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第五章 英雄たちの革命

1.

「ストップ。今のところ、切らないで。食い気味に繋げて、フォルティッシモで」

 トークバックボタンを押しながら、相良檀がスタジオ側の朝希に短く指示をする。

 朝希はコントロールルームを振り返りもせずに頷き、檀の指示通りに弾き直す。

 リサイタルではスタッカート気味に弾いていたフレーズを繋げて、食い気味のテンポで――。

 コントロールルームの壁に寄りかかってリハーサルを見守っていた慧一朗は、思わず眉を顰めた。鴻三が朝希に教えた弾き方とはまるで違う、ケレン味の強い〝革命〟だ。アイドル上がりの檀がどんなつもりでそんな指示をしているのかは知らないが、こんなギラギラと派手で感情的すぎる革命、コンクールで弾いたら間違いなく落ちる。朝希はどうして、抵抗なく弾くことができるのだろう?

 苛立っている自分に気付き、慧一朗は慌てて朝希から視線を外した。落ち着け、と言い聞かせながら、浅く息を吐く。どんな形であれ、クライアントの要望に応えられるのは素晴らしいことだ。これはコンクールではないし、クラシックとして弾いている訳じゃない。本来の解釈から大きく外れたものであったとしても、問題はないのだ。それなのに、どうしてこんなに胸の奥が波立つのだろうか。

 視線を外しても、高音質のスピーカーから流れてくる演奏はまぎれもなく朝希の音で、逃れることはできない。

「オーケイ、今の感じ。それじゃあ本番行くから。朝希、準備できたら合図して」

 檀の言葉に、スタジオに静かな緊張が走る。本番です、本番です、とスタジオスタッフが復唱して、コンソール前のエンジニアがヘッドフォンを着け直す。ほどなく赤いランプが点灯して、再び音楽が始まった。

 慧一朗はのろのろと視線を上げ、ガラス越しにピアノを弾いている朝希を見る。

 朝希らしくない、叩きつけるようなフォルテの奔流。

 祖国を蹂躙された怒りを描いたショパンの革命ではない、荒々しい怒りと、叫びのエネルギーに満ちた〝相楽檀の〟革命。

 それでも朝希は自然体だ。

 いつもと同じように、魂を注ぎ込むみたいに瞳を煌めかせながら、鍵盤を自在に操っている。その横顔は生き生きとひどく楽しげで、慧一朗は心臓を掻き毟られるような気がした。

 一ヶ月前、この仕事を受けると言い出した日から、朝希は人が変わったようだった。

 相楽檀の作品に参加することで発生するリスクを再度言い聞かせても、気にも留めない様子で、慧一朗の反対を押し切るような形で、契約書にサインをしてきた。仕事のことで朝希が慧一朗に逆らったのは初めてだった。

 慧一朗が何より辛かったのは、朝希が相楽檀に完全に心を預けている様子だった。

 出会ってまだ一ヶ月と少ししか経っていないのに。まるで昔からの気安い友人のように檀と冗談を言い合い、肩を叩き合う。演奏に意見を出し合い、同じ目線で一つの音楽を創り上げる。慧一朗には、もう二度と許されないことを、檀とする。

 十四歳にワルシャワで出会った日から、慧一朗の人生は朝希と共にあった。

 朝希のために何かできることがあれば嬉しくて、彼の笑顔を守るためなら、夢をかなえるためなら何でもしたいと切望した。実際、魂を捧げるようにして一緒に生きてきた。

 だが、いま朝希はショパンらしくないショパンを、相楽檀のために弾いている。最近ではめっきり見せなくなった、幸せそうな笑顔を浮かべて檀を見る。

 慧一朗以外の男の音楽が、朝希の心を奪う。

(その男の音楽が、おまえを微笑ませるのか? かつて、俺のラルゴに救われたと言ってくれたおまえが)

 相楽檀と笑い合う朝希を見るたび、表舞台を去り、弾かなくなった自分には何の価値もないのだと言外に突き付けられているような気がする。慧一朗はもうステージでは弾かない。朝希の心を惹きつける術を持たないのに。

「――ブラボー、朝希。最高だ」

 興奮したようにトークバックマイクに低く叫びながら、檀がスタジオの朝希に向かってサムズアップする。得意そうにサムズアップを返す朝希は、また、慧一朗が見たことのない顔をしていた。


 その後、続けて英雄ポロネーズの録音があり、一時間の休憩が入った。休憩後はミュージックビデオの打ち合わせだ。

 英雄ポロネーズの方は、檀と朝希の方で事前に細かく打ち合わせをしていたらしく、革命に比べて大分あっさりと収録が終わった。

 慧一朗は朝希を連れて、レコーディングスタジオの上階にあるカフェテリアに来た。

「お疲れ、朝希。慣れない弾き方で、大変だっただろ」

 持参した焙じ茶のポットと、スタジオのコンビニで買ってきたおにぎりを渡してやりながら言うと、朝希はくすぐったそうに笑った。

「ううん、全然。確かに変わった指示だったけど、面白かったよ。あれに歌が乗ったら、どんな感じになるんだろうね」

「嫌じゃないのか? 自分の演奏を切り貼りされて、加工されて、人の歌声が乗るなんて」

「嫌じゃないよ。初めてだから、どんな感じか想像はつかないけどね」

 朝希はのんびりとおにぎりの包みを剥がしながら言った。本当に気にしていないような表情に、慧一朗は何も言えなくなる。

(それでも、俺は嫌だ)

 本当はそう言いたかった。朝希の演奏が、まるでカレーの具みたいに檀の歌の材料に使われたことも、長年追求してきた解釈と違う弾き方をさせられたことも。

 黙り込んだ慧一朗を見て、朝希は少し困ったように首を傾げた。

「僕の演奏、変だった?」

「……いや、指示通り弾けてたんじゃないか。プロデューサーも、……相楽さんも、満足そうだったし」

「本当に? 収録終わったら、あの人さっさとエンジニアさんと消えちゃうから。そんなに調整必要だったのか心配でさ」

 あの人、と檀を呼ぶ声はいかにも親しげで、胸の奥がチリッと焦げるような気がする。それでも嫉妬していると思われたくなくて、慧一朗は無理に笑ってみせた。

「いや、コントロールルームの皆が絶賛してたよ。すぐにでも編集に入りたいって言ってたし、それだけ完成度が高かったってことだと思う」

「そう、よかった」

 安心したように頷き、朝希はようやくおにぎりに口をつけた。

「随分、あの人を気にしてるんだな」

 慧一朗の発する「あの人」は、朝希のそれに比べると、ひどく素っ気なく響く。それでも朝希は誰を指しているのか正確に理解したようで、一瞬、目を見張ってから、可笑しそうに微笑んだ。

