第一章 ポーランドの黄金の十月
1.
十月七日、日本時間午後八時。
第十六回ワルシャワ国際ピアノコンクールのホームページに一次予選の結果が公開されるや否や、東雲鴻三は快哉を叫んだ。
「神宮寺だ、神宮寺エリカが通った! 貴和子、神宮寺が一次を突破したぞ」
「まあ、神宮寺さんが? おめでとうございます」
さも嬉しそうな表情を装いながら、貴和子は内心がっかりした。
神宮寺エリカは、鴻三の生徒の一人だ。
アメリカで育った彼女は十二歳でカーネギーホールでのデビューを果たし、鴻三が教授を務める桐原音楽大学に特待生として在籍している。つやつやと長い黒髪と切れ長の瞳を持つエリカはいつも自信たっぷりで、教授夫人である貴和子にも全く物怖じすることがない。
昨年の春、こんなことがあった。
門下生発表会での出来事だ。貴和子は鴻三の生徒達のために、昼の弁当を配ってやっていた。世田谷の料亭にわざわざ出向いて注文した高級割烹の弁当である。ほとんどの生徒達は感激したように受け取り、教授夫人に対して丁重に礼を述べたものだ。
しかしエリカは弁当を差し出した貴和子を一瞥すると、迷惑そうに言った。
「結構です。本番前はトマトジュースしか頂かないので」
デコルテを剥き出しにした真っ赤なドレスを着て、芸術家の機微など一般人には分からないだろうとばかりに目を細めていたエリカは、貴和子の目に大層ふてぶてしく映った。
その日以来、貴和子は密かにエリカを敵視するようになった。
(あの生意気な娘が一次を通ったなんて)
妻の心の内など知るよしもなく、鴻三は早速ポーランドのエリカに電話をかけている。
「神宮寺か? ああ、おめでとう! よくやったね。君なら通ると思ってたけど、僕も誇らしいよ」
まるで少年のように興奮している鴻三に、貴和子は劣等感にも似た寂しさを覚えた。
大学病院院長の末娘として生まれ、何不自由なく育てられてきた。幼稚園から一貫で通ってきた私立女子大学ではミス・キャンパスに選ばれ、読者モデルとして雑誌に載った経験もある。卒業後、鴻三と結婚するまでは外資系の証券会社で受付嬢をしていた。どこに出ても申し分のない経歴だと自分でも思う。それなのに、ただ音大を出ていないというだけで、時折どうしようもない程のコンプレックスを感じてしまうのは何故だろう。
貴和子とて音楽を知らない訳ではない。習い事の一環として高校までピアノ教室に通わされていたし、それがきっかけで鴻三と出会うこともできた。だが、その道を志したことがない自分は、永久にエリカのプライドや鴻三の喜びを理解することはない。それがやるせなかった。
電話を切ると、鴻三はせわしなくスケジュール帳を捲り始めた。
「神宮寺の二次予選は来週になるだろう。授業は休講にしてもらって、いや、まずは飛行機だな。そうだ。ハインツ教授にもご連絡しないと」
「まさか、現地に行かれるんですか」
貴和子はぎょっとした。
ワルシャワ国際ピアノコンクールは五年に一度、文字通りポーランド・ワルシャワで開催される。かの地が生んだ誇り、フレデリック・ショパンにちなんで、課題曲はショパンのみ。参加資格は十六歳から三十歳までに限られており、更には著名な教授や音楽家からの推薦状、学位証明書が必要となる。
もともと狭き門にも関わらず、世界中の精鋭たちがこぞって応募する映像・書類審査を経て、予備予選を通過するコンテスタントは百人にも満たない。そこから一次、二次、三次と篩にかけられ、ファイナルまで進むコンテスタントはたった十人だ。いくらエリカが実力者とはいえ、ファイナルまで行くとは到底思えない。
「私は反対ですわ。ポーランドなんて。第一あなたが行かなくても、ハインツ教授が面倒を見てくださっているのでしょう? たかが一次予選を通ったくらいで応援なんて、大げさじゃございません」
自分の子でもないのに──。
言葉にこそ出さなかったものの、夫には伝わったらしい。
鴻三は苦笑しながら貴和子の髪を撫でた。
「ちっとも大げさじゃないさ。あのワルコンだぞ」
かつては自らもプロを志し、ワルシャワ国際ピアノコンクールに挑戦した経歴を持つ鴻三だった。結果は惜しくも二次敗退だったものの、かけがえのない経験だったと貴和子は耳にたこが出来るほど聞かされた。
実際、鴻三のワルシャワ国際ピアノコンクールに賭ける思いには、並々ならぬものがあった。ショパンばかりを弾き、優秀な教え子を次々とコンクールに送り込む姿は、もはや執着と言って良いほどだ。
いつか必ず教え子をワルコンで入賞させたい──それが夫の口癖だった。だからこそ貴和子は、夫の夢を手助けするのが生意気なエリカであって欲しくなかった。
「神宮寺なら二次どころか三次、ファイナルに行ける可能性だってある。いや、篠原雪乃のように二位だって夢じゃない」
鴻三の口から出たその名前に、貴和子は密かに唇を噛んだ。
篠原雪乃。
十八年前のワルシャワ国際ピアノコンクールで、日本人最高位の二位を獲得した女──かつては鴻三と同じ教授に学び、共にコンクールへ挑戦した女の名だ。
たった一度だけ、貴和子は彼女を見たことがある。
まだ高校生だった頃、鴻三が出る門下生発表会を見にゆくと雪乃がいた。真珠色のドレスがよく似合う、真白い肌と濡れたように大きな黒い目が蠱惑的な、大層美しい少女だった。
口にこそ出さないが、どうも鴻三は雪乃に憧れているふしがあった。ワルシャワ国際ピアノコンクールの話題をする度に、まるで伝説の女神でも崇めるように彼女の名を語る。たかがピアノが弾けるだけ、ちょっと綺麗なだけの女を。
