖い。込み上げる恐怖に喉が締めつけられ、声すらも出せなくなる。ギュッと拳を握り締めた瞬間、
――東雲慧一朗くん。ショパンのエチュード。Op.10-1。ポロネーズ第六番。「英雄」――。
客席アナウンスの声と共に、扉の向こうから大きな拍手が聞こえてくる。
「朝希さん!」
そのとき、血相を変えた細川が走ってきて、床に倒れ込んでいる朝希の前に膝をついた。
「大丈夫ですか!?」
刺激臭と変色した床、割れた瓶を見て、細川はすぐに状況を悟ったようだった。顔を歪めると、「早く脱いで!」と、朝希を抱き起こしながらセーターを脱がせる。生地が肌から離れる瞬間、激痛に思わず叫び声が漏れた。
「我慢してください、抱き上げますよ」
青ざめながらも力強く朝希の肩に腕を回し、抱えようとする細川の腕に必死に縋る。
「今……、走っていった男にやられました。緑のシャツを着た、眼鏡の、たぶん、父さんの関係です、」
「部下が追ってます。立てますか?」
「床、も……早く拭かなきゃ、お客さんが、危ない……」
「今はいいから! 早く冷やさないと……朝希さん、朝希さん!?」
扉の向こうから、エチュードの壮麗な旋律が聞こえてくる。
慧一朗の弾く〝滝〟の世界は、ダイヤモンドの煌めきのように、力強く美しい。
朦朧と薄れる意識と痛みの中、朝希はそれでも必死に、ただ慧一朗の音を聴きたくて耳を澄ませていた。
2.
「――11月25日14時頃、東京都世田谷区市民文化会館にてピアニストの篠原朝希さん(17)が見知らぬ男に硫酸をかけられたという119番通報がありました。犯人は逃走しましたが、建物を出たところを一般人男性数人に確保されました。犯人は〝被害者に対して殺意があった訳ではない、国民として、選挙結果に抗議の意志を表明する必要があった〟と犯行の理由を自供しています。篠原さんは肩に全治二週間の怪我を負いましたが、命に別状はないとのことです。篠原さんは衆議院議員・三島克顕氏の長男でもあり――、」
画面に朝希の宣材写真が出た瞬間、プツンと音を立ててリビングのテレビが消えた。
ゆっくり振り返ると、貴和子がリモコンを持ったまま不安そうに慧一朗を見つめていた。
「もう止めましょう、慧ちゃん。そんなニュース見ても、気が滅入るだけよ」
リモコンをダイニングテーブルに置くと、母は後ろからそっと慧一朗の両肩に触れた。
「慧ちゃんが責任を感じる必要はないわ。あんなお家に生まれて、元々ピアノをやる環境の子じゃなかったのよ……ね?」
慧一朗は静かに唇を噛み締めた。
事件が起きてから数日後、朝希は教室を辞めた。
本人とは全く連絡が取れなくなり、能面のように冷たい顔立ちの秘書がやってきて、菓子折りと現金がずっしり入った封筒を置いて、一方的に事件の謝罪と退会を告げた。
応対した鴻三は驚き、あの事件は朝希のせいではないし、辞める必要はないと言ったが、秘書の男は顔色ひとつ変えずに「三島先生のご意向ですので」と、取りつく島もなかった。
その後、鴻三も慧一朗も、何度も朝希に連絡を取ろうとしたが、電話は繋がらず、メッセージも返ってこなかった。入院した病院すら知らせて貰えずに、事件や怪我のことも、全てニュースで知ったのだ。
(……朝希が一人で、つまらない思想犯なんかに襲われている間に、俺は呑気に舞台でピアノなんか弾いてたんだ。ピアノなんかを……!)
