過去
相模朱鷺と西園寺椎が出会ったのは、まだ幼い頃の話である。
「っ、この糞ガキィ……!」
「っ……!」
「勝手に金使いやがって…!あぁ!?」
ガシャン!!
何かが割れる音に、襖に隠れていた行雲はビクッと身体を震わせた。
「あぁ!?テメェ今度金使ったらぶっ殺すからな!!!」
怒声は暫く続いていたが、やがて消え去る足音と共にその音は止んだ。
その瞬間、行雲は襖から飛び出した。
「お兄ちゃん!」
「っ、行雲…。大丈夫だよ?」
「お兄ちゃん…!」
行雲は、頭から血を流す兄に抱きついた。
涙を流しながら己に抱きつく弟の頭を撫でながら、朱鷺は微笑んだ。
「ごめんね、行雲。
怖い思いをさせちゃったね…」
「っ、お兄ちゃん!もう良いよ!この家を出て行けば、お兄ちゃんはもう傷付かなくて良いんでしょう!?」
「…そう、かもしれないね」
朱鷺は7歳、行雲は5歳になったのだが。
生憎、母と呼べる人と会った事は一度もなかった。
母は、自分達を産んだと同時に蒸発。
父は、酒に溺れ朱鷺に暴力を振るっていた。
金を与えられず、当然ご飯も与えられず。
そんな中、朱鷺は懸命に自分を慕う弟を育てていた。
「…そろそろ、お昼ご飯の時間だね」
「っ、ご飯なんてないの、知ってるよ…?」
「大丈夫、どうにかするから」
「お兄ちゃん…っ!」
ご飯も貰えないし、当然行雲は通わなければならない幼稚園にも行かせてもらっていない。
もちろん朱鷺も同様に、他のみんなが当たり前のように通っている小学校にも通っていない。
だが、朱鷺は何も言わずただ毎日を必死に生き抜いていた。
「…行雲、大人しく待ってるんだよ?」
「っ、お兄ちゃ……!」
行雲の言葉を遮るように、朱鷺は家から飛び出した。
外を歩きながら、ゆっくりと行雲の言葉を思い返す。
「(もうあの家に居続けるのは…。でも、家を出たとしても、僕たちには寝る場所すらもないんだ…)」
朱鷺は、近くの公園に足を運んだ。
水道で傷を洗い、ついでに顔も洗う。
家では、お風呂にすら入ることが禁じられているのだ。
朱鷺は、顔を洗い終えてからゴミ箱へと足を運んだ。
そして、無言でゴミ箱を漁りはじめた。
時折、食べかけのお弁当やパンを見つけてはそれに齧り付いた。
「(行雲の分は、いつものパン屋さんが失敗作をくれるから、大丈夫…)」
そう、行雲の分のご飯はいつも手に入れる事が出来ている。
だが二人分のご飯まではそうもらうことは出来ない。
故に、朱鷺はいつもこうして自力でご飯を探しているのだ
汚いとか、そんな感情はとうの昔に捨てた。
生きるためなら、どんなことだってしなくてはならないのだ。
こうして、いつものようにゴミ箱を漁っては食べるの繰り返し。
今日も、そんな一日で終わるのだと思っていた。
だが、それは突然起きたのだった。
「ねぇ?」
「っ!?」
ベンチに座っていた朱鷺に、誰かが後ろから声を掛けてきた。
バッと朱鷺が後ろを振り返ると、其処に居たのは一人の女の子であった。
綺麗な服に、調えられた髪の毛。
いかにもお嬢様といった女の子は、朱鷺をまじまじと見つめていた。
「あなた、いつもここにいるよね?」
「………」
「いったい、何をしているの?」
澄み切った瞳で見つめられ、朱鷺は気まずそうに俯いた。
そんな朱鷺に構うことなく、少女は話を進める。
「私の家ね、この公園の近くにあるの。いつもあなたのこと、家から見てた。」
それで、気になったから家を飛び出してきた。
そう言った女の子に、朱鷺はゆるゆると顔を上げた。
そして、小さく微笑んだ。
「…ご飯を、探してたんだ」
「ご飯?公園にご飯は売ってないよ?」
「……僕の家では、ご飯は出してくれないから。だから、ゴミ箱をあさって見つけるんだ」
汚い、そう思われるのを覚悟して朱鷺は言い放った。
だが、少女はふーん。と言って朱鷺の座っていたベンチに腰掛けたのだ。
これには、朱鷺も驚き隣に座った少女をマジマジと見つめた。
「ふーん、って…。」
「じゃあ、あなたは食べるものがなくて困ってるの?」
「え、あ…うん」
「そっか、じゃあはいっ!」
少女はごそごそとポケットから何かを取り出して、朱鷺に差し出した。
それを見た朱鷺は、驚き目を見開いた。
「なっ……!」
「これで、何か買えば良いよ」
朱鷺に差し出されたのは、子供が持つには早い一万円札。
驚き固まる朱鷺に、少女は呆気らかんとした態度で差し出したのである。
慌てて、朱鷺はそれをつき返した。
「い、いらないよ!」
「なんで?」
「なんでって…、そんなの…」
「…じゃあ、一緒に買いに行こう!」
ギュっと、少女が朱鷺の手を握った。
朱鷺は、固まった。
お風呂に入っていないせいか、朱鷺は汚かった。
服だってぜんぜん変えていないし、大人達は自分を避ける。
なのに、この少女は自らの意思で朱鷺の手を取ったのである。
「…あなたのお名前は?」
「…相模、朱鷺……」
「そう、朱鷺君かぁ。私はね、西園寺椎って言うの!
これから私と朱鷺君は、お友達ね!」
そう言って、椎は笑った。
これが、朱鷺と椎の最初の出会いであった…。
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「朱鷺君、おはよう!」
「…おはよう、椎ちゃん」
彼女の名前は、西園寺椎。
朱鷺は、西園寺家を知っていた。
この地域で一番大きな家に住んでいる裕福な家だ。
酒に溺れた父が、一度西園寺家の様な贅沢な暮らしがしてみたいと呟いたいたのを覚えていたからである。
「朱鷺君、今日は近衛と一緒にサンドウィッチを作ったの!」
「…椎ちゃん、大丈夫なの?一人で此処に来て…、それにご飯まで作って…」
「いいの、今は夏休みだから学校はお休みだし。
…それに、ママやパパは家に居ないし、いても風真に付きっ切りだから…」
サンドウィッチの入った箱を朱鷺に差し出しながら、椎は曖昧に笑った。
朱鷺は、その表情に気付き恐る恐る椎に質問した。
「…風真って?」
「んー、私の双子の弟。本当なら風真がお家を継ぐらしかったんだけど、風真は病弱だから…」
…初めて会った日から、一週間が経っていた。
毎日の様に椎は公園に来ては、朱鷺の分のご飯も持ってきてくれる。
いつも笑顔で、可愛らしい椎。
そんな椎が、初めて見せた切ない表情に朱鷺は胸が締め付けられた。
「…そっか……」
「でも、別に風真が嫌いなわけじゃないよ?
