9
今朝、王都に到着したラーソンは王妃ソフィーに参内するようにと言われた。
仕方なく、船旅の疲れを癒す間もなく宮殿へと向かったのである。
「ラーソン、このところ、アーサーを見かけないけれど、どうしているのかしら? 王様のお誕生日に何を贈るのかしら? プレゼントが重ならないようにしたいのよ」
「王子は、アストラ北部の温泉施設で療養されてます。父王様への贈り物は白狐の毛皮でございます」
ラーソンは涼しい顔で答えたけれど、背中には冷や汗が滲む。
「それでアーサーはいつ戻るの?」
「そ、それはお身体が良くなったなら戻られると思うのですが」
「よほど腰が悪いのですね。わたしの知り合いの医師を保養地に向かわせましょうか?」
「それには及びません。王様のお誕生日に母上様が亡くなりましたので、その時期が来るとズキズキと背中が痛むようです。王様の誕生日の前日までには戻られると思います」
「あら、それならいいのよ」
いつもそうなのだが、ソフィーは、たおやかな笑みを浮かべている。
相変わらず、腹の内が読めない女だと思いながら、ラーソンは尋ねた。
「ところで、今朝はローク隊長を見ていませんが、どちらにおられるのですか?」
ロークというのは近衛兵を統括する武官の男た。
「ロークはバティスト島ですよ。彼の腹違いの妹が出産するとかで、見舞いに行ったのです。そろそろ、帰ってくるんじやないかしら」
「そうですか」
ロークに妹がいたなんて初耳だ。
アーサー王子の襲撃にロークは関わっていたのだろうか。ラーソンは知っている。ロークは王妃の愛人である。
(もしかしたら、アーサー王子を殺すように指揮したのはロークなのか?)
ソフィーの私室を出てからもラーソンは落ち着かない。
(クソッ。どうすればいい)
この宮殿には二百五十もの部屋があり、宮廷に仕える者達はそこで暮らしている。生憎、宮殿は老朽化しているので、アーサーの計らいにより、ラーソンは庭付きの小さな家に暮らしている。
自宅に戻り、鳩小屋へと向かうと、ちょうと、南の方角から鳩が戻ってきた。
(アーサー王子の鳩だ)
鳩の足には金色の紙が巻かれていた。
文字は何も書かれていない。しかし、それで充分だった。
赤は『負傷』
青は『すべて順調』
緑は『予定変更』
金は、『資金をくれ』
(なるほど、アーサー様は金欠なのですね……)
金の無心をしてくるという事は無事に生きているという事である。
(良かった。王子は生きている)
鳩の羽の色から察するに、これは、バティスト島から飛んできたものである。
(分かりました。手配いたしますよ)
ラーソンの心は浮き立っていた。王子との付き合いは長い。彼は、このまま、疑惑の島を調べるつもりなのだと悟った。
それならば、遠くからでも王子をフォローするしかない。しかし、そんなふうに微笑むラーソンを臨時雇いの庭師が物陰から見つめていたのである。
実は、王妃ソフィーが放った密偵なのだ。
その半時間後、庭師は、王妃に向けて密書で報告していた。
『報告します。王妃様と対面した直後は気難しい顔をしていたというのに、ラーソンは伝書鳩を見た途端に鼻歌を歌い始めました。何か、王子の手がかりを発見したのかもしれません』
その短い文字を読んだソフィーは唇を噛みしめている。
「あら、まだアーサーは生きていたのね。あとは、ロークに任せるしかないわね」
アーサーがバティスト島に向かうと聞いていたので、ロークはその前日からバティスト島で待機している。
(我々が、手出しせずとも、ギャバがアーサー一行を殺してくれるはずだったのよ)
しかし、彼等がアーサーを殺し損ねた場合、ロークがアーサーを暗殺する事になっている。
☆
今、ロークがいるのはバティストの沿岸部にある自分の別荘だ。市街地からは少し離れている。
ロークも独自にアーサーの行方について調べていたのだが、思いがけず、部下からの報告が届いた。
つい、最近、アーサーと共に生き残り、無人島へと辿り着いた者がいたらしい。
(アーサー王子が死んだという確証はまだ得られていない)
アーサー王子と同じ船に乗っていたフーコック島の子爵令嬢はラーソンの手引きでフーコック島に帰っているという。
しかも、その無人島とやらにはボートで乗り込んだ男がいたようなのだが、その男の死体は漁師達も見ていない。
まさか、アーサーはボートで無人島に辿り着いたのだろうか?