慧一朗が事件のことを知ったのは、自分の出番が終わってからのことだった。楽屋に戻って着替えていると、突然、駆け付けた警察の指導によりホールの封鎖が告げられた。
劇薬を持った男が二階席に紛れ込んでいたと聞かされ、客席も楽屋も大混乱に陥った。
慧一朗は血相を変え、ホール中を駆けずり回って朝希を探したが、姿が見当たらない。二階席に現場検証に来ていた刑事に話しかけることも許されず、本人に電話をかけ続けても繋がらない。マスコミ取材に捕まってはいけないからと楽屋に連れ戻され、夕方のニュース速報でようやく詳細を知ったのだ。
何もできなかった自分が情けなく、たまらなく苦しかった。
知らない男に襲われ、硫酸などかけられて、朝希はどれだけ怖くて辛かっただろう。
無惨に変質した現場の床を見て、慧一朗はぞっとした。ニュースでは軽く肩を怪我しただけと報じられていたけれど、それでも皮膚にあのような液体をかけられて、痛くないわけがない。
(朝希……)
ネットには東雲ピアノ教室のことも、昨年ブゾーニで入賞した慧一朗が同門であることも書き込まれているという。毎日のようにかかってくるマスコミの電話に母は怒り、父は気丈に振る舞いながらも疲れ切っている様子だった。慧一朗のSNSにも、事件や朝希のことを尋ねるマスコミからの連絡が後を絶たなかった。それなのに、朝希とだけ連絡がつかない。気が狂いそうだった。
「遅かれ早かれ、こうなる運命だったんだわ。仕方なかったのよ。篠原さんのためには、かえって良かったかもしれない」
「運命……? 仕方なかっただって……?」
慧一朗は青ざめ、椅子を蹴るように立ち上がった。
貴和子が怯んだように大きな目を瞠り、慧一朗を見上げた。そして哀願するように息子の腕にそっと触れた。
「ええ、そうよ。仕方のないことだった。あの子は元々、日本に来たらピアノはやめる筈だったんでしょう? お家にも反対されていて、それなのに、」
「変えたのは、俺だ」
「慧ちゃん、それは違うわ」
「俺が、朝希の運命を変えてしまった」
ワルシャワで慧一朗に出会わなければ、朝希は日本でピアノを弾かない生活をしていたかもしれない。そうすれば、少なくともあの日襲われることはなかった。
「俺が、守らなきゃいけなかったのに」
そう誓ったはずだったのに、朝希は襲われ、ピアノを辞めさせられようとしている。
何というざまだろう、守るが聞いて呆れる――慧一朗は唇を自嘲の形に歪めた。
「慧一朗!」
貴和子は顔色を変え、細い手で慧一朗の肩を揺さぶった。
「バカなこと言わないで。貴方の責任じゃないって、何度言えばわかるの!? あの子は他人よ。貴方の人生には何の関係もないの!」
「俺がピアノを弾いてる間に、朝希は襲われたんだぞ!」
慧一朗の怒鳴り声に、貴和子はびくっとして手を離した。怯えたような母の表情に、たちまち後悔がこみ上げてくる。
「……ごめんなさい、お母さん。でも俺は、まだ諦められない」
ギュッと拳を握り、慧一朗はリビングを飛び出した。二階に駆け上がり、財布と携帯だけ持って玄関に下りる。このまま家でじっとしていても、何もならない。
(朝希に会いに行こう)
自宅の住所は知っている。どれだけ待つことになっても構わない。一目でいいから、顔が見たい。声が聞きたい。
謝りたかった。
あの日、一人にしたことを。守れなかったことを。今、一人で戦わせていることを――。
「どこに行くの、慧一朗!」
背後から母の声が追いかけてきたが、振り返らずに慧一朗は家を飛び出した。
井の頭線から銀座線、南北線と電車を乗り継いで、朝希の住む神谷町のマンションへ向かう。
平日の昼間だというのに、巨大商業施設とラグジュアリーホテルが併設された敷地内は、いかにも富裕層らしき奥様や、経営者らしい男たち、インバウンド客で賑わっている。