今度風真を朱鷺君に会わせてあげるね?」
きっと風真も喜ぶよ!
そう言って再び花が咲く様な笑みを見せる椎。
そんな椎に笑顔を返し、朱鷺はサンドウィッチに齧り付いた。
椎は、お金を受け取らない朱鷺のためにいつもご飯を持ってきてくれる。
朱鷺は最初は遠慮していたものの、一向に止める素振りを見せない椎を見て、今では素直にご飯を受け取っている。
大量のご飯を持って来てくれる椎のご飯は、今まで味わったことのない満腹感を与えてくれる程の量であった。
食べ切れなかったものは、いつも行雲に持って帰っていた。
そのときの行雲の表情を、朱鷺はきっと忘れることはないだろう。
「うん、また今度風真君に会わせてね」
「うんっ、約束!あ!じゃあ朱鷺君も今度弟くん連れて来てくれる?
確か、行雲君…だったよね?」
「うん、行雲も絶対に嬉しがるよ。」
そっかぁ、楽しみだな。
そう言って笑う椎を見ている朱鷺の顔は、穏やかである。
「…僕、椎ちゃんに会えて良かった」
「え?」
「椎ちゃんが居なかったら、きっと僕と行雲は食べるものもなくなって死んじゃってたかも知れないし…。
それに、椎ちゃんに会えてから楽しい、って思えるようになったから」
ありがとう、そう呟くと椎は困った様に首を横に振った。
「…ううん、お礼を言うのは椎の方だよ……」
「…どうして?」
「…椎はね、ずっと家で一人ぼっちだったの。
ママやパパは帰ってきても、風馬ばっかり可愛がって…。
私を待っているのは、お花のお勉強や武道のお稽古だけ…。…私は、小さい頃からずっと面倒を見てくれている近衛とすごす時間の方が、ママとパパと話す時間より長いんだ…。
凄く、凄く寂しかったの。
だから、いつも窓から朱鷺君のこと見てた。
学校が終わって、車で家に戻ってきたら朱鷺君のこと探してた。
話に行きたかったけど、一人でお外に出るのはママ達に見つかったら凄く怒られると思って…。
でも、近衛に正直に話したら黙っててあげるから行っておいでって言ってくれたの…
…だから、私はいま朱鷺君といる時間が凄く好きだよ?」
幼いながらに、一生懸命自分の意思を伝えようとする椎を見ていると、朱鷺は何故かむず痒い感覚に襲われた。
痒いけど、決して嫌な気分ではない…。
むしろ、心が温まるような…。
「…だから、朱鷺君もずっと椎のお友達で居てね?」
「……うん、約束」
「約束ね!」
夕方、近衛が迎えに来るまで、二人は他愛のない話で盛り上がった。
…二人の関係は、次第に深くなっていったのである……。
椎と行雲が初めての対面を果たしたのは、それから一週間後の話である。
「…椎ちゃん、僕の弟の行雲だよ」
「うわぁ、可愛いね!」
「…………っ」
興味津々といった面持ちで行雲を見る椎。
行雲はというと、朱鷺の後ろに隠れてなかなか椎と顔を合わそうとしなかった。
朱鷺の服の袖をギュウっと握って震える行雲の姿は、誰が見ても可愛いと思わせる姿で。
椎は朱鷺の服を掴む行雲の手を、そっと握った。
「…っ!?」
「はじめまして、朱鷺君のお友達の椎です!
行雲君ともお友達になりたいなぁ…?」
ビクッと大きく身体を震わせた行雲に、椎は微笑んで話す。
すると、恐る恐るだが俯いていた顔を上げてジッと椎を見つめてきた。
ニコニコと椎が行雲を見ていると、行雲はやがて閉じていた口を開いた。
「…椎、ちゃん?」
「うん!行雲君」
椎の名前を呼んだと思うと、急にパァと表情を明るくして朱鷺の後ろから出てきた。
そして、椎に思いっきり抱きついた。
「っ、僕ね!椎ちゃんのこといつもお兄ちゃんから聞いてたんだよ!
いっつもご飯くれてありがとう!」
「私も朱鷺君に行雲君のこと聞いてたから、会えて嬉しいよ!
あ、今日もお菓子持って来たの!一緒に食べよう?」
「うんっ!」
三人は公園のベンチに座って、椎が持ってきたクッキーを食べ始める。
行雲は食べ慣れないお菓子を大変気に入ったらしく、満面の笑みでほおばっている。
「美味しいね、椎ちゃん!」
「クッキー、そんなに美味しいの?」
「うん!僕、お菓子なんて食べたことなかったから……」
行雲は泣きそうな顔で、そう小さく呟いた。
朱鷺が心配そうに行雲を見たと同時に、椎は隣に座る小さな身体をギュと抱きしめた。
「っ!?」
「じゃあ、これからたくさん持って来てあげる。
行雲君がもういらない!って思うくらい、たくさん!」
行雲は、声が出なかった。
普段、父と朱鷺の姿しか目にした事がなかった行雲。
父が、朱鷺に暴力を振るっている姿しか見たことがなかった。
だからこそ、抱きしめられるという行為に触れたのが初めてだったのだ。
それに、行雲はずっと同じ服を着ていた。
お風呂だってぜんぜん入らないし、自分でも汚いという事は自覚していたのだ。
だからこそ、「抱きしめられた」ことに驚き目を見開いた。
「…椎ちゃん、あったかいね」
「行雲君も、あったかいよ?」
だけど、そんな行雲の姿など気にする素振りも見せず抱きしめてくれる椎。
そんな椎の行動に、行雲は思わず涙を流してしまった。
「っふええぇぇ…!」
「よしよし、泣かないのー」
朱鷺は、それを微笑んで見つめていた。
嬉し涙を流す可愛い弟と、それを慰める大切な女の子。
朱鷺の心は、温かさで満ち溢れていた。
そんなとき、遠くから誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「椎ーーー!」
「…え?」
ソレは、公園に足を踏み入れるなり椎に抱きしめられていた行雲を突き飛ばした。
無防備な状態で突き飛ばされた行雲は、そのままベンチから落ちてしまった。
「いたっ…!」
「っ、行雲君大丈夫!?」
「椎に触るなっ!!」
咄嗟に行雲に手を差し出した椎の腕を、行雲を突き飛ばした本人が掴む。
椎はその人物に驚いた。
「っ、風真…!?なんでここにいるの!?」
朱鷺は、行雲を抱き起こしながらその名前の主を思い出した。
風真、それは椎が言っていた…。
椎の、双子の弟である。
「椎、こんな奴等に関わっちゃダメだ!」
「風真、なんてこと言うの!?」
椎が顔を真っ赤にして風真に怒鳴った。
そんな椎に臆することもなく、風真は己の怒りを露にする。
「椎がいつも何処かに行っちゃうから、近衛を問い詰めたんだ。
そしたら、毎日友達に会いにこの公園に行ってるって…!ねぇ、なんで?椎は、僕のものでしょう!?」
朱鷺は、ふとある言葉を脳裏に描いた。
風真は、椎を取られたと思っている。
ずっと一緒であっただろう椎を、二人に取られたから怒っている。
「っ、私が誰と仲良くなろうと風真には関係ないじゃない!早く屋敷に戻りなさい、ただでさえ身体が悪いんだから…」
「イヤだ!椎も一緒に帰ってくれなきゃ帰らない!」
「っ、風真!」
パチン、とその場に響き渡った音。
「いい加減にしてよ!私のたった一つの楽しみまで、どうして風真に奪われなくちゃいけないの!?風真は、いつもママ達とお喋り出来るじゃない!