もし、そうだとしたら、事前に襲撃される事を予知していた事になる。
とにかく、あの定期便にアーサーが乗り込んだことだけは確かなのだ。
でも、今は行方不明……。
女達もボートで辿り着いていたが、アーサーなど知らないと嘘をいている可能性もある。
(アーサーの暗殺について母娘が余計な事を話していないかどうかも気になる)
☆
「はいはい、そこのお兄さん、アツアツのパイはどうだい?」
「コーヒーはいらんかね?」
屋台が連なる狭い路地。
その頃。旅人に扮したアーサーは人通りの多い市場を進んでいた。
前から、スリの男がアーサーめがけてぶつかってきた。その男はアーサーが腰から下げている巾着に手を突っ込む。
普通なら、そこから金貨を抜き取るところだが、この場合は逆である。金貨入りの巾着とすり替えた。ラーソンに言われた通りにアーサーに資金を渡したのだ。
チャリン。
両脇には常設の屋台。買い物客でごったがえしている。そんな中、金貨の重みを手で確かめながら、アーサーは急ぎ足で歩く。
ふと立ち寄った飲み屋で、こんな会話が聞こえてきた。
『密輸をしている奴等のアジトを見つけた奴にはギャバ様が賞金を出すと言ってたよな。あれ。どうなったんだ?』
『役人が一攫千金を夢見てアジトを探していたようだが……。行方不明だそうだ』
『あの男、心臓が悪いんでどこかで死んでてもおかしくないぜ』
どうやら、その役人はコツコツと密輸グループ(ジャン一味)について調べていたようである。
(オレ達が漂流して辿り着いた島に行こうとして死んだ男は、秘密の洞窟を探そうとしていて途中で持病の発作とやらのせいで死んだのかもしれないな)
ギャバは商会の親玉。バティスト島のインフレの元凶はギャバで間違いない。
しかし、アーサーの動きをギャバに漏らしたのは誰なのか。
アーサーの敵として真っ先に頭に浮かぶのは王妃ソフィである。
(問題は、ギャバと王妃の繋がりがあるのかどうかだ。あったとしたら、その確たる証拠をどうやって証明すればいいのか……)
憶測だけで王の正妻である王妃を処罰することは出来ない。
色々と考えながら少しリッチな食堂へと歩く。
やっと、金が入ったので気が楽になっている。
人混みの向こう。
果物の屋台の前で待ち合わせをしているのである。
☆
紫色の新しいドレスを身に着けたリリーが澄ました顔で待っていた。
「アーサー、部下と連絡がついたようね」
「ああ、向こうも、オレが生きてるかどうかモヤモヤしていたと思うが、これで安心しただろうな。義賊のジャンの事だが、ジャンの仲間の誰かが彼を裏切ったのだと思う。そうでなければ、秘密の洞窟の存在を示した地図を役人が手にするのは不可能だ」
「船のメンバーの中に裏切り者がいるなんて思いたくないわね……」
しかし、あの場所を知っていて、なおかつ裏切ったのはジャンの仲間の船員の可能性が高い。
「あたし、あの時、あの船にいたジャン以外の四人の顔をバッチリ覚えてるわよ」
ただし、彼等の名前は知らない。
「この事、ジャンに知らせなくちゃ」
リリーは、早速、動き出していた。
といっても、ジャンがどこにいるのかは知らない。とりあえず、片っ端から、バティスト島の宿に入ると聞き込みをしたのだ。
赤毛の水夫を知りませんか。その人、わたしの父親なんですよ~。ええー。見た事ないんですか。残念です。
嘘も方便。そうやって、うろうろしているうちに日が暮れていた。
帰ろうかと思っていると、赤毛のジャンが娼館に入る様子が目についた。
(ジャンも男なのね。女遊びをするのね)
慌てて、ジャンの名前を呼ぼうとしたが、その時、不審な二人組がジャンの背後に張り付いていることに気付いてハッとなる。
(何なの、あの二人……)
男達はジャンに危害を加えるつもりのようだ。危険を伝えたい。いや、しかし。一応、リリーは女なので娼館の中には入れない。そうこうしているうちに、娼館の中から年配の女が出てきた。そして、ジャンを尾行している男達を裏口へと案内したのだ。
リリーも、コソコソと身を隠しながら彼等のあとを追う。
すると、娼館の裏口から気絶しているジャンを担いで店の者達が出てきたのである。そして、怪しい二人組にジャンを引き渡すと、女は二人から謝礼を受け取り満足そうに笑ったのだ。
(えっ……?)