スマホに入力しておいた住所と地図アプリを頼りに、イルミネーションが煌めく路面店通りを抜けると、ようやく緑に囲まれたレジデンスマンションの入口を見つけた。
「……すごい建物だな」
政治家という生き物は、もっと伝統と格式のある堅固な建物に生息しているイメージだったが、さすが近代的で洒落ものの三島議員といったところか。
中に入ると、広いロビーに巨大なクリスマスツリーが煌めいていた。木の根元にはギフトボックスのオブジェが積まれ、明らかに住人ではなさそうな中年の女性が二人、写真を撮っていた。
スーツを着た女性のコンシェルジュが慧一朗を認め、「ご訪問ですか」と好意的な微笑を浮かべながら声をかけてくる。おそらく全ての住人の顔を覚えているのだろう。
なんと答えたものか、慧一朗は迷った。
感情にまかせて来てしまったが、朝希の名前を出しても大丈夫だろうか? あんな事件の後だし、ましてや政治家の家だ。向こうも警戒しているに違いない。
「俺は……」
言い淀む慧一朗に、コンシェルジュの表情に警戒が滲む。そのときだった。
「東雲さん?」
ひんやりと落ち着いた声がして、振り返ると、先日家に来た細川という秘書がこちらを困惑したように見つめていた。ボディーガードらしき数名の屈強な男を連れている。その奥には、朝希の実父である三島克顕議員の姿もあった。
本物の三島克顕を見るのは初めてで、慧一朗は思わず息を呑む。長身に仕立てのいいスーツを着こなし、名家出身の男らしい意志的な顔つきをしている。朝希とはあまり似ていないと思っていたが、こうして本人を前にすると、くっきりと通った品のよい鼻筋が父親そっくりだった。
細川が何事かを耳打ちすると、三島議員は「ああ」というように軽く頷いてみせた。そして物分かりのよさそうな笑みを浮かべると、つかつかと慧一朗の前まで歩いてきた。
「やあ、君が慧一朗くんか。朝希が長いことお世話になったそうで」
彼が目で合図すると、コンシェルジュの女性は慧一朗から離れて笑顔で一礼する。そのまま三島議員は親しげに慧一朗の肩を抱くと、エレベーターへと促した。
「いや、事件の後は私も忙しくてね。あんな事件を起こしながら、挨拶にも行けず申し訳なかった。よかったら、寄っていってください。大したおもてなしは出来ませんけどね」
口を差し挟む隙を一切与えず、三島議員はエレベーターにカードキーを通す。
「さあ、どうぞ。朝希に会いに来たんでしょう?」
笑顔で促され、慧一朗は少しほっとして三島議員とエレベーターに乗り込んだ。どうやら全く拒絶されているということでもないらしい。
続いてむっつりと不機嫌そうな顔をした細川だけがエレベーターに乗り込むと、ボディーガードらしき男達は扉が閉まるまで深く頭を下げ、三人を見送った。
ガラス張りの豪奢なエレベーターは物凄い勢いで上昇を始め、一分もしないうちに最上階のペントハウスへ到着した。扉が左右に開くと広々とした吹き抜けのエントランスが現れ、小柄な可愛らしい女性がパタパタと駆けてくる。後妻の舞衣夫人だ。
「おかえりなさい。……あら、お客様?」
慧一朗が頭を下げると、夫人はにっこりと微笑んだ。テレビで見るのと同じ、計算された笑顔はどこか過剰で、粘着質な媚と甘さを孕んで慧一朗を値踏みしていた。
「細川、朝希を呼んできてくれ。舞衣、お客様にお茶を準備してくれるかな」
細川は無言で一礼すると、廊下の奥へ向かう。慧一朗はそのまま応接間へ案内される。
革張りのソファセットの上座に腰かけると、舞衣夫人が軽やかな足取りで紅茶とチョコレートを運んできてくれた。そのまま退室するのかと思ったが、彼女も夫の隣に腰を下ろした。まるで三者面談のような図に、慧一朗は緊張した。