(嫌いだわ。篠原雪乃も、神宮寺エリカも……)
一つだけ痛快なのは、コンクールで二位を獲得した後、雪乃が大した活躍もしないまま政治家の卵と結婚して引退したことだ。さらに二年後には結婚生活も破綻、離婚したとニュースで報道されたときは、密かに胸がすっとしたものだ。
雪乃と別れた夫は早々に富豪の令嬢と再婚して、最近では一家でテレビに出ていることも多い。夫婦の明暗ははっきり別れ、一発屋の前妻のことなど日本中が忘れていた。
しかし鴻三は、そんなこと気にもしていないようだった。
「引退したのは惜しかったよ。今は離婚して息子さんとワルシャワで暮らしてるそうだが、彼女はもっと弾くべきだった」
「さあ、人には人の道がありますから……コンクールで二位を獲得されて、満足されたんじゃありません?」
鴻三は懐かしげに微笑んだ。
「今も思い出すよ。ファイナルで雪乃が弾いたピアノ協奏曲二番を。本当に素晴らしかった。神宮寺は一番を選んだけど、僕は二番の方が好きなんだ。静かな情熱と愛、希望に満ちていて、気持ちが慰められる」
「まあ、血筋ですわね。慧一朗も二番の方が好きだって言ってましたのよ」
どこか張り合うような気持ちで貴和子は話題をすり替えた。
今年中学二年生になった長男の慧一朗は、貴和子の宝だ。
彫りの深い顔立ちは夫に似て上品で美しく、性格も穏やかで優しい。普通ならば反抗期になってもおかしくない年頃だが、両親を邪険に扱ったりすることもなく、小学生の弟・美景の面倒もよく見てくれる。おまけにピアノの才にも恵まれ、昨年は全日本学生音楽コンクールで二位と聴衆賞も獲得した。将来はきっと素晴らしいピアニストになるだろう。
鴻三に言わせれば「慧一朗にはハングリー精神が欠けている」らしかったが、才能があるならそんな泥臭いものは必要ないはずだと貴和子は思う。人を蹴落とさなくても、自然と選ばれてゆくのが天才ではないのか。
どうして夫は、我が子より他所の女に力を入れるのか。悔しくて、やるせなかった。
「ポーランドへ行くなら、あの子も連れて行ってくださいな」
慧一朗の方が、エリカよりずっと格上のピアニストになれる筈だ。いつかワルシャワ国際ピアノコンクールで賞を獲って、必ず神宮寺エリカを、篠原雪乃を越えるだろう。そのとき自分は、ようやく抱え続けた鬱屈から解放されるような気がした。
鴻三は少し戸惑ったように眉を上げた。
「慧を? だが、学校はどうするんだ。神宮寺がファイナルまで進んだ場合、二週間は休むことになるぞ。それに来週は修学旅行だろう。楽しみにしていたんじゃないか?」
「慧ちゃんは頭の良い子ですから、少しくらい学校や行事を休んでも構いませんわ。あの子もピアニストになるなら、海外を見ることも必要でしょう?」
「まあ、それもそうだな」
思案するように鴻三は頷いた。
「今回の審査員にはイリーナ・クリフチェンコが入っている。彼女とは顔見知りだし、運が良ければ慧のレッスンも見てもらえるかもしれない」
「素敵!」
貴和子はにっこりした。
イリーナ・クリフチェンコは、第十回目のワルシャワ国際コンクールで二位になったロシア人のピアニストだ。これまで何人ものコンテスタントをファイナルに送り出している。夫がエリカのためにポーランドへ行くのは気に食わないが、息子の将来にプラスになるならば、その価値はある。
「そうと決まったら早速、慧一朗に話してきますわ。まだ地下で練習している筈ですから」
地下の練習室は、鴻三の両親が金を出して作らせたものだ。
曾祖母の代から音楽教室を経営しているという東雲の家は、当然のように鴻三と貴和子が建てる家にも口を出した。いわく、夜間でも演奏可能な防音設備の整った練習室を最低二室、一つはコンサートピアノが入る広さの部屋を用意すること。住居空間と練習室は、可能な限り隔離されていること。もちろんピアノのメーカーも厳しく指定された。
結果、地下に一室、小さな離れが一軒と二つの練習室が作られた。
ピアノ教室自体は成城にある鴻三の実家で事足りるし、鴻三も生徒のレッスンは実家で行っている。自宅に二つもピアノ用の部屋を作る必要なぞあるのかと貴和子は内心驚いたが、実際に住んでみると、確かにそれだけの設備が必要であることが分かった。
鴻三本人の練習に、コンクールで勝ち進んだ地方の生徒の特訓、知り合いの教授に頼まれた生徒のレッスン、慧一朗が生まれてからは慧一朗のレッスン。二つの練習室からはいつもピアノの音色が流れていた。
ピアノという楽器は日々の研鑽がものを言う。音大生やプロともなれば、一日に六時間でも八時間でも平気で練習しているのが普通だ。父の姿に倣ってだろう。慧一朗も学校の宿題が終わると、毎晩二十一時過ぎまで一生懸命ピアノに向かっていた。
「慧ちゃん、お疲れ様」
分厚い防音扉を開けると、長男はピアノを弾く手を休めて母を振り返った。
「お母さん。どうしたの」
「ふふ、いいニュース。あのね、神宮寺さんがワルコンの一次を通ったんですって」
「先輩が? わあ、すごいな!」
にっこりと微笑む慧一朗は、我が子ながら本当に美しい。貴和子はそっと感嘆のため息を吐いた。
鴻三によく似た貴族的な顔立ちに、薄いヘーゼルの瞳。品よく結ばれた唇のかたちは貴和子ゆずりだ。黙っていると冷たく見られがちな容貌を、人好きのする笑顔が相殺していた。
今はまだ線の細い少年といった雰囲気だが、大人になってエリカと同い年になる頃には、さぞかし煌びやかな美青年に成長するだろう。