「力になりたいんだ。檀は、本気で音楽に向き合ってる。音楽の力を信じてる人なんだ。確かにスキャンダルを起こしたかもしれないけれど、いつか大衆が彼を求める日が来るって、僕はそう思ってる」

 確信しているような顔で言って、ふと朝希は付け加えた。

「檀に、慧の英雄ポロネーズを聞かせたいな」

「え?」

 何故ここで、英雄ポロネーズが出てくるのだろう。かつて朝希が硫酸をかけられた日に弾いていた曲。あの日以来、慧一朗にとって英雄ポロネーズは、進んで弾くことは躊躇われる曲だった。正直言って、朝希が弾くのを聞いているだけでも、胸の奥が痛くなるくらいなのに。

「檀は、英雄ポロネーズを聴くと、英雄の人となりが見えるって言うんだ」

「英雄の……人となり?」

 かすかに顔を歪めた慧一朗に頷いて、朝希は静かに言葉を続けた。

「貴族だったり、庶民だったりするんだって。面白いよね。ショパンの解釈なんか丸無視。でも、どんな音楽も自分の世界にしちゃう感じ、ちょっと慧に似てるなって、そう思うんだ」

 慧に似てる――その言葉は、何よりも慧一朗を打ちのめした。

 慧一朗はもう、音楽を創らない。そちら側の人間ではない。そちら側には、もう行けないのに。

「おーい、朝希! ちょっと早いけどMVの打ち合わせするから、スタジオ降りてきて」

 カフェの螺旋階段からひょこっと顔を出した相楽檀に、朝希は「あ、はーい」と言いながら立ち上がった。

「慧、行こう?」

 心配を押し殺したような顔で、朝希が微笑む。この表情も、ずいぶん見慣れてしまった。もう長いこと、朝希の心からの笑顔を見ていない。それはきっと、お互い様だ。

「……先に、行っててくれ。電話を一本、入れなきゃいけないの忘れてたから」

 果たして自分は今、笑えているだろうか。分からない。

 だが「わかった」と泣きそうなのを我慢するみたいな笑顔で頷き、檀の元に駆け寄った朝希は、もうこちらを振り返らなかった。二人で顔を寄せ、おかしそうに何事かを囁き交わす姿は、数年来の親友のようだ。

 慧一朗はそれを、黙って見つめていた。見えない大きな手に心を握り潰されたような気がした。

 朝希が才能で人を愛するならば。慧一朗に似ている男の音楽を愛するならば。

 今の自分に、何の価値があるのだろうか。


2.

 ミュージックビデオの撮影は、都内のスタジオで行われた。

 慧一朗と一緒にスタジオ入りした朝希は、星空を映したスクリーンの前で踊る檀の姿に、思わず目を奪われた。黒い細身のタキシードを着た檀は、重力など感じさせないくらい軽やかに、風を巻き起こすように踊っている。この前まで黒かった髪は綺麗なプラチナブロンドに脱色して、白い細面の顔はシャンパンゴールドのアイシャドウと、薄いアプリコットカラーのグロスで美しく彩られている。カメラマンやディレクターだけではない、その場にいたスタッフ全員を惹き込んでしまうような光が、檀の全身から放たれていた。

「朝希、ヘアメイク行かないと」

「……ごめん、あと少しだけ」

 その場に釘付けになってしまった朝希に、慧一朗は「わかった。先に挨拶行って、差し入れ渡してくる」とメイクルームへ向かった。申し訳ないと思いながらも、朝希は檀から目が離せなかった。

(なんて迷いなく踊るんだろう)

 動画で見たときよりも、ずっと格好良い。あらためて凄い男だと思った。カムバックがかかった作品だ。もっと気負ってもおかしくないのに、檀はどこまでも無垢で楽しげだ。こうなりたい、と思った。音楽を自分の味方にして、自分だけの絶対を持って弾けたら、どんなに気持ちいいだろう。

 カットの声がかかると、ちょうど休憩に入るタイミングだったらしい。檀は朝希を見ると「よお」と嬉しそうに手をあげた。

「お疲れ、早いじゃん。撮影、夜からじゃなかった?」

「うん。ヘアメイクがあるから早めに。思ったより元気そうでよかったよ。今日、早朝からでしょ?」

「元気なもんかよ」

 綺麗に脱色した眉を寄せ、檀は大げさに薄いお腹を擦った。

「顔むくんじゃダメだからさ、昨日の夜からほとんど何も食ってねえんだぜ。ほとんど水も飲めねえし」

「それは……大変だね」

 まるで減量中のボクサーだ。昨夜どころか、今朝もお昼もしっかり食べてきた身としては、居心地が悪い。

「だろ。だから、終わったらハンバーガー食って、コーラ一缶飲んでやる。朝希、付き合えよ」

「わ、分かったから寄りかからないで。重いよ」

 肩を組むようにのしかかってきた檀を押し退けようとした、そのときだった。

「ヒョン!」

 少し離れたところから、背の高い青年が走ってくる。檀は「何だよ、来てたのか」と驚いたように言って、朝希から体を離した。

 水色のストライプシャツに濃紺のデニムを履いた青年は、まるで青春ドラマにから抜け出てきたみたいだ。すっきりした顔立ちに、黒縁の大きな伊達メガネがよく似合っている。驚くことに、180センチを超える檀より背が高い。俳優かモデルか、きっと業界の人だろう。檀が細身なので、一緒にいると体格のよさが際立っていた。外国の血が入っているのかもしれないな、と朝希は思った。

「ユジナ、来い」

 飼い主を見つけた大型犬みたいに目をきらきらさせている青年を、檀はぞんざいに引っ張った。

「朝希、紹介するよ。カン・ユジン。元グルのメンバーで韓国人。確か、おまえと同い年だよ」

「同い年? すごい、大人っぽいね。初めまして、あ、英語の方がいいかな」

「いや。ユジンは日本語バリバリ喋れるから平気。ユジナ、今回俺のMVでピアノ弾いてくれた篠原朝希さん。挨拶して」

 ユジンはにこっと笑うと、丁寧に頭を下げた。なるほど、檀とよく似てアイドルらしい綺麗なお辞儀だった。朝希も慌てて頭を下げる。

「カン・ユジンです。朝希さんのCD、たまに檀さんの部屋で聴かせてもらってました。僕は、スケルツォの三番が好きです」

 檀が言うだけのことはあり、ユジンの日本語はほぼ完璧だった。外国人らしく、発音は少し間延びしているものの、これだけ話せれば日本で活動するときにかなり有利だったのではないだろうか。

