第9話:夜の窓下と、おしどり夫婦の亀裂
前回は「天罰だからさ!」なんて不穏すぎる高笑いをかましてくれた先生でしたけれど、私の知る限り、先生と奥様は【誰もが羨むおしどり夫婦】そのものでしたの。
家族という温かい輪の中で暮らしたことのない当時の私には、夫婦の深ーい機微なんて解りませんでしたけれど、先生が私とお喋りしている最中、メイドを呼ばずに奥様を呼ぶことが時々ありましたのね。
「――おい、静」
そう、奥様のお名前は『静』様とおっしゃいました。
先生が襖の向こうを振り返って「静」と呼ぶ声は、いつだって驚くほど優しかったのです。
呼ばれて「はい」と現れる静様の様子も、それはもう素直で愛らしくて!
たまにお食事をご馳走になる時なんて、二人の間に流れる空気があまりにも甘やかで、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうほどでしたわ。
先生は時折、静様をエスコートして音楽会や観劇にお出かけになっていましたし、ご夫婦水入らずで一週間ほどの旅行に行かれることも、私の記憶にあるだけで二、三度はありましたのよ。
ハコネの温泉地から送られてきたお洒落な絵葉書は、今でも私の宝箱に大切にしまってありますし、ニッコウの山へ行かれた時は、手紙の封筒の中に【鮮やかに染まった美しい紅葉の葉】が一枚、そっと忍ばせてありましたっけ……。
(まあ! なんだかんだ言って、めちゃくちゃラブラブなバカップルじゃありませんこと!)
当時の私の目に映っていたお二人の関係は、まさにそんな「理想の完璧な夫婦」だったのです。
――そう、あの日、【たった一つの例外】を目撃してしまうまでは。
◇
それは、いつものようにお屋敷へ突撃し、玄関で「ごめんくださいまし〜!」と声をかけようとした時のことでした。
奥の座敷の方から、ヒソヒソと話し声が聞こえてきたのです。
耳を澄ませてみると……あれ? いつもの穏やかな談笑じゃありませんわ。
どう聞いても――【ガチの言い争い(口喧嘩)】でしたの!
先生のお屋敷は、玄関のすぐ次が座敷になっています。
格子戸の前に立ち尽くす私の耳に、言い争いの不穏なトーンが嫌というほど飛び込んできました。
時折カッと高くなる低い男の声……間違いなく先生ですわ。
そして相手は、先生よりもか細く、低く沈んだ声……静様です。
まるで、泣きじゃくりながら訴えかけているようでした。
(ひ、ひえぇぇぇぇっ!? 修羅場ですわーーーっ!?)
玄関先で固まる私。
ど、どうしましょう!? 「ごきげんよう、遊びに来ましたわよ!」なんて陽気に声をかけられる空気じゃ100%ありません!
気まずさの限界を突破した私は、抜き足差し足でその場からダッシュで逃亡し、自分の下宿部屋へと逃げ帰ったのでした!
◇
部屋に戻ったものの、妙な胸騒ぎと不安が私の胸をぐるぐると支配しておりました。
机に向かって魔導書を開いてみても、文字がただの記号にしか見えず、まったく頭に入ってきません。
先生と静様が喧嘩……? あんなに仲の良かった二人が、どうして……?
悶々とすること、約一時間。
ふいに、私の部屋の窓の下から、低くよく通る声が響いたのです。
「――リリアナ君」
「ひゃいっ!?」
驚いてガバッと窓を開けると、なんと薄暗い夜道の中に、先生が一人でポツンと立っていらっしゃいましたの!
えっ、窓の下から令嬢を呼び出すなんて、ロミオとジュリエットか乙女ゲームの夜這いイベントですの!?と一瞬アホな妄想が脳裏をよぎりましたが、見下ろす先生のお顔は笑っていませんでした。
「……少し、散歩でもしませんか」
見上げながら、下から私を誘う先生。
時計を見ると、すでに夜の八時を回っておりました。
私は帰宅した時の制服のまま、慌てて靴を履いて夜の街へと飛び出しましたわ!
◇
先生が私を連れて行ったのは、大衆的な酒場でした。
私たちはジョッキに注がれた黄金色の麦酒で乾杯いたしました。
……とはいえ、先生は元々お酒がすこぶる弱いお方です。ある程度飲んで酔えなかったとしても、「じゃあ酔うまで浴びるように飲んでやろう!」なんて無茶な冒険ができるタイプではありません。
「……今日は、駄目ですね」
苦笑いしながらジョッキを置く先生。
私は気の毒そうに尋ねました。
「愉快に……なれませんの?」
私の喉の奥には、さっき玄関先で聞いてしまった夫婦喧嘩のことが、まるで喉に刺さった魚の小骨のようにチクチクと引っかかり続けておりました。
さっきの喧嘩のことを正直に打ち明けるべきかしら? それとも知らないフリを貫くべき?
そんな葛藤で、私の態度はあからさまにソワソワと挙動不審になっていたのですわ。
「君、今夜はどうかしていますね」
先生の方から、ふいに指摘されてしまいました。
「……実はね、私も少し変なのですよ。君に分かりますか?」
「えっ……」
「実は先刻、妻と少し喧嘩をしてね。それで、下らない神経を昂奮させてしまったんです」
先生の口からあっさりと『喧嘩』という単語が出てきて、私は思わず息を呑みました。
「ど、どうして喧嘩なんて……」
「――妻が、私を誤解するのです」
先生は苦々しく吐き捨てるように言いました。
「それを『誤解だ』と言って聞かせても、あいつは承知しないのです。……それで、つい腹を立ててしまった」
「どんな風に、先生を誤解なさるんですの……?」
恐る恐る尋ねた私の問いに、先生は答えようとはなさいませんでした。
ただ、ジョッキの底を見つめながら、自虐に満ちた、血を吐くような呟きを漏らしたのです。
「――妻が考えているような人間に私がなれるなら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
「っ……!」
妻が考えているような人間。
静様は、先生のことを誰よりも高潔で、優しく、完璧な夫だと信じている。
けれど先生は……そんな清らかな視線に晒されるたびに、自らの胸の中にある【汚らわしい闇】を突きつけられて、発狂しそうなほど苦しんでいた――。
先生がどれほど深い地獄で苦しんでいるのか。
能天気な悪役令嬢だった当時の私には、まだ想像も及ばない、暗い、暗い深淵のお話でしたの……。
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