第二章 七年後
1.
貴和子の朝は、湯を沸かすことから始まる。
やかんにたっぷり沸かしたお湯の半分は紅茶用に、モーニングカップ一杯分は自分用の白湯に。嫁入り前から変わらないルーティンは、低血圧で冷えやすい貴和子を心配した母の教えでもあった。
今朝も貴和子は広々としたダイニングで大倉陶園のブルーローズに注いだ白湯を飲みながら、「楽友界」秋号をめくっている。
慧一朗が大学三年生になり、次男の美景もパリに留学した今、別に早起きする必要はないのだが、しみついた習慣はなかなか止められない。
何の気なしにページをめくっていると、不意に、よく見知った顔が視界に飛び込んできた。貴和子は思わず手を止めた。
「次世代の新星特集……篠原朝希……」
カラーグラビアページには他にも数人の若手ピアニストが特集されていたが、朝希はトップページで、スペースも一番大きく割かれている。
ヘアメイクとカメラマンの腕がいいのだろう。ピアノの前でぎこちなく微笑む朝希は美しく、いかにも感じやすい天才少年のように見えた。
貴和子は苦々しい気持ちで朝希のページを読んだ。
――十二歳でピティナ・ピアノコンペティションJr.で全国決勝大会第一位を収め、翌年のショパン国際ピアノコンクールinアジア大会でも優勝した天才少年。昨年、満を持してリリースしたデビューCDは、業界では異例の五万枚売上を達成。現在は桐原音楽大学付属高校二年の特待生であり、国内外の注目を集めている。夢は生まれ育ったワルシャワでもう一度ピアノを弾くこと――。
(何が〝生まれ育ったワルシャワ〟かしら。わざとらしいこと)
素直にワルシャワ国際ピアノコンクールと言えばよいものを、明言しない所がしたたかだ。
鼻白むような思いで、貴和子は雑誌をテーブルの上に放った。
七年前、夫と息子がポーランドから帰国した日のことは今も忘れられない。
神宮寺エリカは三次落ちとなり、ファイナルには進まず帰国となった。さぞ気落ちしているだろうと出迎えた貴和子の予想を大きく裏切り、鴻三はひどく上機嫌だった。
――貴和子、僕はダイヤの原石を見つけたのかもしれない。それも極上のね――。
静かな興奮と喜びを燃やす目は無邪気な少年のようで、背筋がゾクリとした。
ほどなくして篠原朝希は東雲の家に現れ、みるみるうちに世間の注目を集めるようになった。その勢いときたら、まるで見えない風が彼を取り巻き、陽の当たる場所へと押し出しているようだった。
何より貴和子がこたえたのは、朝希を見つけたのが慧一朗だということだ。
自分が長男をワルシャワへ行かせなければ、慧一朗は朝希と出会わず、朝希が鴻三の生徒になることもなかったのに。
心優しい長男は、ワルシャワから帰って以来、騎士のように朝希の側について今も離れようとしない。
家にグランドピアノを持たないという朝希は、鴻三の命令で、毎日のように東雲の家まで練習にやってきた。そして夜遅くまで練習をして、松濤のピアノ教室から神谷町の家まで帰っていく。慧一朗は駅まで朝希の送り迎えを欠かさず、演奏会や発表会の日もつきっきりで面倒を見てやっていた。
当初は「日本に来たばかりだし、新しい家族の中で大変だから」などと言っていたが、この習慣は中学を卒業して高校、大学に入っても続き、七年経った今も変わらない。
レッスンの日は大学と同じ敷地内にある附属高校まで朝希を迎えに行き、家まで連れて来る。朝も忙しい合間を縫って駅で待ち合わせ、一緒に登校しているようだ。優秀な慧一朗は大学の単位などほとんど取り終わって、毎日登校する必要もないのに。
朝希も朝希だ。新しい家族に引き取られたなら、新しい家庭の方針に従うべきである。いくら鴻三が特待生に迎えたからといって、推薦で音楽高校に入って、毎日のように人の家に来るのはあまりに図々しいのではないか。
不愉快だった。慧一朗に守られるようにしている朝希を見ると、どうしても若い頃の夫と篠原雪乃が重なる。
朝希は内気な性格だが礼儀正しく、神宮寺エリカみたいに生意気な態度を取ることは決してなかったのだが、大人びた振る舞いはかえって鼻についた。
黙っていると冷たく見られがちな慧一朗と真逆で、朝希は甘やかな容姿をしていながら、他者に心の裡を悟らせない、温度を持たないアンドロイドのような印象があった。
よく躾けられた子役みたいに感情を抑制しているような切れ長の猫目も、腹の底では何を考えているか分からなくて気味が悪い。何よりも、慧一朗と同じ男子であることが朝希への憎悪に拍車をかけていた。
(慧一朗だって、全く負けていないわ)
貴和子の願い通り、慧一朗は才気溢れる青年に育った。
二年前のエリザベート王妃国際音楽コンクールではピアノ部門で六位に入賞し、昨年のブゾーニ国際ピアノコンクールでは惜しくも三位だったが、審査員賞を受賞した。190㎝近い長身と彫刻のようなルックスも手伝って、クラシック界以外にもファンが多い。このままピアノで食べていくなら、他人の世話を焼いている暇はない筈だった。
だが、いくら貴和子が忠告しても慧一朗は「大丈夫」と微笑むだけで、朝希から離れようとしない。
かつて夫が長男を評して言った「ハングリー精神が足りない」という言葉の重みを、最近になって貴和子は強く感じている。良くも悪くも、優しすぎるのだ。
(何とかしてあの子の意識を変えなくては。三年後はワルシャワ国際ピアノコンクールがある)
前回のワルシャワ国際ピアノコンクールに、慧一朗は出場していない。
その年は実力のあるコンテスタントが大勢いて、慧一朗が出場するには実力も経験も足りないと鴻三が判断したのだ。だが、次のコンクールは間違いなく朝希も出場する。篠原雪乃の息子が慧一朗より上の順位を獲るなど、あってはならないことだ。
携帯電話が鳴った。
こんな朝早くから誰だろう。眉をひそめた貴和子は液晶に表示された名前を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「もしもし、ミカちゃん?」
「その呼び方はやめてって言ってるだろ、ママ」
うんざりしたような声を上げながらも、テレビ電話の向こうに映った次男は「久しぶり」と、華やかに笑った。
「パリは夜中でしょう? こんな時間まで起きていたらいけないわ」
「夜中って、まだ十二時だぜ。寮の奴らだって皆起きてるよ。せっかく電話してあげたんだから、もっと喜んでくれてもいいじゃん」
「嫌ね、嬉しいわよ」
久しぶりに見た次男の顔に、勝手に声が弾んでしまう。
今年十六歳になる美景は、慧一朗とはまるで似たところがない。慧一朗をおおらかで心優しい大型犬とするならば、美景は気高い山猫のような少年だった。
一族の誰よりも才能に恵まれ、ピアノコンクールに出れば必ず上位入賞を果たしていたが、負けん気の強い我がまま坊やで、プライドの高さはエベレスト級だ。
性格的にも海外でのびのび学ばせた方がよいだろうと学校側と鴻三の意見が一致したため、中学校を卒業すると同時に、美景は早々にパリの音楽学校に留学した。
だが末っ子の星回りで、東雲家は全員美景に甘かった。鴻三は「我が家のピンクペッパー」と呼んで美景を可愛がっていたし、どんなに生意気な口をきいても、努力家で家族思いな次男は貴和子の宝物だった。
「あなたって子は、気が向かないと全然電話くれないんだから。そっちはどう? レッスンは大変?」
「超、忙しいよ。今度、学内発表会でオケとラフマニノフ弾くことになっちゃって」
「選ばれたの? すごいじゃない!」
「全然。オレが一番上手いし、他にいなかっただけ。プロとやる訳じゃないしね」
大したことないというように肩をすくめながらも、貴和子によく似たアーモンド型の目は得意そうに笑っている。
「ミカちゃんなら素敵に弾くでしょうね。見に行けないのが残念だわ」
「動画送るよ。ルームメイトのディーンが撮ってくれるって言ってるから」
同級生とも上手くやってるようだ。貴和子はほっと胸を撫で下ろす。
鼻っ柱の強い子だから、いじめられたらどうしようと心配していたが、なかなかどうして友人も多く、楽しくやっているらしい。最初は寂しかったけれど、やはり国際的な環境は美景に合っていたのだろう。留学させて本当によかった。
「来月の試験休みは日本に帰るよ。確かうちの門下発表会だろ?」
母親が寂しがっていると思ったのだろう。次男は優しい声で言った。
「ええ。ミカちゃんも何か弾いてよ。イスラメイはどう? あなたの十八番を聞けたらパパも喜ぶわ」
「どうかな。パパも兄貴も、篠原朝希が出ればそれでいいんじゃないの。大活躍じゃん、あいつ」
「関係ないわよ、あんな子」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。ふざけたように言った美景の方が、かえって気圧されたように口を噤んだ。
「だってね、インターネットの掲示板やSNSでも書かれてたわ。器用にまとまってはいるけれど、面白味や個性に欠ける演奏だって。篠原朝希は親の七光りと顔だけだって。コンクールだって、父親の三島議員が手を回して賞を獲らせたって噂よ」
「分かんなくはないけど……よしなよ、そんなの見るの」
美景自身、奔放な態度と個性的な演奏で、さんざんネットで叩かれてきたクチだった。匿名の人間たちの言うことなんか相手にしないと豪語しているからこそ、母親が同じようにネットの意見なぞ参考にしているのは嫌なのだろう。
「ま、オレも篠原の演奏はつまんないって思うけどね。兄貴のが断然すごいし、オレは好きだな」
「そうよね、さすがミカちゃんはよく分かってるわ」
同じくピアノの道を志して研鑽している次男の言葉は、インターネットの批判より余程真実味をもって貴和子の胸に響いてくる。顔を輝かせた母親に、美景は苦笑した。
「大丈夫だよ、ママ。次のワルコンは、オレが篠原を負かしてやるよ」
貴和子は一瞬、言葉に詰まった。
三年後には、次男もワルシャワ国際ピアノコンクールへの出場資格を得る。そんな当然のことが、なぜか貴和子の頭から抜け落ちていた。
あくまで貴和子の中で、篠原雪乃の息子を負かすのは慧一朗でなければならなかった。
朝希が一番慕っているのは、慧一朗だから。
雪乃によく似た貌の少年の敗北を待ちわびている自分に気付いて、貴和子は少しだけ気まずくなった。
2.