「ありがとうございます。日本語すごくお上手ですね」

「僕より、檀さんの韓国語の方がもっと凄いです」

 はにかむように笑うユジンを、檀は手のかかる弟を見るようにキッと睨んだ。

「ユジナ、おまえ今日のスケジュールは? 朝バラエティー収録した後は雑誌撮影ってアンディから聞いたけど」

 檀が詰め寄ると、ユジンは「ヒョンに……、」と気まずそうに大きな体を揺らした。韓国語で何か言いかけ、それから朝希に気を遣ったのか日本語で言い直した。

「檀さんの撮影、見たかったから……順番、最初にしてもらって来ました」

 叱られた子どもみたいに言い訳するユジンに、檀は額を押さえてため息をついた。ユジンはますますしょんぼりしてしまい、朝希は見かねて口を挟んだ。

「ちょっと。檀の応援に来てくれたんでしょ? そんな態度ないんじゃない」

「本業を疎かにしてまで応援して欲しくない」

 冷ややかに切って捨てながらも、檀は仕方ないなというように、瑞々しい果実みたいな色の唇を緩めた。

「まあ、サボりじゃないんならいいよ。今回だけな。忙しい中、来てくれたのは分かったから」

 ユジンがぱっと顔を輝かせる。

「本当は、皆来たがってたんです。でも、目立つからダメだって。だから、僕が代表して動画撮ったんですよ。あと、ヒョンの好きなチョコタンフルも、イアンと作りました! マネージャーに渡してます」

「マジで? そっか。皆にもお礼言っといて」

 顔をくしゃっとさせて笑う檀に、朝希は瞠目した。こんな風に笑えたのか。ユジンに対する檀は遠慮がなく楽しそうで、ユジンも心から檀を慕っているのが伝わってくる。とてもトラブルを起こして脱退した元メンバーと、現メンバーには見えない。羨ましいな、と思った。道が分かれても、一緒に過ごすことをやめても、彼らは心を通い合わせていられる。

 朝希は無意識のうちに、自分の耳に触れた。十七歳の誕生日に慧一朗がくれたダイヤモンドのピアスは、大切な仕事の日は必ず身につけるようにしている。

(僕たちも、そんな風になれるだろうか)

 慧一朗をマネージャーの軛から解放して、檀のように自由にさせてあげたい。リサイタルの夜、こっそり聴いた献呈は、今もまだ東雲慧一朗の音楽が生きていることを証明していた。誰よりもゴージャスで煌びやかな、慧一朗だけの音。慧一朗に音楽のある人生を返すのだ。そうすればきっと、昔の二人に戻ることができる気がする。嘘のない、誰よりも分かり合える友人同士だった頃の二人に。

 そのために、やるべきことがあった。

「朝希。ヘアメイクの準備できたから来て」

「今行くよ、慧」

 なおも談笑している檀とユジンに手を振ると、朝希はスタジオの入口で手を振っている慧一朗の元に向かって駆け出した。


 撮影は、日付が変わるまで行われた。

 朝希の出番は、スタジオの屋上にあるヘリポートでピアノを弾くワンシーンだけだったのだが、これが非常に厄介だった。〝夜のヘリポートで踊る檀の背景で、ピアノを弾いているタキシードの朝希〟とコンテには書かれているのに、真夏とあってなかなか空が暗くならない。ヘアメイクが終わったのは夕方だったのに、八月の空が完全に夜の帳を下ろしたのは十九時過ぎだった。そこから照明とカメラチェックをして、カメラリハーサル。いざ本番と思いきや、今度は強風でライトが飛んでしまい、やり直し。ライトが直ったと思えば、今度は檀の長い前髪がばさばさに乱れてしまい、ヘアメイクの修正が入る――一回本番をすれば終わりの演奏会とはまるで違う文化に、朝希は圧倒されっぱなしだった。おかげで、八回目の本番で自分がどんな演技をしたかも覚えていない。と言っても、朝希は素人なので、本当にただいつも通り弾いていただけなのだが――。

 音声は使われないから自由に弾いていいと言われたが、ピアニストの性で、ピアノの前に座るとつい本気で弾いてしまう。風も止んだ真夏の夜、半ばやけになって朝希は英ポロを打ち鳴らした。

「カット! お疲れ様でした、これで全撮影終了です!」

 監督の声と共に、拍手と歓声が沸き起こる。

 よっしゃあ打ち上げだ、とスタッフの誰かがおどけたように言って、文化祭の後みたいに皆ががやがやと動き出す。デリバリーを取って、先程の室内スタジオで打ち上げをするらしい。

「お疲れ、朝希」

 タオルを持った慧一朗が、ピアノ椅子に座ったままの朝希に屈み込むみたいにして、首筋の汗を拭いてくれた。瞬間、彼の使っているアンバーのコロンがほのかに香る。重厚感のある甘い匂いは、不思議な色気があって、慧一朗によく似合う。丁寧な手つきが気持ち良くて、そっとスーツの腕に頭を寄せるようにすると、慧一朗はビクッと身体を跳ねさせた。だが押しのけるようなことはせず、代わりに反対側の手で、そっと朝希の背中を撫でてくれた。

「……やっと、終わったな。弾くふりでいいって言われてたのに、本気で弾いて、疲れただろ」

「少しだけ。でも、慧もきっと、同じようにしたと思うよ。ピアノの前に座ったら、適当になんて弾けないでしょう? 昔も、今も」

 顔を上げると、慧一朗の暗い視線にぶつかった。撮影用ライトの消えた夜のヘリポートで、慧一朗の端整な貌は翳り、何を考えているのか分からない。慧一朗が何かを言いかけた瞬間、

「篠原さん、お疲れ様です! 素晴らしかったです、メッチャ綺麗でした!」広報担当の佐々木さんが興奮したように駆け寄ってきた。そしてガッシと朝希の両手を握りながら、まくしたてる。

「相楽さんとのケミも良かったし、もう大成功間違いなしですっ。受けていただけて本当に良かったぁ。今度、ご自身のCDでもこういうの撮りましょうよ!」

 慧一朗はすっと身体を離すと、朝希を庇うように佐々木さんとの間に入った。

「朝希。汗かいただろ。風邪ひくから、着替えておいで。佐々木さん、打ち上げの買い出し一緒に行ってもらえますか。撮影スタッフの人に任せきりじゃ、不味いでしょう?」

 早く行け、と言うように視線で合図してくれた慧一朗に甘えることにして、朝希はするりとその場を抜け出した。広いヘリポートからエレベーターに向かおうとすると、今度は檀に捕まった。