「それでね、お父さんがワルシャワに応援に行かれるんだけど、慧ちゃんも一緒に連れて行って下さるんですって」
「えっ、俺も?」
「そうよ。コンクールを生で見られるし、イリーナ教授のレッスンも受けられるわよ」
サマースクールや演奏会のためにヨーロッパに行ったことはあるものの、ワルシャワ国際ピアノコンクールは初めてだ。さぞ喜ぶだろうと思ったが、予想に反して長男は顔を曇らせた。
「でも、学校は? 来週は修学旅行なのに。俺は班長なんだ。自由時間は金閣寺に行く約束もしてるんだよ」
「お休みしなさい」
間髪入れずに貴和子は告げた。
「いずれ慧ちゃんは、神宮寺さんよりすごいピアニストになるんだもの。お友達も分かってくれるわ」
わきまえるべきだ、と本当は言いたいくらいだった。
鴻三が教授をつとめる音大の附属中学には、慧一朗と同じようにピアノが得意な少年少女が大勢いる。だが才能といい環境といい、慧一朗に並ぶ子はいないだろう。つまらない子どもたちと付き合っている暇はないのだ。
「旅行は何歳になっても行けるけど、コンクールは五年に一度よ。教授のレッスンだって受けられる。班長のことは気にしないで、お母さんから先生によくお話しておくから」
慧一朗は顔をこわばらせたまま、譜面台の楽譜を見つめている。父である鴻三の注意書きがたくさん書き込まれた譜面。
この音楽が、慧一朗と貴和子を高みに連れてゆくのだ。貴和子は我知らず微笑みを浮かべていた。
「来年は付属高校の受験だってあるでしょう? こんな機会、二度とないのよ。それって授業や修学旅行なんかより、ずうっと大事じゃないかしら」
あやすように肩に手を置くと、慧一朗はようやく頷いた。
「……そうだね、お母さん」
「さすが慧ちゃん! 貴方ならそう言うと思ったわ」
貴和子はにっこり笑った。
「そうと決まったら、明日はさっそくお買い物に行かなくちゃ。暖かいコートが必要よ。ポーランドはとっても寒いんだから」
少女のようにはしゃぐ貴和子に、慧一朗は黙って微笑むばかりだ。
母親の愛を一身に受ける、将来性豊かな美しい息子。
誰もが羨む親子の図だった。そのはずだった。
この先に何があるのか分かっていたら。
慧一朗が誰に出会ってしまうのか知っていたら。
貴和子は決して、慧一朗に学校を休んでポーランドへ行くようになど言わなかっただろう。
この決断を、貴和子は生涯にわたって後悔するようになる。
2.
目を覚ますと、見慣れない豪奢な天井が視界に飛び込んできた。
カーテンの隙間から差し込む光が、灯りを落としたシャンデリアに反射して、薄暗い部屋に柔らかなプリズムを作り出している。
(そうだ、ポーランドに来てたんだっけ)
あまりにも深く眠った後だったので、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
ベッドサイドのデジタル時計は午後十四時を指している。
父の鴻三は既に出かけたようだ。枕元にはメモが残されており、神宮寺エリカのレッスンを見るためワルシャワ音楽院へ行くと書かれていた。
「よかったらケイも見学においで……か」
慧一朗はメモを畳むと、小さく笑った。
たとえ慧一朗が行かなくても、鴻三は怒りも落胆もしないだろう。息子の存在など、忘れてすらいるかもしれない。そういう人だ。
到着早々、長時間フライトの疲労と東欧の寒さでダウンした慧一朗と対照的に、鴻三は精力的に動き回っていた。知り合いの教授たちへ挨拶回りをして、二次予選を客席で聴きながらメモを取り、ライバルたちの分析をする。
しみいる寒さなどものともせず、かつてコンテスタントだった頃の話をしながらワルシャワの街を歩く父は、まるで青年のように生き生きとしていた。
母親の寂しさが、慧一朗には分かるような気がした。
父はまだ、ワルシャワ国際ピアノコンクールという名の夢を忘れられないのだ。
生まれたときから、ショパンとピアノは影のように慧一朗の人生について回っていた。自分も決してそれらを嫌いではない。空気のように、水のように。あるいは友人のように大切な存在だったし、難しい曲が弾けるようになると嬉しかった。
だが、時折不安になる。はたして自分の中に、鴻三と同じだけの情熱と狂気があるだろうか。このまま真面目にピアノを弾き続け、ワルシャワ国際ピアノコンクールで賞を獲れるくらいの人物になれるのか。
(でも、行かないと)
同世代の子ども達に比べて、恵まれた環境にいることは分かっている。努力を怠るわけにはいかない。
母のためだけではない。自分のためにも、常にベストを尽くしていたかった。
歩みを止めなければ、いつかは父のように、情熱と使命を感じられる何かに出会える日が来るかもしれないのだから。
ワルシャワ音楽院までは、徒歩で十五分とかからなかった。
色づき始めた樹々が美しい公園の中に、その近代的な白い建物はひっそりと建っていた。ガラス扉を入押して中に入ると、父があらかじめ話をつけてくれていたのだろう。事務員らしき中年の白人女性が、たどたどしい英語で「貴方がケーイチロー?」と話しかけてくれた。
「お父さんは隣の棟にあるレッスン室にいるから、そこに行きなさい。一番大きい部屋だから、すぐ分かると思うわ」
「ありがとう。行ってみます」
笑顔で礼を言って、ひっそりとした中庭を抜けていく。ポーランドで最も規模が大きいと言われるだけあって、かなり広い。ふと、近くから知ってる曲が聞こえた気がして、慧一朗は足を止めた。
(幻想ポロネーズ?)