桐原音楽大学に新しいキャンパスが出来たのは一昨年のことだ。
生徒の増加に伴い、昭和五年に落成された駒場キャンパスに加え、新たに代官山キャンパスが加わった。
新進気鋭の建築家であるK氏がデザインした代官山キャンパスは、大学というよりもアジアのラグジュアリーホテルのようだ。最新設備とホールの広さも私立音大の中ではトップクラスだということで、昨年は受験生の数も二倍近く増加したという。
「新入生はいいよなー。高ーい授業料払って貢献したのは俺ら先輩世代なのに、肝心の俺たちはあと一年で卒業ときた」
同じピアノ科の親友の野島涼介は嘆いていたが、しかし自宅から近い駒場キャンパスの方を、慧一朗は気に入っていた。森のように緑に囲まれた広大な敷地を歩くと気持ちが落ち着くし、附属高校が敷地内にあるのも良かった。
今日は久しぶりに、駒場キャンパスで声楽のレッスンだった。
二年生のときに受講したアメリカ人ピアニストのマスタークラスで、演奏の表現力を磨くためには声楽を習うべきだと勧められたのだ。
声楽科教授の松倉りり子は、桐原音大の声楽科では一番権威ある教授だ。レッスン室は一番広い部屋を割り当てられ、りり子門下出身の講師がレッスンの下見までしてくれる。が、ジブリ映画の魔女を彷彿とさせる派手な化粧と堂々たる体格、きらきらした舞台衣装のような私服は、彼女を知らない者が見ると奇天烈なマダムにしか見えない。美景などは面白がって、慧一朗と通話するたびに「マダム・リリーは元気にしてる?」などと聞いてくる。
りり子門下には、厳しいルールがいくつもあった。譜面のサイズに製本テープのメーカーも決まっており、レッスン室の清掃や教授のお茶汲み当番は持ち回りで、果てはりり子の送迎タクシー手配までさせられるという。
声楽科の同級生からその話を聞いたとき、慧一朗は自分も当然それらを引き受ける覚悟だった。しかしりり子は、決して慧一朗に雑用をさせようとはしなかった。東雲教授の息子だからということも勿論あるのだろうが、声楽科の生徒たちいわく、慧一朗は「リリー様のお気に入り」なのだという。
今日もレッスンが終わると、りり子は執拗に慧一朗を発表会に誘ってきた。
「東雲先生の発表会は十一月よね? うちは十二月だし、慧一朗くんも出なさいよ。レッスンでやっている曲を歌えば大丈夫。舞台で歌うのも勉強になるわよ」
「だ、大丈夫です。俺なんかが出たら、松倉先生のお名前に傷がつきますよ」
「ううん、そんなことないわ。慧一朗くん、いい声してるもの。ピアノ科にしておくには勿体ないくらい歌えるし、何よりゴージャスで舞台映えするし!」
また始まったと言わんばかりに、りり子の後ろでピアノを弾いていた涼介が笑いを噛み殺している。
声楽科のレッスンは自分の伴奏者を連れて来るのが暗黙の了解で、慧一朗は涼介に伴奏を頼んでいた。
面白がっていないで助けて欲しいのだが、慧一朗が目配せしても涼介は愉快そうにニヤニヤするばかりだ。
「ソロが嫌なら二重唱はどう? カルメンか、アイーダか……慧一朗くん、ホセもラダメスも似合いそうだわあ」
「でも、俺はただのピアノ科だから。組む人に悪いですよ」
「そんなことないわ。うちの子たち、慧一朗くんと組めるなら俄然張り切るし、リードしてくれるわよ。三年の沢木亜矢音なんかどうかしら? 同級生だから知ってるでしょう。うちのホープよ」
今年の夏に告白されて、お断りした女学生である。
どうしよう、と慧一朗が冷や汗を流していると、ようやく涼介が助け舟を出してくれた。
「りり子センセ、次の生徒が来たみたいっすよ」
「あら、もう?」
「じゃあ、俺たちはこれで! 今日もありがとうございました。行くぞ、リョウ」
楽譜と涼介の腕を掴むと、慧一朗は逃げるようにレッスン室をあとにした。
レッスン室が遠ざかると、涼介は堪え切れないというように笑いだした。
「ああ、今日も凄かったな。リリー様。俺はいつケイが押し負けるんじゃないかってハラハラしたぜ」
「よく言うよ。面白がってたくせに」
「だって見たいじゃん。ピアノ科のプリンスと声楽科のマドンナの競演! いやあ、絵になっただろうなー。リリー様じゃないけど、出ても良かったんじゃないの。ケイが歌うなら、喜んで伴奏するぜ」
「からかうなよ。俺には無理だって」
ため息をつく慧一朗を見て、涼介は兄のように苦笑した。
「ま、勿体なかったと思うけどな。声楽科の沢木亜矢音って言ったら、今年のミス桐原優勝候補だぜ。おまえ、今フリーだろ? お試しで付き合っても良かったのに。よく言うだろ、恋は芸の肥やしってさ」
慧一朗は曖昧に笑って誤魔化した。この手の話題は苦手だ。
音大はどうしても、女子に比べると男子の数が少ない。インカレで付き合う相手を見つける生徒も多いけれど、男子学生というだけで必然的にモテる環境なのだ。
コンクールで入賞してうっかりテレビに出てしまってからは、話したこともない女の子から告白されることも増えた。どこで情報を仕入れてくるのやら、最近では非公開のはずの門下発表会にまで、ファンだと名乗る女の子たちが花束やプレゼントを携えてやってくる。
中には読者モデルやタレントをしているような可愛い子もいたけれど、慧一朗は彼女を作る気にはなれなかった。恋愛に興味がない訳ではないが、それよりも音楽に向き合っている方がずっと幸せだった。
「リョウの言うことも分かるけど。俺はピアノと恋、同時並行できるほど器用じゃないんだよ」
自分に恋愛は向いていないと慧一朗は思っている。実際、告白されるまま何人かお付き合いらしきものをしたことはあるが、誰とも長くは続かなかった。
「正しくは、ピアノと恋と朝希ちゃんだろ?」
涼介はからかうような口調で言った。
「あーあ、勿体ない。エリザベスにブゾーニと国際コンクールで賞獲りまくって、テレビに出て騒がれて、ケイなら選び放題でしょうに。実際のところは朝希ちゃん一筋だもんなー。俺がおまえなら、幼馴染のお世話係なんか放り出して、とっかえひっかえ女の子と遊んでるよ」
羨ましそうに言いながらも、涼介には高校時代から付き合っている彼女がいる。飄々としているようで、一途な男なのだ。親友のそういう所が、慧一朗は好きだった。
「お世話係なんて思ってないよ。そもそも幼馴染ですらないし」
「ああ。十四歳のときにワルシャワで出会って、才能を見出したんだろ? で、王子様よろしく姫をお守りしている、と。そのエピソードに勝てる女なんか、そうそう居るわけないよな」
「そんなじゃないって」
おとぎ話と呼ぶには、あまりに厳しい七年間だった。
当時のことを思い出すと、慧一朗は今でも胸が痛くなる。
日本語が話せても、ワルシャワで生まれ育った朝希にとって、日本は異国だった。
新しい家庭、新しい学校、日本の音楽教育。
唯一の肉親である父は仕事で家に寄りつかず、こだわりなく甘えてゆける大人は一人もいない。
朝希は決して弱音を吐かなかったが、継母や兄弟のことはあまり口にしたがらなかった。慧一朗が水を向けても、困ったように話題をそらしてしまう。だから慧一朗は、きっと上手くいっていないんだろうと察することしかできなかった。実際、彼の継母はこれまで一度も発表会に姿を見せたことがない。
例え関係が悪くても、十歳の少年が家に帰らない訳にはいかない。おまけに学校が終われば、週に五日は特待生としてレッスンがあるのだ。家に帰るのは、どうしても夜遅い時間になってしまう。
鴻三はまめに朝希の父親の秘書に連絡をしているようだが、朝希が血の繋がらない母のもとで肩身の狭い思いをしていたことは、想像に難くない。
それでも朝希は、東雲門下のスターだった。
初めての発表会でショパンのワルツを完璧に弾きこなす朝希を見て、客席にいた生徒の親たちは驚嘆し、付き合いで訪れていた大学関係者や記者たちは、新星の登場に沸き立った。
朝希が門下に入ってから、東雲ピアノ教室の門を叩く生徒は前年の三倍にも膨れ上がった。
