【第一章 血月編】 第六話 沖田総司の剣
朝靄が壬生屯所を包んでいた。
庭先の草には朝露が光り、竹林を吹き抜ける風が静かに葉を揺らしている。
昨日までの緊張が嘘のような穏やかな朝だった。
それでも、屯所には早くから木刀を打ち合う音が響いていた。
乾いた音。
鋭い気合。
そして隊士たちの笑い声。
神代朔夜は縁側に腰を下ろし、その光景を眺めていた。
「眠れましたか?」
柔らかな声が聞こえる。
振り向くと、沖田総司が湯気の立つ湯呑みを二つ持って立っていた。
「ありがとうございます。」
受け取ると、温かな茶の香りが鼻をくすぐる。
「昨日は疲れたでしょう?」
「ええ……。」
朔夜は苦笑した。
「副長の試験は、本当に寿命が縮みました。」
沖田は声を立てて笑う。
「ははっ。副長は誰に対しても厳しいですから。」
「でも。」
少しだけ真面目な表情になる。
「認めた相手には、とても優しい人ですよ。」
朔夜は昨日の土方を思い出す。
最後に差し伸べられた大きな手。
あの短い一瞬だけで、土方歳三という男がどれほど仲間を大切にしているのか伝わってきた。
「さて。」
沖田は立ち上がる。
「今日から稽古です。」
そう言って木刀を一本投げた。
朔夜は慌てて受け取る。
「遠慮はいりません。」
沖田は笑う。
「本気で来てください。」
「……はい。」
二人は庭の中央へ向かう。
隊士たちが自然と道を開けた。
「始まるぞ。」
永倉新八が腕を組む。
「総司の稽古は久しぶりだ。」
原田左之助は楽しそうに笑う。
「新入り、泣くなよ?」
斎藤一だけは黙って二人を見つめていた。
土方も縁側で腕を組み、静かに様子を見守っている。
「では。」
沖田が木刀を構えた。
自然体だった。
力みがない。
隙もない。
ただ立っているだけなのに、不思議な威圧感がある。
(強い。)
昨日の平山とは比べものにならない。
朔夜の背中を冷たい汗が流れる。
「神代さん。」
「はい。」
「あなたは何のために剣を振りますか?」
突然の問いだった。
「守るためです。」
迷わず答える。
「誰も死なせたくないから。」
沖田は嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。」
「え?」
「同じですね。」
その一言が胸に響く。
「僕も、人を守るために剣を振っています。」
優しい笑顔。
だが、その瞳の奥には深い覚悟が宿っていた。
「だから。」
沖田は木刀を正眼に構える。
「あなたを強くします。」
次の瞬間。
沖田の姿が消えた。
「え……?」
気付いた時には、木刀が目の前まで迫っていた。
速い。
速すぎる。
(神速眼!)
右目が熱くなる。
未来が流れ込む。
沖田の次の動き。
さらにその次。
見えた。
はずだった。
しかし。
「なっ!?」
沖田は未来とは違う軌道へ木刀を滑らせた。
カンッ!
朔夜の木刀が高く弾き飛ばされる。
「しまっ――」
喉元へ木刀が止まる。
「一本。」
静かな声。
勝負は、一瞬だった。
庭中が静まり返る。
永倉が苦笑する。
「やっぱり総司は別格だな。」
原田も肩をすくめた。
「新入りじゃ話にならねぇ。」
しかし土方だけは黙っていた。
沖田は木刀を下ろす。
「驚きました。」
「え?」
「普通なら、今の一撃は避けられません。」
沖田は優しく笑う。
「やっぱり神代さんは、未来が見えているんですね。」
朔夜は息を呑んだ。
「どうして……。」
「分かります。」
沖田は自分の胸へ手を当てる。
「剣士は、相手の呼吸を読む。」
「でもあなたは、それ以上の何かを見ています。」
朔夜は右目を押さえた。
神速眼。
秘密だった。
誰にも知られてはいけないと思っていた。
それでも。
沖田だけは見抜いていた。
「ですが。」
沖田の笑顔が少しだけ真剣になる。
「未来が見えるだけでは、僕には勝てません。」
「!」
「未来は一つではありません。」
その言葉に朔夜は目を見開いた。
「剣とは。」
沖田は木刀を軽く振る。
「相手の未来を変えるものです。」
風が吹いた。
竹の葉がさらさらと音を立てる。
「だから。」
沖田は穏やかに笑った。
「一緒に強くなりましょう。」
その笑顔を見た瞬間だった。
