【第一章 血月編】 第三話 神速眼
夜風が橋の上を吹き抜ける。
誰も動けなかった。
黒装束の男が立つ橋の欄干。
月明かりを浴びる銀色の長髪。
黄金色の瞳が、獲物を見つけた獣のように細められる。
その視線は、神代朔夜だけを捉えていた。
「見つけたぞ。」
男は静かに笑う。
「神速眼の継承者。」
その声に、夜羽の肩が小さく震えた。
「……カイン。」
彼女がその名を口にした瞬間、男は口元を吊り上げる。
「久しいな、夜羽姫。」
その笑みには温かさがなかった。
三百年という時を生きた怪物だけが持つ、底知れない冷たさ。
沖田総司は一歩前へ出る。
「その方は、あなたの知り合いですか?」
「違う。」
夜羽は即座に答えた。
「こいつは……吸血鬼。」
その一言で橋の空気が変わった。
町人たちは息を呑み、土方歳三は静かに刀の柄へ手を添える。
「吸血鬼だと?」
「人の血を喰らい、夜に生きる化け物。」
夜羽はカインを睨みつけた。
「そして私たち王族を裏切った男。」
「裏切った?」
カインは肩をすくめた。
「違うな。」
「私は真実を知っただけだ。」
黄金の瞳が赤い月を見上げる。
「人間は滅びる。」
「歴史が証明している。」
「争いを繰り返し、憎しみを増やし、最後には自ら世界を壊す。」
その声には、不思議な説得力があった。
朔夜は息を呑む。
この男は、ただの悪人ではない。
本気でそう信じている。
「だから。」
カインはゆっくりと刀を抜いた。
漆黒の刃。
刃文は血のように赤く染まり、月光を吸い込んでいる。
「新しい世界を創る。」
「吸血鬼だけが生きる夜の世界を。」
土方が鼻で笑う。
「くだらねぇ。」
「世界を語る前に、京で好き勝手するのをやめろ。」
「人間らしい答えだ。」
カインの姿が消えた。
「なっ!」
沖田の目が見開く。
速い。
いや――見えない。
次の瞬間、土方の喉元へ黒い刃が迫っていた。
「副長!」
誰も間に合わない。
その時だった。
――ピキン。
朔夜の視界が白く染まる。
時間が止まる。
音が消える。
世界が静止した。
(また……。)
頭の奥で鐘が鳴る。
そして。
未来が流れ込んできた。
土方が斬られる。
沖田が飛び込む。
夜羽が叫ぶ。
橋が崩れる。
町人たちが逃げ惑う。
血。
炎。
死。
一瞬の未来。
それが鮮明に見えた。
「違う!」
朔夜は叫ぶ。
未来は決まっていない。
変えられる。
そう思った瞬間、身体が勝手に動き出した。
土方を突き飛ばす。
黒い刃が空を裂く。
「……!」
カインの瞳に初めて驚きが浮かぶ。
「避けただと?」
土方も理解できなかった。
今の一撃は、自分でも見えなかった。
なのに朔夜だけが反応した。
「偶然じゃない。」
カインが小さく笑う。
「未来を見たな。」
朔夜の心臓が跳ねる。
どうして分かった。
「神速眼。」
カインは嬉しそうに笑った。
「やはり存在したか。」
その瞬間だった。
朔夜の右目に激痛が走る。
「ぐあぁっ!」
視界が真っ赤に染まる。
右目から、一筋の血が流れ落ちた。
夜羽が息を呑む。
「無理に使ったの?」
朔夜は膝をつく。
呼吸が苦しい。
全身から力が抜けていく。
未来を見る。
それだけで、命を削られているようだった。
「まだ……。」
「使いこなせないか。」
カインは静かに呟く。
その顔に浮かぶのは失望ではない。
期待だった。
「ならば。」
「育てるまで。」
「殺すのは後だ。」
その言葉と同時に、橋の下から黒い霧が湧き上がる。
人々の悲鳴。
夜羽の叫び。
沖田が刀を構える。
土方が怒鳴る。
「総司!」
「来るぞ!」
黒い霧の中で、無数の赤い瞳が開いた。
一つ。
二つ。
十。
二十。
いや――。
百を超える。
橋の下から這い上がってきたのは、人でも獣でもない怪物たちだった。
その牙が、一斉に月明かりを反射する。
そしてカインは、まるで舞台の幕が上がるのを楽しむ役者のように両手を広げた。
「さあ、見せてみろ。」
「神速眼が選んだ剣士よ。」
「お前は――」
「誰を守る?」
「誰を守る?」
カインの声が橋の上に響く。
その問いに答える者はいなかった。
黒い霧が橋の下から溢れ出す。
まるで夜そのものが形を持ったようだった。
やがて、その闇の中から現れた。
赤い瞳。
裂けた口。
人間より二回りは大きな身体。
獣のような牙。
そして全身を覆う黒い皮膚。
「餓鬼……!」
夜羽が息を呑む。
「下級吸血鬼よ!」
次の瞬間。
十数体の怪物が一斉に襲い掛かった。