もう私に構わないで、帰ってよ!!」
…風真は、呆然と椎に叩かれた頬を押さえた。
…椎に、嫌われてしまった?
椎を見ると、涙を流してこっちを見ている。
僕の大好きな椎が、泣いてる……。
風真がそう感じたと同時に、ギュッと後ろから誰かに抱きかかえられた。
「風真お坊ちゃま!」
「……近、衛?」
其処に立っていたのは、 代々西園寺家に仕えていて、現在双子の指導係りをしている近衛で。
息を荒くして、風真を抱きしめていた。
「風真お坊ちゃま、黙って出て行かないで下さい!見つかったから良かったものの…!
もしお体に何かあったら、どうなさるおつもりですか!?」
帰りますよ。
呆然としている風真を抱きかかえた近衛は、泣いている椎を見て目を見開いた。
「椎お嬢様!?」
「……近衛、先に風真を連れて帰っていて」
「ですが…」
「…今は、風真の顔を見たくない」
その言葉で、どうして椎が鳴いているのかを近衛は悟った。
「お早めに、お戻り下さいませ」
そう椎に一礼し、風真を連れて公園を出て行った。
風真と近衛が屋敷に戻り、公園には涙を流す椎と相模兄弟が取り残された。
椎は涙をグイっと腕で拭うと、目を真っ赤にしながらも微笑んだ。
「ご、ごめんね!変なところを見せちゃったねっ!」
「…椎ちゃん……」
「大丈夫だよ行雲君、だからそんな顔しないで?」
泣き出しそうな顔で椎を見る行雲に、椎は微笑んでみせた。
そんな椎を見た朱鷺は、顔を歪ませる。
「椎ちゃん…?」
「大丈夫だよ、朱鷺君!でも、今日は近衛にも言われたし早く帰るね!
明日も来るから、ごめんねっ!」
そう言って去って行った椎の後姿を、朱鷺と行雲はただただ見つめていた。
…椎ちゃんを、守りたい。
朱鷺の、正直な心だった。
椎の寂しげな後姿を見て、朱鷺は確かにそう思ったのだ。
「…行雲、帰ろうか」
「…お兄ちゃん、椎ちゃん明日も来るかなぁ……?」
そっと行雲の手を取って歩き出した朱鷺に、行雲は不安気に尋ねる。
その問いにそっと瞳を伏せた朱鷺は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「…来るよ、きっと。」
彼女は、きっと。
朱鷺はそう言い聞かせ、家までの道のりをゆっくりと歩き始めた。
…次の日、父の暴力に耐え抜いた朱鷺は外に出たいという行雲を宥め、一人公園へと向かった。
朝早くから家を出た朱鷺は、公園に入った瞬間目を見開いた。
「……君…」
「お前が、相模朱鷺か」
其処には、昨日椎を連れ戻そうと公園にやって来た椎の双子の弟……。
「…風真、くん?」
「っ、お前に名前を呼ばれる筋合いはないっ!!」
朱鷺に名前を呼ばれた事が悔しかったのか、風真は顔を真っ赤にして怒鳴った。
朱鷺は予想外の人物が公園に居たことに対して唖然としている。
そんな朱鷺を、風真はありったけの殺気を込めて睨みつけた。
「お前!椎につきまとうの止めろよ!」
「…どうして?」
「っどうしてって、お前貧乏なんだろう!?」
必死な自分に対し、朱鷺は冷静に言葉を返してきた。
この事も、風真の怒りを煽ってしまう。
「貧乏だから、椎ちゃんに会っちゃダメなの?」
「ダメだ!僕は知ってるんだぞ!お前学校行ってないんだろ!?それに、椎は僕のモノなんだ!だからお前にはぜったいにあげない!!!」
…朱鷺は、静かに心の中で呟いた。
確かに、自分や行雲は学校に行っていない。
もしお金があるのなら学校なんて行かなくても良いからまずお腹一杯行雲にご飯を食べさせてあげたい。
自分が貶されるのはぜんぜん平気だけど、行雲が周りにバカにされるのは、どうしても避けたい。
そして…。
「風真くん」
「だからっ、僕の名前を…っ!」
朱鷺は、自分でも驚くくらい低い声で言い放った。
「…椎ちゃんは、モノじゃない」
「っ…!!」
風真は、全身に鳥肌が立ったのを感じた。
だが、ここで怯んでは負けとでも言う風に朱鷺に食って掛かる。
「っ、椎は僕のだ!」
「ううん、椎ちゃんは椎ちゃんだよ。」
モノじゃないんだ。
彼女は、西園寺椎というただの少女なのだから。
そう朱鷺が言うと、風真は涙目で朱鷺を睨み付けた。
「お前…っ!もう椎に会わせないようにしてやるっ!!!」
「………」
「ママやパパに言いつけてやるっ!椎にはもう触らせないからな!!」
風真はそう吐き捨て、最後に殺気を込めた瞳で朱鷺を睨み付けてから公園から走り去ってしまった。
それを見届けた朱鷺は、近くにあるいつも椎と座るベンチに腰掛け、膝を抱えて俯いた。
…今更になって、涙が出てきた。
風真は、もう椎に会わせないと言っていた。
今、自分が椎と会えなくなってしまったらどうなってしまうだろう…?