朔夜は確信した。
(この人は……。)
(絶対に死なせたくない。)
その想いが、胸の奥で静かに燃え始めていた――。
喉元に添えられた木刀。
あと数寸踏み込まれていれば、勝負は終わっていた。
沖田総司は木刀を静かに下ろし、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「今日はここまでにしましょう。」
朔夜は肩で息をしながら苦笑する。
「まるで歯が立ちませんでした……。」
「そんなことはありません。」
沖田は首を横に振る。
「あなたは確かに、未来を見ています。」
「ですが――」
沖田は一本の木刀を庭へ立て掛け、空を見上げた。
「未来が見えることと、未来を変えられることは違います。」
その言葉に、朔夜は顔を上げる。
「どういう意味ですか?」
「例えば。」
沖田は庭に落ちていた木の葉を拾い上げた。
「この葉が落ちる未来が見えたとします。」
ふわり、と木の葉を放る。
風に乗って舞い落ちる。
「でも、その途中で風が吹けば?」
突然、一陣の風が庭を抜けた。
木の葉は大きく軌道を変え、池へ落ちる。
「未来は変わります。」
「剣も同じです。」
沖田は木刀を構える。
「剣とは、相手が見た未来を壊すもの。」
「だから私は、最後の最後まで動きを変えます。」
朔夜は思い返した。
確かに神速眼は沖田の動きを読んだ。
だが沖田は、その未来を自ら書き換えた。
「だから負けたのか……。」
悔しさが胸を締めつける。
しかし、それ以上に胸が熱くなった。
この人は、どこまでも剣を極め続けている。
「神代さん。」
沖田は木刀を収める。
「あなたは優しすぎます。」
「え?」
「相手を傷つけることばかり考えてしまう。」
「だから動きが遅れる。」
図星だった。
朔夜は人を斬れない。
それが心の奥底で、無意識に剣を止めていた。
「でも。」
沖田は笑う。
「それは悪いことではありません。」
「え?」
「人を斬りたいと思う人間より、人を斬りたくないと思う人間の方が、私は好きです。」
その一言が胸に深く染み込む。
「その優しさを失わないでください。」
「きっと、それがあなたの剣になります。」
朔夜は目を伏せた。
この人は、本当に優しい。
だからこそ歴史の中で、多くの人に愛されたのだろう。
そして――。
(この人は……病で死ぬ。)
未来を知る自分だけが、その事実を背負っていた。
拳を強く握り締める。
(絶対に変える。)
(沖田さんも、土方さんも、誰一人死なせない。)
その決意が胸に宿った瞬間だった。
――ドクン。
右目が脈打つ。
「っ……!」
激痛が走る。
視界が赤く染まった。
見える。
また未来だ。
だが今回は違う。
燃え盛る町。
逃げ惑う人々。
血に染まる石畳。
その中央で、夜羽が膝をついている。
黒い衣は血で赤く染まり、その胸には一本の銀の杭が突き刺さっていた。
「……朔夜。」
か細い声。
伸ばされた白い手。
届かない。
「やめろっ!」
叫んだ瞬間、未来は砕け散った。
朔夜はその場へ膝をつく。
「神代さん!」
沖田が駆け寄る。
「また未来を……?」
朔夜は震える声で頷いた。
「夜羽が……殺される。」
沖田の表情が変わる。
「場所は?」
「分からない……でも京都だ。」
その時だった。
屯所の門が勢いよく開く。
「副長!」
一人の隊士が駆け込んできた。
「大変です!」
「町で辻斬りです!」
土方が立ち上がる。
「違います!」
隊士は青ざめた顔で首を振る。
「刀傷じゃありません!」
「首筋から血を吸われた遺体が三つ!」
その場の空気が凍り付く。
朔夜と沖田は顔を見合わせた。
吸血鬼。
間違いない。
屋根の上。
その報告を聞いていた夜羽が、小さく目を閉じる。
「始まってしまった……。」
誰にも聞こえないほど小さな声。
悲しみを押し殺した呟きだった。
一方、京都の外れにある廃寺。
血月の下で、カインは静かに笑う。
「ようやく幕が上がる。」
黄金の瞳が妖しく輝く。
「狩りの時間だ。」
無数の蝙蝠が夜空へ飛び立った。
その群れは、まるで血月へ向かう黒い波のようだった。
歴史の裏で始まる、人と吸血鬼の戦い。
その第一幕が、今まさに開こうとしていた――。