二人組の男達はジャンを馬車に押し込むと立ち去って行った。
(やだ? もしかして誘拐? というより連行かしらね)
リリーは焦った。彼等は、ジャンをどこかに移送している。黄昏時の街中をゆっくりと馬車が進んでいく。
七分ほど移動した先に、『バティスト商会』の建物の裏手で止まった。
(密輸の首謀者として捕まったんだわ)
この後、ジャンはどうなるのだろう。気になって仕方ないリリーは宿に戻るとアーサーに報告した。
「ジャンが誘拐されたの。もしかしたら、殺されるのかもしれない」
「そう焦るな。多分、奴等はジャンに聞きたい事があるから捕まえたんだ」
「物資を隠した洞窟の位置を聞き出すつもりかしら」
「いや、それなら、裏切り者が既に知っていると思うぞ。多分、安くて良い品をどこからどうやって仕入れたのか、それを知りたいのだと思う。オレもザッと見ただけだが、品揃えも品質も良かった。ジャンという男は大したものだ。仲買人を通さずに、直接、生産者と交渉して集めたのかもしれない」
「という事は、ジャンが彼等に情報を告げたら協力した農家や仲間達も殺されるの?」
「まぁ、殺すとまでいかなくても、何かされるだろうな」
「あたし、ジャンを助けに行くわ」
正義感の強いリリーはジャンを救おうとするがアーサーがクールに引き留めた。
「待て。おまえ一人で乗り込んでどうなる?」
「それなら、あんたも手伝いなさいよ」
ジャンを見捨てる事なんて出来ない、
「庶民の為に動いてる義賊で、なおかつ、あたし達の命の恩人よ。それなのに放っておけないわ。目の前の人を救えないような奴が王子だなんて笑わせるわね。あなた、王子なんだから、商館に乗り込んでも殺されないわよ」
「王子だと知ったら、あいつらは真っ先にオレを殺すんだぞ。いいから、少し待ってくれ。どうすれば助けられるのか考える」
どうも、アーサーの態度は煮え切らない。
「そんなに悠長に待ってられないわよ。臆病なあんたとはコンビ解散よ」
リリーは自分一人で何とかしようと焦っていた。
(大商人のギャバの一族が島を仕切っているのよね。独占禁止法とか、そういうものは、この島ではありゃしないのよ)
金儲けのことしか頭にない奴なのだ。これまでにギャバのライバル達は粛清されてきた。逆らうと家族が痛い目に遭うので他の商人も言いなりになっている。
あそこに見えるは、商人組合のボスであるギャバが君臨している商館である。
商品を展示するスペースもあれば、他国の使者と商談するスペースもある。
(ジャンは、この敷地のどこかにいると思うのよね)
行動あるのみ。リリーは裏門をかいくぐり、勝手に侵入していく。
(商館の倉庫や納屋にでもいるのかしら)
とはいうものの、いくら探し回っても見当たらなくて……。
(ジャンを幽閉するとしたら、倉庫しかないと思うんだけど。この倉庫、鍵がかかってて入れない。よっし、何とかして鍵を探そう)
そう考えて、倉庫の周囲をうろうろしているうちにリリーは捕まってしまった。
「おい、女、そこで何をしている」
「ちょっと道に迷ったの。りょ、旅行者だから仕方ないでしょう?」
我ながら、なかなか苦しい言い訳だ。
愛想笑いをしてか誤魔化そうとしていると、騒ぎを聞きつけたギャバが現れた。
ギャバは五十歳後半。ピーターパンの海賊を彷彿させる強面で恰幅のいい男である。
その横には、前に見た事のあるひょろっとした顔の若い男がいたものだから、リリーは指を指さずにいられない。