その後もピティナ・ピアノコンペティションJr.の全国決勝大会第一位に、ショパン国際ピアノコンクールinアジア大会の優勝――映画のような快進撃は、傍から見れば天才少年が歩む王道に見えただろう。
(でも、決して楽な道じゃなかった)
確かに朝希は天賦の才に恵まれていたが、それ以上に努力の才能があった。
敬虔な彫刻家が土塊から美しい天使を創り出そうとするように、放っておくと何時間でもピアノに向かっているようなところがあった。
絶対的な師だった母親の死も影響しているのだろう。
鴻三の厳しい指導にも弱音を吐かず、賞賛には背を向け、いつも自分の弱点を探していた。
初めての門下発表会での出来事だ。
出番前の舞台袖で、朝希は難破船の乗客みたいに震えていた。祈るように両の指をきつく組み合わせ、慧一朗が肩を支えていてやらないと、今にも倒れそうだった。
「大丈夫だよ、朝希。ただの発表会だ。いつも通り弾けばいい」
「でも、間違えたらどうしよう? 曲を忘れたら? 東雲先生があんなに毎日教えてくれたのに、沢山のお客さんの前で失敗したら、がっかりさせてしまう。僕は特待生なのに」
「がっかりなんかしない。平気だよ、リハーサルだって、皆大喝采だったじゃないか」
実際は大喝采というより驚愕と羨望、嫉妬の方が強かったかもしれないけれど、まあ同じようなものだろう。
慧一朗は朝希の両手をそっと包み込むと、あやすように撫でてやった。
「失敗が怖いのは、頑張ってきた証拠だ。緊張するのは、集中できる精神を持っている証拠。ピアノの前に座ったら、曲のことだけを考えて。絶対うまく弾けるから」
朝希な泣きそうな顔で、慧一朗の言うことを聞いている。
慧一朗は可哀相になった。
篠原雪乃の息子と謳われるにふさわしい実力を持ちながら、朝希はこの年になるまで人前で演奏を披露したことはないのだ。日本で育っていたら、とっくに天才少年として名を馳せていただろうに。改めて、この少年の歪な生い立ちを思わずにはいられなかった。
「……まだ、怖い?」
朝希は力なく首を横に振ったが、強がっているのが丸わかりだった。
慧一朗は苦笑して、そっと朝希の頬に触れた。
「じゃあ、俺のために弾いて」
「慧のために?」
「ああ。お客さんのことは忘れて。いつもみたいに、朝希と先生、俺しかいないと思えばいい。それなら怖くないだろ?」
朝希はちいさく頷いて、ようやく唇を微笑のかたちに綻ばせた。
「わかった。慧のために弾くよ」
そのとき、舞台の方から大きな拍手が聞こえてきた。ピアノを弾いていた少女が戻ってくる。
――篠原朝希くん。ショパンのワルツ。第2番。作品34の1「華麗なる円舞曲」――、
アナウンスが入った。出番だ。
「ここで聴いてるから。頑張って来い」
「うん!」
花のような笑顔を投げかけ、朝希は舞台へ歩き出した。そして十数分後、文字通り彼は東雲門下のスターとなる。
燃えるような目をしてピアノを弾く朝希は、優雅なお姫様でもスターでもない、生きるために音楽に命を捧げる若き闘士だった。
慧一朗は、共に戦う仲間でありたかった。
朝希を守ってやれるのは、自分だけだ。
少年時代の誓いは、大人になった今も慧一朗の胸に刻まれている。
「俺は、朝希を尊敬している。あの子と一緒にいて、恥ずかしくない俺でいたいんだ」
「……ま、そんな顔でそんな恥ずかしいこと言ってるうちは、確かにカノジョ作るどころじゃないわな。王子様は」
「え?」
「何でもない、っと、噂をすれば。あれ、朝希ちゃんじゃない?」
涼介と一緒に二階の渡り廊下から外を見下ろすと、ちょうど朝希が中庭を横切っていくところだった。
大学の敷地でヴァイオリンケースを抱えているということは、選択レッスンが終わったところなのだろう。
「相変わらず天使みたいな子だな。男って分かってても見惚れちまう」
思わずといった様子で涼介がため息をついた。
傾き始めた夕陽の中を歩く朝希は、ミレーの絵画のように静謐な美しさを放っている。
教会の聖女像を思い出させる顔立ちは成長するにつれ少年らしさが加わり、黙っていると性別を感じさせない天使のようだ。今では上背も伸びて、170を越えるくらい大きくなっていた。
初めて会った日もこんな秋の黄昏時だった、と慧一朗は思い出した。
あれから七年だ。
共に時間を過ごして成長したにも関わらず、未だに朝希を見ると、条件反射のように胸を高鳴らせている自分がいる。
「おーい、朝希ちゃーん!」
ガラッと窓を開けて涼介が叫ぶと、朝希はびっくりしたように顔を上げた。そして涼介と慧一朗の姿を認めると、苦笑して手を振った。涼介は鴻三の門下生ではなかったが、いつも慧一朗と一緒にいるので朝希も顔馴染みなのだ。
「野島先輩、東雲先輩。お疲れ様です」
学内を含め、朝希は人前では決して慧一朗を呼び捨てにしない。慧一朗はその必要はないと言っているが、朝希は「けじめだから」と変えようとはしなかった。
「朝希ちゃん、これから帰り?」
「はい。後はホームルームだけです」
慧一朗も声を張り上げた。
「朝希! 今日はうちのレッスンだろ? 高等部の前で待ってるから、一緒に帰ろう」
「……はい、ありがとうございます。東雲先輩」
微笑んで頭を下げると、朝希は高校の敷地へと帰っていった。
何となくその後ろ姿を見送っていると、涼介が隣で苦笑いしていた。
「飼い主を見つけた大型犬……」
「え?」
「いや、別に」
ごちそうさまです、と訳のわからないことを言うと、約束があるとかで涼介はさっさと帰ってしまった。
朝希のレッスンは、基本的に慧一朗の自宅で行われる。
ほとんどの生徒は学内レッスンを除き、成城にある東雲音楽教室に来るのが常だ。しかし成城の教室は、同じくピアノ教師である慧一朗の伯母たちや身内の生徒も多く出入りしている。
朝希が気を遣うと思ったのだろう。鴻三は初めから朝希を成城の教室には行かせずに、松濤の自宅で教えるようにしていた。
自宅レッスンに来るのは既にプロになった音楽家がほとんどで、大学生でも優秀な生徒しか呼ばれない。他の生徒からやっかみを受けたら可哀相ではないか、と母の貴和子が進言しても、鴻三は聞く耳をもたなかった。朝希には、それだけの将来性も実力もあった。
実際こうして二人で敷地内を歩いていると、すれ違う学生達は皆、芸能人に遭遇したかのように朝希を振り返る。
二人でいるときはともかく、一人のときに絡まれたりしないのか、慧一朗は今更ながら心配になる。
(SNSも、ファンの人からしょっちゅうメッセージを貰ってるみたいだし……)
朝希はネット関係に疎く、これまでSNSの類は一切してこなかった。
だが昨年CDをリリースした際、レコード会社に半ば強制的にアカウントを作らされたのだ。現役高校生の天才ピアニストとして売り出された朝希はそのルックスも相まって「クラシック界に舞い降りた王子様」としてたちまち世間の話題を攫い、まるで人気アイドルのようなフォロワー数を持っている。
フォロワー全員が見られるコメントはまだ健全なものばかりだが、個人的に送られてくるダイレクトメッセージの中には、かなり熱烈なものも含まれているという――最も、SNSにおいては慧一朗も似たようなものだったけれど。
「朝希、変な奴に話しかけられたらすぐ連絡しろよ。DMも、やばそうなのは報告して」
真剣に心配しているのに、朝希ときたら、
「DMなら、慧の方がすごいの貰ってそう」と、相手にしようとしない。
「茶化すなよ。心配してるのに」
慧一朗が眉を顰めると、朝希は苦笑した。
「大丈夫だよ。SNSの管理はレコード会社の人に任せてるし、リアルでもちゃんと対応できてるから」
「リアルでも、って……やっぱり、今までも何かあったのか?」
「だから、慧ほどじゃないよ」
「俺は大人だけど、朝希はまだ高校生だろ」
「僕が大学生になっても、慧は同じことを言いそうだよね。俺は大人だけど、朝希はまだ大学生だろって」