「おい、一人で行くなよ。水くせえ」

「着替えに行こうと思っただけだよ。ユジンくんは?」

 肩に回された腕を外そうと躍起になりながら周囲を見回すが、カン・ユジンの姿はどこにも見当たらない。

「ボイトレがあるから帰った。大分渋ってたけどな」

 五分だけつきあえよ、と檀はヘリポートの隅に朝希を誘った。いつくすねてきたものやら、片手にはゼロコーラの細い缶が二本握られている。

 二人でフェンスに寄りかかり、缶を軽く打ち合わせた。白い喉をそらすようにして、檀はコーラを一気飲みする。眼下にはビル群のネオンがきらきら煌めいていて、これもまた映画のワンシーンのようだ。つくづく絵になる男である。

「っぷはー、生き返ったぜ。やっぱコーラはゼロに限るな」

「良かったね」

 檀のために冷やされていたのだろう。アルミ缶の表面は、凍傷でも起きそうなくらい冷たい。せめてもの救いは、温度のおかげで甘さが軽減されていることか。両手で缶を抱えるようにしながら、ちびりちびりと飲んでいると、女子みたいだと笑われた。

「悪かったな、付き合わせて。打ち上げでバタつく前に、ちゃんと礼言いたいなと思って」

「何、急に。珍しく殊勝だね」

「いつだってそうだろ?」

 不敵に眉を上げると、檀はふっと改まった表情になって、頭を下げた。

「ありがとう。朝希に弾いてもらえて、本当に感謝してる。俺と仕事するの、止める奴もいただろうし、バッシングもあったと思う。それでも今日まで一緒にできてよかった」

「こちらこそ」

 朝希は微笑んで、首を横に振った。

 確かに、多少の混乱がなかったと言えば嘘になる。先週、事務所が檀の復帰を匂わせるため、レコーディング中の檀と朝希のツーショットをSNSに載せた時は、朝希の個人アカウントにまで檀のファンとアンチが押し寄せてきた。入り乱れる感謝と恨みのコメントやらDMに、それでも揺らがずに仕事できたのは、常に前向きでいる檀を見ていたからだ。

「檀は〝自分にしかできない絶対〟があるって、言ってたでしょ? 僕も、それが欲しかった。だから、一緒に仕事できてすごく勉強になった」

「おまえはピアニスト、俺は歌手なのに?」

「うん。正直まだ〝絶対〟は、見つかってないけど。でも、どうすれば見つかるのか、檀を見てて分かった気がする」

 今日もそうだ。夜を待ち続け、夕暮れを見つめている間も。強風でライトが倒れた時も、髪が乱れて撮り直しになっても。

 どんなトラブルが起きても笑い飛ばし、少しでも良いものを創ろうと周囲を巻き込んで鼓舞する檀は、誰よりも輝いて強かった。まさに、英雄のように。

 自分も、ああなりたいと思った。

 曖昧な態度で、見たくないものに蓋をするのではなく、愛したいものと向き合って、そのために戦う英雄に。

「……独りよがりに逃げて、閉じこもってたらダメなんだよね。本当の意味で、一人で立って戦わなきゃって、そう思ったんだ」

 抽象的な朝希の物言いに、それでも檀には伝わったらしい。考え込むみたいに、メイクできらきら光る瞼を伏せた。

「迷ってても、仕方ねえよ。表に出て、プロとして仕事する。それってテーマパークのキャラクターみたいなもんだなって俺はいつも思ってる」

「テーマパークのキャラクター?」

 数年前に音楽高校の遠足で行ったディズニーランドを思い浮かべ、朝希は怪訝な気持ちで聞き返した。だが、檀は至って真面目に頷いた。

「年間どんだけ稼いで人気のキャラクターでも、好きな奴もいれば嫌いな奴もいるだろ。全力で仕事したって、俺のこと嫌いな奴は一生嫌いだし。でも、ステージに出ちまえば、自分を嫌いな奴から逃げたり、そっぽ向くことはできねえだろ」

「……なるほど」

 テーマパークでそんなことをするキャラクターはまず居ないし、第一、商業として成り立たないだろう。

「俺達も一緒だよ。やることは変わんない。プロとして、逃げずに仕事するだけ。俺を嫌いな奴にも笑って、愛してくれる人を大切にするだけだ。大事にしたい軸を持ってれば、逃げようなんて思わなくなる」

 それに、と付け加えて檀は優しく笑った。

「朝希にしかできない絶対、もう持ってると俺は思うよ」

「え?」

「今日も、あんな長時間待たされて、ぜってえ疲れてて、いきなり外で弾けって言われたのに最初からガチ弾きしてたろ? 弾くフリでいいって言われてたのに。俺、踊っててびびったもん。うわー、朝希マジじゃんって」

「まあ、一応プロだし」

 弾くフリの演技ができなかっただけなのだが、このくらいの見栄は許されるだろう。得意げに微笑んだ朝希に、檀はため息をついた。

「普通は、ちょっとくらい緊張したりミスしたりしそうなもんなのに。可愛げねえなあ。おまえ、やっぱ妖怪なんだよ」

「檀って本当に失礼だよね」

 撤収作業は、間もなく終わるようだ。若い撮影スタッフが、打ち上げ用スタジオへ移動するように叫んでいる。フェンスに寄りかかっていた檀は、はずみをつけるように身体を離して大きく伸びをすると、朝希のコーラの缶を奪い取って残りを飲み干してくれた。

「ま、これからもお互い頑張ろうぜ。本選? 進んだらポーランドまで応援に行ってやるよ」

「え?」

「一応、大事な共演者だからな。少しは朝希が挑戦するコンクールのこと調べたんだぜ。予備予選ってので、結構落っこちるんだろ? 本選通ったら、日本国旗持って応援に行ってやるよ」

 客席で小さな国旗を振る檀を想像して、朝希は思わず吹き出した。ワルシャワ国際ピアノコンクールをオリンピックか何かと勘違いしているのだろうか。

「あのね、檀。僕もう本選決まってるんだよ。シード権ってやつ。だから檀は、ワルシャワまで来なきゃいけないね」

 からかうように指摘した朝希に、檀はきょとんと金色のラメがついた長い睫毛を瞬かせた。それから、フッと笑って「上等だ」と言った。

「スケジュール決まったら教えろよ。頑張って予定空けてやるから」

「いいけど、出場順が決まるの本当に直前だよ。抽選だもん」

 並んで歩き出しながら、ヘリポートの向こうに広がる夜景を見る。東京の夜は、相変わらず宝石箱の中みたいにきらきらと眩い。ワルシャワに帰ったら、この景色を懐かしいと思う日が来るだろうか。かつて東京に来たとき、ワルシャワの静かな夜を思ったように――瞬間、あまりにも自然に「帰ったら」と思っている自分に気付いて、朝希はふっと息を吐いた。

 そうだ、僕は帰るのだ。慧一朗に人生を返すために。〝絶対〟を持って戦う、英雄になるために。


3.