「ああーーーー。あんた、ジャンの仲間のヴィクトルだわ」
垂れ目で童顔のパンダみたいな可愛い顔の若者で、おとなしそうな雰囲気だったのに、まさか、こいつが裏切り者だったとは。
「あんんたがジャンを売ったのね」
ついムキになって詰め寄ると、ヴィクトルがギャバに打ち明けた。
「こ、こいつ、ジャンの娘ですよ」
いやいや。そうではない。本当の娘はエリーゼなのだが、今は、そういう細かい事は省略しよう。
「ヴィクトル、あんたのせいでジャンは捕まったのよ。良心ってものはないの」
「う、うるさい。こっちにも事情があるんだよ」
「許さないからね」
威勢のいいリリーだったが、すぐさま拘束された。
ギャバが言った。
「こいつの仲間がここに来て暴れたりすると困る。別のところに幽閉しろ」
頭から袋を被されたリリーはもがいた。
商館の倉庫からは気絶したジャンが運び出されていく。
そして、リリーとジャンは馬車に詰め込まれて、街の喧噪からは離れた場所にある倉庫に連れ込まれたのだが、そこはガランとしている。
(あいつら、物流を意図的にストップしているので倉庫が空いているね……)
リリーは乱暴にレンガ造りの倉庫に押し込まれていた。
警備員達が、外から鍵をかけて立ち去ると、リリーは頭を振って何とか袋を外した。
すると、血まみれのジャンが芋虫みたいに縛られた状態で横たわっていたのだ。
「しっかりして」
生憎、リリーも芋虫みたいに縛られている。
芋虫みたいな恰好のままジャンに呼びかけると、目覚めてくれた。
「おまえも捕まったのか」
「聞いて。ジャンの仲間のヴィクトルが裏切ったのよ」
「ヴィクトルは新入りなんだ。家族が病気だから働きたいって言うから仲間にしたんだよ」
その優しさが仇になったらしい。
「ジャンは尋問されたのね?」
顔が痣だらけだ。
「ああ、仕入れ先を教えろと言われた。それと、闇市場を仕切っている人達を教えろと言われたが、それだけは言えない」
闇市場という言葉だけ聞くと悪い事をしているように聞こえるかもしれないが、ジャンの仲間はまっとうな値段で物を売り買いしている。
「あいつら、わざと物流を途絶えさせて島の人達を苦しめてきたのよ。許せない」
「やっばり、おまえはオレの娘だな。優しい子だな」
やつれた顔のジャンは感極まったように泣いている。
「あの、ごめんなさい」
リリーは切羽詰まったように告白していた。
「あたし、あなたの娘のエリーゼの姉です。子爵の前妻の娘のリリーなんです」
フーコック島の古城にいるエリーゼという娘が本当の娘だと伝えていく。
嘘は良くない。正直者のリリーは謝罪した。
「洞窟から助けてもらいたくて娘のフリをしていたの。騙してごめんなさい」
「リリー、オレの娘じゃないのに助けに来てくれたのかよ……」
感激屋のジャンは違う意味で感動していた。
「オレの事なんて放っておいても良かったんだぜ。オレは、いつか、こうなると覚悟していたからな」
髭面のジャンは優しい顔で囁いている。
「巻き添えにしてすまない。おまえさんだけでも助けたいんだが、どうすりゃいいのか分からないんだよ。リリー、とにかく、今夜は眠っておいた方がいいぜ」
ジャンが言うには、今夜は商館のホールで夜会があるので部下達もそっちに駆り出されているという。
わざわざ、リリー達の身柄をこっちに移動させたのもその為なのだ。
「明日、奴等は本格的にオレ達をいたぶりに来るぞ」
「そ、そうね」