「…椎…。」
ダメだ、今の自分の前から椎が消えてしまったらきっと生きてはいけない。
行雲の事も投げ出し、死を選んでしまうだろう。
それほどまでに、俺は……。
「…朱鷺、くん?」
…聞こえた声に、朱鷺はゆっくりと顔を上げた。
そこには、心配気に自分を見つめる椎が居た。
「椎ちゃん…」
「朱鷺君どうしたの?どうして泣いてるの?」
椎は手に持っていたバックをベンチに置いて、スカートのポケットからハンカチを取り出した。
そして、そっとハンカチで朱鷺の涙を拭った。
「…泣かないで」
「っ、椎ちゃん……」
朱鷺は、咄嗟に椎を抱きしめていた。
ギュッと力強く、決して椎が離れていかぬように……。
「っ、朱鷺君!?」
「椎ちゃん、好きだ」
…子供の、何気ない告白だった。
だが、朱鷺は真剣に椎の事が好きだった。
その告白を聞いた椎も、抱きしめられながらポッと顔を紅くさせた。
「朱鷺、くん」
「椎ちゃん、好きだよ。きっと、はじめて会ったときから。
優しくて、強くて弱い椎ちゃんが、大好きだ」
朱鷺の、真っ直ぐな告白。
それを聞いた椎は、暫く呆然とその腕に抱かれていたが次第におずおずと朱鷺の背に腕を回した。
「…私も、朱鷺君の事が好きだよ」
「…椎、ちゃん」
「ずっと、気になってた。いつも悲しそうで、泣きそうな顔で公園にいた。
触ったら、壊れそうな朱鷺君を、ずっと守ってあげたいって思った…」
二人は、お互いを強く抱きしめる。
もう、言葉はいらなかった。
周りからすれば、子供のお遊戯に見えるかも知れない。
だが、二人の間には大人にも負けないくらいの絆が出来ていたのだ。
「……これ、行雲君に」
「お菓子?」
「うん、とっても気に入ってくれてたから」
それから暫くして、ベンチに座りなおした二人は穏やかな雰囲気で会話をしていた。
椎はバックを朱鷺に渡し、微笑む。
「ありがとう、椎ちゃん。きっと行雲、喜ぶよ」
「うん、また行雲君に直接お話したいな」
二人は手を繋ぎ、他愛ない話をした。
椎の家のこと、朱鷺の家のこと。
二人が会話に夢中になり、気付けば日が暮れる時間になっていた。
「そろそろ、帰らないと行雲が心配するな」
「うん、私も帰らないと」
…そう言いながらも、二人はベンチから離れようとしなかった。
朱鷺は、どうしても風真のあの言葉が気になって仕方がなかったのだ。
一方の椎は、思いが通じ合った今、朱鷺と少しでも一緒にいたくて仕方がなく…。
二人は、中々ベンチから立つ事が出来なかった。
朱鷺が思いを振り切り立ち上がると、椎も同じくして立ち上がった。
「…朱鷺くん」
「ん?」
「…また明日も、会えるよね?」
照れたように言葉を紡ぐ椎を見て、朱鷺は安堵した。
…大丈夫、きっと明日もいつものように会える。
「…うん、毎日でも会えるよ」
「っ、そうだよね!」
朱鷺の言葉にパァと表情を明るくした椎は、笑顔で公園から去ろうとした。
すると、その腕を朱鷺が掴んだ。
「え?…っ!?」
「……また明日ね」
チュ、と可愛い音が聞こえたかと思うと朱鷺は微笑んだ。
一方、椎は朱鷺に口付けられた頬を押さえて林檎の様に頬を染めた。
そして、小さくコクリと頷くなり一目散に公園から駆け出してしまったのだ。
その姿を見て、朱鷺が小さく笑みを零したのは言うまでもない…。
それから、朱鷺は毎日公園に通った。
だが、椎が公園に現れることは
なかったのだった…。
「…お、兄ちゃん……」
「行雲、がんばって…!」
ガヤガヤと、辺りは騒がしい。
そんな夜の街を、朱鷺は行雲の手を引いて歩いていた。
二人とも、頬は痩せこけ今にも倒れそうだ。
「…お兄ちゃん、もう……」
「大丈夫、大丈夫だから」
何が大丈夫か、もう朱鷺自身分からなかった。
ただ、闇雲に夜の街を彷徨い歩く。
今の朱鷺にあるもの。
それは、行雲を生かす義務と椎の笑顔だけだった。
「…椎……」
行雲の手を引きながら、朱鷺は思考の闇に飲まれていた。
…あの告白から、二ヶ月。
椎が、公園に現れる事はなかった。
「西園寺家、お引越ししたらしいわよ?」
「そうなの?じゃあ、あの家は…」
「別荘として使うらしいわ、本当にお金持ちの考えることは……」
椎を待ち続けて二週間目、偶然公園にいた主婦がしていた噂話が耳に入った。
正直、驚きはなかった。
ただ、風真の睨む顔と椎の顔を真っ赤にした顔だけが脳裏をグルグル回っていた。
…そんな朱鷺に、更なる苦難が襲い掛かった。
「おい、このクソガキィ!出て来いや!!!」
「っうわわああん、痛いよぉ…!」
「行雲!」
父が、行雲に手を上げたのだ。
いつもは行雲を隠し、自分が暴力を受けていた。
だが、今日は運悪く行雲が父の目に留まり、今夜の標的になってしまったのだ。
「テメェを生んでやった父に向かって逆らってんじゃねーよ!!」
「っ、いたぁぁああい!!」
「行雲っ!」
父が思いっきり行雲を殴り、その衝撃で身体の小さな行雲は吹き飛ばされた。
飛ばされた床に割れたビール瓶の欠片が散らばっていて、そこに勢い良く叩きつけられた行雲は頭を抱えて絶叫を上げた。
顔を真っ青にした朱鷺が行雲の元に駆け寄ると、行雲の頭から血が流れ出ていた。
…その日、朱鷺は決意した。
「…行雲、この家を出よう」
タオルで行雲の傷から流れていた血を拭い、父のお金を盗み家から逃げ出した。
二人に、行く当てなどなかった。
だけど二人は歩き続けた。
生きるために、ただそれだけのために。
夜の街の時間は、そんな子供など気にせず流れ続ける。
空腹と疲労で、もう二人は限界だった。
行雲は涙を流し、もう歩けないと蹲る。
朱鷺は、必死に自分を奮い立たせていた。
自分が、なんとかしなければ…。
自分が…。
ねぇ、そうでしょう?
