【第三章 千年の約束】 第三十四話 血月総攻撃
その夜、京から月が消えた。
空一面を覆う黒雲は、まるで巨大な生き物のように渦を巻き、町を包み込んでいく。
風は止み、虫の音さえ聞こえない。
静かすぎる夜だった。
だからこそ、人は本能で悟る。
――何かが来る。
壬生屯所の庭で、土方歳三は空を見上げていた。
刀の柄に添えた右手へ、雨粒がぽつりと落ちる。
「……血の匂いがする。」
誰に言うでもない呟きだった。
その隣に立つ月夜は、胸元を押さえながら苦しそうに息をつく。
「違います……。」
その声は震えていた。
「これは……血じゃありません。」
「始祖の力が……呼ばれている……。」
心臓が激しく脈打つ。
鼓動の一つひとつが、京のどこかで目覚める邪悪な気配と共鳴していた。
まるで、自分の血が誰かに呼ばれているようだった。
「月夜。」
土方は低い声で呼ぶ。
「今のお前は、一人じゃねぇ。」
月夜は顔を上げる。
土方の目には恐れがなかった。
化け物を見る目でもない。
仲間を見る目だった。
「ありがとうございます……。」
その時だった。
ゴォォォォン――。
京中の寺から鐘の音が響き渡る。
一つではない。
二つでもない。
東、西、南、北。
町中の鐘が、一斉に鳴り始めた。
次の瞬間。
「副長ッ!」
屯所の門が勢いよく開く。
息を切らした島田魁が飛び込んできた。
「大変です!」
「落ち着け。」
「三条通、四条河原町、祇園、六角堂……町中で化け物が人を襲っています!」
広間に集まっていた隊士たちの空気が変わる。
近藤勇はゆっくり立ち上がった。
「ついに来たか。」
土方は地図を広げる。
敵の出現地点は、京全域。
偶然ではない。
「囲い込みだな。」
斎藤一が静かに言う。
「町人を餌にして、俺たちを分散させる気だ。」
「正解です。」
突然、女の声が響いた。
全員が振り向く。
門の上に、一人の女が立っていた。
黒い着物。
白い肌。
そして、血のように紅い瞳。
黒椿。
血月十三将、第二将。
「こんばんは、新選組。」
彼女は優雅に一礼する。
「今夜は、とても良い夜ですね。」
永倉新八が刀を抜く。
「てめぇ……!」
黒椿は楽しそうに笑った。
「怒らないでください。」
「まだ始まったばかりですから。」
そう言って扇を広げる。
その合図だった。
町のあちこちから悲鳴が上がる。
「助けて!」
「化け物だ!」
「逃げろ!」
子どもの泣き声。
女の悲鳴。
炎が夜空を赤く染め始める。
月夜は目を見開いた。
「そんな……。」
黒椿は静かに囁く。
「これは宣戦布告。」
「今夜、京は血の都になります。」
土方の刀が音を立てて抜かれた。
「総員、出動!」
その一声で、新選組が動く。
「永倉、原田は東!」
「斎藤は西!」
「藤堂は南!」
「井上さんは町人の避難を!」
「近藤さんは本隊を率いて中央へ!」
全員が一斉に走り出す。
迷いはない。
彼らは京を守るための剣だ。
沖田総司も静かに刀を腰へ差した。
しかし。
「総司。」
土方が呼び止める。
「お前は残れ。」
沖田は苦笑した。
「またですか。」
「身体が限界だ。」
「分かっています。」
沖田は一歩近づく。
「でも。」
「今夜だけは譲れません。」
その笑顔は、どこか儚かった。
「もし今日が最後なら。」
「なおさら、人を守るために剣を振りたい。」
近藤は何も言えなかった。
幼い頃から共に剣を学んできた仲間。
その覚悟を、誰より知っているからだ。
土方は長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……絶対に死ぬな。」
「はい。」
沖田は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た月夜の胸が締め付けられる。
この人は、自分の命が長くないことを知っている。
それでも戦う。
人を守るために。
自分との約束を守るために。
(どうして……。)
(どうして、こんなにも優しい人ばかりなんですか。)
その時だった。
ズズズズズ……。
大地が震える。
京の北。
比叡山の方向から、巨大な黒い霧が立ち昇った。
その霧は空を覆い、赤黒い稲妻が走る。
黒椿が満足そうに微笑んだ。
「お目覚めになられました。」
月夜の表情が凍りつく。
「まさか……。」
霧の向こうから、一つの影がゆっくりと現れる。
長い黒髪。
漆黒の羽織。
黄金にも紅にも見える異様な双眸。
その男が立っただけで、京全体の空気が重く沈んだ。
吸血鬼たちが一斉に跪く。
「王よ。」
「九条羅刹様。」
月夜の手から刀が滑り落ちそうになる。
「九条……羅刹……。」
男は静かに笑った。
その笑みには、千年を生きた者だけが持つ絶対的な余裕があった。
「久しいな、月夜。」
「迎えに来た。」
その声が京の夜に響いた瞬間――。
無数の吸血鬼が咆哮を上げ、一斉に新選組へ襲いかかった。
血飛沫が舞い、刀が閃く。
京最大の戦いが、ついに幕を開けた。
「かかれぇぇぇぇッ!!」
土方歳三の裂帛の号令が夜空を切り裂いた。
それを合図に、新選組の浅葱色が一斉に闇へ躍り出る。
最初に敵陣へ飛び込んだのは永倉新八だった。
「新選組二番隊組長、永倉新八だ! 化け物だろうが何だろうが、京で好き勝手はさせねぇ!」
豪快な裂帛の一撃。
一体の吸血鬼が真っ二つに裂ける。
だが、その肉体は黒い霧となり、再び形を取り始めた。
「ちっ……!」
永倉は舌打ちした。
「普通に斬るだけじゃ死なねぇか!」
その背後へ三体の吸血鬼が飛び掛かる。
しかし。
ドォン!!
