9.第二章 隼人 エピソード5
「向こうに持って行くものとか、ちゃんとまとめているの?」
キッチンを覗くと、仕事から帰ってきた母が、夕食を作っていた。
「えっ、あぁ、だいたいはね」
そう母の背中に向かって答える僕。カレーの匂いが漂い始めていたので、今日の夕食はカレーライスだろうか。コンロから立ち上る湯気を、僕は感慨深く見つめていた。
最近、こうして母に話しかける回数が増えたように思う。自分では意識してやっているつもりはなかったけれど、なんとなく母と話していたかった。
「お腹減ったでしょ。今夜は、カレーライスよ。もう少ししたら出来上がるから、そこに座って待っていなさい」
「あぁ、そうする」
そう答えて、鍋をかき混ぜる母の動作を、ぼんやりと見つめる。
毎日、当たり前のように食べてきた夕飯。仕事をしている母が家に帰ってきてから、いつも作ってくれていた。僕は、まだ家事をやったことがないので、それがどれほど大変なことなのかはわからなかったが、疲れた身体で家事をこなすのは骨が折れただろう。
僕はこれから、そんな母のいないアパートで、一人で生活していくのだ。何もかも初めてのことで、不安ばかりが脳裏を過っていくが、もう後には引けない。次にこの家に帰って来たときは、何とか自分一人で生活していることを、胸を張って母に報告したいと思う。そしてそのときは、母を労って僕が代わりに夕飯を作ってあげようか。まさか、肩を揉む訳にはいかないだろうし……。
そんなことを思い巡らせていたら、カレールウの味見をしていた母がポツリと漏らした。
「不安なんでしょ」
核心を突かれて、思わず言葉に詰まる。
「えっ、あぁ……」
すると、母はゆっくりとこちらを振り向くと、心の内を打ち明け始めた。
「お母さんだって、亮ちゃんが向こうで、一人で生活していけるかが不安よ。お父さんだって、いつもはあっさりしているけどね、あれでいて心配しているのよ。だけど、亮ちゃんが独り立ちしようとするのを、邪魔してはいけないと思った。だから、お父さんと相談して、そっと見守ることにしたの」
「あぁ……そうだったんだ……」
「だけどね、親っていうのは、いくつになっても自分の子供のことが心配なものなの。だから、ときどきでいいから、『なんとかやっているよ』って、電話をかけてくるのよ。亮ちゃんは、お母さんたちのたった一人の大切な子供なんだから……」
「えっ、うん……また電話するよ」
『たった一人の大切な子供』と言ったところが、なんだか寂しげに聞こえた。
なんとなくそのままの流れで話していたら情に流されてしまいそうで、僕は大きく深呼吸すると、気分を入れ替えた。
母が、お皿に盛り付け始めるタイミングで、僕は母に切り出した。
「ねぇ、母さん、今朝も訊いたかもしれないけど、小学校の授業って、今日もやっているよね」
「えっ、突然何を訊くのよ……」
驚いたように、はっと肩を上げる母。でも、すぐに正気に戻って続ける。
「三学期の終業式は明後日でしょ。だから、今は一年間の勉強のまとめをやったり、テストを返したりして、クラス担任の先生たちは大変なのよ。まぁ、お母さんは、今は担任を外れて学校全体の仕事をしているから、忙しさは普段と変わらないけど……でも、どうしてそんなことを訊くのよ……はい、カレーできたわよ。お父さん、今日も遅くなるみたいだから、先に食べなさい」
母から受け取った出来立てのカレーライスは、具がたくさん入っていて、美味しそうだった。僕は、ルウをご飯に混ぜて、一口食べてみる。たちまち、「あちあち」と声に出してしまった。置いてあった麦茶を流し込んで、事なきを得る。
「いや、別に深い意味はないんだけどさ。小学生が今の時期、学校に行かずに昼間に一人でいるって、どういうことなんだろうって、ふと思っただけ」
僕がそう訊いたのは、あのこうちゃんと呼ぶ男の子のことが、なんとなく心に引っかかっていたからだった。小学生が学校で過ごしている時間帯に二度も会って、まるで忽然と消えたのだ。考え過ぎかもしれないが、何かの事故や事件に巻き込まれることだってあるかも知れない。現にそう言ったニュースを度々見かけていたので、気にならないはずはなかった。
母は、僕と向かい合うようにテーブルにつくと、自分の分のカレーライスを口に運び始めた。「うん」と頷いたのは、味に納得したからだろうか。
「そうね、どういう状況かによるけど、何かの事情があって学校を休んでいるのかも知れないわね。お母さんが勤めている学校でも、休みがちな子供がいるの。いじめられた訳ではないんだけど、大勢の前に出るのが苦手みたいでね。担任の先生の代わりに、お母さん、よくその子の顔を見に、家庭訪問をしたりしているけど……」
僕が話した意図に気づいていないのか、それとも違った意味で捉えているのか、母は平然とそう答える。
「そうなんだ……。僕が小学生だった頃は、何が何でも学校に行かなきゃならない、みたいな雰囲気があったけど……」
「もちろん、子供たち全員が、安心して学校で過ごせるようにすることが一番なの。だから、お母さんたちは、日々、色々と努力を重ねている訳だけれど……このあたりの子なの、亮ちゃんが話している小学生って?」
「えっ、あぁ、そっ、そうなんだけどね……」
母の思わぬ問いかけに、声を上ずらせてしまった。どうしようかと、迷った。正直に、こうちゃんのことを打ち明けるべきかを。僕がそう悩んだのは、子供の頃から、あの丘の上に行ってはいけないと、祖母から言われていたから。母が直接そう言っていた訳ではなかったが、なんとなく母も同じように思っている節があった。
子供の頃は、祖母の言っている意味がわからずにいたが、実際に丘の上に足を運んでみて、今はなんとなくわかるような気がする。とにかく坂道が続いて危ないのだ。子供が自転車で駆け下りようものなら、ブレーキをかけ損ねてしまって、柵に激突してしまうかも知れない。そして最悪の場合は……。僕が子供の頃に開かれた街だったので、探求心や好奇心を働かせて僕が坂を上ってしまわないように、釘をさす意味で話していたのだろう。
だから、まさかこの齢になった僕が、丘の上に行ったからといって、叱り出したりしないだろう。そう思った僕は、丘の上の公園で出会った不思議な男の子のことを、母に打ち明けることにした。
僕が、その話を切り出す前は、カレーライスを口に運びながら、穏やかな表情を浮かべていた母だったが、なぜか僕が丘の上の公園のことに触れたあたりから、母の表情が変わり始めた。そして、『こうちゃん』という男の子の名前を出したときは、握っていたスプーンをテーブルの上に落とし、ひどく動揺した素振りを見せた。
「えっ、母さん……ちょっと、どうしたの、大丈夫?」
母の態度の豹変ぶりに、僕は怯みそうになる。
「あっ、何でもないわよ」
そう言って、落としたスプーンを拾い上げて、無理に平静を装おうとする母の様子が、不自然だった。
訝しげに、母の顔を伺う僕。
「母さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ。さっ、早く食べてしまいましょ」
母のその口ぶりから、これ以上この話を続けるべきではないと感じた僕は、なんとなく心の中にもやもやしたものを抱えながら、残りのカレーライスをかき込んだのだった。




