プロローグ
東雲慧一朗は、舞台袖で出番を待っていた。
集中を切らしたくないという理由から、出番ぎりぎりまで控え室で待つコンテスタントは多いが、慧一朗は逆だった。観客の入ったホールの雰囲気を見たかったし、演奏するために舞台に上がるのは久しぶりなのだ。しっかりイメージトレーニングをして本番に臨みたかった。
ステージでは、ポーランド人コンテスタントのユリア・スモラレクが木枯らしのエチュードを弾いている。
練習曲作品二十五・第十一番、通称・木枯らしのエチュード。
左手のメロディーを軸に、右手は高速で分散和音や半音階を駆け抜ける難曲だ。己の技巧を示すにはうってつけの曲だが、真に音楽性のある〝木枯らし〟を弾くには、相当の技量が問われる。あまりにも有名な曲ゆえにオリジナリティを出すのが難しく、かと言って個性を出し過ぎると、今度は楽曲の持ち味を損なってしまうのだ。フレーズ単位が大きいぶん、息切れした演奏に聞こえないよう注意を払う必要もある。
その点、ユリア・スモラレクの演奏は、可もなく不可もなくといったところだろう。フレージングも上手いし、音も鳴っている。この調子で最後までいけば、無事に予備予選を通過するに違いない。
(でも、朝希の方がずっと上手い)
ステージに視線を注ぎながら、慧一朗は今ごろ予備予選の中継を見ているであろう年下の青年を思い──、それから唇を自嘲のかたちに歪めた。
いよいよ人生の大舞台が始まろうという瞬間でさえも、自分は〝彼〟から離れることができないらしい。
篠原朝希。
音楽の神様に愛された、麗しき天才ピアニスト。クラシックファンなら、彼の名を知らぬ者はいないだろう。
スターになるために生まれてきたような才能と美しさに恵まれながら、己の演奏に対しては恐ろしいほど厳しい青年だった。慧一朗が傍についていなければ、寝食すら忘れて何時間でもピアノに向かっているようなところがあった。神に仕える巫女のように、あるいは精霊に憑依されたかのように。白い指先から広がる神秘の世界に、多くの聴衆が熱狂した。
慧一朗も、その一人だ。
朝希は、慧一朗の信仰の全てだった。
一番近くで彼を守るために、慧一朗はピアニストを辞めてマネージャーになった。朝希のそばにいるためなら、キャリアを捨てることなんて惜しくも何ともなかった。
目を閉じれば、すぐにでも彼の笑顔を思い浮かべることができる。
心に触れられることを恐れるように張り詰めた表情が、慧一朗を見るときだけ安心したように綻ぶのがいとおしかった。
誰よりも大切で、誰よりも憎い男。
朝希は今、どんな気持ちでこの予選を見ているのだろう。自分たちを引き合わせるきっかけとなった、このワルシャワ国際ピアノコンクールの舞台を。
「……朝希……」
妄執のようにその名を呟いた瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が聞こえてきて、慧一朗は我に返った。どうやらユリア・スモラレクは、無事に演奏を終えたらしい。会心の笑みを浮かべた彼女と入れ替わりに係員がステージに出て行き、鍵盤を拭き始める。
ピアノの転換が終われば、いよいよ慧一朗の出番だ。
この予備予選を勝ち抜かなければ、本選で朝希と戦うことはできない。国内のコンクールで賞を獲得している彼は予備予選を免除され、本選に進む権利を得ていた。
「緊張してるかい?」
隣にいた進行係の男性が、明るく英語で慧一朗に話しかけた。
「大丈夫さ。お客さんは皆、音楽が好きな人たちばかりだ。君の味方だよ。審査員も含めてね」
それに、と付け加え、彼はヒソヒソと耳元で囁いた。
「ペレルマン審査委員長は、美しい男が大好きなんだ。君みたいに長身でゴージャスなタイプは、正にドンピシャだね。しかも君は、一位を獲れるタイプの顔をしている。野心を燃やす、強い男の眼差しだ」
慧一朗は思わず苦笑いを浮かべた。なるほど、無名のコンテスタントはこういう励まされ方をするらしい。
慧一朗の曖昧な笑みの意味を読み取ったのだろう。進行係の男性は大げさに肩を竦めてみせた。
「おいおいドン・ファン! 僕の勘は当たるんだぜ。前回のコンクールで一位になったキム・スンハンだって、僕は予備予選のときから優勝する顔だって思ってたんだから──っと、出番だね」
係員の女性が、ポーランド語で慧一朗の名前と国籍、課題曲を読み上げる。
「それじゃあ、頑張って! ケーイチローに幸運と栄光がありますように」
「ありがとう」
進行係の男性に心から礼を言って、慧一朗は数年ぶりにステージへと踏み出した。
瞬間、客席から拍手と共に、歓声にも似たざわめきが湧き起こる。過去の慧一朗を知っている者か、はたまた進行係の彼が言っていたような、下らない理由か。
どちらにせよ、印象に残ることはコンクールにおいて大切なファクターだ。
絡みついてくる視線などものともせず、慧一朗は悠然と中央まで歩いていった。
(幸運と、栄光か)
そんなもの、今更欲しいとは思わない。
欲しいのはただ一つ。
自分を捨てた、たった一人への復讐だけなのだから。
ライトの光に照らされたピアノの前に座り、慧一朗は深く息を吸い込んだ。
──見てろよ、朝希。
俺はもう、惨めな信奉者じゃない。
東雲慧一朗は、一人の男として篠原朝希を平伏させてみせる。
長い指が鍵盤に向かって力強く叩きつけられ、音楽が始まった。