「せっかくだし朝希が来るまで、色々お話を聞かせてくださいよ」
三島議員は人好きのする笑みを浮かべると、膝の上で手を組み合わせ、身を乗り出すようにして慧一朗を見つめた。
「東雲慧一朗くん。ご活躍は伺ってますよ。ヨーロッパのコンクールで何度も賞を獲った、才能溢れるピアニストだってね。おまけにそのルックスだ。さぞかしファンも多いでしょう」
「いえ……俺なんか。それよりも、」
朝希の状態を知りたい。ニュースでは大したことのない怪我だと言っていたが、傷痕は残らないのか、ピアノは問題なく弾けているのか。この数週間、どう過ごしていたのか。
「うちの朝希とは大違いですよ、まったく」
だが、三島議員は慧一朗に話させる気は少しも無さそうだった。まるで親戚のように親しげな笑顔を浮かべながらも、その目の奥は冷めきっている。この場にいるのは、あくまで息子が師事していたピアノ教師の長男への礼儀に過ぎないのだ。三島議員はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「慧一朗くんに比べたら、うちのは平凡だ。亡くなった母親ほどの才能もなさそうだし、環境も慧一朗くんの御宅みたいに整っていない。おまけに運もない」
取って付けたような笑顔を浮かべる三島議員に追従するように、舞衣夫人が大きく頷く。長いエクステンションにふちどられた大きな目が、憎々しげに細められた。
「あんな事件に巻き込まれて三島の名前が出るなんて、とんだ恥ですよ。あの子が気を付けていれば、三島の名前が傷つくこともなかったのに」
「舞衣、よしなさい」
絶句している慧一朗を見て、取りなすように三島議員が妻をなだめた。
「慧一朗くんも被害者なんだよ。うちのせいで御宅の教室の名前が出てしまって、申し訳なかったね」
三島議員はふっと皮肉めいた笑みを唇に浮かべた。
「……人には、それぞれ持って生まれた運命があると私は思っているんですよ。あの子に、ピアノは合っていなかったんでしょう。本人に合った道を選ぶのも親としての責任ですからね」
年内は家庭教師をつけて、来年進級するタイミングで私立に転校させようと思っているのだと、三島議員は落ち着き払った様子で続けた。
「今から必死で準備すれば、何とか大学受験には間に合いそうだ。ピアノは大学に受かってから、趣味で続ければいい」
「三島さん……」
あまりのことに、慧一朗は言葉を失った。
これが、実の親の言葉だろうか?
篠原朝希を息子に持つ人間が吐く言葉だろうか。とても正気とは思えない――。
唇を震わせながら慧一朗が反論しようとした、そのときだった。
控えめなノックの音がして扉が開き、細川に付き添われるようにして朝希が入ってきた。
「朝希!」
ソファから立ち上がり、朝希の元に駆け寄る。
少し痩せただろうか。顔色は悪く、いつもは澄んだ光を湛えた瞳は、不安そうに揺れている。急いで身なりを整えてきたらしく、服も髪も乱れていた。
「慧……ごめんね。僕、ずっと連絡できなくて」
「大丈夫か?」
額にかかった長い前髪を耳にかけてやり、そっと頬に指を滑らせる。
「肩は? もう痛くないのか」
「うん、平気。まだ少し赤いけど、もう痛くないし……普通に生活できてるよ」
朝希がぎこちなく笑った瞬間、後ろから舞衣夫人が刺すような声で言った。
「その口の利き方は何なの? ちゃんとお礼を言って、謝りなさいよ。あなたのせいであんな迷惑をかけられたのに、わざわざ心配して来てくださったのよ」
「、はい……あの日はすみませんでした。ありがとうございます。慧……東雲、先輩」
