【第一章 血月編】 第九話 血月の契約
任務を終えた翌朝。
壬生屯所には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
隊士たちは庭で稽古に励み、炊事場からは味噌汁の香りが漂ってくる。
昨夜、吸血鬼との死闘があったとは思えないほど、日常は静かだった。
しかし、その静けさが朔夜にはかえって落ち着かなかった。
「また考え事ですか?」
縁側へ腰を下ろした沖田総司が湯飲みを差し出す。
「ありがとうございます。」
温かな茶を受け取りながら、朔夜は小さく笑った。
「昨夜のことを思い出していました。」
「吸血鬼ですか?」
「はい。」
沖田は庭を見つめたまま呟く。
「人ではない者が本当にいるなんて、まだ信じられません。」
「ですが。」
穏やかな笑みを浮かべる。
「神代さんが嘘をつく人ではないことだけは分かります。」
その言葉が少しだけ胸を軽くした。
そこへ土方歳三が現れる。
「神代。」
「はい。」
「少し付き合え。」
副長に連れられ、屯所の裏庭へ向かう。
誰もいない竹林。
風が笹を揺らす音だけが響いていた。
「昨日の戦い。」
土方は振り返らずに言った。
「俺は見ていた。」
朔夜の心臓が跳ねる。
「お前。」
「何者だ?」
鋭い視線が突き刺さる。
誤魔化せない。
朔夜は静かに右目へ触れた。
「未来が……見えるんです。」
沈黙。
土方は驚くことなく腕を組んだ。
「やっぱりな。」
「昨日、お前は総司を庇う前に、何かを見ていた。」
朔夜はゆっくり頷く。
「数秒先だけです。」
「その未来が見える。」
「ですが。」
「変えようとすると、激しい痛みが走ります。」
土方は黙って聞いていた。
「だから命懸けか。」
「……はい。」
「馬鹿野郎。」
思わず顔を上げる。
土方は呆れたように息を吐いた。
「仲間を守るために死ぬ奴は立派だ。」
「だが。」
「仲間は、お前に死んでほしくねぇ。」
その一言が胸へ刺さる。
「生きて帰る。」
「それも隊士の務めだ。」
土方はそう言うと背を向けた。
「その力に頼りすぎるな。」
「剣は最後まで自分を信じろ。」
その背中は、誰よりも大きく見えた。
◇ ◇ ◇
その夜。
夜羽は一人、鴨川の河原に立っていた。
満月が川面を照らし、銀色の光が揺れている。
朔夜は静かに歩み寄った。
「ここにいたのか。」
夜羽は振り返り、小さく微笑む。
「眠れなくて。」
二人は並んで川を眺める。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて夜羽が静かに言う。
「朔夜。」
「神速眼のこと。」
「少し分かった。」
朔夜は驚いて彼女を見る。
「本当か?」
夜羽は頷く。
「私たち吸血鬼には古い言い伝えがあるの。」
『血月に選ばれし者は、未来を視る。』
「でも。」
「その力は命を喰らう。」
「使えば使うほど、寿命が削られていく。」
朔夜は思わず拳を握った。
やはり。
あの激痛には意味があったのだ。
「どうすれば……。」
「止められる?」
夜羽は悲しそうに首を振る。
「分からない。」
「ただ一つだけ。」
「方法があるかもしれない。」
夜風が二人の間を吹き抜ける。
「契約。」
「……契約?」
「吸血鬼と血月に選ばれた者だけが結べる、命を分け合う契約。」
朔夜は息を呑む。
「でも。」
夜羽は俯いた。
「契約したら。」
「私たちは運命まで繋がってしまう。」
「どちらかが傷つけば、もう一人も痛みを感じる。」
「命さえ……。」
そこで言葉を飲み込む。
「だから駄目。」
「私はもう、大切な人を巻き込みたくない。」
その瞬間だった。
ドクン――。
朔夜の右目が激しく脈打つ。
視界が赤く染まる。
未来。
それは今までで最も鮮明だった。
血月。
燃え上がる寺。
倒れている夜羽。
その胸を貫く黒い槍。
そして、その槍を握る男。
黄金の瞳。
カイン。
「夜羽ぁぁっ!」
朔夜は叫びながら未来から引き戻された。
息を切らし、夜羽の肩を掴む。
「契約しよう。」
「え……?」
「俺は。」
「もう未来を見て、お前が死ぬのを黙って見ていることなんてできない。」
夜羽の瞳が揺れる。
「でも。」
「私が吸血鬼だってこと、忘れたの?」
「忘れない。」
朔夜は静かに首を振った。
「だから守る。」
「吸血鬼でも。」
「人間でも。」
「夜羽は夜羽だから。」
その言葉に、夜羽の頬を涙が伝う。
二百年。
誰にも言ってもらえなかった言葉だった。
しかし、その時――。
ザッ……
河原の闇で、誰かが砂を踏む音がした。
「感動の場面を邪魔して悪いな。」
低い男の声。
闇の中から現れたのは、黒衣の吸血鬼が十数体。
そして、その中央には――
カイン。
黄金の瞳が静かに細められる。
「契約を結ぶ前に。」
「姫は返してもらおう。」
夜羽の顔が青ざめた。
朔夜は刀へ手を掛ける。
血月が、ゆっくりと雲間から姿を現した――。
鴨川の水面が、血のように赤く染まっていた。
雲間から姿を現した血月が、夜の京都を妖しく照らしている。
その光の中で、カインはゆっくりと歩み出た。
「久しいな、夜羽。」
穏やかな声。
だが、その一歩ごとに周囲の空気が重くなる。
十数体の吸血鬼が朔夜と夜羽を取り囲んだ。
逃げ場はない。
「私と一緒に来い。」
カインは夜羽へ右手を差し出す。
「お前は吸血鬼の王族だ。」
「人間と肩を並べる存在ではない。」
夜羽は静かに首を振った。
「私は行かない。」
「この人たちを守る。」
その一言で、カインの笑みが消えた。
「ならば力づくだ。」
吸血鬼たちが一斉に地を蹴る。
「朔夜!」
夜羽が叫ぶ。
朔夜は刀を抜いた。
右目が熱を帯びる。
未来が流れ込む。
三人が右から。
二人が背後。
カインは動かない。
だが――。
(多すぎる……!)
