12.第三章 こうちゃん エピソード3
その日の夜、僕のスマホが鳴った。こんな時間にかけてくるのは隼人くらいだろうと思っていたが、本当に隼人からだったので、思わず苦笑してしまった。
「あぁ、亮太か。こんな時間に電話して、悪かったな。ちょっと、聞いてもらいたいことがあってな」
電話の先から聞こえてきた隼人の声は、どこか落ち着きがない。僕に聞いてもらいたいことってなんだろうと、首を傾げた。
「どうしたの。何かあったの?」
「実はな、俺、またあの丘の上のグラウンドに行ってきたんだ。一人で夜景を見に行こうと思ってな。そしたら、出たんだよ」
その意味がわからなかった僕は、
「出たって何が出たの?」
と、能天気に訊き返してしまった。
「えっ、わからないのかよ。あれだよ、あれ」
そう思わせぶりな言い方をした隼人は、さっき体験したばかりのことを僕に打ち明け始めた。
ふとした拍子に、夜景を眺めたいと思った隼人は、一人丘の上に車を走らせていたのだという。時刻は夕飯時をまわっていて、丘の上に上る道路に人気はなく、下りてくる車の姿も見られなかった。窓を開けて夜風に吹かれながら快調に車を走らせていたのだが、坂道を上りきってすぐの公園のあたりに差しかかったときに、子供が急に飛び出してきたのだという。
とっさに急ブレーキを踏んで車を停めた。初めて踏んだ急ブレーキだった。もしやと思って、慌てて車を降りた隼人は、乗ってきた車のまわりを隈なく探してみたのだが、何かが当たった形跡はどこにもなく、車の下を覗いてみても、ゴミ一つ落ちていなかった。
よくよく考えてみれば、何かが車体に当たったとすれば音がするはずだが、窓を全開にしていたにもかかわらず、何も感じなかった。
念のためにその場に車を停めて、あたりを一周してみたのだが、子供の姿はおろか、人っ子一人いなかった。
「どうやら俺が見たのは、あれだよあれ」
「えっ、あれって、つまりその……」
その先の言葉が言えなかったのだが、隼人は躊躇いなく言った。
「だから、子供の幽霊だよ」
「えっ、ゆうれい?」
そう反応した僕は、頭の中で幽霊ってどんな漢字を書くのだったかと、思い浮かべていた。
「亮太は、噂を聞いたことはないか。あそこで子供の幽霊が出るって話を」
「えっ、子供の幽霊? いや、僕は聞いたことがなかったけど……」
それは本当のことだった。隼人には、丘の上の住宅街に何人か友人がいたようだが、僕にはいなかった。それもそのはず、あそこには行ってはいけないと、祖母に言われたことを、つい最近まで忠実に守り続けていたのだから。
隼人は、幾分落ち着きを取り戻したようで、その噂とやらを話し始めた。
それによると、いつのことかはわからないが、あの公園で子供が車に轢かれて亡くなるという、痛ましい事故が起こった。どうやら、亡くなった子供は、一緒に遊んでいたもう一人の子供が道路に飛び出しかけてしまって、走ってきた車に轢かれそうになるのを助けようとして、その男の子も飛び出したみたいだったが、不運にも助けようと身を乗り出した方が、車に轢かれてしまったという可哀そうな事故だった。
「俺もさ、これは友達から聞いた話だから、本当のことかどうか、はっきりしたことはわからないけどよ。昔、俺たちが小学生の頃、先生たちが口うるさく言ってなかったか、丘の上は危ないから、子供だけで行ってはいけないって」
「あぁ、そう言われてみれば、そんなことを聞いたことがあったような、なかったような……」
事故があったとは、はっきり言っていなかったと思うけど、僕が二年生の頃だっただろうか。担任の先生が、そんなことをしきりに言っていたような気がする。「気がすると」と自信を持って言い切れなかったのは、祖母にも同じことを言われていたから。とにかく、まわりの大人たちが、声高に言い始めていたので、僕はそれが学校でのことだったのかが思い出せなかったのだ。