変イ長調、作品番号61。ポロネーズ形式を主としながらも、夢幻的な雰囲気を持つ曲だ。
神宮寺エリカの演奏ではない。直感で分かった。
エリカも三次予選に向けて幻想ポロネーズを練習していたが、もっと鋭くて、大輪の薔薇を思わせるような華麗さがあった。
だが、今聞こえてくる幻想ポロネーズは違う。生来の気品に溢れながら、水面に舞い落ちる桜の花びらのような清らかさと神秘に満ちている。
技術的には、エリカより大分落ちるだろう。ミスタッチも多い。コンテスタントではなさそうだ。だが、無性に惹きつけられた。
(どんな人が弾いているんだろう)
気付けば慧一朗は踵を返し、誘い込まれるように校舎の中に入り込んでいた。
古びた階段を上り、見当をつけた方角へ向かってゆく。音が近付くにつれ、胸の高鳴りは大きくなった。急がないと、曲が終わってしまう。
もっと沢山、もっと近くで。この音を聞きたい。
まるで天啓のように、あるいは天使の喇叭に導かれる信徒のように、足が自然と音楽へ向かう。
幻想ポロネーズは、棟の端にある練習室から聞こえていた。
(この部屋だ)
気高く繊細で、それでいて透明な響き。
音を立てないように気を付けながら、慧一朗はそうっと重い扉を押した。
瞬間、コーダの旋律と共に、ピアノの前に座った人物がまっすぐに視界に飛び込んできた。
(え……?)
慧一朗は目を疑った。
そこにいたのは、少年だった。
年は十一、二歳といったところか。サラサラとした黒髪に、真珠貝みたいに白い肌。切れ長の大きな目は深く澄んで、薄紅色の唇は微笑んでいるみたいに優しげで、愛らしい。
前にローマの教会で見た聖女像みたいだ、と慧一朗は心の中でつぶやいた。
中でも目を引いたのは、少年の眼差しだった。
黒い瞳は憂いを帯びながらきらめいて、この世ではないどこかを見つめているようだ。
まるで音楽の神に仕える巫女が、ピアノを通じて祈りを捧げているような、静謐な美しさがそこにはあった。
神秘の色を湛えた清らかな少年の姿に、慧一朗は思わず見入った。夕陽が射し込む埃っぽい練習室の中で、彼と、彼の音楽だけが祝福に満たされているようだった。心臓がどきどきと高鳴り、指先が震える。
ずっとこの光景を見ていたい。この音に包まれていたい――憧れのように、心の底から思った。
不意に、少年がこちらを見た。
「誰!?」
怯えたように椅子を蹴って立ち上がる少年に、慧一朗は慌てて「ごめん!」と謝った。
「あ、いや、その、すみません! あまりに素敵な演奏だったから、」
「あなた、誰。いつから聞いてたの」
少年は人間嫌いの子猫みたいに、グランドピアノの後ろから慧一朗を睨みつけている。先程までの神秘的な雰囲気なんてどこにもない。見た目相応の子どもらしい表情に、慧一朗は思わず微笑んだ。
「……日本語が話せるんだな。よかった」
「は?」
「君と話すことができる」
虚を突かれた様子の少年に笑いかけ、ゆっくりとピアノの前まで歩み寄ってゆく。
少年は戸惑ったように目を瞬かせたが、逃げようとはしなかった。
あらためて、こんな少年が幻想ポロネーズを弾いていたことに驚かされる。学生ではないだろうし、現地の教授の子どもだろうか。
「勝手に入って、驚かせてごめんね。俺は東雲慧一朗。先輩がここに留学してるから、今日は見学に来たんだ」
「しののめ、けいいちろう……」
眉間にシワを寄せながら、少年はたどたどしく繰り返した。
慧一朗は苦笑した。
「長ったらしくて、呼びにくい名前だろ? 慧でいいよ。家族も友達も、皆そう呼んでる」
「慧?」
「うん。君の名前は?」
少年は戸惑ったように目を瞬かせたが、慧一朗がじっと待っているのを見ると、小さな声で言った。
「……朝希。篠原朝希」
「アサキ? 綺麗な名前だね。どういう字を書くの」
「朝と夜の朝、希望の希」
警戒した様子で、それでも素直に答えるのが可愛かった。
朝希が両の手を擦り合わせていることに気付き、慧一朗は「ごめん」と謝った。
「寒いよね、この練習室。暖房ないのかな」
何か事情があるのかもしれないが、よくもこんな薄暗く寒い部屋でピアノを弾いていたものだ。朝希は薄手のセーター一枚で、上着すら持ってきていないようだった。
室内を見渡すと、隅に煙突形のちいさな電気ストーブがあるのが目に入った。
「ピアノを弾くのに、指を冷やしたらダメだよ――おいで」
ほっそりした白い手を取ると、朝希はビクッと肩を跳ねさせた。安心させるように笑いかけ、ストーブの前まで連れていく。幸いストーブの仕組みは簡単で、慧一朗でも簡単につけることができた。
「ほら、朝希。これも着て」
弟にするのと同じような感覚でコートを差し出したが、朝希は見知らぬ人にえさを差し出された野良猫みたいな顔で首を横に振った。
「いらない。あなたが寒くなるよ」
「遠慮しないで。大丈夫、寒さには強い方なんだ」
半分はやせ我慢だったが、この子に寒い思いをさせる方が嫌だった。母が買ってくれた真新しいウールのコートを、半ば強引に着せかけてやりながら、並んでストーブの前に腰を下ろす。
朝希は困ったような顔をしていたが、大人しくされるがままになっていた。少なくとも、悪意がないことは分かってくれたのだろう。慧一朗は苦笑した。