明らかに夫人を意識しながら、たどたどしい口調で謝罪する朝希に、慧一朗は頭から冷水をかけられたような気持ちになる。こんな風に誰かの顔色を窺う朝希を見るのは初めてだった。朝希がこの家で過ごしてきた七年間を、あらためて突きつけられたような気がした。
顔を歪めた慧一朗を見て、三島議員が取り繕うように笑いかけた。
「いや本当に、慧一朗くんには長いことお世話になりましたね。この子が十二、三歳だったか、子どものときから……、」
「十歳です、三島さん。あのとき朝希は十歳だった」
静かに訂正した慧一朗に、三島議員の笑顔が一瞬固まる。慧、と朝希が焦ったような声で慧一朗を呼んだ。
三島議員はソファに座り直すと、小さく咳払いをしてから言葉を続けた。
「まあ、つまり長くお世話になりましたからね。これからも人生の良い先輩として、この子と付き合ってくださいよ。ほとぼりが冷めて、大学生になったら、またそちらの教室に通わせても良いと思ってるんです。さっきも言いましたが、趣味で弾くぶんにはピアノはいい気晴らしになるでしょうからね」
朝希は黙って父親の言葉を聞いている。大人びた静けさと清らかな炎を併せ持つ朝希の瞳は、今や敗戦国の市民のように疲弊しきっていた。
慧一朗の視線に気付くと、朝希は顔を上げ、大丈夫だと言うように少しだけ微笑んだ。初めて出会った日と変わらない、心を隠し、大人として振る舞おうとする目。
その表情を見た瞬間、慧一朗はこみ上げる激情を堪えることができなかった。
「……三島さんは、朝希のピアノを聴いたことがありますか」
「はい?」
三島議員の笑顔が歪んだ。視界の端で、秘書の細川が驚いたようにこちらを見る。
「あなた方は、知らないでしょう。朝希がどんなに美しいピアノを弾くのか、朝希の演奏が、どれだけ大衆の心を打つか」
「慧、」
焦った様子で袖を引く朝希の腕にそっと触れ、優しく視線で制する。
「趣味、気晴らし……一度でも彼の演奏を聴いていれば、そんなことは言えない筈だ」
慧一朗は声を震わせた。
「俺は、初めて朝希に会ったとき本当に驚きました。音楽的センス、表現力、技術、努力……まだ小さいのに、彼の弾く幻想ポロネーズは繊細で清らかで、秋の魔法みたいに美しかった……」
亡き母親に捧げるように、一生懸命に弾いていた幻想ポロネーズ。
目を閉じれば今も、あの語りかけるように上品で澄んだ音が、十月のワルシャワの冷たさと匂いが、夕陽を受けた朝希の美しさが鮮やかに甦ってくる。
「あの日の興奮は、今も忘れない。朝希の演奏は、どんな有名なピアニストよりも、あの日の俺の心に残りました。朝希は、運命に選ばれた人間なんだ」
鼻白んだ様子で眉を吊り上げる舞衣夫人の隣で、三島議員はいよいよ不快感を隠そうとはせず、コツコツと指先でテーブルを叩いた。
「お綺麗な感傷でうちの子に期待してくれるのは結構ですがね、君の教室も、君自身も被害者だろう? よくそんなことが言えるな。君のお父さんも、お母さんも、君と同じように思っているのか? それとも、貴重な月謝収入源が一人でも減るのは惜しいかね」
「お父さん!」
青ざめた顔で朝希が叫ぶが、三島議員は息子を見ようともせずに続けた。
「この子が運命とやらに選ばれていたのなら、硫酸をかけられるような目にはあわなかっただろう。親だからこそ、選ばれていない運命の中で、向いていないことをさせる気はないんだよ。今回は軽傷で済んだが、また同じような事件が起きないとも限らないからな」
「今ピアノを辞めることで、それが変わるとでも?」
間髪入れずに慧一朗は言い返した。
こんな風に大人に楯突くのは初めてで、緊張と興奮で思わず拳が震えてしまう。だが不思議と心は燃えて、さえざえと冷たかった。
「三島さん。犯人は、貴方へ抗議の意を表するために朝希を襲ったんだ。それは、貴方が朝希に背負わせた運命ではないのですか」