 嘘だ、嘘だと言ってくれ。俺は、何も聞いていない──。

 葉陰から陽光の差し込む並木道を、慧一朗はひた走っていた。すれ違う学生たちがギョッとしたようにこちらを振り返るが、気にしている余裕はなかった。数年ぶりに訪れた駒場キャンパスのレッスン棟に駆け込み、懐かしい階段を一気に駆け上がる。今すぐ、朝希に会わなければいけなかった。

 この時間は、一番広い二台ピアノのレッスン室を使用しているはずだ。廊下の端から、雷雨のような煌めきと激しさを持ち合わせたバラードの第三番がかすかに聞こえてくる。

 分厚い防音扉をノックもせず、体当たりするように押し開いた。鍵盤に向かっていた朝希と、横に立って楽譜を覗き込んでいた鴻三が、驚いたようにこちらを振り返った。

「慧一朗、どうした。大学に来るなんて珍しいな。仕事か?」

 長男の険しい表情に気付いていない訳がないだろうに、鴻三はいつものようにのんびり笑った。一方、朝希は青ざめ、緊張したように顔を強張らせている。二人とも、慧一朗がここに来た理由を分かっているようだった。

「っと、もうこんな時間か。朝希、すまないが先に出るよ。これからピアノ科の全体会議があってね。慧一朗と帰るんだろう?」

 例によって、時間超過してレッスンしていたのだろう。壁にかかった時計に目をやると、鴻三はさっさと譜面をまとめ始めた。

「慧一朗、たまには家にも顔を出しなさいよ。母さん、寂しがってるから。じゃあ朝希、また明日な」

「はい、ありがとうございました」

 入り口に突っ立っている長男の背を優しく叩いて、鴻三は練習室を出て行った。だが、父親の言葉に応える余裕など、今の慧一朗にはなかった。息を切らせながら、問い詰めるようにピアノの前に座った朝希を見つめていると、

「聞いたんでしょう。僕が来月からワルシャワに帰ること」静かに、朝希が核心を突いた。

 常に憂いを帯びて見える瞳は、今日はやけに強い光をたたえている。負い目も痛みもない、まるで明日の天気の話でもするような口調に、慧一朗は戸惑ってしまう。

「……ああ。さっき、会社で……、」

 朝希を大学まで送り、出社するなり営業部の同期につかまったのだ。

 おまえもワルシャワに行くのか、と。意味が分からず聞き返した慧一朗に、同期の彼は「隠すなよ」と笑った。

「篠原朝希が留学するんだから、当然おまえも一緒に行くんだろう、羨ましいって……いきなり言われて……」

「……そう。驚いたよね。ごめん。本当は、タイミングを見て、最初に話したかったんだけど」

 相楽檀のCDリリースイベントに出演を持ちかけられ、言わざるを得なかったのだ、とまるで他人事のように朝希は言った。あまりにも平然としている姿に、慧一朗は真意をはかりかねる。

 まだ、わからない。戸惑えばいいのか、怒ればいいのか。

「驚いた、なんてものじゃない」

 無理やり笑顔を作ってみせたが、声はみっともなく掠れてしまう。

「俺の仕事も引き継ぎがあるし、来月なんて一ヶ月もないだろ。準備が大変だ。学生ビザの手続きはしたのか? 留学先の手続きだってしなきゃいけないし、住むところも早々に探さないと。間に合うか心配だよ」

 当事者の一人を装って話しながらも、本当はわかっていた。

 朝希が、慧一朗とは行かないことを。

 浮世離れしているように見えるが、朝希は神経質で、細部にまで気を遣う性格だ。行き当たりばったりの計画を立てるような男ではない。きっと、ビザの手続きも、ワルシャワでの入学手続きも、現地での暮らしも、全て準備を終えているだろう。

「父さんには言ったのか? 言いにくければ俺から話すよ。きっと、驚くだろうけど」

 言葉は上滑りして、まるで演劇の台詞を喋っているように滑稽だ。

 鴻三が知らないはずがない。だからこそ、あっさりと部屋を出て二人きりにしてくれたのだ。朝希のために、そして慧一朗のために。二人のために。

 慧一朗の言葉を、朝希は痛みを堪えるような顔でじっと聞いていたが、やがて静かに頷いた。

「ああ……間に合うよ。もう準備はしていたから。東雲先生にも、話した」

「それじゃあ、」

「僕は一人で行く。慧は、来なくていい」

 ゆっくりと、まるで子どもに言い聞かせるような口調だった。朝希はまっすぐに慧一朗を見た。

「今まで曖昧にしてて、見ないふりをしててごめんなさい。僕はやっぱり、慧にピアノを弾いて欲しい」

 どくんと心臓が跳ねる。

 朝希の感じていた苦悩に、気付かなかったわけではない。だが、二人のあいだにずっと存在していた透明な錨は、暗黙のうちに心の奥底に沈めたはずの痛みだった。同じ痛みを抱えたまま、それでも手を取り合って生きていけると信じていたのに。

 突然剥き出しのまま突きつけられた裏切りに、呼吸が苦しくなる。

「……弾いているよ。朝希が知らないだけで、家でときどき弾いてるさ」

 何とか笑みのかたちに唇を歪めて反論した慧一朗に、朝希は容赦なく言い返した。

「違う。ステージの上だ」

「ステージの上?」

 わかっているだろうとでも言いたげな口調に、心臓の裏側から耳にかけてカッと激情が駆け上る。

「冗談でもバカなこと言うなよ。俺がいなければ、誰がおまえのマネージャーをやる? 一人で留学して、またあんな事件が起きたらどうするんだ。三島さんだって許すはずがない」

「……弾けない、とは言わないんだね」

「何だって?」

 慧一朗が怒っているというのに、朝希は、なんだか安堵したように目を細めると、立ち上がって窓のそばに歩いて行った。どこか愛おしむような視線で、キャンパスを見下ろしている。余裕ぶったような表情に、猛烈に腹が立った。