「椎……」
………
……
…
「…何してんだ?」
自分の頭上から、誰かの声が聞こえて朱鷺はバッと上を向いた。
其処には一人の青年が立っていた。
茶髪の髪を遊ばせ、黒縁眼鏡を掛けている。
ジャージを着ているその青年は、蹲る行雲と立ち尽くす朱鷺をジーッと見つめていた。
「あ……」
「…んっ?」
知らない人に声を掛けられた恐怖で朱鷺の口から声が漏れたとき、青年がふと行雲の頭を見て眉を潜めた。
「…おい、そいつ怪我してんじゃねーか」
「えっ?」
「ガキが怪我してんじゃねーよ……、ほら立ちな!」
青年はひょいっと行雲を立たせるとその背に担いだ。
急な出来事に、朱鷺と行雲が目を見開く。
「えっ!?」
「ほら、病院行くぞ!」
青年はそのまま軽快に歩き出す。
朱鷺は呆気に取られたが、慌てて青年の後を着いていく。
信用して、良いのか…。
だが、もう朱鷺達には何も残されていなかった。
抗う力すらも、残ってはいなかったのだ。
「ふぅ、近くに救急病院があって良かったな」
「……」
…青年は、言葉通り行雲を病院に連れて行ってくれた。
そして行雲が治療を受けている間、待合室で青年と朱鷺はただ静かに座っていた。
…といっても静かなのは朱鷺だけで、青年はペチャクチャと朱鷺に話しかける。
「ほら、お前これ食うか?」
「…そこまで、親切にしてもらうことは…」
「良いから、ほらっ!」
青年は鞄に入れていたパンを取り出し、朱鷺に差し出した。
断ったにも関わらずパンを押し付けてきた青年に、朱鷺は無言でパンを受け取った。
パンを口に入れた瞬間、何故か涙があふれ出た。
無言で、涙を流しながらパンを口にする朱鷺を青年は無言で見続けていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「…お前、なんでこんな時間に怪我した弟連れてウロチョロしてたんだ」
「っ!?」
「……それに、お前の身体もボロボロじゃねぇか」
青年はハァ、と溜息を吐いた。
朱鷺はただ俯き、自分の怪我している部分を押さえた。
その様子を見て、青年は何かを感じたらしい。
あー、と気まずそうに頭を掻くとチラリと朱鷺を見た。
「じゃあ、これだけは答えてくんねぇか?」
「?」
「…お前、家を出てきたのか?」
…朱鷺は、驚いて男を見つめてしまった。
そんな朱鷺に、青年は笑った。
「…俺もな、家がイヤでガキの頃家を出たんだよ。
そん時の俺に、お前はそっくりだ」
…そう話す青年を見ていたら、朱鷺の口から自然と言葉が零れ出た。
「…父さんの、暴力に耐えれなくて……」
「………よく、頑張ったな」
そう言ってポン、と頭を撫でてくれた青年に、今度こそ朱鷺の涙腺は決壊した。
「…行く場所がないんなら、俺のところに来い」
「……ぇ」
「俺だけが住んでるって言うワケじゃねーけど…。俺みたいに、家に帰れない奴等が住み着いてる場所があんだよ。
…そこを、お前の居場所にしたら良い」
…朱鷺は、目の前の青年の言葉に声も出なかった。
どうして、こんなにも優しくしてくれるのか。
見ず知らずの、こんな汚い子供二人を…。
そんな思いが通じたのか、青年は朱鷺の頭を撫でながら目を細めた。
「…言ったろ?お前は昔の俺に似てるって。別に、言いたくなけりゃ親父さんの話は詳しく聞きはしない。
ただ、お前の居場所として俺達の家を使えば良い。」
…朱鷺は、気付かぬうちに頷いていた。
涙で顔を濡らしながらも、それでも懸命に。
「…俺の名前は、慶司だ。」
「…ケイ、ジ?」
「ああ、お前の名前は?」
朱鷺は、ケイジの顔を見つめてハッキリと言葉を紡いだ。
「…朱鷺、相模朱鷺」
「…トキか、良い名前持ってんじゃねーか。…よろしくな、トキ」
行雲は、頭に包帯を巻いて治療室から出て来た。
すると待合室で泣いているトキを見て目を見開いたかと思うと、キッとケイジを睨みつけた。
「お兄ちゃんを、泣かすなっ!」
「おっ?」
「ち、違うよ行雲!」
どうやら、トキが泣いているのはケイジに泣かされたからだと思っているらしい。慌ててトキが行雲を止めようとしたら、ケイジさんはそんなトキ達を見て豪快に笑った。
「ハハ八ッ!お前は兄貴想いだな!」
「へ…?」
「違うんだよ、行雲。ケイジさんは俺達に居場所をくれたんだ」
混乱する行雲に、先ほどの会話を話す。
驚きに満ちた表情を浮かべていた行雲だけど、次第に目を潤ませてケイジを見つめた。
「…本当、に……?」
「ああ、お前とトキに不自由な思いはさせねぇ。」
なっ、ユクモ?
ケイジの言葉に、行雲も涙を流した。
「いいから、なっ?」
「でも……」
診察代をどうしようとトキが悩んでいたとき、ケイジがスッとお金を払ってくれた。
これにはトキ達も抗議したが、ケイジの笑みに押され結局ケイジが支払ってくれた。
トキ達が持っているのは、父から盗んできた数枚の一万円札。
使ってしまおうかと思ったが、あの父が持っていた金だと思うとどうしても使う気が起きなかった。
それを察知したケイジが、あえて診察代を払ったのだ。
病院から出た三人は、病院の前に誰かが居る事に気がついた。
その姿を捉えたケイジが、あっ!と嬉しそうな声を零す。
「ミオ!ハル!」
「全く、ケイジが病院にいるーなんて連絡して来たから何事かと思えば……」
「…これまた、随分大きな拾い物をしたな」
そこに居たのは、二人組の男女だった。
ケイジは二人に笑みを浮かべると、トキとユクモに話しかける
「コイツ等は、いま俺と一緒に暮らしている奴等なんだ。女の方がミオで、男の方がハルな。」
ミオとハルが、トキ達に視線を向ける。
その瞳は、呆れた視線を多く含んでいたが決して嫌悪感等は浮かんでいなかった。
「全く…私はミオよ、よろしくね。」
ミオは、二コリと微笑んでユクモとトキの頭を撫でた。
「…ハルだ、よろしく」
ハルは無口なのか、それ以上話すことはなかった。
二人の自己紹介を聞き終えたトキとユクモは、慌てて言葉を紡ぐ。
「…相模朱鷺です、よろしくお願いします」
「相模行雲で、すっ」
…きっと、ケイジは自分達が見ていないところで二人に話していたのだろう。
どうして二人が共に暮らすのかを聞いてくることもなく、暖かく二人を迎えてくれた。
ケイジ達が暮らしていたのは、廃工場の中だった。
「一応、この敷地はミオの家のものなんだ」
「…家の、なんだけどね」
そう言って入った工場の中は、普通に暮らしていける様な構図になっていた。
冷蔵庫だって、ベットだって全て備え付けられている。
トキとユクモは興味深く辺りを見渡していた。
「おう、二人とも。」
その声に二人が振り返ると、ソファに三人が座って来い来いと手招きしていた。
トキ達は三人の元まで向かうと、向かいソファに腰を下ろした。
「…まず、最初に謝っておかなきゃなんねぇ事がある」
「え?」
「…俺達は、成人してるとはいえ金があるわけじゃねぇ。だから、お前達を学校に行かせてやる事が出来ない」
…なんだ、そんなことかとトキとユクモは思った。
自分達に住む所をくれた三人に、これ以上何も望んでなどいなかった。
…いや、望むのが怖かった。
望み過ぎたら、その幸せが一気に崩れ去ってしまいそうだから。
「そんなの、ぜんぜん……」
「…すまない、代わりに色んな事を俺達が教えてやっからな!」
ケイジの言葉に、二人は深く頷いた。
すると、ハルがゆっくりと口を開いた。
「…それで、俺達のこと」
「……ハルさん達のこと?」
ユクモが首を傾げる。
すると、ミオさんが微笑みながら頷いた。
「…私達は、夜の街に住む四獣神。
【神龍】のトップなのよ」
…急な言葉と訳の分からない単語に、二人は疑問符を浮かべた。
「あのね、夜の街にはたくさんの不良がいるの。
その不良達は、いっつもグループを作って行動する…。
そんなグループの中でも、凄く喧嘩が強いチームが出来るの。
四獣神は、喧嘩がものすごーく強いチームのこと。」
ミオの説明で、二人は大体のことを知った。
ケイジを中心に、このチームは動いていること。
次に強いのはハル、その次がミオだということも教えてくれた。
「お前達に迷惑は掛けない。だけどもしものことを考えてお前たちにも強くなってもらわなきゃな!」
ケイジさんはすまなそうに笑った。
トキ達はぜんぜん平気だと笑みを返した。
…幸せ、だった。
--------------
『朱鷺君っ!』
…ハッ、とトキは目を見開いた。
荒い息を、必死に抑える。
そして、重い溜息を吐いた。
…ひとしきりケイジ達と話しをして、布団を敷いてもらった。
疲れもあり直ぐ眠りに就けたのだが、脳裏に浮かぶのは大好きな女の子の姿…。
「…椎……」
布団をギュッと掴む。
椎、僕はこれからどうしたら良いの…?