怒りと悔恨に衝き動かされながら、慧一朗は三島議員をまっすぐに見下ろした。
この家は、朝希にとって家ではない。
この家が、この大人たちが、朝希を壊す。ピアノを弾いても、弾かなくても。
(俺は、本当に馬鹿だった)
鴻三に師事させて、ピアノを弾く手助けさえすれば大丈夫だと思っていた。
そうではなかったのだと、今ようやく気付いた。
ピアノを弾く環境なんかじゃない、朝希の心を一番に守らなければいけなかったのに。
「あなたの一存で、朝希の未来が奪われて良いはずがない。雪乃さんだって、そんなことは望まないでしょう」
「慧! やめて、もういいから……!」
朝希が泣きながら、必死に慧一朗の腕に縋る。
その苦しそうな泣き顔を見た瞬間、慧一朗にははっきりと答えが見えた気がした。
安心させるように笑いかけ、初めて会った日のように指先で優しく涙を拭ってやる。
柔らかな髪をそっと撫でてやり、再び三島議員に向き直った。
「俺が、朝希を守ります」
朝希が、本当の意味で弾き続けることができるように。
そして慧一朗自身が、二度と朝希を失わないために。
「あんな事件が起きないように、傍にいて、彼を守ります」
「傍にいる?」
嘲弄するような声をあげたのは、三島議員ではなく扉の前に立っていた細川綜馬だった。
細川は我慢できないといった様子で目の前まで歩いてくると、怜悧な目にはっきりと敵意を滲ませて慧一朗を睨みつけた。
「東雲さん、あなたはピアニストでしょう? マネージャーでも何でもない。それで、どうやって朝希さんの傍にいるんですか? どうやって朝希さんを守るんですか。あの日だって、貴方はこの人が襲われているその瞬間も、舞台でピアノを弾いていたじゃないですか」
「細川さんのおっしゃる通りです」
慧一朗は静かに細川に向き直った。
「俺は、ピアニストにはならない」
「口ではどうとでも――……えっ?」
ぽかんと口を開けた細川を、静かに見つめ返す。
「俺が、朝希のマネージャーになります。マネージャーになって、朝希の傍から離れないで、彼を守ります」
ずっと、子どもの頃から違和感を感じていた。
順位や名誉のために競争し、評価される音楽に。
慧一朗はただピアノが好きで、そして朝希が大事だった。
朝希を見つけたのは自分だ。
だからこそ、朝希の運命を守るのは慧一朗でなくてはならない。
それはプロになって栄華を極めるよりもずっと、慧一朗にとって価値のある、豊かな人生のように思えた。
「約束します、三島さん。二度と、このようなことは起きないと。だから、朝希にピアノを弾かせてください」
自分が舞台で弾いている間に、朝希は傷つけられた。
もう、同じ過ちは犯さない。
呆気に取られたようにこちらを見つめている三島議員夫妻と細川に、深く頭を下げる。
「ふざけないで!」
瞬間、耐え切れないというように叫び声をあげ、朝希が慧一朗に掴みかかってきた。
「僕は、そんなこと望んでいない! 慧、君に、そんなことをして欲しいなんて思わない!」
朝希は見たこともないくらい必死な表情で、慧一朗を見つめている。
二の腕に爪を立てて揺さぶってくる両手首をそっと捕らえ、慧一朗は静かに朝希を見つめ返した。
「俺がそうしたいんだよ。分からない? 俺は、ずっとそうしたかったんだよ。朝希」
「慧!」
「朝希は一流のピアニストになって、ワルコンの表彰台に上る。二度と、あんな目に合わせたりしない。俺が君を守るから」
なおも抵抗しようとする身体を抱き締めると、密着した朝希の胸から、確かな心臓の鼓動が伝わってくる。
応接室の隅でピカピカとクリスマスツリーが光っているのが見えて、ああ、もう今年が終わるなと場違いなことを慧一朗は思った。