「俺が見たのは、幼稚園の年長か小学一年生くらいの男の子の霊だったぜ。ネコのイラストの服を着ていたけどな」
「えっ、ネコの?」
「あぁ、アメリカンパークのキャラクターのな。亜矢子が行きたいって無茶を言うから、付き合っているうちに三回も行ってきたんだぜ。それなのによ、亜矢子ときたら……」
隼人は、別れた彼女のことを思い出したのか、付き合っていた頃のことをぶつぶつと口に出していたが、いつしか僕の耳には入ってこなくなっていた。
隼人が見たというのは、こうちゃんの姿なのだ。もっとも、霊が本当に実在するのかどうかはわからないが、隼人が語った男の子の服装と言い、年長から小学一年生という年齢と言い、僕が公園で会っていたこうちゃんに間違いはなかった。いや、僕の弟の浩平と呼んだ方がいいだろうか。
隼人は、噂だと断っていたが、もしもその話が本当ならば、浩平が一緒に遊んでいた誰かを庇おうと、自ら事故に巻き込まれたことになる。隼人は、幼稚園の年長か小学一年生くらいの男の子の霊だったと話していた。僕の家から、あの丘の上の公園までは随分距離があるので、浩平が友達と遊びに行ったとは考えにくい。
とすると、浩平と一緒に遊んでいた子供って、もしかして……。
不思議に思っていることがあった。それは、僕には小学一年生よりも前の記憶が一切ないこと。もしもだ、浩平が事故に巻き込まれたときに、僕も頭を強く打ったりしていたとしたら、それまでの記憶が抜け落ちていることにも説明がつく。それとも、僕は平気だったが、目の前で浩平が事故に巻き込まれるのを目撃してしまって、ショックのあまり、それまでの記憶を失ってしまったのかも知れない。
だから、僕の祖母は、僕に丘の上には近づかないように言ったのだ。もしも、僕がそこに行ってしまって、何かのきっかけで凄惨な記憶を呼び起こしてしまうかも知れなかったから。
あくまで、これらはすべて、状況証拠を揃えて繋ぎ合わせてみただけの、仮説でしかない。もしも、これが本当のことだとしたら、当然、母は真実を知っている訳だが、僕はこれまでその事実を知らずに育ってきた。何かと厳しい両親だったが、浩平が生きていたら受けていたであろう愛情も、まとめて注いでもらいながら、ここまで生きてきた。
その僕は、間もなく未来へと旅立とうとしている。期待と不安が入り混じる中で、僕は自分の力でこの先を切り開いていこうとしているのだ。その前に、僕に弟がいたかも知れないということを知ってしまった今、そのいたかも知れない弟のために、僕にはどんなことができるだろうか。
「おい、亮太、聞いてるのか?」
隼人の声にはっとなった僕は、電話で話していたことにようやく気がついた。
「あぁ、ごめん。ちゃんと聞いているよ」
「急に黙り込んでしまったから、亮太がどうかしちゃったんじゃないかって、俺、びっくりしちゃったぜ。それよりもよ、今度、また亮太がこっちに戻ってきたら、一緒に夜景を見に行こうぜ。あそこから見えるのは、俺たちが生まれ育った町なんだからさ」
「そっ、そうだね。僕たちが大きくなるのを、見守ってくれていた場所だもんね」
ほとんど一方的に話して、隼人は気が済んだのか、そのまま電話を切った。僕は、待ち受け画面に戻ったスマホをぼんやりと見つめている。親子三人で旅行に出かけたときに撮ってもらった写真。ちょっぴり恥ずかしいけれど、向こうでの生活に慣れるまで、その画面にしておこうと思っていた。
ポロシャツ姿の父とワンピース姿の母、その間には、大人の顔つきになりつつある僕の姿があった。その横に一緒に立っていたはずの浩平の姿に、僕はいつまでも思いを馳せていた。