「総司!」
土方の怒声が飛ぶ。
「町人を守れ!」
「承知!」
沖田の刀が夜風を裂く。
一閃。
吸血鬼の腕が宙を舞う。
だが、その腕は黒い霧となり、再び身体へ戻っていく。
「再生する……!」
沖田の表情から笑みが消えた。
「厄介ですね。」
町人たちは悲鳴を上げ、橋の上は混乱に包まれる。
子どもが転び、母親が泣き叫ぶ。
老人が逃げ遅れる。
その光景を見た朔夜の胸が締め付けられた。
(まただ……。)
頭の奥で、あの夢が蘇る。
燃え盛る京都。
泣いていた夜羽。
守れなかった仲間。
守れなかった命。
――もう嫌だ。
もう二度と。
「誰も失いたくない。」
その瞬間だった。
右目が熱を帯びる。
世界の色が変わった。
音が遠ざかる。
すべてがゆっくりになる。
そして――未来が見えた。
橋が崩れる。
少女が川へ落ちる。
沖田が助けに向かう。
その隙を突かれ、背中を斬られる。
「……違う。」
朔夜は静かに呟く。
「その未来は、俺が変える。」
地面を蹴った。
身体が軽い。
風になったようだった。
橋の欄干を飛び越え、少女を抱き上げる。
そのまま沖田の肩を押した。
「え?」
沖田の身体が半歩ずれる。
次の瞬間。
吸血鬼の爪が空を裂いた。
あと半歩遅ければ、沖田の背中を貫いていた一撃だった。
「未来を……。」
夜羽が震える。
「本当に見えている……。」
朔夜は息を切らしながら立ち上がる。
頭が割れそうに痛い。
右目から血が流れ落ちる。
それでも立つ。
守るために。
「沖田さん!」
「はい!」
「右から三体!」
「左に跳んでください!」
沖田は反射的に従った。
直後。
吸血鬼の爪が先ほどまでいた場所を切り裂く。
「なるほど。」
沖田は静かに笑った。
「未来が見えるのですね。」
朔夜は驚く。
信じてくれた。
疑いもせず。
「なら。」
沖田は刀を構える。
「私は、あなたを信じます。」
その一言が、朔夜の胸を熱くした。
二人は初めて息を合わせる。
「三歩前!」
「はい!」
「しゃがんで!」
沖田が身を低くする。
朔夜は跳ぶ。
竹刀しか握ったことのない青年が、橋に落ちていた一振りの刀を掴む。
重い。
竹刀とは違う。
命を奪うための重み。
(俺は……。)
握れない。
人を斬れない。
怖い。
手が震える。
その時。
夜羽の叫びが聞こえた。
「朔夜!」
振り返る。
一体の吸血鬼が夜羽へ牙を向けていた。
考えるより先に身体が動く。
刀を振るう。
刃は吸血鬼の胸を浅く裂いた。
吸血鬼は霧となって消える。
「……え?」
朔夜は自分の刀を見つめた。
人ではない。
怪物だった。
それでも。
誰かを守れた。
夜羽は呆然と朔夜を見つめる。
「どうして……。」
吸血鬼を前にしても。
恐怖より先に。
自分を助けてくれた。
その瞳に映るのは敵意ではなかった。
優しさだった。
「夜羽。」
朔夜は静かに言う。
「君は俺が守る。」
その一言に。
夜羽の時間が止まった。
三百年。
誰にも言われたことのない言葉だった。
その時だった。
橋の上から、カインが静かに拍手を送る。
「素晴らしい。」
黄金の瞳が妖しく輝く。
「やはり神速眼は、本物だ。」
カインは笑う。
だがその笑みには、歓喜が混じっていた。
「面白い。」
「殺すには惜しい。」
「もっと強くなれ。」
「その絶望ごと喰らってやる。」
黒い霧が渦を巻く。
カインの姿はゆっくりと闇へ溶けていった。
最後に残ったのは、冷たい笑い声だけ。
静寂が戻る。
橋の上には倒れた吸血鬼の灰が風に舞っていた。
沖田が刀を納める。
「助かりました。」
朔夜は苦笑する。
「助けられたのは、俺の方です。」
沖田は首を振った。
「いいえ。」
「あなたが未来を変えました。」
その言葉に、土方も静かに頷く。
「神代朔夜。」
副長は鋭い目で見据えた。
「お前には聞きたいことが山ほどある。」
「屯所へ来い。」
「逃がさん。」
厳しい口調だった。
だが、その瞳には先ほどまでの疑いだけではない。
わずかな信頼が宿っていた。
朔夜は夜空を見上げる。
血月は、なお赤く京都を照らしている。
その光を浴びながら、彼は知らなかった。
この夜から始まる戦いが、新選組の歴史を、そして自らの運命を大きく変えていくことを。
そして、橋の影から二人を見つめる夜羽もまた、小さく胸に手を当てて呟く。
「どうして……。」
「あなたを見ると、涙が出るの……?」
血月の下で交わされた約束は、まだ誰も知らない未来へと繋がっていく――。