腹ペコで喉がカラカラだが、何とか身体を休めようと思ったのだった。
☆
翌日の午後。バティスト商会の親玉であるギャバの命を受けた男二人が倉庫に現れた。
一人は頬に傷のある痩身の男。もう一人はブヨブヨと太った禿げ頭の男だ。
リリーが見ている目の前でジャンは拷問されてしまい、リリーの胸はひりついた。ぐーという呻き声と共にジャンは消耗していく。
胸が痛い。こんなの見ていられない。
「やめなさいよ」
そんなに傷だらけなのに、まだ鞭で叩くつもりのようだ。
「うるせぇ、喚くな」
おまえの娘を痛めつけてやるとばかりに彼等はリリーの痩せた背中を鞭で叩いたのである。その痛みに、リリーは、一瞬、気が遠くなった。
「うぐっ……」
くそーーー。泣くものか。
涙なんて流したら、こいつらが調子に乗る。ああー、むかつく。
(あたしはサバンナで虎と駆けっこをしたアイドルの凛々子なんだぞ。根性だけで芸能界を駆け抜けてきたんだぞ)
顔にハチミツを塗った状態で熊と握手をした事もある。
ちなみにカナダの熊はお利巧さんなので、すっかり仲良くなり、楽しい思い出となったのだが……。ロシアのサーカス小屋のライオンは馬鹿だった。
(あたし、玉乗りを指導するロシアの美女と仲良くしてたら、嫉妬して吠えやがったのよ。あの時は怖かったわ)
いや、それはどうでもいい。とにかく、こんな事ぐらいでへこたれるもんか。
とはいうものの、目の前が霞んできた。
「おい、この女は、おまえの娘だそうだな。なかなか、可愛い顔してるじゃねぇか」
イヒヒと唇を歪めて笑っている。
そして、服の上からリリーの胸を撫でまわしてきたものだから、ジャンが狂ったように叫んだ。
「やめろーーー」
しかも、リリーの頬を舐め始めている。くせぇ。息がニンニク臭い。
「やめろ。その娘に手を出すな」
さすが、ジャン。
リリーが辱められているのを見て見ぬふりなど出来ないようだ。
「いやいや、やめねぇよ」
二人いるうちの太った男がリリーの身体を執拗に触っている。すると、その時、倉庫の前に伝令役の小僧が来て彼等に囁いた。
「何、商館が火事だと……」
頬に傷のある男は顔色を変えている。
「ゲラン、おまえはここに残れ。オレは商館に向かう」
「オレも行かなくていいのかい、兄貴?」
「いや、おまえは、ここにいろ」
太った男はゲランというらしい。
千原ジュニア似の兄貴とやらが消えた後、ケンコバ似のゲランはニヤッと頬を緩めた。
「ふふ、兄貴がいない間に、この女をいただいてしまおうかな」
ペロンとリリーの頬を舐めたものだから、リリーの背筋がぞわぞわしてきた。
しかし、リリーは、これぐらいのセクハラは慣れている。
前世では満員電車の中でスカートをまくりあげられパンツを下ろされたこともある。
そう、あれは埼玉から新宿へと向かう電車だった……。あの時、リリーは痴漢の手を引っ掻いで成敗してやったのだ。
(野生児をなめんなよ)
残念ながら、両手は後ろ手に縛られていて自由は利かないし、ナイフなど持っていないけれど、幸い、口は自由に使える。
(海外ロケで柔術と空手も習ったんだからね。タイの軍隊の体験入学もしたんだからね)
という訳なので、リリーはゲランの分厚い手にかぶりついた。そして、間髪入れずに、禿げた頭に頭突きを喰らわす。
「うっ……」
ゲランが頭を抱えて前かがみになった瞬間、リリーは禿げた後頭部に振り落とした踵を食い込ませて気絶させたのだった。