「ごめん、強引だったね。でも、朝希と話をしたかったから」
「どうして?」
「君のピアノが素敵だったから」
朝希は驚いたように目を瞬かせた。
「あんな酷い演奏だったのに? ミスタッチだって沢山あった」
「朝希ぐらいの年であんな風に弾ける子、見たことないよ。俺と同年代でもいない」
ピアノは始めた年齢と日々の研鑽、つまりは環境がものを言う。慧一朗のように音楽家の家に生まれ、難曲を弾きこなす器用な少年や少女というのはそう珍しくない。だが、朝希みたいなリリシズムと煌めきに満ちた演奏をする子どもはそういないだろう。技術ではない、音楽性の問題だ。
「すごく素敵だった。朝希のピアノを聞くために、俺はこの部屋を探したんだよ。まさかこんな小さい子が弾いてるとは思わなかったけど」
朝希は心外だと言わんばかりに慧一朗を睨んだ。
「赤ちゃんみたいに言わないでくれる。先月十歳になったんだ。小さい子じゃないよ」
「十歳? そっか、もうお兄ちゃんだね」
思ったよりも年下だったことに内心驚く。大人びた顔をするから、十二歳くらいだと思っていた。ほとんど赤ん坊のような弟の美景と、そう変わらない年齢だ。
朝希は挑むように慧一朗の顔を覗き込んだ。
「そっちは何歳なの?」
「俺? この七月で十四歳になったよ」
「ふうん」
十歳の朝希にとって、十四という数字は思った以上に大きかったらしい。何でもない風に返事をしながらも、急に神妙な顔になって膝を抱えてしまった。
慧一朗は優しく笑って、朝希の頭を撫でてやった。
「十歳なのに、あんなに弾けてすごいって話」
「別に、大したことないよ」
「あるさ。俺は本当に感動したんだから」
むきになって慧一朗は言い返した。
「何回も聞いたことがある曲なのに、初めて聞くみたいに新鮮で、ドキドキして……ずっと聞いていたいって思った」
「……そんな風に言ってくれて、ありがとう」
必死に言い募る慧一朗に、朝希はくすぐったそうに微笑した。
「慧は、本当にピアノが好きなんだね」
芙蓉の花びらみたいな笑顔に、ドキンと心臓が跳ねた。綺麗な子だと思っていたが、それだけに笑顔を向けられると胸の奥が切ないような気持ちになった。思わず火照ってくる頬を誤魔化すように、慧一朗は小さく咳払いした。
「朝希だって好きだろ? 好きじゃなきゃ、あんな風には弾けないよ」
何ということのない軽口だったが、朝希は少しだけ言葉を詰まらせた。
「そんな風に考えて弾いたことないよ。いつも叱られてばかりだったし」
「叱られる? 誰に」
「お母さん。……この前、死んじゃったけど」
頬を歪めるように笑うと、朝希は静かにピアノを見た。スタインウェイのフルコンは夕陽を受け、どっしりと神々しい光を放っている。
「そのピアノは、お母さんが弾いてたピアノだった」
「ここの先生だったのか」
やっぱり、と慧一朗は納得する。
ワルシャワ音楽院で教員を務めるレベルの母親なら、息子がこれだけ弾けるのも納得できる。同時に、朝希が年のわりに大人びた目をしている理由も分かったような気がした。
「可哀相に……大変だっただろう」
きっと母親が弾いていたピアノを懐かしんで、大学に忍び込んだに違いない。
だが、朝希は優しく苦笑した。
「違うよ。ここの先生じゃない」
「え?」
「でも、すごくピアノが上手かった。僕の何百倍も、何千倍も」
切れ長の目をきらきらさせながら、朝希が言った。母親の話ができるのが嬉しくてたまらないといった様子だった。
「腕を怪我してからは、あまり弾けなくなっちゃったけど……でも、昔はワルコンで入賞したことだってあるんだよ。さっきの幻想ポロネーズでは特別賞を貰ったんだから」
「ワルコン? ちょっと待って。朝希の苗字って、篠原だよね」
歴代の女性コンテスタントで、おまけに篠原の姓を持つ入賞者といえば一人しかいない。鴻三が崇め、憧れた幻のピアニスト――。
「君のお母さんは、まさか」
「お母さんを知ってるの?」
ぱっと顔を輝かせる朝希を、慧一朗はまじまじと見つめた。
言われてみれば、朝希は篠原雪乃によく似ていた。彫刻刀で彫ったようにくっきりした切れ長の二重瞼に、微笑んでいるような形の唇。演奏中の神秘的な印象も、親子と言われたらこの上なく納得できる二人だ。
「ああ、知ってるよ……俺は映像でしか見たことないけど、俺の父さんは朝希のお母さんの大ファンで……一緒の大学で、同じ先生にピアノを習ってたこともあるんだ」
「慧のお父さんが?」
「ああ。朝希に会ったら喜ぶだろうな。でも、そうか……亡くなられたのか」
日本で、そんな報道は一切なかった。
当然といえば当然かもしれない。クラシック界には、毎年多くの新星が誕生している。
いくらワルシャワ国際ピアノコンクールで二位の快挙を成し遂げたとはいえ、既に篠原雪乃は楽壇に上らない一般人だ。ワルコンでの二位獲得、そして若手政治家との電撃結婚と引退、離婚――彼女のピークは、おそらくワルシャワ国際ピアノコンクールだったのだろう。
慧一朗が母親を知っていると聞いた朝希は、優しく目を細めて慧一朗を見上げた。