「父とは、この前電話で話した。ポーランドには細川さんがついて来てくれることになった。だから、慧がいなくても大丈夫」

「大丈夫な訳ないだろう、あの人は音楽のことなんか何も分からないじゃないか!」

 たまりかねて、慧一朗は叫んだ。

 音楽だけじゃない、朝希のことだって、何も知らないだろう。

 長年、実父のもとで暮らしながらも苦しんでいた朝希を見ていたくせに、何もしなかった男。たった一度、あの門下生発表会で朝希を助けたという、ただそれだけで朝希の信頼を得た男。あんな男に何ができるというのだ。朝希も朝希だ。なぜ細川なんかを頼るのだ。今までずっとそばに居た、慧一朗ではなく、ただの議員秘書なんかを。

「ステージで弾かなくなった俺は、そんなにつまらない? だから、切り捨てるのか」

「まさか、違う! 慧から奪ったものを返したいだけだ」

 朝希はショックを受けたように叫んだ。

「今更?」

 自分でも驚くほど、冷ややかな笑いが漏れた。ゆっくりと朝希の目の前まで歩いていって、骨ばった両肩を掴み、指に力をこめる。 

「……俺のピアノが聴きたいなら、いくらでも弾いてやるよ。英ポロだろうが、革命だろうが。でも、俺はもうステージでは弾かない。それに、朝希に奪われたなんて思っていない。自分で選んで決めたことだ」

「本当は、弾きたくてたまらないくせに!」

 悲鳴のような声で遮ると、朝希は思いっきり慧一朗の腕を振り払った。

「四月のリサイタルの夜、慧のピアノを聴いた。弾いていたでしょう? 献呈と、バラード、それにマズルカ……、」

 慧一朗は凍り付いた。四月のリサイタル。あの夜のことは、慧一朗自身もよく覚えている。朝希の演奏に触発されて、ピアノに触れずにはいられなかった。音楽と自分が一体化した、熱狂と開放のひとときを忘れられるはずがない。

「聞いていたのか」

「素晴らしい演奏だった。やっぱり慧は、ちゃんと表舞台で弾く人なんだなって思い知らされたよ。僕のマネージャーなんかじゃなくて」

「違う! 俺は、」

「東雲先生のところでも、まだ弾いているんでしょう? それなら大丈夫だよ。今から準備すれば、年末のコンクール出願には十分間に合う」

 コンクール出願という言葉に、慧一朗は数歩、後ずさった。その言葉が意味することは、一つしかない。ワルシャワ国際ピアノコンクールの映像審査の提出締切だ。

 朝希は必死な表情で続けた。

「言い出すのがこんなに遅くなって、本当にごめん。慧。君には、君の望む道を進んで欲しい。僕のお守りじゃなくて、慧の心が本当に望んでいることをして欲しいんだ」

「ッやめてくれ……!」

 耐えきれず、慧一朗は叫んだ。

 望む道、心が本当に望んでいること。おまえがそれを言うのか。おまえを選んだ俺に。人生に光を灯し、存在価値を与えてくれたおまえが。

「同情か? それとも、俺を遠ざけるための方便か? 馬鹿にするなよ、朝希。俺は、俺なりに考えて決めたんだ。おまえを守りたいと思って、おまえのために、」

 嘘だ。これこそ方便だ、言い訳だ。

 夢中で言い募りながらも、言葉は虚しく宙に浮いて、心が冷えていく。

 朝希は慧一朗を必要としていない。

 望まれてもいないのに、自分のエゴで、ナイト気取りで傍にいただけだ。本当は、ただ一緒にいたかっただけ。誰よりも近くで、朝希にとって最も必要な男になりたかっただけだ。朝希はとっくに、一人で立っていたのに。

「慧」

 よろめくように壁に寄り掛かった慧一朗に、そっと朝希が声をかけた。春の霧雨が頬に触れるように、この上なく優しい声だった。九年前にワルシャワ音楽院で出会った日と同じ、ローマの教会にある聖女像にも似た面差しに、思わず手を伸ばしかける。しかし、その目だけは凛とまっすぐで、力強い。儚く微笑み、涙を流していた少年は、もうどこにもいない。

 朝希は慧一朗をまっすぐに見つめると、少し震える声で言った。

「慧が好きだよ。地球上の、誰よりも。だからこそ、慧自身のために生きてほしい。僕のためじゃなくて」

 それは死刑宣告にも等しい、朝希からの離別だった。彼と出会い、過ごした九年間の日々が走馬灯のように慧一朗のなかを駆け巡る。

 憎い、と初めてそう思った。うわべだけの思いやりと好意の言葉を別れの花束に、朝希はあっさり慧一朗から卒業しようとしている。

「……それでおまえは、俺を清算して自由の身ってわけか」

 唇を歪めて笑った慧一朗に、朝希は泣き出しそうな顔になった。他愛ない喧嘩ですら、ほとんどしたことがない二人だった。いつだって互いをいたわり合い、ただ手のひらを触れあわせるように、傷つけようとしたことは一度もなかった。

 いま、慧一朗は生まれて初めて他人を憎み、傷つけようとしている。

 朝希は微かに唇を震わせたが、しかし子どものときみたいに泣いたりはしなかった。痛みを堪えるように胸を上下させると、ちいさな声で「ごめんね」とつぶやいた。

「しばらく実家に帰るよ。荷物は業者に取りに行かせるから」

 練習室の重い扉を開けて、朝希は逃げるように外に出て行った。

 そのあと、自分がどうやって帰ったのか、慧一朗は覚えていない。

 気が付くと、マンションの練習室で座り込んでいた。

 四方を防音壁に囲まれた暗い部屋で、悪夢のようにどっしりと艶のあるスタインウェイが慧一朗を見つめていた。

 ――僕はやっぱり、君にピアノを弾いて欲しい。

 縋るような甘い声の響きがどこかから聞こえたような気がして、よろよろと立ち上がる。

 朝希はいない。もう、慧一朗の元には帰ってこない。

 もう、朝希に憚ることなく自由にピアノを弾けるのだ。昔のように練習に没頭して、ワルシャワ国際ピアノコンクールに出ることだってできる。

 朝希の高さに調節されたままの椅子に腰を下ろし、衝動的に両腕を振り上げ――しかし、慧一朗はそのまま両手を乱暴に鍵盤に叩きつけた。醜い不協和音を奏でてもなお、スタインウェイの響きは少しの濁りもなく、美しい。