トキは、あふれ出てくる涙を抑えきれる事が出来なかった。
声を噛み殺し、涙を流し続ける。
…自分のこれからが、分からない。
ケイジさんの事は、十分信用してる。
でも、でも……怖い。
トキは、夜が明けるまでずっと涙を流し続けた…。
……………
………
…
それから、幾ばくか時は流れた。
ケイジ達は、二人を仲間として接してくれた。
「トキー、ユクモ!ご飯だからこっちにおいで!」
「はーいっ!」
トキは、10歳になっていた。
8歳になったユクモは、ケイジ達のお陰で非常に明るく人懐っこい性格になっていた。
「ミオちゃん、今日のご飯は何ー?」
「ん、ハンバーグだよ?…それより、トキは?」
ミオはユクモの座る椅子の前のテーブルに皿を置くと、暗い表情で問いかける。
すると、ユクモは表情を暗くさせうつむいた。
「…知らない、どっか行った」
「……そっか、じゃあ先に二人で食べようね?」
…台所には、トキの分のハンバーグがポツリと残されていた。
…トキは、ただ地にひれ伏す男達を眺めていた。
「……お前、ガキのくせに…っ!」
「……うるさいな」
「ぐあぁっ!」
倒れている男達を、蹴り上げる。
その姿を、ケイジとハルは眉を潜めて見ていた。
「……ハル、俺は間違っていたのかも知れない」
「…ケイジ」
「トキを、この世界に連れてちゃいけなかったんだ。
アイツは誰よりも優しい性格だった。
それを、変えてしまったのは他の誰でもない…。
俺、なのかも知れないな」
…トキは、蹲る男達を見ても何の感情も沸かなかった。
……いつからだろうか?
椎の事を考えないようにと、喧嘩に没頭しだしたのは。
ケイジとハルの後を追うように、ベットにも着いて行く様になった。
…たかが10のガキに、大人が負ける。
大人はこんなに弱かったのかと、トキは思った。
「…もう、どうでも良いよ」
トキは、暗い闇の中にいるようだった。
…唯一の心配でもあったユクモは、笑顔で暮らしている。
ミオやケイジ、ハルにも心を開き何不自由なく生活している。
そんなユクモを見ていると、トキは自分の使命が終わったのだと感じたのだ。それと同時にトキを襲ったのは、とてつもない喪失感だった。
『朱鷺君!』
夜な夜な夢に出てくる、大好きな椎。
手を掴もうとすれば、消えてしまう。
最初は、悲しくて仕方がなかった。
だが、もう今はどうでもよくなってしまったのだ。
「…ねぇ。なんで俺はこの世にいるんだろう……」
…倒れた男達を見て、トキは小さく言葉を紡いだのであった…。
「俺、タイガって言うんじゃ!
おんし達がトキとユクモかのう?」
トキはその年、初めてタイガと対面した。
当時の虎徹のトップであったタイガの兄に、ケイジが頼んだ事がきっかけだった。
『トキに、タイガを紹介してくれないか?』
トキに友達が出来れば、少しは以前の穏やかな少年に戻るのではないかという、ケイジのささやかな願いでもあった。
タイガの兄は快くそれを了承し、タイガを連れてきたわけだが。
「…………」
「あ、僕はユクモって言うの。よろしく…!」
黙る兄に、それを見て気を使う様に言葉を発するユクモ。
それを見て、タイガは呆気に取られた。
「なんやおんし、話せんのか?」
「……話せるよ」
トキはそのとき、初めてタイガを見た。
その瞳は、空虚であった。
空虚の中にある、その何かにタイガは引き付けられた。
「…聞いとるんなら、返事くらいしんしゃい。俺はおんし等と仲良くしようと思って遊びに来たんじゃ!ほら、お菓子も持って来たぞ!」
お菓子、の言葉にユクモの表情が明るくなる。
それを見たタイガは、笑顔でユクモに尋ねる。
「おう、ユクモはお菓子が好きなんか?」
「うんっ!お菓子は大好きだよ!だって、昔椎ちゃんが…」
「…ユクモ」
…すると、先ほどまで黙っていたトキがユクモの言葉をさえぎる様に言葉を発した。
その声色に、ユクモはびくりと肩を震わせた。
「ご、ごめんなさい」
「…………」
…タイガは、内心溜息を吐いた。
これは一筋縄ではいかないな、と……。
タイガの努力空しく、トキはそれからというものの心を閉ざし続けていた。
17歳になった時には、既にトキは誰にも負けない存在になっていた。
「見てみて!トキさんよ!!」
「素敵ね…、あんな男に抱かれたいわ…」
男女共に、トキの凄さに魅了されていた。
そのルックスに、クールな性格。
そして何よりも喧嘩が強く、若者の間ではカリスマ的ポジションにあり続けていたのだ。
「……トキ、ちょっと良いか?」
「…なに?」
いつものようにベットをしようとアジトを出ようとしたとき、ケイジがそれを呼び止めた。
…トキの瞳の冷たさにケイジは一瞬悲しそうな表情を浮かべるが、直ぐにそれを消した。
「お前ももう17だ。そろそろ神龍のトップをお前に譲ろうと思う」
「…そう、ケイジはこれからどうするの」
「ミオ達と、どっかマンションでも借りて暮らそうって話をしてる。
…だけど、今のお前に神龍を託せるのか……」
「…じゃあ、違う人に託せば良いよ。」
「っ、トキ!」
トキは小さく嘲笑を浮かべると、ケイジの制止を聞かずにアジトから出て行ってしまった。
そんなケイジを見ていたユクモは、恐る恐るケイジに話しかけた。
「ケイジ兄ぃ…」
「…ごめんな、ユクモ。
俺のせいで、トキがあんな風になっちまって…」
「っ、違うよ!ケイジ兄ぃのせいじゃない!!」
ユクモは首を横に振りながら叫んだ。
ギュッと拳を握り締め、唇を噛み締める。
「…大丈夫だよ、ケイジ兄ぃ。」
「え?」
「確信なんて何もないけど、トキ兄ぃなら大丈夫だよ…。
きっと、椎ちゃんが助けてくれるよ…」
「椎、ちゃん?」
初めて聞いたその名前に、ケイジは首をかしげた。
そんなケイジに、ユクモは曖昧に微笑んだ。
