4.第一章 亮太 エピソード3
あれは、僕が自転車に乗って、この住宅街を訪れたときのことだった。とにかくきつい坂道だった。車だとどうってことはないのだろうが、坂道に取りかかって、ものの一分も経たないうちに漕ぐのを諦めた。目の前に続く、まるで天に上っていくかのような坂道、もしも僕がこの上の住宅街に住んでいたならば、毎日の駅までの通学が大変だろうなと思った。途中で引き返そうかと思ったが、何となく上に行ってみたかった。そう、これまでに「行ってはいけない」と言われていた、禁断の場所に。
どうにかこうにか坂を上りきった僕は、三月の初めにもかかわらず額から流れ落ちる汗を拭ってひと休みしようと、住宅街の中で見つけた小さな公園に立ち寄った。幸い、他に人影はなく、僕は自転車を公園の入口に停めると、ベンチ代わりにブランコに座った。そしていつしか、子供の頃に還ったかのように漕ぎ出していた。
漕ぎながら、僕はまわりの風景を眺めていた。来てみれば、何の変哲もない住宅街だった。家々の敷地は広く、柵越しに見える庭には、色とりどりの花々が咲き乱れていた。有名な建築士やデザイナーが設計したと思しき、コンクリート造りの家や、西洋のお城を小さくしたような可愛らしい家々が建ち並んでいる。
僕が生まれ育った古い町並みとは大違いで、ここに住んでいる人たちは、さぞかし便利で快適な生活を送っているんだろうなと想像した。
そのとき、どこからか、声が聞こえた。
「お兄ちゃん」
「えっ?」
と、思わず口にして、あたりを見まわしてみる。
「お兄ちゃん、一緒に遊ぼうよ」
ブランコのそばに、一人の男の子が立っていて、ブランコに揺れる僕の姿を見上げていた。
慌てて地面に両足をこすりつけて、ブランコを止めた僕は、他に誰かがいないかを見わたした。見た感じ、小学一年生くらいの男の子だった。テーマパークのネコのキャラクターが描かれた白のトレーナーに、ベージュのズボンを穿いている。どうやら、一人でここにやってきたようだった。
「僕、一人で来たの? この辺に住んでいる子?」
怖がらせないように、できるだけ穏やかな声で訊いたのだが、男の子は「うん」と頷くだけで、他に何も話さない。
「そっかぁ。ここら辺に住んでいると言うことは、そこの新しくできた希望が丘小学校に通っているのかな。今、何年生?」
すると、男の子は、ニコッと微笑みながら、左手の人差し指を伸ばして見せた。
「そっかぁ、一年生ってことは、もうすぐ二年生だよね。学校の勉強は楽しい? どの勉強が好き?」
「……」
突然、そんなことを訊かれて、よほど気恥ずかしいのだろうか。それとも、僕の声のかけ方がおかしいのだろうか。男の子は、表情を変えることなく、僕の横で立ち尽くしている。この見知らぬ男の子に声をかけるとしたら、そのくらいのことしか訊けないよなと思いつつ、僕は続ける。
「ここで、お友達と遊ぶ約束でもしているのかな。もしかしたら、ブランコに乗りたかったのかな。ごめんね、今降りるからかわるね」
僕はブランコからさっと立ち上がると、「いいよ、乗っても」と言って、ブランコを譲ってあげたのだが、男の子は微笑んだまま、微動だにしない。
不思議な男の子だと思った。いや、ちょっと待てよ、今日は水曜日だったよな。ポケットの中から取り出したスマホの画面を表示させてみると、13:02の数字が並んでいた。とっさに自分の小学校時代のことを思い返してみる。確か、水曜日は、帰りが早かった。給食を食べて教室を掃除してから家に帰っていたが、それでも二時をまわっていたっけ。まだ、三月に入ったばかりだし、まさか春休みに入っているってことはないだろうし……。
もしかしたら、今はテレビのニュースで話題の働き方改革とかなんとやらで、子供たちを早くに帰らせているのだろうか。とにかく学校の先生は忙しいと、両親が毎日のように口にしていたしなぁ。
そんなことをあれこれと考え巡らせていると、男の子が不意に口を開いた。
「お兄ちゃん、僕とかくれんぼをしよう」
「えっ、かくれんぼ? ここで?」
僕がそう訊き返したのは、ざっと見渡してみて隠れられそうな場所がなかったから。ここでかくれんぼをしても、すぐに見つかってしまって、面白みに欠けるのではないだろうか。
そんな僕の心配をよそに、男の子は、
「うん、僕が逃げるから、お兄ちゃん、僕を見つけてね。ここで目をつぶって、十を数えてね」
と、目を輝かせながら言う。
仕方なく、僕は男の子とのかくれんぼに付き合うことにした。
「よし、わかった。それじゃぁ、今から十を数えるけど、前の道路は車が通って危ないから、絶対にこの公園からは出ないでね」
「うん、お兄ちゃん、約束」
男の子は、指きりをするつもりなのか、左手の小指を伸ばしてきたので、僕も自分の右手の小指を出して、それに応える。
「いち、に、さん……はち、く、じゅう もういいかい?」
「……」
「もういいかい?」
「……」
「十を数えたから、今から探しに行くよ。ほーら、みーつけた」
そう言って、僕が振り向いたのは、公園の奥の方。さっき、顔を伏せたときに、男の子がそっちの方向に走って行くのを感じたからだった。
「えっ? どこ行った?」
僕が振り向いた先にあったのは、赤と青のペンキで塗られたすべり台だけ。男の子の姿はどこにもなかった。
「どっ、どこに隠れているの?」
そう呟きながら、公園の奥の方に歩いて行く。そこには、今いる場所を取り囲むように住宅の塀が張り巡らされていて、小さな子供がとても乗り越えられる高さではなかった。念のために公園中を隅々まで探してみたのだが、と言うか、今立っている場所からでも公園の中を見わたせたのだが、男の子の姿はどこにもなかった。
もしかして、僕が十を数えている間に、こっそり公園を抜け出したのだろうか。子供のことである。公園の奥の方に行くと見せかけておいて、忍者のように足音を忍ばせながら公園を出ることだって、可能かもしれない。
なんだか、狐に化かされたような気分になった。とぼとぼと公園の入口近くまで歩いて行って、まわりの道路を見わたしてみたが、春の穏やかな日ざしが路面を眩しく照らしているだけで、男の子の姿はおろか、男の子がいた気配すら消え去っていた。
事故にでも遭っていなきゃいいけど……この公園に向かっているとき、空いているとばかりに住宅街の道路を、スピードを出して走る車を見かけたからだった。でも、その心配はどうやら必要なさそうだった。騒ぎ立てる人々の姿もなく、午後の穏やかな時間が流れているだけだったから。
僕は、気を取り直して、自転車を停めてある場所に向かった。前カゴに見覚えのないものが入っていることに気づいた。真っ白い紙だった。風に吹かれてどこからか飛んできたのだろうか。
ふと、それを手に取ってみる。そこには、ひらがなを覚えたての字で、こう書かれていた。
『おにいちやん ありがと。またあそぼね』
『や』の文字は、大文字のままで、しかも逆さ文字になっていた。
僕は、首を傾げながらも、男の子が書いてくれたと思しきその手紙を、折りたたんでポケットにしまった。