ああ言えばこう言う。少し憎たらしいような気持ちで、慧一朗は朝希を軽く睨んだ。
初めて出会った子どもの頃から、朝希は変わらない。独立心が強く、弱みを晒すことを嫌がる。
慧一朗が国際コンクールで賞を獲ってから、その傾向はさらに強くなった気がする。ぴんと背筋を伸ばして歩く姿は眩しい一方、もどかしくもあった。年下なのだから、もっと甘えてもいいのに。
「あのな、何かあってからじゃ遅いんだぞ。今月は楽友界にも載ったし、当分は気を付けないと。そうだ、レッスンで遅くなる日は俺が家まで送って、」
「やめて」
笑顔を消して、朝希が遮った。
二人は同時に立ち止まって、互いを見た。いつの間にか校門の前まで来ていた。
先に目をそらしたのは、朝希の方だった。
「……本当に、何もないよ」
再び歩き出しながら、静かな声で朝希は言った。
「たまに声をかけられるくらいだよ。それも応援してます、とか好意的なものばかりだ。怖い思いをしたことは一度もない」
嫌な思いとは言わず、怖い思いと表現するのが朝希らしかった。
濡れたように深い色をした目が、ひたりと慧一朗を見つめる。
「美景だって、一人で海外留学してるじゃない。それなのに、僕はそんなに頼りなく見える? この年になっても」
不意に弟の名前を出され、慧一朗は咄嗟に何も言うことができなかった。
朝希は美景より一つ年上だが、二人には共通点が多かった。ピアノの才能があるところ、独立心や向上心が強いところ、綺麗で誇り高いところ。
しかし朝希と美景では、何かが〝違う〟のだ。
何処が違うのかと聞かれたら上手く答えられない。
だがそれは、血の繋がりなどという単純な一言では片付けられない気がした。
「朝希を信頼していない訳じゃない。頼りないとも思ってないよ」
朝希にごまかしは通じない。言葉を選びながら、慧一朗は慎重に答えた。
「でも、俺がいないところで嫌な目にあって欲しくないんだよ。怖い思いも、今はまだしていないかもしれないけれど、これからもして欲しくない」
慧一朗の言葉に、朝希は少しだけ目元を和らげた。
「大丈夫だよ。僕には慧がいる」
まるで空には太陽がある、とでも言うように朝希は言った。
「慧が頑張ってるから、僕も頑張ろうって思えるんだ。もう子どもじゃないし、怖いものは何もない。三年後、一緒にワルシャワに帰りたいから」
慧一朗はドキッとした。
三年後――次回のワルシャワ国際ピアノコンクールが開催されるまで、正確には二年とわずかだ。申し込みに必要な演奏映像の撮影を考慮すると、更に時間は少なくなる。
「だから、慧はピアノのことを考えて。僕のことじゃなくて」
朝希の声には、切実な響きがあった。自分が慧一朗の邪魔をしているのではないかと恐れるような、そんな声。
(朝希は分かってない)
東雲慧一朗の人生を変えたのは、篠原朝希なのに。
朝希と出会って、慧一朗は初めて人のために弾くこと、音楽と一体化する陶酔、歓びを知ったのだ。
十四歳の秋、ワルシャワ音楽院でラルゴを弾いた日から、慧一朗は朝希のためにピアノを弾いているといっても過言ではない。
あの一瞬を追い求めて、朝希とピアノだけを見てきた。だからこそ成果を出すこともできたのだと思っている。
朝希がいるから、慧一朗は羽ばたくことができる。
朝希にはそれが分からないのだ。言ったところで、分かってはもらえないだろう。
それでも朝希が綺麗な顔を不安そうに曇らせているから、慧一朗は笑って頷いた。
「わかった。でも本当に何かあったときは言うんだぞ」
朝希はほっとしたように瞬きすると、いつもの悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「いいよ。じゃあ僕があがっちゃって、弾き始めの音を忘れたりしたときは助けてね。東雲先輩」
「絶対ないだろ、それ」
二人は同時に笑い出し、それでわだかまりはなくなった。
「十一月の発表会、慧は何を弾くの?」
「滝とマズルカ56の2、英ポロ。朝希はマズルカ風ロンドだっけ」
「そう。本当はアンスピ弾きたかったんだけど、先生が今回はロンドにしておけって。滝と英ポロ、いいな。大曲じゃない。慧の演奏はゴージャスだから、ぴったりだね」
羨ましそうに朝希は言うけれど、鴻三の期待値の高さが表れている選曲だと慧一朗は思う。
勿論、朝希が言うように英雄ポロネーズは大曲だ。
技術力に表現力だけではなくスタミナも必要だし、日本人の誰もが知っている旋律を自分の解釈に落とし込み、鮮やかに聞かせることは難しい。
対して、マズルカ風ロンドことロンド・ア・ラ・マズールはそこまで高いテクニックは要求されない。譜面通り弾くだけなら、朝希の実力では役不足と言えるだろう。しかしその分、マズルカへの理解力が強く求められる。
ポーランド人の魂とも言われる民族舞踊・マズルカのリズムと性格を真に理解しなければ、このロンドは弾けないのだ。
実際、十歳までポーランドで暮らしていた朝希のポロネーズやマズルカには、ハッと惹きつけられるものがある。
鴻三は、生徒の長所をより伸ばして強みを作るタイプの教師だ。
千二百人の観客と十七人の審査員が抗うことのできない、絶対的なイエスを勝ち取れる一曲――手が大きく、情感豊かで力強い演奏が持ち味の慧一朗には華やかな大曲を弾かせるし、技巧的な曲が得意な美景ならテンポの早い難曲を練習させる。
ポーランド人の感覚が身についている朝希にマズルカ風ロンドをあてたのも、よりマズルカへの理解を深めさせるためだ。
(恐らく父さんは、朝希にマズルカ賞を獲らせたいんだろう)
ワルシャワ国際ピアノコンクールには、優勝から三位までとは別に副賞がいくつか用意されている。その一つがマズルカ賞だ。
元来マズルカは、ポーランドの地方名である「マゾフシェの」という意味を持つポーランド語である。
ショパンはこの地方に伝わる国民的舞踊をもとに、生涯五十曲以上ものマズルカを生み出した。
独特の構造とアクセントを持つマズルカは、付点リズムの表現が非常に難しいとされており、コンクールでマズルカ賞を受賞した日本人は今まで一人もいない。
だが、朝希なら日本人初のマズルカ賞を獲れるかもしれない。
鴻三だけではなく、慧一朗ですらそう思っている。
こんなことを考えていると知ったら、美景には呆れられそうだ。
昨年の門下発表会で、朝希の演奏を舞台袖から見守っていたときのことだ。隣で見物していた美景が冷たい目で吐き捨てた。
「兄貴にとって、篠原って何? アイドル? 人のことに夢中になってると、いつかそれで足元すくわれるよ」
出会ったばかりの小さな子どもの頃から、美景は朝希に対してライバル心を隠そうとはしなかった。顔をあわせる度に絡んでは、小生意気な口をきいている。もっとも朝希の方は美景が可愛くて仕方ないようで、それが余計に弟の闘争心を燃やす結果になってしまっているのだが。
音楽は優劣ではなく、いかに心を動かされたかだと慧一朗は思っている。
だから嫉妬のしようがないし、対抗しようとも思わなかった。
慧一朗には慧一朗の、朝希には朝希の音楽がある。
(でも、本当にそう思ってるなら、どうして俺は朝希とコンクールに出るんだろう)
将来のためだと頭では分かっている。
賞を獲れば、音楽家としての将来を約束されたと言っても過言ではない。逆にタイトルを持たないピアニストが世間に認知されることは難しい。最近ではピアノを齧ったことのあるユーチューバーが自らのタレント性と実力を武器にメディア進出しているけれど、生活していけるのはほんの一握りだ。将来のために、コンクールでの経歴は必要だった。
だが千二百人の観客と十七人の審査員の心がまったく同じように動くわけがない場所で、優劣をつけられるために出場して、審査員に好まれる演奏をして――果たしてそこに、慧一朗の音楽はあるのだろうか――?