その一連の攻撃を見ていたジャンが感心したように呟いた。
「おまえ、すげぇな」
「ありがとう。ほら、この隙に逃げなくちゃ」
「おう、オレが、おまえの縄を食いちぎってやる」
とはいうものの、リリー達のの縄は解けそうにない。リリーは焦っていた。ヒヤヒヤする。早く何とかしたい。
ゲランが目覚める前に逃げたいがジャンの目も虚ろになっている。
ジャンは脱水しているようなのだ。
(あたしも、無理かも。お腹、空いた。あたしも気絶するかも……)
こうなったら、自分がジャンの縄を食いちぎるしかかない。
リリーは懸命にジャンの縄に齧り付いていく。ガシガシッ。
なりふり構わず縄に食らいつく。
(この人を死なせたくない……。だって、ジャンはいい人なんだもの)
絶対に諦めるもんか。歯を食いしばり、懸命に生き延びようと踏ん張るけれど、空腹には勝てなくて気を失ってしまう。
その数分後。
誰かの腕の中で目覚めていた。
「リリー、しっかりしろ」
助けに来たのはアーサーで、リリーと同じように失神していたジャンのことも叩き起こしながら言う。
「ジャン、早く立ってくれ」
アーサーに促されて倉庫の前まで行くと荷馬車が停めてあった。
それに乗り込むと、アーサーが馬の手綱を握り馬を走らせた。
アーサーは移動しながら言った。
昨夜、リリーが帰って来ないものだから、慌ててリリーの居所を探したという。
幸い、娼館の前でたむろしていた浮浪児達がリリーの様子を見ていたのだ。
アーサーはジャンが誘拐された事を知った。
そして、ジャンの仲間だったヴィクトルが娼館から出てきたのを見て悟った。
その後、ジャンを裏切って密告したヴィクトルをボコボコに殴り、おまえの家族にこの事を言うぞと脅して放火を手伝わせたというのだ。
「今、バティスト商工会議所の事務所は火の海だ。奴等は、消火活動に追われているので、ここには来ない。ジャン、あんたは今夜のうちに逃げろ」
「ヴィクトルはどうしたのよ」
「あいつは、ギャバの近くにいるよ。自分が放火したとは知られたくないから、必死で消火しているはずだ。これからも、あいつは、この島で暮らす間はギャバの手下として生きるしかないたろうな」
ヴィクトルには病気の妻がいた。治療費の為に奴等の犬になったという。
ジャンはアーサーに支えられながら歩いている。
「ヴィクトルも、愛する妻を守りたかったんだろうな」
そう呟くジャンは片足を引きずっている。
アーサーは繁華街から離れた田舎の沿岸部まで来るとジャンに言った。
「ここからは別行動だ。一人で歩けるか?」
「村には知り合いがいるから、そいつに頼るさ」
「そうか。ギャバの追手には気を付けろよ」
「オレの仲間はプロだぜ。密輸品を運ぶように、オレの事も運んでもらうさ。心配するな。そんな事より、リリーを頼む」
「ああ、分かった。オレ達は街に戻るしかない。本土に戻る船に乗って帰るつもりだ」
「そうだな。人口が多い街にいる方が目立たずに済む。リリー、生き延びろよ。ギャバに見つからないようにしろよ」
親子ではないと分かった後も、ジャンは暖かな眼差しをリリーに向けているのである。
リリーはジャンに言った。
「あなたは別の島に逃げてね。この手紙を、うちの執事に見せたなら、あなたを匿ってくれるわ。城には、あなたの恋人と本当の娘がいるから心配いらないわ」
リリーは微笑みながら教えてあげた。
「あなたの本当の娘は、あなたに似ているの。お洒落が大好きな赤毛の女の子よ」




