第10話:妻君のために、と「あるべきはず」の愛
酒場を出てからの帰り道、私と先生の間には、百メートルも二百メートルも重苦しい沈黙が続いておりました。
夜風が酔いを冷ましていく中、突然、先生がポツリと口を開いたのです。
「……悪い事をした」
えっ?と私が振り返ると、先生は夜道を見つめたまま、自責の念に駆られたように呟きました。
「怒って家を出てしまったから、妻はさぞ心配をしているだろう。……考えると、女というものは可哀そうなものですね。私の妻などは、私より外にまるで頼りにするものがないのだから」
(……まあ! あんなに激怒して飛び出してきたくせに、結局は奥様のことが心配でたまらないんじゃありませんこと!?)
先生の言葉はそこで一旦途切れましたが、私の返事を待つ様子もなく、そのまま独り言のように続きました。
「そういうと、夫の私の方は大層丈夫な人間のようで、少し滑稽ですがね。……君、私は君の眼にどう映りますかね? 強い人に見えますか、それとも、弱い人に見えますか」
強いか、弱いか。
急にそんな二者択一を迫られても困りますわ!
頭脳明晰で魔導の天才、でも中身はウジウジした引きこもりのメンヘラ……。
私はちょっと考えて、正直に答えましたの。
「――中くらい、に見えますわね」
すると先生は、「えっ……?」と虚を突かれたように目を見張りました。
どうやら私のこの答えは、先生にとってかなり案外だったようですわ。
先生は再び口をキュッと閉ざし、無言のままスタスタと歩き出しました。
◇
先生のお屋敷へ向かう道中には、私の下宿のすぐ傍を通る角がありました。
曲がり角まで来て、このまま先生を一人で帰すのが何だか申し訳なく感じた私は、ご機嫌取りのように提案してみたのです。
「あの、ついでですし、先生のお屋敷の前までお見送りいたしましょうか?」
すると先生は、パッと手のひらを向けて私の申し出を遮りました。
「もう遅いから、早く帰りたまえ。……私も早く帰ってやるんだから。妻君(妻)のために」
(……っ!)
先生が最後にそっと付け加えた、「妻君のために」という言葉。
それが、冷たい夜風に晒されていた私の心を、妙にじんわりと温かくしてくれたのです。
あぁ、よかった。先生はちゃんと奥様を愛していらっしゃるし、あの喧嘩も、決して二人の絆を壊すようなものじゃなかったんだわ――。
私はその温かい余韻に包まれながら、その夜は安心してベッドに潜り込み、泥のようにぐっすり眠ることができましたの。
◇
実際、先生と静様の間で起きた波風は、心配するような大事件ではありませんでした。
それから後もお屋敷へ出入りし続ける中で、あんな激しい口論なんて滅多に起きないことがよく解りましたもの。
それどころか――ある日、先生は私に向かって、こんなとんでもない【激重純愛宣言】を漏らしたことすらあったのです!
「――私は、世の中で女というものを、たった一人しか知らない」
真剣な眼差しで、先生は静かに語り始めました。
「妻以外の女は、ほとんど女として私に訴えかけてこないのです。……妻の方でも、私を天下にただ一人しかいない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは――最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」
(ひ、ひえぇぇぇぇ……っ!! 尊い! 尊すぎて浄化されそうですわーーっ!!)
妻しか愛せない男と、夫しか見えていない妻!
なにその究極の純愛!? 全私がスタンディングオベーションですわ!
……けれど。
その時、私の耳にどうしても引っかかって離れなかったのは、先生が最後に放った、あまりにも異様な【語気】でしたの。
先生は、「私たちは最も幸福な夫婦だ」と言い切らなかったのです。
なぜか――「最も幸福に生まれた人間の一対で、あるべきはずです」と、まるで自分に言い聞かせるように、暗く沈んだ声で、不自然に力を込めて断言したのです。
(あるべき……はず? どうして断定なさらないの……?)
先生は、本当は幸福じゃないのですか?
こんなにも愛し合っていて、世界で一番幸福であるべきはずなのに……なぜそんなにも苦しそうに、悲しそうに呟くのですの?
不気味な違和感が私の胸をかすめましたけれど、その時の私は、「まあ深く考えるのはやめましょう!」と、その疑問を心の奥底へと葬り去ってしまったのでした。
◇
そんなある日のこと。
私は、先生のお留守中に屋敷を訪れ、静様と二人きりでお話しするという運命の機会に恵まれることになりましたの!
その日、先生はヨコハマの港から汽船に乗って外遊へ旅立つご友人を、新橋の駅までお見送りに行っていてご不在でした。
私はある学術書について先生にご教授願う約束をしており、事前に許可をいただいて約束の朝九時にお屋敷を訪ねていたのです。
先生の見送りは前日に突然決まったらしく、「すぐ帰るから、留守でも座敷で待っているように」と私への言付けが残されておりました。
「どうぞ、上がってお待ちになってくださいな」
静様に案内されて、私は居心地良く座敷へ上がらせていただきました。
そして――先生が帰ってくるまでの間、私と静様の、二人きりの秘密の女子会(?)が幕を開けることになったのですわ!
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