「慧? どうしたの。どこか痛い?」
朝希が心配そうにこちらを見上げていた。慧一朗は慌てて取り繕った。
「あ……いや、ごめん。来週提出の音声学のレポート、まだやってなかったなあって……」
「本当?」
「本当だよ」
嘘だとわかっているのだろう。朝希は少し傷ついたように慧一朗を見つめていたが、それ以上は追及しなかった。
慧一朗はあわてて話題を変えた。
「それより朝希、今月は誕生日だろ。何か欲しいものはある?」
「……体力」
「おい、誕生日プレゼントって言ってるだろ。そうじゃなくて、お金で買えるもので何かないのか」
朝希はあまり物欲がない。政治家の父親からは毎月たっぷり小遣いを貰っているようだったが、楽譜や教科書を買う以外に金を使っている様子はなかったし、持ち物や服装も、お手伝いさんが買ってくるものをそのまま身につけている。
朝希はしばらく考え込んだ後、「ピアス開けたいな」と、唐突に言った。
「ピアス?」
「慧がつけてるの見て、かっこいいなって思ってたから」
慧一朗の両耳には、それぞれ一つずつピアスホールが開いている。大学入学を期に、涼介と皮膚科へ開けに行ったのだ。
慧一朗はジンクスの類を信じる方ではなかったが、その後に入賞したコンクールでつけていたオニキスのピアスは、何となく験担ぎで着けるようにしている。
「ダメかな。千円くらいの、安いのでいいんだけど」
羨ましそうに耳のあたりを見つめられ、慧一朗は赤くなった。
「あ、いや……でも、ご家族に怒られない?」
慧一朗を羨ましがった中学生の美景が勝手にピアスホールを開けてきた日、卒倒せんばかりだった母を思い出して聞くと、朝希は自嘲的に笑った。
「うちは誰も気付かない」
「……ごめん」
「謝らないで」
気にした様子もなく言うと、朝希は「慧が開けてね」と笑った。
「えっ、俺?」
「知らない人にされるのは怖いじゃない。クラスメイトの女子は、簡単に開けられるって言ってたよ」
慧一朗は思わず朝希の耳を見た。桜貝のような色の、小さい耳朶。
バラエティショップに穴を開ける器具が売ってることも、友人同士で開けたりする文化があることも知っていたが、自分が朝希の身体に傷をつけるのは想像がつかなかった。
慧一朗の逡巡を感じ取ったのか、朝希は綺麗な弧を描く眉をひそめた。
「慧がいい。お願い」
自分がやらなければ、朝希はクラスメイトの女子とやらに頼むのだろうか。そう思ったら何だか胸のあたりが嫌な気分になって、気付けば慧一朗は頷いていた。
「……わかった。ちゃんと調べておくよ」
「やった!」
嬉しそうに笑う朝希に、胸の中が優しさで満たされる。
慧一朗は朝希の笑顔が好きだった。
いつもは自分を抑えているように大人びた表情を浮かべている朝希が、慧一朗の前では別人のように澄んだ目をきらきらと悪戯っぽく輝かせ、無邪気に歯を見せて笑う。何年見ても飽きることがなく、愛おしかった。
(穴につけるピアスは何がいいかな)
宝石のことは詳しくないけれど、朝希は色が白いからシルバーや光る石が似合うに違いない。
自分の選んだピアスを着けてピアノを弾く朝希を想像した瞬間、震えにも似た興奮が体の中心を駆け抜けた。
3.
東雲家のレッスン室は、大学の設備に劣らない。
母屋の隣にある離れは大教室なみに広く、二台のスタインウェイが並んでいる。生徒が弾く隣で、鴻三も実演しながら指導をしてくれるのだ。
「待って朝希、もう一度だ。今のところはもう少し小さく弾いて。ショパンとベートーヴェンのピアノは違うんだ。ピアノとピアニシモの間くらい……そう! よくなった、いいね。続けて。そこは装飾を――パラララララヤッパッパーン、パララララヤッパッパン! と、こうだ――」
鴻三の熱心な指導と共に、澄んで格調高い音がレッスン室の天井に響く。
「スタッカート! もう少し明るく、跳ねるように! 自分で思うより軽く、小川の水のきらめきのようなスタッカートだ!」
朝希が弾き直してみせると、鴻三は満足そうに頷いた。
鴻三の指導は分かりやすい。
微に入り細に入り、一見神経質なほど、彼は一音一音の響きと流れにこだわる。
学生時代は母の雪乃と同じ教授に師事していたらしいが、そのおかげだろうか。鴻三の教え方と理論は母と似たところがあり、朝希にとっては最初から馴染みやすかった。
最後まで弾き終えると、鴻三はもう一度コピー譜に注意を書き込んでくれた。
「オーケイ、音量に気をつけなくてはね。さっきのピアノの部分だ。音を小さくしたら弱くなるんじゃないかと心配してるのかもしれないが、君の技術なら十分演出として聞かせられるピアノが弾ける」
「わかりました。ピアニシモに近いピアノですね」
「そうだよ。今にも死にそうな小鳥の声みたいに弱々しい音なんてのは最悪だけど、さっきのは貝の中で生まれたばかりの真珠みたいに美しい音だった」
「はい、気を付けます」
朝希が頷いた瞬間、タイミングを見計らったように控えめなノックの音がした。重い防音扉が開き、鴻三の妻である貴和子夫人が顔を覗かせる。
「あなた、お茶をお持ちしましたわ」
「もうそんな時間か」
時計を見て、鴻三は名残惜しそうに首を振った。
東雲門下では、レッスンが終わる時間になると貴和子がお茶を持って来てくれる。
最初は驚いたが、合図がないと鴻三は時間を忘れて延々とレッスンしてしまい、次の生徒が待ちぼうけを食ってしまうことがままあったらしい。
事実上、教室のマネージャー役を引き受けている貴和子がそういった取り決めを作ったのだという。
「はい、篠原さんもどうぞ。もう遅い時間だし、ハーブティーにしておきましたよ」
「ありがとうございます」
お礼を言うと、貴和子は口元だけで上品に微笑んだ。
いかにも上流婦人らしい貴和子が、朝希は好きだった。
白ユリの花を思わせる美人で、気遣いが行き届いていて、夫の鴻三にも敬意をもって接している。息子の慧一朗と美景に見せる母親らしい表情はあたたかく優しくて、二人が羨ましかった。
「それじゃ、私はこれで――あなた、あまり長く篠原さんをお引き止めしてはいけませんわ。篠原さんは明日も学校があるんですから」
「ああ、分かっているよ」
部屋の隅にある小さなテーブルセットにお茶を準備すると、貴和子は早々に部屋を辞した。
鴻三と差し向かいに腰かけ、まだ熱いお茶を啜る。ガラスポットに丁寧に淹れられた黄金色のハーブティーはほのかに林檎の香りがして、張り詰めていた神経がほっと凪いでいくのを感じる。
「朝希も再来年には大学生か。慧一朗とは入れ違いだな」
「そうですね。高校も大学と同じ敷地内なので、あまり実感はないですけど……寂しくなると思います」
朝希は微笑みながら答えた。
慧一朗は院に進むのだろうが、さすがに院生ともなれば朝希に構っている暇はなくなるだろう。
その方がいい、と朝希は思う。
慧一朗の才能は素晴らしい。ダイナミックで力強く、情感豊かな演奏は生命力に満ちていて、聴衆を惹きつけずにはおかない。優しく素直な人柄だからこそ、あのように瑞々しくスケール感のあるピアノが弾けるのだろう。加えて、あの華やかさだ。本人は自覚していないようだが、長身と彫刻みたいな顔立ちはピアニストというよりは海外の俳優のようで、ステージに現れただけで人の心を奪ってしまう。
慧一朗みたいなのを、神様に愛された男と言うのだろう。
