13.幸子、ヤヨイさんに相談する
「──ねぇ、ヤヨイさん。“ディスレクシア”って知ってる?」
「ディスレクシア……ですか?」
──マナミの1ヶ月検診を終え、庭でシンイチロウくんたちと会ったあの日。
私は部屋の中に戻ったあと、ヤヨイさんに聞いた。
「うん。知的にも理解力にも問題ないのに、文字の読み書きだけが苦手な、“発達性読み書き障害”っていう状態のことなんだけど……」
「……“ディスレクシア”という名前は聞いたことがありませんが、『著しく読み書きが苦手な人がいる』と、医者仲間から聞いたことがあるような気がします。今度、話を聞きに行ってみましょうか?」
「ありがとうっ! 悪いんだけど、そうしてもらえる?
これは私の勝手な憶測なんだけど……シンイチロウくんがディスレクシアなんじゃないかと思ってて」
「シンイチロウ様が、ですか?」
──そんな会話を交わして、後日、ヤヨイさんは見つけてきてくれた。
“ディスレクシア”という名前はなかったが、明らかにそれと思われる読み書き障害が報告された論文を。
ヤヨイさんが持ってきてくれた論文──それは、今から数十年前、ある医療機関で記録された症例だった。
まだ「ディスレクシア」という呼び名はついていない。そこにはただ、
『知的能力に問題はないものの、文字の読み書きに著しい困難を示す症例について』
とだけ記されていた。
──まさに、シンイチロウくんに当てはまる。
私は手にした紙の束を、丁寧にめくりながら読み進めた。
「文字を読むとき、文字が踊るように見える」「行の位置がずれる」「一文字ずつしか認識できない」──
そんな記述が並んでいた。
(やっぱり……)
胸の奥で、何かがぎゅっと締め付けられる。
(シンイチロウくんは、きっと誰よりもがんばってきたんだ。
でも、そのがんばりが、誰にも伝わってなかった……)
小さな背中に、どれほどの孤独と悔しさを背負わせてしまったんだろう。
そう思うと、自然と目頭が熱くなる。
「──ミレイ様」
ふいに、ヤヨイさんがそっと声をかけてくれた。
「焦らなくても、大丈夫ですよ」
その声は、どこまでも優しかった。
「お医者さま方も、はっきりとは分かっていないみたいです。
でも、確かにいるんです。文字の読み書きが苦手なだけで、ほかの力はとても優れている子たちが」
私は顔を上げ、ヤヨイさんを見た。
この世界には──スマホもパソコンも、インターネットのようなものはない。
幸子だったら。令和の時代の幸子だったら──医療関係者でなくても、スマホやパソコンで検索すればすぐにディスレクシアのことが調べられたはずだ。
でも、この世界では──
この論文を見つけてくるのは、大変だっただろう。
なのにヤヨイさんは、私が相談してから数日でこれを持ってきてくれた。
ディスレクシアだと思われる患者を診たことがある、という医者まで見つけてくれた。
(──ミレイになってから、ヤヨイさんにはお世話になりっぱなしだな)
そんな私の思いに気づくことなく、彼女はまっすぐに私を見て、言葉を続けた。
「シンイチロウ様も、きっとそうです。──だから、ミレイ様、どうか、焦らず、少しずつ」
「……うん。ありがとう、ヤヨイさん」
私は胸に手を当て、小さく深呼吸をした。
焦る必要はない。
まずは、シンイチロウくん自身が、自分を「だめな子」だなんて思わなくていいように──
そのための、小さな一歩を踏み出そう。
私は論文をそっと閉じた。
(さあ、始めよう。焦らずに、やさしく、シンイチロウくんとゆっくりと……)
まずは、シンイチロウくんが得意な「覚える力」を、もっと伸ばしてあげよう。
読み書きが苦手でも、彼には「聞く力」「覚える力」という、素晴らしい才能がある。
それを認めて、伸ばしてあげられる大人になりたい。
──あの子には、すごい力があるんだから!
シンイチロウくんとユリカちゃんは、私が産んだ子じゃない。
でも、私があの子たちを絶対に守るんだ。
私は強く、そう心に誓った──。