そうだよね、椎ちゃん。
椎ちゃんは、いつだって僕達を救ってくれるんだから…。
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それは、本当に偶然の出来事だった。
「…………」
…トキは、迷っていた。
ベットをしたくて、夜の街へ繰り出したは良いものの。
今日は、良い標的がいなかったのだ。
暫く徘徊していると、ようやく手ごろな相手が見つかった。
だがそいつ等はトキが今の今まで避けていた場所へと入っていってしまったのだ。
「……」
トキは暫くその前で立ち尽くしたあと、ゆっくりとその場所へと足を踏み入れた…。
辺りを見渡したが、何故か先ほどの男達は見当たらない。
トキは無表情でどこかを見つめると、ゆっくりと歩みを進める。
「…ここは、変わらないな」
…目の前にあるベンチに、そっと座る。
蘇る、過去の記憶。
『朱鷺君?』
『…私も、朱鷺君の事が好きだよ』
『…また明日も、会えるよね?』
…ぎりっと、唇を噛んだそのとき…。
「っ、やめてよ!!!」
「うっせぇな!黙って犯されろや!!」
草むらの中から、男女の争い合う声が聞こえた。
…それを聞いたトキは、ゆっくりと立ち上がる。
別に、強姦を止めに行くような正義感はない。
ただ、この思い出の場所で。
汚らわしい行為を、して欲しくなかっただけである。
…トキは、声が聞こえる方へと歩み寄る。
次第に見えてくる人影に、トキはどんどんと向かっていく。
そして、その姿が見えたとき。
「っ、離して!」
…トキは、動くのを止めてしまった。
「黙れや!こんな時間にウロチョロしてるそっとが悪いんだよ!!」
「スタンガンなんて卑怯よ!」
「うっせぇ!」
何人もの男達に、囲まれている。
縄で手足を縛られながらも、懸命に逃れようと暴れている。
服は、肌蹴ていて。
そして、その瞳はこの状況でも決して諦めることなく男を睨みつけていた。
『朱鷺君!』
「…椎、?」
「……朱鷺、君?」
草むらに、群がる男達。
必死に犯されぬ様に、抵抗する女。
なんてことない、夜の街の風景。
ただ、一つを除いては。
「椎……」
…草むらに、組み敷かれている女性。
それは、かつてトキが求めて止まなかった。
椎、本人だった。
「あぁ!?んだテメー、ひっこんでろや!!!」
「今からこの女犯すんだよ!失せろ!」
男達はイヤらしい手つきで、椎の頬を撫でる。
椎はギュッと目を瞑り、その気色悪い感触に耐えている。
…その光景を見て、トキの中で何かが切れた。
「…んな」
「あぁ?」
「…椎に、触るなっつってんだよ!」
トキは無我夢中で、男達を殴り倒した。
ただ、その汚らしい手で椎に触って欲しくなかった。
『朱鷺君!』
その無垢な笑顔を、汚される気がしたから。
「っ、もう止めて!」
…トキは、椎の悲痛な叫び声で我に返った。
ふと前を見ると、其処には血を流して倒れる男達。
そして、後ろからトキに抱きつきトキを止めようとしている椎の姿が目に入った。
「朱鷺君、もう良いよ……!」
「………ぁ…」
「もう、やめて…」
椎の身体は震えていて、トキは無言で椎を抱きかかえた。
そして男達を放置し、何処か休める場所を探した。
しかし、そんな場所は一つしかなく。
「……ごめん。」
「…ううん、大丈夫」
近くにあったラブホテルに入り、スタンガンを使われ力の入らない椎をそっとベットへ下ろす。
すると、部屋に充満する気まずい空気。
…トキは、ジッと椎を眺めた。
ボブカットの髪型は、昔から全く変わらない。
幼さを感じさせる椎に、トキは目を細めた。
そんなトキに気付いたのか、控えめに椎がトキを見た。
「…朱鷺君、だよね……?」
「……ああ」
無表情でそう答えるトキに、シイはホッとした表情を見せた。
「朱鷺君、会いたかった…」
「…会いたかった?」
シイの言葉を、トキは鼻で嘲笑った。
そんなトキに、シイは眉を潜める。
「…何が可笑しいの?」
「だって、君が俺の傍から消えたのに、会いたかったって聞いたら可笑しくて…」
クスクス、魅惑の笑みを零すトキを、シイはただ呆然と見ていた。
…トキの、異変に気付いたからである。
「…トキ君、何があったの?」
「…………」
「私と離れている間に、一体何が起きたの?」
シイは、優しく微笑みを浮かべながらトキに話しかけた。
トキはそんなシイを見つめ、そしてゆっくりと己の過去を話し始めた。
…別に、話すつもりなんて無かったのに。
シイを見ていたら、勝手に口が動いていた。
トキは漠然とそんなことを思いながら、ただただシイを見つめながら話した。
「……シイ…?」
「っ、ごめんなさい」
話し終わったと同時に、感じた暖かさ。
気がつけば、その身体を抱きしめられていた。
シイの行動に、目を見開くトキ。
そんなトキに構わず、ただただシイはその身体を強く強く抱きしめた。
「トキ君、もう意地を張らなくても良いんだよ…っ
貴方は、もう十分頑張ったんだから…!」
「…!」
その言葉に、トキは唖然とした。
なぜ、君には全て分かってしまうんだろうか。
誰にも、触れさせない己の本心に…。
トキは、シイの暖かさを感じると共に自分の頬が濡れている事に始めて気付いた。
…トキは、泣いていた。
「ぁ……」
「もう大丈夫、大丈夫だから…」
背中を撫でられ、余計に涙が零れ落ちた
トキが涙を流している間、シイはずっとトキを抱きしめ続けた…。
「……私、あれから違う家に引越しさせられたの。でも、どうしてもトキ君の事を忘れることが出来なかった……。だから、いつもあの公園に行って、待ってた」
「…ずっと、シイは、あの公園に、いたの?」
トキは呆然と、そう呟いた。
自分が、記憶を恐れている間…。
シイは、ずっと公園に居てくれたと言うのか?