初めて会った日、頬を真っ赤にしながら朝希のピアノを褒めてくれて、何の衒いもなくコートを貸してくれた慧一朗。あの日の練習室はとても寒かったのに。朝希と母親のために涙を流してくれて、ラルゴを弾いてくれた。
朝希は、あんな風に他人に優しくされたのは初めてだった。
(だからこそ、僕が慧の邪魔をする訳にはいかない)
子どもの頃は、何も知らずに慧一朗の優しさに甘えていた。だが、慧一朗は年々実力をつけている。世界に出て、ピアニストになるべき人だ。朝希にかまけていれば、そのぶんピアノと向き合う時間が減ってしまう。
それなのに慧一朗は「朝希と一緒にいる方が、俺は頑張れるから」などと笑って、朝希の世話を焼くのをやめようとしない。本当は大学だって、彼の実力なら海外留学だってできたのに。
優しくて、責任感の強い男だ。おおかた鴻三と朝希を引き合わせたのは自分だから、朝希を見守る義務があるとでも思っているに違いない。
だが三年後には、次のワルシャワ国際ピアノコンクールが開かれる。
前回出場しなかった慧一朗も出場するだろうし、そうすれば二人は初めて同じコンクールで戦うことになるのだ。
手を繋いで一位の座を狙うことはできない。
「慧一朗はうちの大学に上がったけど、朝希は留学してもいいと僕は思ってるよ」
お茶を熱そうに啜りながら、鴻三が言った。
「この前、ワルシャワ音楽院のヴィーヘルト教授から連絡がきたんだ。君のCDを聴いたらしくてね。大学生になってポーランドで勉強する気があるなら、是非うちで預かりたいと」
「……ありがたいお話ですが、今の僕で通用するかどうか」
朝希は言葉を濁した。
留学の誘いは初めてではない。先月行われた夏の公開レッスンでも、視察に訪れていたベルリン音楽大学の教授から誘いを受けた。だが、父親に打ち明けることができず断ったのだ。
鴻三は心外そうに眉をひそめた。
「何を弱気なことを言ってるんだ。君は僕の一番の優等生だよ。朝希なら、特待生枠で合格するさ。CDの印税で、生活費はどうにかなるだろう? お父様の説得なら、僕も手伝うから」
「先生……」
朝希は泣きそうになった。
鴻三の方こそ、本当の父親のようだ。言葉にしない朝希の弱味をちゃんと理解して、親身になって助けようとしてくれる。留学を断っているのは、鴻三以外の教師につく不安もあったからだ。こんなに自分のことを分かってくれる教師から離れて、別の教師のもとでやっていけるとは思えない。
鴻三は優しく笑って、朝希の頭をポンポンと撫でた。
「あと三年ある。もし不安なら、一年間うちの大学で勉強してからでもいいさ。でもワルコンに出るなら、留学は経験しておいた方がいいと僕は思うね」
「慧は、いいんですか?」
ふと疑問に思って、朝希は聞いてみた。
留学の件もだが、どうも鴻三は次男の美景にするほど慧一朗を評価していないような気がする。
鴻三は苦笑した。
「あの子は、君や美景とはまた違うタイプなんだ」
「違うタイプ?」
「自分の力で目覚めて、望まないといけない。そうじゃないと意味がないんだ。それがいつ来るかは分からないが……そのとき初めて、あの子の真価は発揮されると僕は思っている」
まるで今の活躍は、慧一朗の真価とは思っていないような口調だった。
「僕はずっと、その日を待っている――朝希。君といれば、慧一朗は変わるかもしれない。あの子自身、頭のどこかでそれを分かっているはずだ」
彫りの深い目を優しく細めた鴻三の表情が慧一朗そっくりで、朝希は思わず持っていたカップを強く握り締めた。
「父さん、いつまで朝希を引き留めておくつもり?」
ノックの音がして、今度は呆れ顔の慧一朗が顔を覗かせた。
「朝希。もう遅いから、今日は俺の部屋に泊まって――……朝希? どうしたんだ、泣きそうな顔して」
「気のせいだよ」
焦ったように駆け寄ってくる慧一朗を制し、朝希は精一杯の笑顔を作って、立ち上がった。
「先生、長居してすみません。帰ります」
「待って、駅まで送る。父さん、車のキー貸して」
「ああ」
「駅はすぐそこなんだし、大丈夫だよ。先生、また明日よろしくお願いします。じゃあね、慧」
なおも食い下がろうとする慧一朗を半ば強引に振り切って、朝希は東雲家をあとにした。
街灯のともる高級住宅街を走って、駅を目指す。
これ以上あの場にいたら、ひどい醜態を晒していたに違いない。
慧一朗にだけは気付かれたくなかった。
自分が、みっともなく嫉妬をしていることなんて。
神谷町にあるレジデンスは、二十二時を回っても煌々とシャンデリアの光がきらめいている。
豊かな緑に囲まれた瀟洒な建物だが、商業施設とラグジュアリーホテルが併設されているせいか人通りも多く、何年経っても家に帰ってきたという気がしない。
「朝希?」
コンシェルジュに頭を下げ、エレベーターにカードキーを翳した瞬間、声をかけられる。
「……お父さん」
振り向くと、父の三島克顕が若い秘書の男とボディガードを連れて立っていた。
「久しぶりだな――ああ、今日はここでいい。また明日、よろしく頼む」
ボディーガードに告げながら、克顕は朝希の肩を抱くようにしてエレベーターに乗り込んだ。秘書も無言で付き従う。
「こんなに遅い時間までレッスンか」
「はい。発表会もありますので」
「発表会ね。ご大層だな。だが、こんな時間まで高校生が歩いていたら危ないだろう。遅くなるときは車を回すから連絡しなさい。細川」
「はい」
細川と呼ばれた秘書は、朝希を見下ろしながら無表情に頷いた。
(相変わらず、笑わない人だな)
父の秘書である細川綜馬は、義母である舞衣の甥だ。初めて会ったのは、彼が新卒として挨拶に来たときだから、かれこれ五年近い付き合いになるだろうか。
だが朝希は細川が笑うところを一度も見たことがない。笑顔どころか、感情を表に出す瞬間すら見たことがない。いつも影のように克顕の側に控え、どんな指示にも顔色一つ変えずに従う長身の細川は、中国映画に出てくる殺し屋のようだ。
しかし父に言わせれば細川は相当な切れ者らしく、やたらと彼を信用して、常に側に置いている。
克顕だけではない。義母とその子ども達も彼のことは大層信頼していて、何かにつけて「綜馬くん、綜馬くん」と頼りにしている。正直言って、朝希よりも余程この家族に馴染んでいると思う。
だが朝希は、初対面のときから細川が苦手だった。義母の血縁だからということもあるが、慇懃無礼な態度や、時折こちらを観察するようにじっと見つめてくる暗い視線にぶつかると、訳もなく不安になった。
「結構です。東雲先生の家も、この家も駅からすぐですから」
細川はちらりと朝希を一瞥しただけだったが、父は「ダメだ、ダメだ」と、顔の前で手を振った。
「先週も、河北議員の実家に火炎瓶が投げ込まれる事件があった。ニュースでは怨恨だ何だと、あることないこと取り上げられているが、ああいう報道は厄介だ。こちらに後ろ暗いことがなくとも、まるで恨まれるようなことをした政治家のように印象操作されてしまう」
克顕は苦々しげに吐き捨てた。
「俺の周りにも、最近妙な奴らがうろついてるからな。息子に何かしようと考える奴もいるかもしれない。特に、おまえは目立つからな。何か起きてからでは遅いんだ」
息子を守ることも仕事のうち、ということだ。
朝希はギュッと唇を噛んで、顔を背けた。
