【定期精密検査:憂鬱なルーチン】
【定期精密検査:憂鬱なルーチン】
白堊理研・第3医療棟、地下2階。
「特別防疫処置室」と呼ばれるその場所は、戦場の泥臭さとは対極にある、ツンと鼻をつく消毒液とオゾンの臭いで満たされていた。
「……あーあ。この臭い、何度嗅いでも慣れないなぁ」
フレンダは分厚い鉛ガラスの向こう側で、淡いグリーンの薄い布一枚の検査着に着替えさせられ、深くため息をついた。
先ほどまでの高揚感はどこへやら。今の彼女は、檻に入れられた実験動物そのものだった。
1. 【除染と洗浄】
まず行われるのは、徹底的な除染だ。
真っ白なタイル張りのシャワールーム。だが、そこから出るのはお湯ではない。
特殊な薬液を含んだ高圧の除染ミストだ。
『洗浄プロセス開始。眼と呼吸器を保護してください』
無感情なアナウンスと共に、四方八方のノズルからミストが噴き出す。
「冷たっ!?」
皮膚に付着した微細なエレメント粒子を化学的に中和・剥離させるその霧は、肌を針で刺すようなピリピリとした刺激を伴う。
排水溝へと流れていく水は、汚染物質を含んで薄紫色に濁っていた。
髪の毛一本、爪の隙間ミクロン単位まで、戦場の「死」を洗い流される感覚。それは潔癖すぎて、逆に生きた心地がしなかった。
2. 【生体サンプリング】
除染を終え、濡れた髪のまま検査台へ。
ここからが本番だ。
金属製の冷たい台座に寝かされると、手足と胴体を革製のベルトで固定される。
「暴れるつもりなんてないってば」と文句を言う暇もなく、白衣にゴーグル姿の医療スタッフたちが群がってくる。
「採血します。本日は動脈血から200cc、静脈血から600cc採取」
「骨髄液のサンプリング準備。局所麻酔、打ちます」
「ちょっと、今日多くない!?私貧血になっちゃうよ!?」
フレンダの抗議は無視される。
右腕、左腕、そして太腿の血管へ、太い注射針が躊躇なく突き立てられた。
透明なチューブを普通の人間よりも遥かに活性化した赤黒い血液がドクドクと流れていく。
通常の人間なら失血で眩暈を起こす量だが、彼女の異常な造血機能はそれを即座に補填し始める。その「補填のスピード」こそが、彼らの計測対象なのだ。
3. 【神経パルス計測】
続いて、全身の筋肉と神経のチェック。
ペタペタと冷たいゲルを塗られ、数十個の電極パッドを全身に貼り付けられる。
『G負荷による神経伝達速度の遅延チェック。電圧上げます』
「っぐ……!!」
スイッチが入った瞬間、フレンダの身体が意思とは無関係に跳ねた。
微弱電流が神経網を駆け巡り、強制的に筋肉を収縮させる。
指先が痙攣し、背筋が海老反りになる。
ロード・インパルスの超高速戦闘、あの強烈なGに耐えた肉体が、悲鳴を上げていないか。
あるいは、微細な断裂が既に修復されているかを確認するための作業。
痛みというよりは、自分の体が自分のものでなくなっていくような不快感が、フレンダの精神を削っていく。
4. 【深層スキャン】
そして、最後にして最大の苦行。
ドーナツ状の巨大な磁気共鳴スキャナー、通称棺桶への搬入だ。
『頭部および全臓器の断層撮影を行います。所要時間、45分。絶対に動かないでください』
ウィィィン……という重苦しい駆動音と共に検査台が狭い筒の中へとスライドしていく。
視界は真っ白な樹脂の壁だけ。閉塞感が喉元を締め付ける。
(……嫌だなぁ、これ)
ガン!ガン!ガン!