「今日は大学にピアノをキゾウしに来たんだ。でも、まさかお母さんを知ってる人に会えるなんて思わなかった」
「寄贈? どうして。だって、朝希が弾くじゃないか」
「さすがにグランドピアノは持っていけない」
日本に暮らす父親の元に引き取られるのだと、朝希は大人のように静かな声で言った。
慧一朗は、政治家である朝希の父親を思い浮かべた。
衆議院議員の三島克顕氏を、知らない日本人はいないだろう。
三代続く政治家の家系に生まれながらイベント会社の社長をしていたという異色の経歴とさわやかな笑顔は、女性有権者に大層人気があり、政治家というよりは俳優のような男だった。
雪乃と離婚した後は早々に再婚して、確か子どもも二人いるはずだ。
後妻は廣岡興産の令嬢で、最近は家族でテレビに出ていることも多い。つまりは〝ブランド〟として、確立しているのだ。そんな家庭に、前妻の子どもである朝希がどうやって入っていけるのだろう。
「……朝希は、お別れのピアノを弾いていたんだね」
あの幻想ポロネーズは彼なりの母親への鎮魂歌であり、母親の愛したピアノとの別れだったのだ。それなのに慧一朗が侵入したせいで、音楽が途切れてしまった。無神経に邪魔をしてしまった自分が恥ずかしく、朝希にも、篠原雪乃にも申し訳なかった。
「ごめん。邪魔をして」
肩を落とす慧一朗を、朝希は少し驚いたように見つめていたが、やがて静かに慧一朗の手を握りかえしてくれた。
「ねえ、なにか弾いて」
「え?」
顔を上げると、いたずらっ子のように笑う朝希と目があった。
「だって、ずるいじゃない。慧は僕のピアノを聞いたのに、僕は慧のピアノを知らないなんて。弾いてよ」
「弾くって、でも、何を弾けば」
「何でもいいよ。慧が今、弾きたい曲で」
慧一朗のコートをマントみたいに肩にかけたまま、朝希は小さな女王様みたいに笑った。
慧一朗は迷った。篠原雪乃のピアノを聴いて育った彼に、自分が一体何を聞かせられるというのだろう。ましてや朝希自身、あれだけの幻想ポロネーズを弾ける実力を持っているというのに。
「……ああ。わかった」
それでも頷いてしまったのは、朝希の願いだったからだ。
出会ったばかりの、この淋しげな目をした少年に、地上に一人きり放り出された天使のような少年に、たまらなく惹かれてしまったからだ。
覚悟を決めて立ち上がると、慧一朗はゆっくりとスタインウェイの前まで歩いていった。
「何を弾いてくれるの?」
「ラルゴ。変ホ長調を」
ショパンがワルシャワ・リセウムの最後の年に教会で演奏していたBoze, cos Polske ――直訳すると、神よ、ポーランドをお守りください――短いが、祈りの清らかさと美しさに溢れた優しい曲だ。
「君のお母さんには到底及ばないだろうけど……朝希。君と、お母さんのために」
息を吸って、慧一朗はそっと鍵盤に指先を滑らせた。
若くしてこの世を去った美しき天才、篠原雪乃。
父の憧れだった彼女は、どんな風にこのスタインウェイを鳴らしたのだろう。この静かな寒い街で、どんな風に朝希を育て、暮らしていたのだろう。
大きな窓から差し込む夕陽は濃い色の影を落とし、中庭にそびえる樹々は、吹きつける秋風に頼りなく木の葉を散らせている。
母親を失い、これから朝希はどうやって生きてゆくのだろう――いつしか慧一朗の頬には涙が伝っていた。
(朝希の悲しみが、少しでも早く癒えますように。朝希が笑って、幸せに生きていける日がきますように)
ラルゴの旋律が、心と同化してゆく。
こんな風に誰かを思い、何かを祈るような気持ちでピアノを弾くのは初めてだ。
それは、不思議な感覚だった。
音楽と自分が一つになったように、心が指先に伝わり、旋律が曲になる。
言葉を喋るかわりに、音楽が心を語ろうとする。ピアノが道具ではなく、声となる。
いつしか慧一朗は、夢中になってピアノに向かっていた。
最後の一音が空気に溶け、音楽が終わった。
瞬間、ピアノの向こうで大きく洟を啜り上げる音がして、慧一朗はハッと我に返った。
「朝希?」
見ると、朝希は膝を抱えたまま肩を震わせていた。ときおり聞こえてくる小動物の悲鳴のような嗚咽に、慧一朗は青ざめた。
「っ、ごめん!」
椅子を蹴るようにして、慌てて朝希のもとに駆け寄る。
「ごめん、俺、君を泣かせるつもりじゃなかったのに」
「どうして謝るの」
ず、と洟を啜りながら、朝希が涙に濡れた目で慧一朗を睨んだ。
「ピアノを弾いてって頼んだのは僕だ」
「でも、朝希が泣いてるから……ごめん」
母親をなくしたばかりの少年に、ラルゴの優しい旋律は刺激的すぎたのかもしれない。
大きな切れ長の目から零れる涙を、そっと指先で拭ってやる。朝希は猫みたいに目を細めると、小さな声で「ありがとう」と呟いた。
「あんなに綺麗なラルゴ、初めて聞いた。慧はきっと、素敵なピアニストになるね」
「それは、朝希の方だ」
たまらなくなって、慧一朗は朝希を抱きしめた。全てを諦めているような口調が、淋しげな笑顔が切なく、哀れだった。
「君はお母さんみたいに立派なピアニストになれるよ。俺が保証する」
「無理だよ。僕はもうピアノは弾かない。聞いてくれる人もいないのに」