ガラス張りのエレベーターの向こうでは、東京タワーやレインボーブリッジの夜景が、砕いた色ガラスのように輝いている。ポーランドの静謐な夜とはまるで違う、宝石箱のように眩しい街。
「大丈夫だ。朝希もお母さんみたいに、将来はピアノを弾いて生活したいんだろう? ちゃんとレッスンに打ち込めるように、お父さん何でもしてやるからな」
朝希が怯えていると思ったのだろう。大きな手が優しく背中を叩いた。
きっと、良い父親なのだろう。
政治家という仕事柄なかなか顔を合わせることはなかったが、会えばこちらを気遣う言葉をかけてくれるし、誕生日にはプレゼントを届けてくれる。音大附属高校の高い学費や、コンクールにかかる費用も惜しまず出してくれるし、無闇に恩恵を受けるわけにはいかないと言って、鴻三にレッスン代の支払いも欠かさない。
だが、興味はないのだ。その証拠に、克顕は一度も朝希に何を弾いているのかと聞いたことがない。発表会に来てくれたこともない。ピアノだって、電子ピアノのままだ。ちゃんとしたレッスンのためにはグランドピアノでなくてもいい、アップライトでも普通のピアノが必要だなんて、この人は考えもしない。
「……わかりました。遅くなりそうなときは、細川さんに連絡するようにします」
「ああ。そうしなさい」
克顕が満足そうに頷いた瞬間、チンと音をたててエレベーターが最上階に到着した。
扉が左右に開くと、そこは既に住居の一部だ。広い吹き抜けの玄関には、まるでホテルのようなシャンデリアが吊り下げられている。
「おかえりなさい、あなた! 綜馬くんも、遅くまでお疲れ様。ご飯できてますよ」
コンシェルジュから連絡を受けていたのだろう。克顕の妻であり、朝希の義母でもある舞衣が笑顔で待ちかまえていた。夜も遅いというのに、上質な紺色のフレアワンピースに身を包み、髪を巻いて完璧に化粧を施している。
三島議員の妻であり、廣岡興産の令嬢でもある彼女は、経歴の華やかさと可憐な容貌からメディアに出ることも多い。最近は化粧品のタイアップの仕事もしているらしく、プライベートでもヘアメイクとスタイリストを付けている。今年で四十歳になるはずだが、少しも年齢を感じさせない。
「パパだっ、おかえりなさい! 貴志くん、パパ帰ってきたよ!」
「パパ、久しぶりじゃん! 会いたかったよお」
エレベーターの音を聞きつけ、子供部屋から少女と少年が飛び出してくる。
中学三年生の芙由華と、中学二年生の貴志だ。二人はそれぞれ甘えるように左右から父親の腕を引っ張った。克顕と並んでいた朝希は自然と押し出される格好になるが、義妹と義弟は朝希など目に入らないかのように、夢中で父親に話しかけている。黙って脇によけようとすると、背後にいた細川が朝希を支えるように背中に触れた。
「ッ、大丈夫です」
咄嗟に振り払うと、細川は少し眉を上げたものの、何も言わなかった。
「パパ、ご飯食べるんでしょう? 芙由華、お茶淹れてあげる!」
「おいおい、受験勉強はいいのか?」
「いいの、パパに教えて欲しいところあるんだもん!」
「アッお姉ちゃんずるい! 俺も!」
「わかった、わかった。順番な」
父は子どもたちに引きずられるようにしてリビングに連れていかれ、朝希と細川は玄関に取り残される。
「――あら、あんたも一緒だったのね」
まるで今初めて気付いたとでも言うように、舞衣がストロベリーピンクのグロスが光る唇を歪めた。
朝希は黙って頭を下げ、舞衣の横を通り過ぎようとした。が、手首を強く掴まれてその場に引き止められる。桜色に磨き込まれた長い爪がギリギリと皮膚に食い込んできて、朝希は思わず顔をしかめた。
「ねえ、夕飯がまだでしょう? どうなの、たまにはお父さんと一緒に食べたら? あの人もそうして欲しいみたいだし」
顔を覗き込まれ、舞衣の愛用しているシャネルの香水がぷんと鼻をつく。嫌悪感を表に出さないよう気を付けながら、朝希は首を横に振った。
「結構です。先生のところで頂いてきたので」
嘘だった。だが、義母に監視されながら父や弟妹たちと食卓を囲むのはごめんだ。
「嫌だ、またなの?」
艶のある巻き毛を揺らしながら、舞衣は大げさに声を高くした。
「うちでちゃんと用意してるって言ってるのに、困った子ねえ。いくら苗字が違うと言っても、貴方が三島議員の息子だって、皆さん知ってるでしょうに。外で何か言われたらどうするの? 恥ずかしいわ。綜馬くん、そう思わない?」
同意を求めるように甥を振り返ったが、細川が何も言わないのを見ると、舞衣は肩をすくめて朝希に向き直った。
「野良猫みたいな真似をして、浅ましい子。おまけにこんな時間までフラフラ出歩いて……まさかお父さんが帰って来るのを待って、何かおねだりでもしてたんじゃないでしょうね? よしてね、ただでさえレッスン代とかで毎月すごくお金がかかってるんだから」
明らかに敵意のこもった目を細め、舞衣は朝希を小突いた。視界の端で、細川が驚いたように目を瞠るのが見えた。
「ピアノの特待生か何だか知らないけど、あなたはただの学生なんですからね。芙由華ちゃんは受験生なんだし、悪い影響を与えないように、家では静かにしててよね」
「……すみません。気を付けます」
頭を下げ、逃げるように自室へ向かう。
後ろから「いつまで経っても反抗的で困ってるのよ……、」と細川にこぼす声が追いかけてきたが、どうでもよかった。
扉をぴったり閉めてカギをかけると、朝希はずるずると床に座り込んだ。
真っ暗な部屋の中で、膝を抱えて顔を埋める。
(困った子、野良猫、ただの学生……全部、あの人の言う通りだ)
初めてこの家に来た日から、自分は厄介者でしかない。
父親に引き取られることが決まったときも、克顕の実家は大反対したと聞いている。
――せっかくピアニストの女なんかと別れて廣岡家のお嬢さんと再婚できたのに、とんだお荷物が転がり込んできたものだ。
克顕の母親、つまりは実の祖母に面と向かって吐き捨てられたこともある。
だが雪乃の両親は既に亡くなっており、克顕しか引き取る者がいなかった。
三島の苗字を名乗らせないこと――朝希を迎えるにあたって、三島と舞衣の実家が出した条件の一つだ。おかげで朝希は今も、母親の姓を名乗っている。悲しいとは思わない。いつになっても雪乃は尊敬すべき、愛する母親だ。
だが、ときどき無性に寂しくなる。東雲家での出来事を思い出し、朝希はぎゅっと拳を握りしめた。
(さっきは悪かったな。いきなり帰ったりして。慧も、先生も変に思ってないと良いんだけど)
慧一朗のことを話す鴻三を見た瞬間、あらためて自分の孤独を思い知らされた気がした。
海のように深く優しい心を持ち、正義感が強くて、オペラに出てくる王子様みたいに綺麗な慧一朗。
彼は大切に育てられ、貴重な花の開花を待つように見守られている。
それに引き換え、自分はどうだろう。
ピアノを弾かなければ誰にも顧みられない、空虚な人間だ。
そもそも慧一朗も鴻三も、朝希がピアノを弾くから、篠原雪乃の息子だから救い上げてくれたに過ぎないのに。
お母さんが生きていたら――縋るように、夢想せずにはいられない。
――あなたこそ、私の希望だわ。
事故でピアノが弾けなくなって離婚した後、母はよくそう言って朝希を抱きしめた。
――朝希なら、ワルコン優勝も、カーネギーホールでのリサイタルだって夢じゃない。私の子だもの。
――約束して。大きくなったらワルコンで優勝して、一流のピアニストになるって。お母さんより凄いピアニストになって、お母さんを笑った人たちを見返してね。