「……弾けるわけ、ないだろ……」

 人前で弾くことをやめて、もう一年半以上になる。いくら練習していたとはいえ、社会人生活の合間に趣味同然で弾いていただけの自分と、朝希のように生活のすべてをピアノに捧げていたピアニストたちが同等とはとても思えない。今更、ステージの上に戻ることなんてできるのだろうか。恐怖をおぼえると同時に、コンクール出願のことを考えている自分に気付いて、慧一朗は自嘲した。これでは朝希の思い通りではないか。

 だが、このまま弾くことをやめれば、二度と朝希と道を交えることはない。

 慧一朗を裏切り、朝希は一人、プリマヴェーラの如く微笑みながら、光の中でピアノを弾く。ワルシャワフィルの舞台でオーケストラと弾く朝希の姿が鮮明に思い浮かぶようで、慧一朗は胸が苦しくなった。

(本当に、まだ間に合うんだろうか)

 マネージャーの立場すら奪われた今、慧一朗はただの傍観者に過ぎない。

 あの会場で、本選で、彼を打ち負かすことができたら。

 慧一朗が再びステージの上で、朝希を魅了するような演奏をすることができたら。

 朝希は、どんな顔をするのだろう。

 思いついた瞬間、暗闇にスマホの鳴る音が響き、慧一朗はビクッと肩を跳ねさせた。

 きっと朝希の留学の件を知った同僚の誰かだろう。会社を飛び出して朝希に会いにいったまま、直帰の連絡もせずに帰ってきてしまった。ドアの前に放り出したバッグからスマホを取り出して、表示された名前に、しかし慧一朗は瞠目した。

 おそるおそる通話ボタンを押して、耳に押し当てる。

「……お母さん?」

 受話口の向こうで、懐かしい母の声が、慧一朗の名を呼んだ。


4.

 土曜日の十二時十分前。

 貴和子はそわそわとリビングで立ち上がったり、座ったりを繰り返しながら壁にかかった木製の振り子時計と睨めっこしていた。

 約束の時間まであと少し。慧一朗は本当に来てくれるだろうか。

 慧一朗が実家に帰って来るのは、ほとんど鴻三の言いつけでピアノを弾くためだけで、それも仕事が忙しいとかでさっさと篠原朝希の元へ帰ってしまうときの方が多かった。貴和子と二人きりになるのを避けているようにも見えた。

 夫は今朝から特別講座のため大学に出かけており、夕方まで帰って来ない。名簿を盗み見たので、その講座には篠原朝希も参加することを、貴和子は知っていた。

(恩知らずで、最低の子だわ)

 テーブルの上に活けられたチョコレート色のコスモスを指先で弄りながら、心の中でひとりごちる。

 慧一朗に見いだされ、キャリアを捨てさせて会社員なんぞに身を落とさせた、大嫌いな篠原雪乃の息子。誰にでも遠慮がちで慎ましやかな風を装っているが、本当は腹黒く、最後には涼しい顔で独り勝ちしているようないやらしさがあると思っていたが、案の定だ。あんなに目をかけてやったのに、日本で知名度を得たらさっさと留学だなんて。

 数日前、夫から朝希が一人で留学すると聞かされたときには驚いた。ワルコンに出るならその方がよいなどと鴻三は平然としていたが、貴和子にしてみれば酷い裏切りのように感じた。

 篠原朝希がまだ何者でもない子どもの頃から、家に上げて何時間も一流のスタインウェイを弾かせてやった。駅まで送迎してやり、譜面の製本やコンクールの出願、アドバイス、何かと気にかけてやった。デビューまでできたのは、一体誰のおかげだと思っているのだろう。

 留学してしまえば、朝希は東雲鴻三の門下生ではなく、ワルシャワ音楽院――いまはワルシャワ音楽大学と名を改めている――の教師の門下生としての出場となる。鴻三自身はケロッとした様子で、自分の教え子であることに変わりはないし、出身大学はプログラムに記載されるのだから構わないなど言っているが、貴和子には我慢ならない。本選に出るにしたって、このまま日本で鴻三に教わりながら出場するのが筋というものではないのか。あっさりと留学を選び、献身的に尽くしてきた夫と長男を捨てた朝希を思うと、憎くてならなかった。

 一人クビを切られるように置いて行かれる長男があまりにも可哀相で、いてもたってもいられずに電話をかけたのだ。良かったらお昼を食べに来ないかと遠慮がちに誘った貴和子に、慧一朗は平坦な声で「わかった」と言ってくれた。心優しい息子だ。さぞかし傷ついているに違いない。

 時間まであと少し。どんな風に接すればいいだろうか。

 少し緊張しながら黒紫色の花びらを毟った瞬間、インターフォンが鳴った。貴和子は慌てて立ち上がり、モニターを覗き込む。俯きがちの慧一朗の姿を見た瞬間、緊張と不安はパッと霧散して、息子が来てくれた嬉しさで胸がいっぱいになった。

「慧ちゃん、おかえりなさい!」

 弾むような足取りで玄関に駆けていき、ドアを開けた瞬間、しかし貴和子は、玄関に佇む長男の姿に、思わず言葉を失った。

「……ただいま、お母さん」

 今までに見たことのないほど、慧一朗はすさんでいた。いつもなら丁寧にアイロンのかけられたボタンダウンシャツには皺が寄り、琥珀色の目の下は赤っぽく染まっている。それに、少し痩せただろうか。長身で筋肉質なのは変わらないが、頬がすこし削げて、男性らしい骨格が際立っている。

 何よりも、瞳の暗さが貴和子は気になった。生まれつき、極上の宝石のようにきらきらと光を放ち、感情をまっすぐに伝えてくる瞳は、今は何の感情もうつしていない。疲れ切って、何も考えられないというような目だ。

 慧一朗は貴和子を見ると、静かに頭を下げた。

「お邪魔します。これ、お土産」

「あ、あら……悪いわね。まあ、虎屋の新更科ね。嬉しいわ。今年はまだ買えていなかったのよ。お昼の後いただきましょうね。さあ、入って。暑かったでしょう」

 季節限定の羊羹の入った紙袋を受け取り、必要以上にはしゃいだ声を出してしまう。いつもなら、「お邪魔しますじゃなくて、ただいまでしょう?」と軽口の一つでも叩くところだが、とてもそんなムードではなかった。

