【第一章 血月編】 第十話 池田屋に潜む影
夏を迎えた京の都は、昼の熱気を夜まで引きずっていた。
壬生屯所の庭では、隊士たちが額に汗を浮かべながら木刀を打ち合わせている。
乾いた音が青空へ響くたび、朔夜は自分の未熟さを思い知らされていた。
「遅い。」
沖田総司の木刀が、朔夜の肩を軽く打つ。
「痛っ……!」
「未来が見えても、体が動かなければ意味がありません。」
沖田は笑みを浮かべながら構えを解かない。
「剣は頭で振るものじゃない。」
「心で振るものです。」
朔夜は息を整え、再び木刀を握る。
「お願いします!」
二人の木刀が激しくぶつかる。
右。
左。
上段。
神速眼が数手先を映し出す。
しかし、それでも沖田には届かない。
未来は見える。
それでも届かない。
(まだ足りない。)
歯を食いしばった、その時だった。
「総司!」
庭へ土方歳三が姿を現した。
その表情は厳しい。
「近藤さんがお呼びだ。」
空気が変わる。
沖田もすぐに笑みを消した。
本堂には近藤勇を中心に、幹部たちが集まっていた。
机の上には一枚の地図。
その一点に赤い印が付けられている。
「池田屋。」
近藤が静かに口を開いた。
「長州浪士が密談を開いているという知らせが入った。」
隊士たちの表情が引き締まる。
「もし事実なら。」
土方が続ける。
「京都へ火を放ち、天皇を長州へ連れ去る計画らしい。」
永倉が拳を握る。
「放ってはおけねぇな。」
斎藤は静かに頷く。
「すぐ動くべきです。」
朔夜の胸が大きく高鳴る。
(池田屋事件……。)
歴史で何度も読んだ。
新選組の名を天下へ轟かせた戦い。
しかし。
神速眼が微かに疼く。
嫌な予感。
史実には存在しない"何か"が混じっている。
「神代。」
近藤が視線を向ける。
「顔色が悪いぞ。」
朔夜は迷った。
言うべきか。
言わないべきか。
そして決意する。
「局長。」
「池田屋には……。」
言葉を飲み込む。
「人ではない敵もいます。」
部屋が静まり返った。
永倉が苦笑する。
「また吸血鬼ってやつか?」
土方だけは黙っていた。
近藤も真剣な眼差しを向ける。
「理由を聞こう。」
朔夜は右目を押さえた。
「見えたんです。」
「池田屋で……。」
呼吸が乱れる。
「人だけじゃない。」
「吸血鬼が戦っています。」
沖田が小さく息を呑む。
近藤は少し考え、静かに頷いた。
「分かった。」
「ならば、その敵も新選組が斬る。」
その一言に、隊士たちは力強く応えた。
「おおっ!」
誰一人として逃げようとはしない。
朔夜は胸が熱くなった。
(この人たちは、本当に強い。)
その夜。
壬生屯所の裏門で、一人の少女が待っていた。
夜羽である。
風が銀色の髪を揺らしていた。
「朔夜。」
「来てくれた。」
朔夜は頷く。
「何かあったのか?」
夜羽は少しだけ迷い、小さな包みを差し出した。
「これ。」
「お守り?」
「違う。」
包みの中には、銀色に輝く短刀が収められていた。
鍔には三日月を思わせる紋様が刻まれている。
「退魔銀。」
夜羽は静かに説明する。
「普通の刀では、上位吸血鬼は倒せない。」
「でも、この銀なら。」
朔夜は短刀を握る。
不思議な温もりが手に伝わる。
「ありがとう。」
夜羽は微笑む。
「約束したでしょ。」
「一人じゃないって。」
その笑顔に、朔夜も自然と笑みを返した。
だが、その時。
右目が激しく疼く。
ドクン――。
未来。
血に染まる池田屋。
倒れる隊士たち。
炎。
そして。
沖田総司の胸を、黒い槍が貫く。
「総司さん!」
朔夜は思わず叫んだ。
「朔夜?」
夜羽が驚いて振り返る。
未来はさらに続く。
池田屋の二階。
窓辺に立つカイン。
その口元がゆっくりと歪む。
『歴史は今夜、終わる。』
その声と同時に映像は砕け散った。
朔夜は荒く息をつく。
「池田屋へ急がないと……。」
夜羽は真剣な表情で頷く。
「私も行く。」
「でも。」
「人前では吸血鬼だと知られちゃ駄目。」
朔夜は短刀を腰へ差した。
「ああ。」
「歴史も。」
「仲間も。」
「全部守る。」
二人は夜の京都へ駆け出す。
その頃――。
池田屋の二階。
障子の向こうでは、浪士たちが密談を続けていた。
しかし、その天井裏には。
逆さまに張り付く無数の吸血鬼。
赤い瞳が静かに獲物を見つめている。
そして部屋の奥。
一人の男が静かに盃を置いた。
黄金の瞳。
黒い羽織。
吸血鬼の王――カイン。
「さあ。」
ゆっくりと立ち上がる。
「幕末最大の夜を始めよう。」
血月が、再び京都の空へ姿を現した――。
六月五日――。
京の町は蒸し暑い夜を迎えていた。
提灯の灯が風に揺れ、人々は誰も、この夜が歴史を変える夜になるとは知らない。