「俺がいる。俺は、君のピアノを聞きたい。もっと沢山、朝希が弾く他の曲も、全部聞いてみたいよ」
「慧……」
白く薄い両手を強く握り締めると、朝希は困ったように目を瞬かせた。夜露に濡れた花びらみたいに、長いまつ毛の先できらきらと涙の粒が光る。
「俺と一緒に来て、朝希。君に会わせたい人がいるんだ。君の演奏を聞かせたら、絶対助けてくれる」
父なら、と縋るように思う。
芸術を愛し、朝希の母親に憧れた鴻三なら。
きっと、朝希が弾き続けるための道を拓いてくれる。レッスンだって見てくれるだろう。
あまりにも少年らしい無鉄砲な希望だった。
後から思えば、なんて無責任な言葉だったのだろうと思う。
でも、そのときの慧一朗はただ必死だった。神に天啓を受けた信徒のように、自分が朝希の救世主になるのだと純粋に信じていた。
だからこそ、朝希は頷いてくれたのだろう。
もしかすると、慧一朗の幼さを知りながら、それでも、彼自身の優しさのために。
「ああ、慧! 探したぞ! 何をしてるんだ、こんなところで……、その子は?」
扉が開き、鴻三が顔を覗かせる。
まるで、運命の神様がどこかで見ていたかのようなタイミングだった。
ひるんだように身を竦ませる朝希の手をしっかり握り直すと、慧一朗は父親に向き直った。
「お父さん、話があるんだ」
鴻三の行動は素早かった。
朝希が篠原雪乃の忘れ形見と知った父は、ひどく驚いた。慧一朗に促されるまま、朝希が幻想ポロネーズを弾いてみせると、衝撃の色はいよいよ濃くなった。
「篠原くん、君はピアノを続けるべきだ。私のところに来なさい。君は間違いなく、雪乃さんの血を引いている」
レッスン代は免除で構わない、特待生として迎えたいと熱心に口説く鴻三に、朝希は困惑したように俯いた。
「でも、お父さ……父にも、日本に来たら音楽はやめろと言われているんです。ピアノも持って行けないし」
「うちで弾けばいい。僕の家はピアノ教室をやっているし、毎日練習できるよ。なんだったら下宿したって構わない。僕からお父さんに話そうじゃないか」
常日頃から世界に通用するピアニストを育てたいと言ってはばからない父親だ。まさに朝希はダイヤモンドの原石に見えただろう。おまけに敬愛する篠原雪乃の息子だ。
裕福な家庭の末っ子として大切に育てられてきた鴻三には、一度決めたことは絶対に押し通さなければ気が済まない子どものようなところがある。相手が政治家だろうが王様だろうが、たとえ宇宙人であっても例外はない。慧一朗の思惑通り、鴻三はやや強引に朝希から弁護士の連絡先を聞き出した。
その後、鴻三と朝希の父親、弁護士のあいだでどんなやり取りが交わされたのかは知らない。
しかし何をどうしたか、数日後には篠原朝希が東雲ピアノ教室の特待生として迎えられる手筈がちゃんと整っていた。さすがに下宿の提案は断られたそうだが、レッスンを許して貰えただけでも良かったと鴻三は上機嫌だった。
3.
ワジェンキ公園のショパン像は、秋の陽光を受けてブロンズの頬に柔らかな影を落としている。
像の麓に寒そうに座り込んでいる朝希を見つけると、慧一朗は息を切らせながら駆け寄った。
「朝希! ごめん、待った? イリーナ教授のレッスンが長引いちゃって」
「ううん。今来たところ」
「嘘だ、またこんなに冷たい手をして……ちゃんと手袋をしろって言ってるだろ? ほら、これ着けて」
白く冷たい手を引っ張るように立ち上がらせると、朝希は「平気なのに」と呆れたように言いながらも、大人しく慧一朗の手袋をはめた。
二人はそのまま公園の中を歩き始める。菩提樹の黄色い葉が舞う並木道は、ワルシャワ地元住民たちの散歩ルートでもある。
黄金の十月と謳われるだけあり、赤と黄色、緑の葉のグラデーションに色づいた樹々は絵画のように美しい。初めて朝希に連れて来てもらってから、慧一朗はたちまちワジェンキ公園が好きになった。以来、この公園は二人の定番の遊び場となった。
「慧、お腹すいてない? ポンチキ買ってきたんだ。この前、美味しいって言ってたから」
「いいのか? お金、払うよ」
ポンチキはいわゆる揚げドーナツで、ポーランドのおやつだ。中にはバラのジャムやチョコレートなど、様々なフィリングが入っている。この前、一緒に旧市街で食べたときに慧一朗が喜んでいたのを覚えていてくれたのだろう。
慌ててズウォティ硬貨を取り出そうとする慧一朗に、朝希は笑って首を横に振って、油の染みたポンチキの袋を握らせた。
「いらないよ。色々して貰ってるから、お礼。少し冷めてるかもしれないけど」
「そんなことない、嬉しいよ。また食べたいと思ってたから。うん、やっぱり美味しいな」
甘党の慧一朗のために、塩キャラメル味を選んでくれたらしい。砂糖の衣につつまれた生地にかぶりついて笑う慧一朗を見て、朝希は「よかった」と安心したように自分のぶんのポンチキに齧りついた。
「慧のお父さんは、今日もレッスン?」
「うん」
鴻三は、今日も朝早くから神宮寺エリカのためにワルシャワ音楽院でのレッスンに立ち会っている。
エリカは無事に二次予選をパスして、明日から始まる三次予選に進むことが決まっていた。