未来は読めても、身体が追いつかない。
沖田でもない限り、この数を一人で捌くことはできない。
吸血鬼の爪が迫る。
その瞬間だった。
夜羽が朔夜の前へ飛び出す。
「だめ!」
銀色の短刀が火花を散らす。
一体。
二体。
三体。
しかし、四体目の牙が夜羽の肩へ食い込んだ。
「……っ!」
鮮血が舞う。
「夜羽!」
朔夜は我を忘れて駆け寄る。
夜羽は苦しそうに笑った。
「大丈夫……。」
「吸血鬼だから。」
だが、その顔は青白い。
仲間の牙であっても傷は深い。
カインは冷たく言い放つ。
「見ただろう。」
「人間を守れば、お前が傷つく。」
「それが運命だ。」
夜羽は震える声で答える。
「運命なんて……。」
「私は信じない。」
「朔夜。」
夜羽は彼を見つめた。
「契約を。」
朔夜は頷く。
もう迷いはなかった。
「やろう。」
夜羽は小さく息を吸う。
「一度契約すれば、もう戻れない。」
「私の痛みも。」
「悲しみも。」
「寿命さえも。」
「一緒に背負うことになる。」
朔夜は優しく微笑んだ。
「最初から、そのつもりだ。」
夜羽の瞳から涙が零れる。
二百年。
誰もそんな言葉をくれなかった。
「ありがとう……。」
夜羽は自らの指先を短刀で傷つけた。
紅い血が一滴こぼれる。
「朔夜。」
彼もまた、自分の指を傷つけた。
二人の血が、静かに重なる。
その瞬間――。
血月が激しく輝いた。
ゴォォォォッ!
赤い光が二人を包み込む。
風が渦を巻く。
川面が逆巻き、夜空に無数の紅い光が舞い上がった。
朔夜の右目に、これまでとは比べものにならない激痛が走る。
「ぐああぁぁっ!」
膝をつく。
しかし痛みの奥で、何かが変わっていく。
見える。
数秒先だけではない。
敵の動き。
呼吸。
殺気。
そのすべてが糸のようにつながって見えた。
夜羽も驚きに目を見開く。
「神速眼が……。」
「進化した……?」
朔夜はゆっくり立ち上がる。
世界が違って見える。
風の流れ。
葉の揺れ。
敵の筋肉の動き。
すべてが鮮明だった。
カインが初めて眉をひそめる。
「契約が成功したか。」
「面白い。」
「ならば試してみよう。」
カイン自身が刀を抜く。
黒い刀身。
禍々しい瘴気をまとった魔剣だった。
一瞬。
姿が消える。
(速い!)
だが今回は見えた。
未来だけではない。
"今"が見える。
朔夜は半歩だけ身体を捻る。
黒刃が頬を掠める。
避けた。
初めてカインの一撃を。
「ほう……。」
カインが笑う。
「血月は、ずいぶん面白い駒を選んだ。」
だが、その笑みはすぐに消えた。
「今夜はここまでだ。」
「池田屋で待っている。」
その名に夜羽の顔色が変わる。
「まさか……。」
カインは背を向けたまま言う。
「歴史は変わる。」
「そして、お前たちは絶望を知る。」
無数の蝙蝠が夜空へ舞う。
カインの姿は闇へ溶けるように消えた。
静寂が戻る。
朔夜は刀を納めると、その場へ座り込んだ。
夜羽も隣へ腰を下ろす。
二人とも言葉が出なかった。
やがて夜羽が、小さく笑う。
「これで……運命共同体だね。」
朔夜も照れくさそうに笑った。
「ああ。」
「最後まで付き合ってもらう。」
夜羽は頷く。
「もちろん。」
そう言って、初めて自然に朔夜の手を握った。
その温もりは、人間とも吸血鬼とも違う、不思議な温かさだった。
その様子を、少し離れた橋の上から見つめる影があった。
沖田総司である。
「神代さん……。」
優しく微笑みながらも、その表情にはどこか複雑な影が差していた。
「あなたが変えようとしている未来は……。」
沖田は血月を見上げる。
「きっと、僕たちが想像するよりずっと過酷なんでしょうね。」
風が吹く。
血月は静かに京都を照らし続けていた。
歴史が動き始める。
そして、池田屋事件という運命の日が、確実に近づいていた――。




