8.第二章 隼人 エピソード4
出発の日が刻一刻と近づくと同時に、僕は落ち着きをなくしていった。「大丈夫、落ち着いて」と、自分に言い聞かせている自分が、地に足がついていないのだから、もはやどうしようもなかった。
家にいても時間が長く感じるだけだった。いや、むしろ、逆だろうか。家の柱についた数々の印を眺めては、幼い頃、父に身長を測ってもらっていたことを思い出したり、リビングに飾ってある写真立てに目を遣っては、家族で旅行に出かけた日のことが蘇ってきたりして、寂しさを募らせる。そうこうしているうちに、時間が過ぎるのを忘れてしまっていて、気がつけば掛け時計の針は、僕の体感速度の数倍の速さで進んでしまっている。
家に籠っていられなくて、僕は再び自転車にまたがった。向かったのは、あの丘の上。こないだ、隼人と一緒に夜景を見に行ったときに、あの場所に立てば、僕がこの町で過ごしたこれまでの軌跡が見られるような気がして、もう一度、明るいうちに、そこからの眺めを目に焼きつけておきたかったのだ。あまりいい思い出はなかったが、せめて最後くらいは、楽しかった思い出を探し出して、浸っていたい。
タイヤがパンパンになるまで空気を入れてみたが、やはり電動アシストのついていない自転車で坂道を上るのは重たい。前に上ったときのように、途中から自転車を押しながら坂道を上った。まっ、行きが辛い分、帰りは楽になる。颯爽と風を切ってとまではいかないけれど、景色を目に焼きつけた後に重力に任せて坂を下るのは、気持ちがいいかも知れない。
そうやって坂道を上り切った僕は、不意に喉の渇きを覚えて、そばにあった公園に立ち寄ってみる。入口に自転車を停めて、前カゴの中から、ここに来る途中で買ったペットボトルの炭酸飲料を取り出すと、半分ほど一気に飲み干した。「プフェ」干からびそうになっている身体の隅々まで、水分が行きわたっていくようで気持ちがいい。
水分で身体が満たされると、元気が出てきた。目的地のグラウンドまでは、住宅街を抜ければいい。再び自転車を漕ぎ始めようとすると、
「お兄ちゃん、一緒に遊ぼうよ」
と、声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声だと思った。声は僕が自転車にまたがっている後ろの方、つまり公園の中から聞こえたような気がしたので、そちらを振り向いてみると、見覚えのある男の子が立っていた。
「ねぇ、お兄ちゃん、遊ぼうよ」
白のトレーナーにベージュのズボン姿は、前に見たときと同じだった。トレーナーにプリントされたネコが、両腕を腰に当てながら、僕に微笑みかけている。
「あぁ、君は前にここで会った……」
そう答えながら、僕は、前に会ったときにかくれんぼをしていて、男の子が急にいなくなったことを思い出した。一瞬、そのことを訊こうかと思ったが、変に訊いてしまって僕が怒っていると勘違いされて、泣かれでもしたら大変だと思って、やめた。
それにしても、不思議だった。僕がこの公園にたどり着いたときは、中に誰もいなかった。なのに、僕がジュースを飲んでいる間に、どこからかひょいと出てきて、僕の後ろに立っていたのだ。見た感じ、子供が隠れられそうな場所はないのだが……。
「ねぇ、お兄ちゃん、かくれんぼをして遊ぼうよ」
トレーナーのネコに負けず劣らずと、男の子が微笑みながら言ったので、僕は自転車から降りると、ゆっくりスタンドを立てた。飲み差しのペットボトルのキャップを閉めて、前カゴに放り込む。
「わかった。それじゃ、一緒に遊ぼう。でもその前に、君の名前を訊いてもいいかな。あっ、僕は、亮太って言うんだ」
僕は、男の子の目線の高さにしゃがみ込む。その方が、子供が安心すると思ったから。
「僕はこうちゃんだよ」
「へぇ、こうちゃんか……」
そう返しながら、どんな漢字を書くのかを思い浮かべてみる。『航大』『航平』『康介』……色々な名前が浮かんできたが、本人が自分のことを『こうちゃん』と呼んでいるのなら、あえて本名を訊く必要はないかと思った。