当時の朝希は、まだ本当に幼い子どもだったけれど、大好きな母親に笑って欲しくて、意味も分からずに「うん、大人になったらすごいピアニストになるよ」と、頷いた。
母は朝希にピアノだけではなく、ピアニストになるために必要なさまざまなことを教えてくれた。
ソルフェージュ、楽典、聴音、ポーランド語に英語……ポーランドの小学校にはほとんど通わなかった。ピアノに関しては特に厳しかったが、朝希が上手く弾けると、母はそれは嬉しそうに褒めてくれた。
ガラス人形のように儚く、綺麗で優しい母の笑顔が大好きだった。
(会いたい、会いたいよ……お母さん)
怒られてもいい、失望されたって構わない。
自分だけを見てくれる絶対的な存在が欲しかった。
誰よりも自分を愛して、期待してくれる人が欲しかった。進むべき道へと引っ張ってくれる、母の手が恋しかった。
だが母は死んでしまった。
約束を果たすべき相手もいないのに、多くの人に迷惑をかけてまで好きなことを押し通すだけの価値が、果たして自分の中にあるのだろうか。
不意に携帯電話の鳴る音がして、朝希はビクッと顔を上げた。
こんな時間にかけてくる相手など、一人しかいない。暗闇の中、急いで携帯電話を引っ張り出した。
「もしもし、慧?」
「朝希? よかった。メッセージ送っても返事がなかったから心配で」
携帯を耳に当てた途端、慧一朗の声が光の雨みたいに響いてくる。
「急に帰るから心配したんだぞ。家にはもう着いたのか?」
叱責するような口調だが、低い声には優しさが滲み出ていた。
朝希は目を閉じたまま「うん」とだけ答える。どんな言葉を発しても上品さを失わない、それでいて艶のある慧一朗の声が、朝希は大好きだった。
「今、電話してて平気?」
「平気だよ。さっきはごめんね。お父さんと夕飯食べる約束してたのに忘れてて、焦っちゃった」
「大丈夫だったのか」
「うん。ちゃんと間に合ったから」
平気で嘘をつく自分にうんざりしながら、声だけは明るく笑ってみせる。でも、慧一朗に弱味は見せたくない。彼の前でだけは、対等な友人でありたかった。
それなのに慧一朗は、まるで今目のまえで朝希を見ているかのように、心配そうな声で言う。
「三島のお義母さんとも、何もなかった?」
「……大丈夫」
「でも、泣きそうだ」
ほとんど確信しているみたいな声に、胸が詰まって、本当に泣き出したくなる。
「気のせいだよ」
ここに慧一朗がいなくてよかった。今一緒にいたら、きっと耐え切れず彼に泣きついていただろう。そんな自分は絶対許せない。
そのときタイミングよくノックの音がして、朝希はほっとした。恐らく父が様子を見に来たのだろう。義母や弟妹はほとんどこの部屋に来ない。
「ごめん、お父さんが呼んでるみたいだから切るね。おやすみ慧、電話ありがとう!」
急いで電話を切り、平静を装ってドアを開ける。しかし、廊下にいたのは父ではなかった。
「細川さん?」
所在なげに立っている秘書の姿に、朝希は目を丸くした。
暗いままの部屋を見て、細川は眉をひそめた。
「もうお休みでしたか?」
「いえ、起きていました」
急いで電灯のスイッチをつける。
「父の用事ですか?」
「そういう訳ではないのですが」
歯切れ悪く答えると、細川は少し逡巡するように俯いた。
本当に何を考えているのか分からない男だ。
怪訝に思いながら、それでも朝希が待っていると、やがて細川は意を決したように顔を上げ、小さなスーパーの袋を差し出した。レジデンスの施設に入っている高級スーパーのものだ。
「おにぎりです」
にこりともせず、細川が言った。
「三島先生の夜食に買っておいたのですが、召し上がられなかったので。高校生なんですから、このくらい食べられますよね」
質問というよりも、決めつけるような口調だった。こちらを見下ろす視線の強さに圧倒され、思わず受け取ってしまう。そっと中を見ると、中にはビニールに包まれたおにぎりが二つ入っていた。
「梅と、シャケ?」
「お嫌いでしたか」
「いいえ、ありがとうございます。……嬉しいな、好きなんです。梅のおにぎり」
朝希が微笑むと、細川は目を伏せ、そうですかと小さく呟いた。
「朝希さん、余計なお世話かもしれませんが」
「はい?」
「高校を卒業したら、この家を出られた方が良い」
切れ長の目を冷たく光らせながら、細川は朝希の部屋を見渡した。視線の先には、父に買い与えられた古い電子ピアノがあった。
頭から冷水を浴びせられたみたいに、胸の内側が冷えていく。そうだ、この男は舞衣の甥だった。
「……義母に言われたんですか。それとも父の、」
「いえ、私の考えです」
落ち着き払った声で細川は答えた。
「貴方がピアノを弾くことを、奥様は快く思っていない。三島先生はますます忙しくなって、貴方に構う余裕など無くなる。芙由華さんも貴志さんも、やがては母親と同じように振る舞うようになるでしょう。苦労するのは朝希さんだ」
朝希は唇を震わせた。細川の言うことは正論だ。だが、こうもあからさまに言われるとは思わなかった。
「それに、あのピアノではろくな練習もできないのでは?」
細川は静かに朝希を見下ろしながら、核心を突いた。
朝希は少し驚いた。この家でピアノのことを指摘してきたのは、彼が初めてだった。隙あらば朝希の邪魔をしようとする義母ですら、電子ピアノと普通のピアノの違いをよく分かっていない。
「……細川さん」
朝希が口を開きかけた瞬間、リビングの方から「綜馬くーん?」と細川を探す舞衣の声が聞こえてくる。細川は唇を引き結ぶと、朝希に小さく目礼した。
「では、私はこれで」
身を翻して去っていく細川を、朝希は戸惑いながら見送った。
さっきまで悲しかったのに、どこか目が覚めたような不思議な気持ちだった。
ドアを閉め、再び床に座り込む。手に持たされたままだったビニール袋の存在に気付き、おにぎりを取り出す。セロハンを剥いて齧りつくと、さわやかな梅の酸味とご飯の甘味がいっぱいに口の中に広がった。こんなときでも、お腹は空くのだ。
(この家を、出ていく)
考えたことがない訳ではない。
義母に辛くあたられる度に、自分に無関心な父を見る度に、何度も家出したいと考えたものだ。だが、そんなことをすれば慧一朗が心配するのは目に見えている。これ以上迷惑をかける訳にはいかないと、その度に思いとどまってきたのだ。しかし冷静になって考えてみれば、細川の言う通りだ。三島の家で朝希は異分子で、それは永遠に変えることはできない。
「……頑張らないと」
ぽつりと独り言が漏れた。ピアノを頑張れば、また仕事を貰えるかもしれない。自分の力でお金を稼いで、そうしたら家を出ることも夢ではなくなる。
ウエットティッシュで指先を拭うと、朝希は立ち上がって古い電子ピアノの電源を入れた。有線イヤホンを繋ぎ、耳に挿す。
グランドで弾いたときの感覚が狂うからと鴻三には止められているが、運指を覚えるためにも、暗譜にも電子ピアノは役に立つ。
(今、できることをしよう)
この家を出れば、誰に憚ることなく自由にピアノが弾ける。
母との約束を果たせるほどのピアニストになれれば、慧一朗のお荷物ではなくなる。
嘘をつかずに、心から笑って肩を並べられる日がくるかもしれない。
息を吸って、朝希は指先からマズルカの世界へ飛び込んでいった。