工事現場のような轟音が響き渡り、見えない磁場が細胞の一つ一つを揺さぶる。
脳のシワ、心臓の鼓動、内臓の蠕動。
すべてを輪切りにされ、データとして暴かれる感覚。
彼女は知らない。
ガラスの向こうのモニタールームで、医師たちが彼女の脳波データと遺伝子配列を見ながらオリジナルとの合致率を深刻な顔で議論していることを。
「検体名F、脳内物質の分泌バランス正常」
「テロメアの短縮、確認されず。寿命制御のリミッターは安定しています」
「記憶野への干渉痕跡なし。……自分は何者かという問いは、まだ発生していません」
フレンダにとって、ここはただの窮屈な棺桶だが、彼らにとっては「最高機密の観察室」なのだ。
【解放】
「……終了です。お疲れ様でした、フレンダ少尉」
拘束が解かれ、体を起こした時には、フレンダはげっそりと消耗していた。
戦闘で走った疲れとは違う、魂をスポイトで吸い取られたような倦怠感。
「はぁ……もう帰っていい?針の痕だらけでフランケンシュタインみたいなんだけど」
止血テープだらけの腕をさすりながら、検査室を出る。
重い扉が開くと、そこの待合ベンチには、いつもの相棒を抱えた少佐が待っていた。
「……終わったか」
少佐はやつれたフレンダの顔を見て、眉をひそめた。
そして無言で、手に持っていた保温ボトルを放り投げた。
「受け取れ、高濃度のブドウ糖液だ。血を抜かれた分、補給しておけ」
「……少佐ぁ。これ、甘すぎて苦手なんですけど」
文句を言いながらも、フレンダはボトルを開けて一気に呷った。
強烈な甘さが脳に突き刺さり、しぼんでいた意識が無理やり覚醒させられる。
『バイタルチェック完了。フレンダ、食堂のラストオーダーまであと15分です。急ぎましょう』
メイの言葉に、フレンダの碧眼に光が戻った。
「えっ、嘘!?メイ、なんで早く言わないの!もう検査なんて知るか!行くよ、今日の私は特盛カツカレーの気分なんだから!!」
弾かれたように走り出すフレンダ。
その背中には、先ほどまでの「実験体」としての陰りは微塵もない。
少佐はその背中を見送りながら、小さく独り言ちた。
「……あれだけの検査を受けて即座に食欲が勝るか。相変わらず我々の想定を超えていくな」
白堊理研の冷たい廊下に、フレンダの足音だけが力強く響いていた。
食堂の長椅子。
念願の「特盛カツカレー」を完食した直後、フレンダの意識は急速に泥のような眠りへと沈んでいった。
検査で800ccもの血液を失った身体が、消化吸収と造血のために全エネルギーを内臓へと集中させたのだ。
抗う術もなく、彼女はまぶたを閉じる。
(あー……美味しかった……。お腹いっぱい……幸せ……)
その幸福感は、次第に冷たく、静かな白い闇へと塗り替えられていく。
いつもの睡眠とは違う。
もっと深く、暗く、そしてどこか懐かしい場所。
――ピチャン。
水滴が落ちる音がした。
フレンダが目を開けると、そこは真っ白な空間だった。
床も壁も天井もない。ただ、足元に浅い水面が広がっており、波紋がどこまでも続いている。
「……ここ、どこ? 」
自分の声が反響する。
フレンダは歩き出した。
水面には、自分の顔が映っている。金髪のボブカット、碧眼。いつもの自分だ。
だが、ふと足を止める。
水面に映る「自分」が、笑っていなかったからだ。
それどころか、映っている少女の髪はフレンダより長く、色素が薄い。
そして着ているのは軍服ではなく、白く薄い病衣だった。
『……あなたは、よく走るのね』
声がした。
フレンダはハッとして顔を上げる。
目の前に、水面に映っていたはずの少女が立っていた。