エリカの活躍は嬉しかったが、帰国が伸びたことが慧一朗には少しもどかしい。
明日のフライトで、朝希は一足先に弁護士と日本へ帰ることになっていた。
「見送りに行けなくてごめん。父さんも行きたがってたんだけど」
「ううん。慧も、慧のお父さんもコンクールのために来てたんじゃない。それなのに、僕のために色々してくれて……十分だよ。本当にありがとう」
「でも、しばらく会えなくなる」
少し恨みっぽく、慧一朗は言った。朝希も同じように感じていると思っていたのに、大人びた顔でお礼を言われるのが寂しかった。
出会ってから一週間にも満たなかったが、ワルシャワで朝希と過ごす時間は、慧一朗の人生の中で最も穏やかで、幸福なひとときだった。
二人でポンチキを食べながら十月の旧市街やワジェンキ公園を歩くこと、音楽院にこっそり忍び込んで、ピアノを弾くこと。ショパンの音楽が流れる教会のベンチに座って、沢山の話をすること。
物静かで大人っぽい朝希が、慧一朗に会うと安心したように笑って、屈託なく色々な話をしてくれるのが嬉しかった。四歳という年の差はあったけれど、慧一朗にとって朝希は、生まれて初めて心の中を打ち明けられる親友になっていた。
「心配だよ。俺も、一緒に帰れたらよかったのに」
「慧……」
朝希は困ったように眉を下げると、ぎこちなく話題を変えた。
「今日のレッスンはどうだった? イリーナ・クリフチェンコって今回の審査員もしているんでしょ?」
「ああ……勉強になったよ。俺の悪いクセを教えてもらって、新しい練習方法を教わったんだ。それに、瞑想とヨガもした」
「瞑想と、ヨガ?」
イリーナ教授のレッスンはユニークだった。レッスンの前に、メンタルトレーニングの一環として瞑想とヨガの動きを教えられたのだ。ただ曲を見てもらうだけだと思っていた慧一朗は、ひどく驚いた。
「新鮮で面白かったよ。お客さんの前で最大限に良い演奏をするために、気持ちを鍛えるんだって」
「お客さんの前で、か」
朝希は少し憂鬱そうな表情になった。
「誰かの前で弾くって、どんな気持ち? 怖くない?」
朝希はまだ、人前でピアノを弾いたことがない。
ピアノ教師の息子に生まれ、物心ついた頃から教室の発表会やコンクールで演奏していた慧一朗にしてみれば信じられない話だ。だが、朝希は東雲ピアノ教室に通う同世代の子どもの誰よりも上手い。
朝希が日本で本格的に門下に入れば、ちょっとしたセンセーションが起きるのは間違いないだろう。そのときは守ってやらなければ、と慧一朗は思う。
「怖くないよ。少し緊張するけど、それ以上に楽しいって思える。朝希ならすぐに慣れるよ」
「そうだといいけど」
励ますように、不安そうな朝希の肩を叩く。
「朝希が弾くときは、俺がいつも聴いてるよ。上手くいきますようにって、祈りながら聴いてる。だから、大丈夫だ。俺がついてるよ」
「……うん」
朝希はようやく微笑を浮かべると、足元に寄ってきたリスに気付いて膝をついた。ポンチキをちぎって与えると、リスは欠片を抱いたまま敏捷に去っていく。リスを見送ると、朝希はその姿勢のまま、静かに慧一朗を見上げた。
「慧に出会えただけで、僕には十分夢みたいだって思うんだ。毎日楽しくて、おまけに日本でもピアノが弾けるなんて、贅沢すぎて怖いくらい」
「朝希」
「でも、頑張るから」
思いつめたように朝希は言った。
「慧と、慧のお父さんをがっかりさせないように、人前でも上手く弾けるすごいピアニストになる」
「なれるよ、朝希なら」
朝希に手を差し出して助け起こしながら、慧一朗は笑いかけた。
手袋に包まれた彼の白い手を、慧一朗は知っている。この年の少年にしては大きく、指も長い。これは天賦のものだろう。数年経って身体が大きくなれば、どんな曲も自在に弾きこなせるようになる手だ。
「朝希もお母さんみたいにCDを出して、ワルコンだって優勝して、サントリーホールを沸かせるスターになるんだ」
「……慧が一緒に弾いてくれるなら、できるかもね」
朝希はそっと微笑んだ。
「今まで教会に行っても、神様なんている訳ないって思ってた。でも、今なら信じられる。慧に会えたから」
信仰を告白するような口調で、朝希が声を震わせた。
「慧がラルゴを弾いてくれたこと、一生忘れない。もしも日本に帰って、やっぱりピアノはやめろって言われたとしても、あの日を思い出すだけで僕は頑張れる」
まるで慧一朗そのものが神様だと思っているように、ひたむきな目が慧一朗を見つめる。深く澄んだ黒い瞳に見据えられた瞬間、慧一朗は心臓を射抜かれたような気がした。
「俺も、あの日のことは一生忘れない」
朝希のために弾いたラルゴ。
誰かを想ってピアノを弾く痛み、胸が熱くなる瞬間。
まるで音楽の神様が自分に力を貸してくれたような、あの切ないまでに狂おしい情熱のひととき。
たった数分の短い一曲、夕暮れの練習室と涙に濡れた朝希の瞳を、自分は一生忘れないだろう。
あのとき慧一朗は、初めて音楽と一体化したのだ。
(朝希を見つけたのは俺だ。この子を守るためなら、俺は何だってする)
胸に芽生えた直感は、信仰にも似た誓いだった。