「…私の護衛が薄れた一年前から、暇があったらずっと公園に居たの。だから、トキ君の話も耳にしたよ?」
トキの、話。
それは、神龍というチームで根こそぎ相手を潰している話だろうか。
それとも、冷酷無慈悲で有名という話だろうか。
トキには、皆目検討もつかなかった。
「でも、直接会いには行けなかった…」
そう言って、シイは切なげに笑った。
「私、弱虫だから。トキ君に会ったとき、拒絶されるのが怖かった。
…逃げてたの。トキ君ならきっと公園に来てくれるんじゃないかな?って、ずっとそんな考えを持って逃げてた。…最低なんだ、私」
その言葉に、ただ抱きしめられていたトキが逆にシイを包み込む様に抱きしめた。
そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「…シイは、強いよ」
「弱いよ」
「ううん、強いよ。俺は過去から逃げようとしたのに、君は真っ向から立ち向かっていった。…そして、再び俺の前に現れてくれた。」
トキは少し身体を離し、シイの額にゆっくりと唇を触れさせた。
潤んだ瞳でトキを見るシイに、トキは極上の微笑を見せた。
「……俺は、今までずっと逃げてきた。人を殴って、過去から逃げようとしてきたんだ。
…でも、もう逃げない。
君が、シイが…。俺の前に現れてくれたから」
結局、昔からシイが居ないと自分は何も出来なくて。
こうして、シイを一目見ただけで心が落ち着く。
…シイ、昔俺が言ったことを覚えてるかな?
「…君は、いつまで経っても俺の愛しい魔法使いだね」
「…トキ君、私決めたの」
「何を…?」
それから、二人は手を繋ぎベットに横になった。
何もしない、ただ一緒に手を繋いで眠るだけ。
空いた時間を、埋めるように。
ただ、それだけで十分だった。
「…私、西園寺家を出るわ」
「…シイ、それは…」
「…今まで、西園寺家に囚われて生きてきた。けど、私の意志で進む時が来たんだと思う。
…私は、貴方と共に行くわ」
トキは、その言葉を聞いて更に手に力を込めた。
シイが、己の横に居てくれると言った。
それだけで、もうトキは何もいらないとすら思った。
「シイ……、本当に良いの?」
「うん、私はトキ君…。…トキと、一緒に生きていきたいから」
二人はお互い微笑み、いつぶりかすらも分からない穏やかな眠りに就いた。
きっと起きたら、昨日までの生活とは全く違う世界に行けるんだろうな。
そう、思いながら。
「……おはよう」
「おはよう、トキ」
トキが目を開けたとき、其処にいたのは己を見つめて微笑んでいるシイの姿だった。
その姿に目を細め、トキも笑った。
「シイが、居る」
「これからは、ずっとトキの傍に居るよ?」
シイの言葉に、トキはきょとんとした表情を浮かべた。
そして、二人で見つめあいクスクスと微笑んだ。
「…行こう、シイ。ユクモも、君を待ってる」
「うん。」
二人は、手を繋いでホテルを出た。
外は既に昼間で、輝く太陽が二人を包み込む。
トキは夜の街に住んでから、初めて澄み切った心で街を歩いた。
そんなトキを見た、トキを知る若者達は驚き言葉を失った。
…其処に居たのは、夜の街で恐れられる男ではなかった。
「シイ、お腹減ってない?」
「ちょっとだけ、かな。トキは大丈夫?」
…其処に居たのは、ただの一人の男であった。
誰もが見た事のないような笑みを浮かべ、一人の女を大事そうに愛しそうに見つめている。
ただの、恋する男だったのだ。
「…トキ様、素敵……」
それを見ていた、一人の女が呟いた。
夜の街に生きる狂犬が、唯一心休める場所を見つけたのだと。
若者達は、皆トキを祝福した。
「……っトキ!!」
アジトの前まで来たとき、誰かがアジトの前に蹲っていた。
その人物はトキを視界に捕らえた瞬間、目を見開きトキに駆け寄ってきた。
「…おはよう…ケイジ。」
「……っ!!」
ケイジは、言葉が出なかった。
トキが、穏やかに微笑んでいる。
己とトキが暮らし出したとき、ほんの一瞬だったが見た事があったその笑み。もう二度と見ることはないと思っていた笑みを、トキが浮かべて立っているのだ。
「お、前……」
「…ケイジ、話があるんだ」
ケイジは、ゆっくりと視線をシイに移した。
シイとトキの手は強く握り締め合っていて、ケイジは混乱する頭のなかぼんやりと結論を見つけ出した。
ああ、コイツはもう大丈夫だ。
ケイジは頷き、トキを見た。
「…みんな、お前を待ってるぞ。
そこのお嬢さんも、汚いとこだけど入って下さい」
「ありがとうございます。」
ケイジが、アジトの扉を開く。
開いたその先には、シイがもう一人会いたいと願っていた人物が立っていた。
「ユクモ、君……」
「…やっぱり、トキ兄ぃを助けてくれるのはシイちゃんなんだね」
ユクモはそう言って、にっこり笑った。
シイはその笑みを見るなり、走りよってユクモを抱きしめた。
「っ、ユクモ君…!」
「お帰り、シイちゃん。」
ユクモもシイの背に腕を回し、その愛しい身体を抱きしめた。
トキも、その様子を目を細め見つめる。
「…で、何なのこの展開?」
「さぁ」
…アジトにいる、話に付いていけていないミオとハルの疑問の声だけが、アジトに響き渡った……。
それから、トキは全てを三人に話した。
三人はトキの話を聞き、そしてようやく今のトキの様子に納得できた。
「へぇ、この娘がトキの愛するお姫様な訳ねぇ?」
「トキの癖に、生意気だな」
ミオとハルのからかう言葉に、トキは苦笑いを浮かべる。
その隣では、シイがチラリとケイジを見つめていた。
「ん?どうしたんだ?」
「…あの、お礼が言いたくて…」
「お礼?」
ケイジの疑問符を浮かべた言葉に、シイは頷く。
「トキとユクモ君を救ってくださって、本当にありがとう御座いました」
「!……ハッハ!!こりゃ良い教育を受けたお嬢さんだな!」
ケイジは高らかに笑うと、優しい瞳でシイを見た。
「…お礼を言われることなんざ、俺はしてないね。
だけど………これからは、君が二人を支えてやってくれ」
「…はい。」
ケイジは、危惧していた。
本当に、トキに神龍を託しても良いものか、と。
だが、シイに会って全ての決意は固まった。
「トキ」
「なに、ケイジ?」
…もう、トキは俺達が居なくてもやっていけるだろう。
シイに支えられ、ユクモを支え。
…そして、俺達を超える神龍を築いてくれる…。
そう、信じてる。
「…今日からお前が、神龍のトップだ」