「え……?」
まるで鏡を見ているようだった。
だが、雰囲気は正反対だ。
フレンダが太陽の下で育った向日葵なら、目の前の少女はガラスケースの中でしか咲けない白百合。
肌は透き通るように白く、その身体からは「死」の気配が漂っている。
「誰?……あの、私?」
フレンダが尋ねると、少女は力なく微笑んだ。
『僕は、君ではない僕。……そして君は、僕がなりえたかもしれない僕』
少女がそっと手を伸ばし、フレンダの頬に触れる。
その手は氷のように冷たかった。
接触した瞬間、フレンダの脳内に奔流のような映像が流れ込んでくる。
無機質な天井。消毒液の臭い。
今の「特別防疫処置室」よりもっと古く、もっと閉鎖的な研究室。
『被検体の数値が安定しない。母体が特殊すぎるのが原因か』
『やはり癌細胞からクローン子体を作るのは厳しいのでは?』
白衣を着た大人たちの声。失望と諦めが混じった声。
窓の外に広がる青空。
あそこに行きたい。走りたい。風を感じたい。
でも、この身体は少し動くだけで悲鳴を上げる。
全身が癌細胞の化け物、それが僕だ。
この命はこの硝子の中に閉じ込められたまま永遠に燃え続けるだろう。
青い軍服の女性。
今の少佐より、ずっと若い。
彼女は酷く冷徹な目で、僕を見ている。
『結晶炉事故の残骸、化け物の成れの果てか。皮肉なものだな、貴様は。その力、存分に使ってやろう』
痛み。
全身が崩れていくような感覚。
意識が途切れる寸前、誰かが言った。
『細胞核の保存完了。プロジェクト・ソルジャー始動。……形を変えて、最強の兵士として生まれ変わる』
「っ……はぁっ!?」
フレンダは弾かれたように後ずさった。
今のは何だ?私の記憶じゃない。私はあんな病院で寝ていたことなんてない。
私はLAの兵士で、ロード・インパルスのガバナーで、カツカレーが大好きなフレンダだ。
「なんなのよ、あなた……!何を見せたの!?」
少女は悲しげに、けれど慈愛に満ちた瞳でフレンダを見つめていた。
『怖がらなくていいよ。それはただの残り滓。なんの意味もない、昔の記憶』
少女の姿が、光の粒子となってほどけ始める。
『たくさん眠って、たくさん笑って。誰よりも速く、どこまでも遠くへ走っていきなさい』
「待って!アンタ名前は!?何者なの!?」
フレンダが伸ばした手は、空虚な光を掴んだだけだった。
消えゆく少女の口元が、最期に何かを紡ぐ。
『……僕の名前はフレデリカ。君のお姉ちゃんみたいなものかな、フレンダちゃん』
視界が白く染まり、意識が急速に浮上していく。
「――んがっ!?」
フレンダは勢いよく上半身を起こした。
「痛っ……」
食堂のテーブルに突っ伏して寝ていたせいで首が痛い。
周りを見渡すと既に食堂には誰もおらず、清掃ロボットが静かに床を磨いているだけだった。
「……夢……?」
心臓が早鐘を打っている。
頬を触ると少しだけ濡れていた。
よだれではない。涙だった。
「……なんで泣いてんだろ、私」
ぬぐった指先を見つめる。
夢の内容はもう霞んで思い出せない。
白い部屋、自分に似た女の子、そして若い頃の少佐。
何かとても悲しくて、とてもつらい夢だった。
「……ま、いっか。 変な夢!」
フレンダは大きく伸びをして涙を袖で乱雑に拭った。
お腹はいっぱいだ。体力も回復した。
思考はシンプルに、身体は軽やかに。それがフレンダ・ディーコンだ。
「さてと、帰ってメイと遊ぼっかな!報告書の草案、手伝ってもらわなきゃだしね!」
彼女は椅子を蹴って立ち上がる。
その足取りは軽い。
自分の命が、何のために存在するのか。何故存在しているのか知らずに。