槍が夜空を裂いた。
原田左之助だった。
「背中が空いてるぞ、新八!」
槍は三体まとめて吹き飛ばし、石垣へ叩きつける。
「助かった!」
「礼は後だ!」
二人は背中合わせになり、笑った。
それだけで十分だった。
言葉などいらない。
長年、命を預け合ってきた仲間だから。
一方、西の通り。
斎藤一は静かに歩いていた。
逃げ惑う町人たちの間を縫うように、一体、また一体と吸血鬼が迫る。
「助けて……!」
幼い少女が転ぶ。
その瞬間。
斎藤の姿が消えた。
――牙が少女へ届く寸前。
キィィン!!
一閃。
吸血鬼の首が宙を舞う。
「悪即斬。」
短い一言。
その剣は迷いがなかった。
少女は涙を流しながら頭を下げる。
「ありがとう、お侍さん……。」
斎藤は振り返らない。
「早く行け。」
少女は母親に抱かれ、闇の中へ走っていった。
壬生寺。
月夜は黒椿と向かい合っていた。
「どうして……こんなことを。」
黒椿は優しく笑う。
「姫。」
「あなたは千年前を知らない。」
「人間は私たちを恐れ、裏切り、滅ぼそうとしました。」
その瞳に、ほんの一瞬だけ悲しみが宿る。
「だから王は決めたのです。」
「人間が支配するなら、今度は私たちが支配すると。」
月夜は静かに首を振った。
「違う。」
「私が出会った人たちは違います。」
沖田。
近藤。
土方。
新選組のみんな。
「人は変われます。」
「信じ合える。」
「だから私は……人と生きる。」
黒椿は静かに目を閉じた。
「ならば。」
扇が開く。
「あなたを倒してでも連れ帰ります。」
二人が同時に踏み込む。
刀と爪が激突し、火花が夜空へ散った。
黒椿の動きは速い。
いや、速すぎる。
姿が霞み、残像だけが残る。
月夜は始祖の血を解放する。
白銀の髪。
黄金の瞳。
その瞬間、世界がゆっくり動き始めた。
(見える……。)
黒椿の動きが見える。
呼吸。
筋肉。
殺気。
すべてが手に取るように分かった。
「はあっ!」
月夜の刀が黒椿の袖を切り裂く。
初めてだった。
十三将の一人に傷を負わせたのは。
黒椿は驚き、そして嬉しそうに笑う。
「やはり始祖の血……。」
「美しい。」
その頃。
沖田総司は一人、十数体の吸血鬼に囲まれていた。
呼吸は荒い。
胸は焼けるように痛む。
それでも。
刀だけは震えていなかった。
「まだ……守れる。」
一歩。
二歩。
三段突き。
三体が同時に倒れる。
さらに斬る。
さらに守る。
しかし――
ゴホッ!
鮮血が地面を染めた。
膝が崩れる。
「総司!」
近藤勇が駆け寄る。
だが、その瞬間。
巨大な殺気が戦場を覆った。
全員の動きが止まる。
空気が重い。
呼吸さえ苦しい。
九条羅刹。
王はゆっくりと歩き始めた。
一歩。
また一歩。
そのたびに吸血鬼たちは跪く。
「ご苦労だった。」
その一言だけで、誰も動けない。
九条は沖田を見つめた。
「人間。」
「その身体で、よくここまで戦った。」
沖田は血を拭いながら笑う。
「ありがとうございます。」
「褒められるとは思いませんでした。」
九条は静かに笑った。
「惜しい男だ。」
「我が眷属となれ。」
戦場が静まり返る。
沖田は刀を握り直した。
「お断りします。」
「どうしてだ。」
「私は。」
沖田は月夜を見た。
その瞳は優しかった。
「人として、人を守る剣でありたい。」
その一言だった。
九条の笑みが消えた。
「ならば。」
「死ね。」
九条が右手を上げる。
黒い瘴気が沖田へ襲いかかる。
誰も間に合わない。
その時――。
「沖田さん!!」
月夜が飛んだ。
始祖の力を限界まで解放し、沖田の前へ立つ。
轟音。
大地が割れ、寺の石灯籠が砕け散る。
月夜は両腕で瘴気を受け止めていた。
「ぐっ……!」
腕から血が流れる。
それでも退かない。
「私は……。」
「もう誰も失わない!」
黄金の瞳が輝く。
その光は夜空を貫き、黒雲を切り裂いた。
一筋の月光が京へ降り注ぐ。
九条は目を細めた。
「面白い。」
「ならば証明してみせよ。」
「始祖の娘よ。」
「人間を選んだ、その答えを。」
九条は黒椿を従え、闇の中へ姿を消した。
残された吸血鬼たちも、潮が引くように退いていく。
静寂が戻る。
しかし、それは勝利ではなかった。
九条は本気を出していない。
その事実を、この場にいる全員が悟っていた。
月夜は崩れ落ちる沖田を抱き止める。
「沖田さん!」
沖田は苦しそうに息をしながら、それでも微笑んだ。
「……約束。」
「覚えていますか。」
月夜は涙を流しながら頷く。
「はい……。」
「必ず。」
「あなたを守ってください。」
その言葉を最後に、沖田は静かに意識を失った。
夜明け前の京。
赤い月はなお空に浮かび続けている。
その月の下で、土方歳三は静かに刀を納めた。
「次で決着をつける。」
鬼の副長の声には、一切の迷いがなかった。