「こうちゃんは、一年生だったよね。担任の先生は優しい?」
「……」
「じゃぁ、給食は美味しいかな?」
僕自身は美味しいと感じたことがなかったのだが、その場を和ませるために訊いてみた。こうちゃんは、表情一つ変えることなく、にっこり微笑んだまま、何も言葉を発さない。
「体育の時間は楽しい?」
僕はお腹が痛くなるほど体育の時間が苦手だったが、こないだ隼人と話していて体育祭のことを思い出したので、なんとなく訊いてみただけなのだが……こうちゃんは何も答えようとしない。
変わった子供だと思った。前に会ったときもそうだったが、名前以外は何も答えないのだ。よほど内気な性格なのかと思ってみたが、それならいきなり僕に声をかけてきたりしないだろう。
「こうちゃん、学校はどうしたの? 春休みまではまだ時間があるから、今日は学校があるよね」
続けてそう訊いたのは、その日が平日だったから。今朝、たまたま母から訊いたことによると、三学期の終業式まであと数日残っているらしい。最近はタブレット端末を使った学習うなど、勉強することが増える一方で、一年生とは言え、終業式のギリギリまで授業が続くのだと嘆いていた。
僕がそれを訊いたとき、それまで笑っていたこうちゃんの顔に、陰りがさした。みるみるうちに頬を強張らせて、今にも泣き出しそうな表情に変わった。
「しまった」と、僕は瞬時に顔をしかめる。訊いてはいけないことを訊いてしまったような気がして。もしかしたら、こうちゃんには、学校に行けない理由があるのかも知れなかった。学校で友達から意地悪をされたとか、クラスのみんなから笑いものにされたとか……僕もそういうことを経験したことがあったので、学校に行きたくても行けない子供の気持ちはわかる。
それにしても迂闊だった。一番訊かれたくないことを、僕はストレートに訊いてしまったのだ。この沈んだ状況を切り抜けようと、僕は作り笑いを浮かべると、
「よし、こうちゃん。前みたいにかくれんぼをしよう。お兄ちゃんがまたこうやって、十を数えるから、こうちゃんはその間にどこかに隠れてね」
と、両腕を重ねて、顔を伏せるポーズをして見せた。
すると、こうちゃんは気をよくしたのか、たちまちもとの笑顔に戻って、
「うん、お兄ちゃん、かくれんぼしよう。僕が隠れるから、お兄ちゃん、十を数えてね」
と、嬉しそうに答えた。
「よし、それじゃ、今から十を数えるけど、絶対にこの公園から出ないでね。前にも約束したよね」
そう付け加えたのは、前のことがあったから。それに対して、こうちゃんは、「うん、おにいちゃん、約束」と、目を輝かせる。
「いち に さん……はち く じゅう もういいかい?」
「……」
「こうちゃん、もういいかい?」
「……」
「十を数えたから、今からこうちゃんを探しに行くよ」
返事がないことにしびれを切らした僕は、顔を上げた。すぐさま、あたりに視線を遣ったが、こうちゃんの姿は見えない。今、僕が立っている場所から、死角になっている場所と言えば、滑り台の斜面くらいなもの。
「こうちゃん、みーつけた」
そう言って、滑り台の斜面にわざと覆いかぶさるようにしてみせたが、太陽の光を反射する斜面が顔を覗かせているだけ。
「こうちゃん、どこ行ったの?」
あたりを隈なく探してみたが、どこにもこうちゃんの姿はなかった。こないだといい、今日といい、なんだか狐に化かされたような気分だった。一体、こうちゃんは、どこに消えてしまったのだろう。
念のために公園のまわりを探してみても、下校時刻の前の住宅街に子供の姿はなく、僕は途方に暮れていた。たまたま立ち止まった場所に掲示板があって、そこには『右みて左みて、車に注意』と、長年の風雨にさらされてボロボロになったポスターが、一枚貼られているだけだった。
仕方なく僕は、自転車にまたがった。あのグラウンドの端に立って、景色を眺めるために坂を上ってきたはずなのに、そんなことはとっくに忘れ去ってしまっていた。
僕は、途方に暮れながら、午後の柔らかな日ざしが降り注ぐ坂道を、ゆっくりと下り始めたのだった。