「暑いし、梅のジュースを用意しておいたのよ。座って、待っていてね」

 押し黙っている慧一朗をぎこちなくダイニングテーブルに座らせると、貴和子は羊羹の袋を持ってキッチンに向かった。手製の梅シロップとミネラルウォーターでジュースを作って、盆にのせてリビングに戻る。

 座っていたはずの慧一朗は、立ってマホガニーの飾り棚に置かれた写真立てを眺めていた。昨年の門下発表会での集合写真だ。じっとりと暗い視線にドキリとしながら、ことさら明るく振る舞う。

「お昼、どうしましょうか。慧ちゃんが好きなキッシュを焼こうと思っていたのよ。でもせっかくだし、梅ヶ丘まで出ておすしでも食べに行く?」

 あまり顔色もよくないし、外に出た方が良いのではないだろうか。そう思ったが、慧一朗は唇の端を少し上げると、

「……いや、お母さんのキッシュがいいな。懐かしいよ」と言った。ようやく笑顔らしきものが出たことに貴和子はホッとした。

「あら、嬉しいこと。もうオーブンに入れてあるの。予熱まで終わらせてあるから、すぐ焼けるわよ」

 スイッチを入れて戻ると、貴和子は慧一朗の差し向かいに腰を下ろす。慧一朗は梅ジュースを飲むと、静かに目を瞠り、「美味しい」と小さな声でつぶやいた。子どもの頃から飲ませていたのに、まるで今初めて気が付いたというような表情に、貴和子の胸は締め付けられる。

「疲れているから美味しく感じるのよ、きっと。会社、忙しいんでしょう? 慧ちゃんは頑張り屋さんで、困っている人を放っておけない優しい子だから……皆に好かれて、頼りにされているんですってね。涼介くんから聞いたわよ」

「リョウが?」

「ええ。札幌に出張があったからって、わざわざ羽田からお土産を渡しに来てくれたの。学生の頃からよく気がつく子だったけれど、久しぶりに会ったら一人前に社会人やってるんだもの。驚いたわ」

 保冷バッグに入ったシュークリームを持ってやって来た長男の親友を思い出し、貴和子は微笑んだ。来春に学生時代からの彼女と結婚予定だという涼介はきちんとスーツを着て、いかにも如才なく幸せそうな青年に見えた。

 プロになるだけが全てではない。音大を出て何者にならなかったとしても、全てが消えるわけではなく、彼らの人生は続いてゆく――鴻三が口癖のように言っていた言葉が、そのときはっきりと実感をもって貴和子の胸に響いた。

 キャリアを捨てたとしても、長男には涼介のように幸せで、充実した人生を歩んでほしい。そう思い込もうとすることで、何とか自分を納得させた。だからこそ、朝希に裏切られたことが不憫でならなかったのだ。

「慧ちゃんは、これからも今の会社で仕事を続けるの?」

 シリアスな口調にならないよう心がけながら、さり気なく質問する。

 朝希の留学について聞かされたとき、今後のことは尋ねないよう鴻三からきつく言われていたが、我慢できなかった。だが慧一朗にしてみれば、やはり触れられたくない話題だったらしい。ビクッと広い肩を震わせると、手負いの野生動物のような目で貴和子を見上げた。貴和子はいそいで話題を替えた。

「ミカちゃんもね、頑張ってるのよ。ほら、来年の予備予選に向けて……絶対にファイナルに行くんだって言って、今度の学内演奏会ではピアノ協奏曲の一番を弾くんですって」

 次男の美景は、今年のロン=ティボー国際ピアノコンクールでは最年少のファイナリストとして五位に入賞した。まさに昇り龍といった調子で、テレビ電話越しでも全身から覇気が漲っているのが分かる。それはきっと、第一線で輝こうとする者のエネルギーであり、オーラだった。

「そう……あいつ、一番を弾くのか」

「そうなのよ」

 貴方は二番の方が好きだったわね、という言葉を飲み込みながら、貴和子はぎこちなく微笑む。ワルシャワ国際ピアノコンクールのファイナルでピアノ協奏曲の二番を弾く慧一朗を、ずっと夢見ていた。それだけに美景が一番を選んだことは少し寂しく、それでいて、どこか安堵するような不思議な気持ちだった。

「十一月なんだけど、パリまで応援しに行こうと思っているのよ。慧ちゃんも行かない? お兄ちゃんが応援に来てくれたら、ミカちゃん大喜びするわ」

 レコード会社のマネージャー業は忙しそうだが、篠原朝希がいなくなるのだから、少しは時間ができるだろう。休日出勤も多かったようだし、きっと有給休暇も溜まっているはずだ。期待をこめて長男の顔を覗き込んだが、しかし慧一朗は、ゆっくりと首を横に振った。

「俺は、たぶん行けない」

「そう……」

 気落ちした俯いた貴和子に、慧一朗が静かな声で「お母さん」と呼びかけた。

「これまでのこと、謝りたいんだ」 

「えっ?」

「小さい頃から、恵まれた環境でピアノを弾かせてくれて、海外に連れていってくれたり、お金のかかる音大を卒業させてくれて……それなのに、不義理をして、本当にごめんなさい。親不孝な息子だったと思ってる」

「慧ちゃん!」

 貴和子は驚いて立ち上がり、急いでテーブルを回り込んだ。慧一朗の隣に腰を下ろし、大きな骨ばった手を取る。まるで氷水に浸したような冷たい手に内心驚きながらも、必死でさすってやる。

「そんなこと言わないで、そんな風に思ってないわ。確かに最初は驚いたけれど、お父さんも納得しているし、私だって、」

「――その上で、頼みたいことがあるんだ」

 辛抱強い声で、ひくく慧一朗が言った。琥珀色の瞳は、底知れない暗い光を湛えて貴和子を見つめている。

「もう一度、現役に戻ろうと思ってる」

「……慧一朗」

 驚いて目を見開いた貴和子に、慧一朗はぎこちなく唇を歪めた。なんとか笑顔を浮かべようとしたけれど失敗したというような、いびつな笑い方だった。

「どこまでできるか分からないけど、準備して、ワルコンに挑戦しようと思ってる。そのために、推薦状が必要なんだ。父さんが帰って来るまで、待たせて貰ってもいい?」

 すがるような声の響きに、貴和子はたまらなくなって息子を抱き締めた。

「ええ、ええ……当然じゃないの……!」

 大きな体がビクッと震え、やがて低い嗚咽と共に、貴和子の肩口が熱い液体で濡れてゆく。

 キッチンから、オーブンがキッシュの焼き上がりを呑気に知らせる音がした。


【第一部・完】

※二〇二六年十月 第二部発行予定

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