池田屋へ向かう道を、新選組が無言で駆ける。
先頭は近藤勇。
その隣に沖田総司。
土方歳三は別働隊を率いて後方から向かっていた。
そして朔夜は、沖田のすぐ後ろを走る。
腰には夜羽から託された退魔銀の短刀。
右目には、じわじわと熱が宿っていた。
(来る……。)
神速眼が何度も警鐘を鳴らしている。
未来はまだ霧の中だ。
だが、一つだけははっきり見えていた。
――沖田が死ぬ。
その未来だけは、どうしても変えなければならない。
池田屋。
二階では浪士たちが密談を続けていた。
しかし天井裏には、人知れず黒い影が這っている。
吸血鬼たちだった。
赤い瞳が獲物を見下ろし、静かに牙を鳴らす。
その中央で、カインが微笑んだ。
「人間は愚かだ。」
「自分たちの戦だけで精一杯。」
「頭上の死にも気付かぬ。」
黄金の瞳が妖しく細まる。
「今夜、歴史は我らのものとなる。」
「新選組だ!」
近藤の怒号が響いた。
池田屋の戸が勢いよく開かれる。
浪士たちは一斉に刀を抜いた。
「御用改めである!」
怒号とともに斬り結ぶ音が響く。
史実どおりの池田屋事件。
だが――。
「上です!」
朔夜が叫ぶ。
次の瞬間。
天井板が砕け散った。
黒い影が次々と降ってくる。
「吸血鬼!」
浪士たちも驚愕する。
「なんだ、こいつら!」
敵も味方も関係ない。
吸血鬼は目につく者すべてへ牙を向けた。
池田屋は一瞬で地獄と化す。
「総司さん!」
沖田は迷わず最前線へ飛び込む。
白刃が閃く。
一閃。
二閃。
三閃。
吸血鬼の首が次々と宙を舞う。
あまりにも美しい剣だった。
朔夜は息を呑む。
(これが……。)
(沖田総司。)
未来が見える自分でも届かない。
純粋な剣の才能。
誰より速く。
誰より正確だった。
しかし。
神速眼が激しく疼く。
ドクン――。
未来。
沖田の背後。
梁の上。
一体の上位吸血鬼が黒槍を構える。
投げる。
心臓を貫く。
(来る!)
「総司さん!」
朔夜は叫びながら走った。
沖田が振り返る。
その刹那。
黒槍が放たれる。
空気を裂く轟音。
未来どおり。
いや――。
「変える!」
朔夜は床を蹴った。
神速眼が覚醒する。
世界がゆっくりになる。
槍が止まって見える。
あと一歩。
届け。
「うおおおおっ!」
退魔銀の短刀を抜く。
火花。
甲高い衝突音。
黒槍が軌道を変え、柱へ突き刺さった。
「神代さん!」
沖田の瞳が大きく開く。
未来が変わった。
確かに。
沖田は生きている。
その瞬間だった。
「見事だ。」
低い声。
二階の奥からカインが姿を現した。
黄金の瞳。
黒い羽織。
静かな笑み。
「未来を見る少年。」
「やはり、お前は面白い。」
空気が変わる。
近藤も土方も、その異様な気配に刀を構えた。
「こいつが親玉か。」
土方が低く言う。
カインは微笑む。
「人間にしては勘がいい。」
夜羽が二階の窓から飛び込んだ。
「朔夜!」
銀の刃が月光を反射する。
カインの表情が僅かに曇る。
「夜羽。」
「まだ人間の味方をするか。」
「私はもう、お前には従わない!」
二人の刃が激突する。
轟音。
床板が砕ける。
圧倒的な力。
夜羽は押し返される。
「ぐっ……!」
朔夜は飛び出した。
「夜羽!」
神速眼。
契約によって進化した視界が、カインの剣筋を映す。
一撃目。
横薙ぎ。
二撃目。
逆袈裟。
三撃目。
突き。
見える。
全部見える。
だが。
(速い!)
身体が追いつかない。
カインは笑う。
「未来が見えても。」
「力が伴わねば意味はない。」
その言葉とともに剣が振り下ろされる。
朔夜は受け止める。
両腕が軋む。
押し潰されそうになる。
その時だった。
「神代さん!」
沖田が駆ける。
「一人じゃありません!」
白刃が閃く。
土方も飛び込む。
「総司!」
「合わせろ!」
近藤も永倉も斎藤も続く。
新選組が一つになった。
カインは初めて表情を変える。
「なるほど。」
「これが人間の絆か。」
その声に、わずかな感心が混じる。
しかし次の瞬間、無数の蝙蝠が室内を埋め尽くした。
「今日は退こう。」
「だが覚えておけ。」
黄金の瞳が朔夜を射抜く。
「次に会う時。」
「お前は未来を見ることを後悔する。」
蝙蝠の群れが闇へ消える。
静寂。
池田屋には荒い息だけが残っていた。
近藤が刀を納める。
「……終わったな。」
土方は周囲を見回し、小さく頷く。
「いや。」
「始まったんだ。」
朔夜は崩れた窓から夜空を見上げる。
血月はまだ京都を照らしている。
歴史は守れた。
だが、戦いは終わっていない。
右目が、再び疼いた。
映った未来は――
白い雪。
咳き込む沖田。
そして、血に染まる鳥羽伏見の戦場。
まだ誰も知らない。
本当の悲劇は、これから始まることを。




